70. 今日だけはオレのものだ。
体が何かに引き込まれるような感覚がした直後、視界に入る景色が一変する。
場所は同じだ。日本の、小さな一つの町の住宅地に建つ、一軒家の前。見上げれば、懐かしいほどに見覚えのある建屋で、今見ればいくらかベランダが低い、なんてことに気づいて、少しおかしかった。
「…時間切れか」
自分は知っていたはずだ。残された時間が少なかったこと、限られた時間で伝えなければいけなかった必要なことが何かということ。そして、この時間、つまりは過去に、飛ばされてしまうということも。
さあ、ここで出来ることは数少ない。
一般論として、未来からきた人間が過去の出来事に深く関わったりすることは禁止とされている。昔あった映画のように、未来からもたらされた確定された結果をもってして賭け事に挑めば、外れる事はないのだから、まず間違いなく巨万の富を得るだろう。それは未来の己への潤沢な資産となるだろうが、それすらも未来から己が訪れなければ与えられない富で、富を得たいと思うものが、既に富んでいるとは考えにくい。富を得ていない自分が居なければ、富を得ることが出来ないのに、そのためには富を得てはならない。そうやってループしてしまうから、未来の情報を過去の人間が手にすることは、酷く危ういこととされている。
そうして過去に干渉することが、今の自分には可能だ。けれど、全くといっていいほど興味がない。今自分の関心が向いている先は、この時代から見れば遠い遠い未来のことだけで、過去なんて興味はない。変えたいと思う事柄はあるが、それは、この時代の己がクリアしなければならない試練だ。手を出すことは、何より自分のためにならない。この時代の己は、何も出来ない五歳児ではないのだから。
だから自分がここで出来ることは、誰にも関わらず、ただじっとしていることくらいだ。
「…とはいえ」
それが出来るような性格ではないと、自覚している。情けないことに。じっとしていられない性格なんだ、昔から。
苛立ちそうな気持ちを落ち着けようと、とりあえず懐かしい庭先から出る。いつまでもここに居ては、沢田の母親に見つかってしまうかもしれない。
この時代の、この時間のことは、全くといっていいほど知らない。何所で何が起こっているのか、そういえば初めて体験するんだと、ふと気づいた。
それなら、童心に返り町を散策してもいいだろう。どうせこの姿形だ、誰にも判りはしない。
ともすれば気持ちばかりが焦ってしまいそうになり、気持ちを意図的に入れ替え、胸元から煙草を取り出した。すっかり嗜好品となってしまったそれは、数年前から銘柄を変えた。単に、それまで吸っていた銘柄が廃盤になってしまったから、仕方なく、だったけれど。
オイルジッポでつけた火が乾燥した葉を焦がし、紫煙が立ち昇る。肺一杯に広がる苦しいほどの煙は、逆に心地いい。
財布やボックスや替えの煙草が入っていた鞄を向こうに置いてきてしまったから、歩くしか移動手段もない。のんびりゆったりと、見覚えのある懐かしい景色の中を、違う目線の高さで見回す。
沢田の家から、当時住んでいた自宅までは、そう距離がない。どうしようか迷って、自宅とは逆の道を選んだ。こちらに向かえば、ちょうど自宅との逆位置に学校があるはずだ。
懐かしい。三年間在籍した場所というのは、どれだけ時間が経っても懐かしく、当時の記憶すら容易に引っ張り出す。
あの頃は、毎日が笑いにまみれていた気がする。
今よりもずっと幼く浅慮だった自分が、この町で、面白いように駆け回っていた残像が目の前を通り過ぎていくようで、目を細めた。ぱたぱたと隣をかけていく小学生達が楽しそうに上げる声が、当時の自分の声のようにも聞こえる。本当に、昔のようだ。
「違うか、今が昔なんだな」
く、と思わず笑い、さらに足を進めた。
記憶が正しければ、学校まであと少し。
校舎が見えてくる。未来でも特別の増改築がされていない中学は、全く変わりがないように見えた。休日の所為で生徒の姿もまばらだ。見覚えのあるジャージ、制服、そして。
「…本当に、懐かしいな」
前から歩いてくる姿に、口にしたままの煙草を指で取り放し、足を止めた。
この周辺には、学生服の学校はない。一般的な市立中学しかない並盛では、ブレザーを指定制服とした並盛中学しか存在しないからだ。それなのに、前から歩いてくる子供は、肩から黒い学生服をかけてなびかせ、しっかりとした足取りで歩いている。
まだまだ伸びるだろう成長途中の背。白い肌は相変わらずで、もう思い出の中にしかない長い前髪には、どこでつけたのか、少しだけ寝癖のような跳ねがあった。よく寝ていたから、ちょっとした失敗でもしたのかもしれない。彼らしくないが。
向こうが此方に気づく前に、止めた足を動かした。この姿では、彼は自分には気づかないだろう。顔立ちは面影がある、と少し前に誰かに言われたが、それも面影程度だ。昔とは違う。煙草の銘柄も、偶然にとはいえ替えてしまっているから、罵られてばかりいた煙草のにおいでも気づかないだろう。
