寝顔かわいかったよ。

 本当に偶然、街中でばったりと顔を合わせた。
 相手は休日にも係わらず相変わらずの学生服で、こちらは制服なんて堅苦しいものを態々着たくもなく適当に引っ掛けてきた服だったが、それはまあ学校ではないのだから当然の話で。
 やあ、と、よお、の一言だけ交わして、帰ってもよかったんだ。
 そうしなかったのは、相手の、昼時だね、の一言があったからだ。
「ああ、そういやそうだな」
 片腕を持ち上げて時計を見れば、確かに、正午を三十分ほど回っている。することもなく家を出たのが十一時ごろだったから、一時間半ほどうろうろしていた、ということになる。途中で市立図書館に寄ったのだが、興味のある本は全て貸し出されていて、何冊か雑誌を捲っただけで出てきてしまった。ものの十分ほどだっただろうから、あれは加算しないことにする。
 俺も大概暇だな、と溜息と同時に肩を落とせば、途端に腹が鳴った、ような気がした。
「っ…」
「まあ、昼だからね。丁度いい、食べにくるかい?」
「へ?」
 反射的に腹を腕で隠せば、予想だにしない言葉が掛けられた。
 絶対に馬鹿にされると思ったのに。
 昼飯を、食べに、こい、とは。
「お前の家に?」
「前に言わなかったっけ。僕、インスタントとか出来合いものとか嫌いなんだよね。自分で作ったものか、目の前で作られたものしか食べたくない」
 そういえば、いつだったかそんな事を言っていたような気がする。そう言われて開けた冷蔵庫の中身は、どれも調理されていない材料ばかりで、結局ストックされている水だけを一本拝借したんだ。
 飯なんて腹が膨れれば何でも同じと、コンビニでもスーパーの惣菜でもジャンクフードでもカロリー食品でも、味が酷く無い限り拘らない獄寺にしてみたら、雲雀のそれは、一種病的にも見えるのだけれど。
「聞いたけど」
「なら、何。何か不満がある?」
「っ、な、い」
「そう。なら行くよ」
 くるり、と雲雀が踵を返す。ふわりと翻る黒い学生服が、ぼんやりとしていると直に人並みに紛れて見失いそうになり、獄寺は慌てて走り出した。

 雲雀の住処に足を踏み入れるのは、これが三度目くらいだと思う。
 相変わらず殺風景というか、必要最低限のものしかない部屋は静まり返っていて、白いカーテンの向こうから入ってくる日の光だけが、温度を持っているような気がした。
「君のところほどじゃないよ」
 肩にかけた学生服を丁寧にハンガーにかける雲雀は、そう言ってさっさと台所に向かってしまった。
 確かに、ここに負けず劣らず、自分の住処も殺風景だ。料理をしないだけ、雲雀より酷いかもしれない。冷蔵庫なんて、いつでも水とカロリー食材しか入ってない。収納はどれもこれもアクセサリーとボムのメンテ道具だけだし、クローゼットには制服と洋服しかない。生活していくために必要な、雲雀以上に最低限のものだけしか置いてないと言われても、仕方ないだろう。
 そう、意図してしているのだから。
「…持って帰るものは、少ねぇほうがいーんだよ…」
「何か言った?」
 小さく呟く声は、手を洗う雲雀にまでは届かなかったようだ。
「何も。それより、何作るんだよ」
「さてね。僕は元々和食が好きなんだけど、君は?」
「特に好き嫌いねぇけど」
「じゃあ、勝手に作るよ」
「手伝わなくていいか?」
「君が? 出来るの?」
「……後片付け、くらいなら、多分」
「遠慮しておく」
 黙って座ってて、と、犬猫のように追い払われる。
 確かに、かつて山本の家で大量に皿を割ったことはあるが、あれは随分前の話だ。今すればきっと、できると思うのに。
「どんな根拠だい、それは。いいから、おとなしく待ってて」
 最終的には足で追い払われてしまい、すごすごと引き下がってしまうことにした。キッチンと背中合わせになる部屋には、壁際にソファと、窓際に観葉植物と、ラグとガラステーブルくらいしかない。白と緑で形成されているような空間だ。
 ソファに腰掛けて、足を伸ばす。一時間程度歩いたくらいじゃ疲れはしないが、それでも足を伸ばせるのは助かった。
 キッチンからは、絶えずなにかの音がする。ちらりと視線を向ければ、制服のシャツを肘まで折り上げた後姿が、なにやらせわしなく動いている。包丁が刻む、一定のリズムが心地いい。
 こんな風に、誰かが料理を作っているところなんて、随分久しぶりに見る。
 今となってみれば苦い思いでしかない実家の城では、気づいたら食事が出来上がっていたし、気づけば風呂が沸いていた。自分で何かをする必要なんて一切なく、義姉が作る有害物質としか思えない菓子だって、作っている行程は見ないままだった。
 家を飛び出し、ボンゴレに拾われて、初めて食事の準備という肯定を知った。それまでは大げさな話だが、ああいうものがある、のだと思っていたくらいだから。
 新しいことを吸収できるのは、獄寺にとって喜びだった。純粋に楽しかった。まあ、それが身についたかといわれれば、つかなかったのだけれど。
 そして九代目の命を受け日本に来て。沢田の家にお邪魔することが増えると、沢田の母親がこうして台所に立っている姿を見て、複雑な気持ちになった。
 生まれてから五年近く、母親だといわれた女が台所に立つ姿など見たことも無い。義姉は進んで向かっていたが、その姿はおおよそ料理とは程遠いものしか生み出さない科学者のようで。次に見たのは、男女関係なく当たり前のように台所に立ち入る光景だったから、こんな風に特定の誰かだけが立ち入る台所が珍しいと、いつだったか漏らしたことがある。日本には男子厨房に入らずなんて言葉があるんだよ、と沢田が呟いて、お手伝いくらい出来なくてどうするの、と逆に母親に叱られたのも、たしかこの時だ。
 世の中では、これが当たり前なのか。母親が台所に立ち、その手伝いを子がして、家族のために食事の準備をするというのが、極一般的で、当然のことなのか。
 生まれてすぐに引き離された、年に数度しか会うことの叶わない、遠い記憶にだけある美しい女。
 俺の母親は、そんなことすら、させてもらえなかったのか。
「…雲雀」
「何?」
「ちょっと、ねむい」
 ぴたり、と何かを刻む音が止まる。肩越しに振り返った黒い瞳は、暫くこちらを見た後、仕方ない、というように閉じられた。
「好きにしたらいい」
「うん」
 本当は全然眠くなんてなかった。だけど、目を閉じていたかった。
 雲雀に母親を重ねるわけじゃない。そんなことは出来ない。
 だけど、感じていたかった。
 誰かが自分のために食事を用意している。
 その空気を、他のなんの邪魔もなく、ただ空気として、感じていたかった。
 きっと彼女はこんな風に、俺と暮らしたかったのだろうと思うから。
 今となっては永遠に叶わないけれど、せめて、今はその空気を感じられているということを、彼女に判って欲しかったから。
「…いいにおいだなぁ」
 ふんわり漂ってくる食事の香り。
 ずるずるとソファから体がずりおちて。ラグに腰を下ろし、ソファに頭を預け。
 ただ目を閉じているだけのつもりだったのに、気づかぬうちに本気で眠ってしまっていた。

 熱したフライパンに材料を入れて蓋をし、弱火にまで落として、使った道具を全て洗ってしまってから、ようやく雲雀は一息ついた。
 料理が趣味だとか、そんなわけでは全く無いが、自分の口に入るものは出来るだけ他人の手に触れていないものがいいと、ただそれだけで料理をするようになった。レパートリーは少ないし、手の込んだ面倒なものは作らないし、自分が嫌いなものは作らないから、自然と似たようなものばかりになっていくけれど、それでも出来合いものを食べようという気にはならない。だからこれは、ある意味生活の一部だ。料理は呼吸をするのと同じこと。
 それでも、人に作ることは滅多にしない。ここに人が来ることも少ないし、自分にとって必要だから作るものを他人に与えるというのは何か違う気がしていたから。
 なら、なぜあの時、獄寺を誘ったのか。
「…本能、かな」
 自分の思考に、声で答える。
 そう、本能だ。直感とも言うだろう。
 あの時、あの場で獄寺を逃していたら、多分この先もずっとこの子のために食事の用意などしなかっただろう。そう思えるくらい、こうするのが自然だった。
 今は日向ですぴすぴと眠っているが、商店街を歩いているときの獄寺は、ぞくりとするほどの無表情だった。生気の無い、血の通わない人形のように。
 だから、やあ、と、よお、で行き違ってもいいはずだったのに、陳腐な言葉で足を止めさせた。
 この人形を人間にするには、どうすればいいのか。人形と人間では何が違うのか。
 答えは、血が通っているかいないか、だ。
 血を通わせ、人間にする。そのためには、やはり人間と人形の違いである、食事をさせることが当たり前のように感じた。
 だから、こうして、この僕が、丁寧に食事の用意などしてやっているわけなんだけれど。
「…眠られるとはね」
 折り上げた袖を下ろしながら、ソファまで歩く。相変わらず寝息を立てながら眠っている獄寺は、一メートルまで近づいたって睫一つ揺らさない。無防備にもほどがある。
 彼はこの後、目を覚まして、今作った食事を口にするのだろうか。手ずから作った、何一つとして熱の通わない機械で作られたものではない、食事を。
 そうだ。そうすればきっと、あの無表情も、多少は人間らしくなるんだろう。
 この、嘘みたいに綺麗な寝顔みたいに。
 名を呼ばれ振り返り見た、今にも解けてしまいそうな、柔らかい笑みを浮かべて。
「隼人」
 腰を下ろして、肩に手をかけ揺する。二、三度揺すれば、浅い眠りから覚めた緑の瞳がこちらを見た。
「…え、もう」
「盛り付けくらい手伝ってくれない?」
 出来たのか、と続くはずだっただろう言葉を遮る。
 寝起きで思考が定まらないのだろう、きょとん、とした顔で暫く黙っていた獄寺は、うん、と子供のような返事をして腰を上げた。
「どれくらい寝てた?」
「三十分くらいだろうね」
 棚から皿を取り出して、律儀にも真後ろで待っている獄寺に手渡そうと振り返る。受け取るつもりなのか、片手を差し出したままの相手は、何、と首を傾げて。
「可愛かったよ、寝てるときの顔」
 そう告げれば、ぽかん、としていた顔が、一気に赤くなり。
「ひっ… て、めぇ…っ」
「黙ってれば随分可愛い顔してるんだな、って思ってたんだ、さっき」
「悪趣味だぞっ!!」
「そうかな?」
「そーだよっ」
 勢いをつけて、手から皿が奪い取られる。
「早く、飯っ」
 尊大な態度の獄寺はそう言うと、火に掛けられたままのフライパンへとさっさと行ってしまった。
「はいはい」
 その様子を見て、肩をすくめた。
 食事をし、睡眠をとり、そうして獄寺は、嘘みたいに綺麗な作り物の人形から、血の通った人になっていくだろう。笑ったり、怒ったり、戸惑ったり、反抗したりしながら。
 それをするのが、この手に掛かった食事だということが、なぜか妙に誇らしいような気がして。
 雲雀は微かに上昇した自分の機嫌に気づかないまま、フライパンの蓋に不用意に触り熱がっている獄寺の元に歩き出した。