何より、あの頃の自分は本当に子供だったのだ。いきがり、口先だけの暴力で、本当の力なんて大して手にしちゃいなかった。
けれど、今は違う。十代目がボンゴレを正式に引き継いでからは、命を奪うこともした。その度に沢田は苦痛ばかりの顔で、君にこんな事をさせなきゃいけないのか、と呟いていた。やさしい人だと、申し訳なかったけれど、うれしかったのも覚えている。
そんな自分が、過去の自分と同じであるはずがない。気づかない。絶対に。
かつ、と革靴の音がする。
同じように歩いて、少しずつ距離が狭くなっていく。
一歩、二歩、三歩。
すぐ目の前に来た。
そのまま、何事もないように、行き違う。
一歩、二歩と逆に遠くなっていく足音に、少しだけ目を伏せた。
懐かしい立ち姿。歩く姿勢すら、今も変わっていない。ただ、全身に漂わせた雰囲気だけが、今よりずっと穏やかで、稚い。
沢田の世代になっても、雲雀は正式にボンゴレに所属はしていなかった。立場としては守護者で、自身もそれを知っているはずなのに、時には敵対するファミリーにすら姿が見え隠れしていた。それが腹立たしくて何度かいさめたが、元から人の事など気にかけない人間だ、振り返るはずがない。
それでも、時折姿を見せていた。その無事に、沢田はいつも安堵の溜息を吐く。時折手合わせを申しだされ快く引き受けていたのは、本当に無事であったことが嬉しかったからだろう。
優しい人だ。本当に。
こんな自分を、山本、笹川、ランボ、骸、そして雲雀も。
全員を守ろうとしていた。彼の出来る精一杯で。
そんな彼を、守ってもらってばかりいた俺達は、むざむざと。
「っ、なん…」
未来に馳せていた思考が、突然聞こえた、ばさり、という音に止められる。
見れば、小さな黄色い鳥が一羽、目の前で滞空している。ぴ、と小さな音を立てて、目の前にいるコイツは誰だとでも言いたげに何度か旋回し、納得がいったのか、ぽすり、と頭の上に羽を休めた。
「……オマエか」
見たことがあるはずだ。こいつは、今でも彼の肩にいるのだから。
「凄いな。俺がわかるのか? 随分変わっただろうに」
尋ね視線を向ければ、ぴ、という小さな声。当たり前だ、とでも言うようだ。
「そうだな、動物は俺達より数倍、感覚が鋭いっていうし… しかし、それにしても、な」
笑いが口をつく。その音にあわせるように、鳥が小さく、ぴ、ぴ、と歌う。
「ねぇ」
心地いい音に身をゆだねていると、唐突に、真後ろから声がかけられた。
ああ、しまった。
「…もう、戻れ。ご主人が来たぞ」
ふる、と首を振る。すぐに頭からわずかな重みが離れて、鳥が羽ばたいた。
「知らなかったよ、鳥頭って本当に言うとおりなんだね… 主人が誰かもわからないなんて」
止めていた足を動かす。さりげなく去らなければ。
「君とあの子はそっくりだ」
かつ、と中途半端に音が消える。
思わず、振り返っていた。
「…ひ」
白い指先に、小さな鳥を一羽乗せて。たたずむ幼い雲雀は、穏やかに、口元だけが笑っている。言葉どおりなら、鳥と、その子と呼ばれる、誰かを思って。
知っている。沢田はとにかく優しくて、色んなことに気遣いながら、精一杯に生きていたけど、その反面、時折雲雀を酷く羨んでいた。
「俺は雲雀さんが羨ましいよ。本当に… 自由で居られるのはもちろんだけど、さ」
すっかり大人びた笑顔で笑う沢田が、そのときばかりは、十代の頃のように稚く笑い。
「どこに行ったって、帰ってくる場所と、人がいる。獄寺君、雲雀さんは確かに常にあの鳥を連れ歩いているけれど、あの子と呼ぶのは、君しか居ないんだよ。そして、どれだけ敵対したって、帰ってくるのはここがボンゴレだからじゃなくて、君がいるからなんだ」
羨ましいね、と笑う沢田に、なんと返せというのか。結局、赤面したまま退席する許可を求めるのが精一杯だった。
穏やかな立ち姿と、表情。きっとお前は今、そんなこと、意識してすらいないんだろう。でなければ、そんな無防備な姿は晒さないはずだ。
いとしい。早く会いたい。今すぐ会って、白い頬に触れたい。
もう暫く会ってない。最後に会ったとき、少しだけ伸びた髪が白い頬を隠していて、つい憎まれ口を叩いた。あの後どうしたのかすら知らないまま、この世界にきてしまった。
早く帰りたい。会いたい。雲雀。
「…っ」
思いはあふれ出して、自制が利かなくなる。伸ばしかける指を、けれど必死の思いでとどめた。
気づかせるわけにはいかない。過去に干渉は出来ない。目の前の雲雀にとって、獄寺隼人は、この時代の自分でなければいけないのだから。
ぐ、と指を握りこみ、唇をかんだ。
判っている。そのとおりだ。だけど。
「今日だけは、俺のものだ」
せめて、あの、穏やかな表情くらいは。
いまくらい、いいだろう、と。
自分が居るべき世界で奮闘している幼い己に問いかけながら、既に二十歳などとうに超えてしまった獄寺は、幼い黒瞳が不審な色を湛えて上げられるまで、同じように穏やかな表情でその姿を見つめていた。
獄誕生日。相変わらず祝わない。 ▲