真面目(?)な話はここまで。以下はちょっとしたオチ。 




「ところでなんでハンバーグなんだ?」
 雲雀が用意してくれたのは、日本で言うところの洋食の定番、ハンバーグだった。
 付け合わせの人参も甘く煮付けられていておいしいし、粉噴き芋も塩胡椒がきいていて好きな味だ。手が掛かるものは作らない、と言っていた割に細かく手がかけられているような気がするのだが、それでもどうしてメインがこれなのかがわからなくて。
「僕が好きだから」
「ハンバーグが?」
「何か悪い?」
「いや、んなことは言ってねぇけどよ」
 本当は少し、子供っぽいところもあるんだな、と思ったけれど、言うのはやめておいた。用意してもらった身分でこれ以上の文句は言えないし、自分だって好きだし、何より意外にも美味い。
「なんか、随分凝ってる味がする気がして」
 一口含めば、じわりと味が広がる。
 これでも一応、一ファミリーのボスを父に持った身だ。食事はいいものばかりを口にしてきたし,舌が肥えている自覚もある。肥えすぎて、何でも同じように感じるようになったくらいだ。なのに、今まで食べてきたどのハンバーグより、おいしい、気がする。
「そんなこと無いよ」
 真向かいでご丁寧にも正座をした雲雀は、正しく持たれた箸をぴたりと止め、一気に語りだす。
「スーパーで売っているような肉は一体何所から仕入れているのか判ったものじゃないからね。最近は産地直送だとか生産者の紹介だとか色々してるみたいだけど、それ自体が嘘ではないという証拠は何も無い。そんな不確定な食材は使いたくないから、僕の家で食べられるものは全て、本当に産地から直送させてる。並盛から地方に出てる、僕の配下にある畜産農家が週に一度は新鮮な肉や魚を届けにくるし、パン粉はパン屋を運営している配下に食パンから作らせてる。牛乳も毎朝届けられるし卵も同じ。人参と芋は昨日届いたばかりだからまだ生だって食べられるよ。芋は薦めないけどね。ちなみに牛と豚の合い挽きミンチを使ってるけどこれは同じ農場で育った牛と豚を同じ牧場で加工して送らせてるから相性もいいみたいで気に入ってるんだよね。それでも愚図愚図しながら作ってたらすぐに熱が移って駄目になるから手早く混ぜ… 何してるの?」
「い、いや…」

 充分凝ってるじゃねぇか、という突っ込みと。
 こんなに饒舌なお前ははじめて見る、という突っ込みのどちらが最適なのか。

 不審そうな顔で首をひねっている雲雀に、このハンバーグマニアめ、と心の中で毒づいて、獄寺は食事中にもかかわらずソファに突っ伏してしまうのだった。

実は、雲雀にハンバーグを語らせたかっただけなんです。