97. もう離してあげないよ。

 あの日のことは、たぶん一生忘れない。

「獄寺くん?」
 不意に話し掛けられて、はっと顔をあげた。それを不思議そうに見ていた沢田が、どうしたの、と笑っている。やさしい、やわらかい笑顔で。
「何か忘れ物? 今ならまだギリギリ間に合うけど」
「あ、いえ違います。ちょっと、ボーッとしてただけで」
 あわてて両手を振る。
「じゃあ便所か?」
「っせーな! ちげぇよ!」
 沢田のむこう隣から、ひょいと顔をのぞかせた山本がからかいの声を発する。勢い込んで反論すれば、間に身を置く沢田が、まあまあ、と取り成した。
「違うんならいいけど、思い残しは少ないほうがいいよ」
「十代目」
「なにせしばらくは」
 ふ、と沢田が肩の向こうに視線を向けた。
 その先には、大きな一枚ガラス。数えきれないほどの椅子と、カウンター、待合室。眩しいほどの、春の青空。響く沢田の声は、どこか夢のようですらあって。
「日本には帰れないんだから」
 ガラスの向こうで一機の飛行機が、青空を割って飛び立っていった。


 ボンゴレ九代目から十代目への正式な引継ぎの時期が決定したのは、並盛中学を卒業して間もない頃だった。
 とはいえ、ファミリーのボスとしては年も若く経験も皆無に等しい沢田では心許ないということで、家庭教師による教育ではなく本格的なファミリー内での教育が必要と判断され、引継ぎを前にイタリアへと飛ぶことが言い渡された。
 その通達を携えた、同盟ファミリーキャバッローネのボスが三人の前に現われたのは、同じ進学先を選び、入学式に必要なものの買い出しと確認のために沢田家に集まっていたときで。
「わりぃな、全部無駄になる」
 いつもの、情けなさそうな表情で言ったディーノは、胸元から取り出した三通の手紙を、それぞれに渡した。
 封を切り取り出した書面には、至急の帰国を告げる、とあり、その下に、その理由が綴られていた。
 沢田の経験不足、九代目の体調、それに伴い引継ぎが早まるかもしれないということまで、細かく。
「たまたま今一番空いてるのがうちで、おまえらともつながりがあるし、ってな理由で選ばれたんだがな」
 頬を掻いたディーノは、次には真剣な顔で三人を見る。
「俺は九代目の代行で来た。ツナ、山本、獄寺。返事は早いほうが助かる」
「……行きます」
「ツナ」
「十代目」
 半紙を丁寧に折り直した沢田は、綺麗なほどに澄んだ瞳をしていて。
「いずれはっきりさせなきゃいけなかったし、なにより、今まで乗り越えてきたものとか、そういうの考えると、こればかりは逃げられないかなって… 学生生活は楽しみたかったから、それだけは残念かな」
 はにかむような笑みは変わらないのに、そこにいるのはもう、一年前の沢田とは別人のようだった。嫌だ嫌だと、なにもかもに駄々をこねていた頃の彼とは、まるで違う。
 そうしてあまりに突然の決定により、高校に進学し、課程を修了してから渡伊するという予定すべてを飛ばすことになってしまった。何をそんなに上層部は焦ってるのかと思えるほど、性急に。
 用意していた高校の制服も、授業道具も、靴もなにもかも。
 挨拶でさえ、中途半端にして。
「あ、そろそろだね」
 ぽーん、と言う澱みのない音のあとに、搭乗予定の便名と手続きを開始するとのアナウンスが流れる。
「じゃあ行くか」
「うん。行こう、獄寺くん」
 腰を下ろしていたベンチから離れ立ち上がる二人をみて、頷いた。
「はい」
 離れる、この国を。
 三年以上前にきたときは嫌々だった。十代目候補の力量を測るために来日し、以来特別な用事がないかぎり常にそばにあった。その間も、早く帰りたかった。あの裏街に。あの空の下に。いつまでもここにいては、ダメになると判っていたから。
 わかっていたのに。
 それでも、ぎりぎりまで居たかった。
 矛盾した考え。絡まる思考。踏み出せない自分。
 認めたくなんかなかったけど。

「隼人」

「……っ!」
 耳に響く己の名前に、あわてて後ろを振り返る。けれどそこには誰の影もなく。
 いるはずがない。今日発つことも告げずに出てきたから。
 暇がなかったわけじゃない。時間ならあった。でも言わなかった。
「……くそっ」
 明確な別れを告げられるのが、恐かったからだ。
 さよならも、じゃあも、そうも、どれも言われたくなかった。
 聞き慣れた、またね、と言う言葉ですら、聞きたくなかった。明日をも知れない世界に戻っていく自分が、そんな曖昧な約束はできない。
 だから、逃げたんだ。
 さよならは言いたくない。聞きたくない。
 いっそお前が、そんないい加減な別れを選択した俺を、一生をかけて憎んでくれたほうが、よほど。
「……雲雀…」
 手を握る。強く、爪の跡が手のひらに残るほどに。
 名前すら、まるで何かの薬物のように、身体を緊張させる。
 本当は、離れたくなんか。
「っ!」
 ふる、と頭を振って足を踏み出した。すでに手荷物検査を抜けている沢田と山本に追い付くため、足早に。
 決めたんだ。
 俺は、ボンゴレの一員として生きると。十代目のそばにあり、その命を守っていくと、そう。
 だから、こんな思いは置いていく。全て、この国で咲いた思いだから。イタリアには、持っていかない。
 さよならはいわない。再会の約束も、決別の言葉も、言わないまましまっておく。きっと一生忘れないで、この身に封じておくから。
「次にあったら、覚悟しとけよ」
 そのときにはきっと、何一つ曖昧にしない、自分の願いを全て叶えられるくらい大人になっているから。
 全部ぶちまけて、そうしたら、もう離してなんかやらねぇから。
 決意を胸に、簡素に見える金属探知を抜ける。
 その先にはもう、幼い頃から目指していた世界だけが広がっていた。


 ざ、と風が吹いて、花が舞う。イタリアの気候は少し日本に似ているところがあって、春先には一番花木が綺麗になる。
 あれから五年が経ち、沢田は最近になってようやく後継者らしくなってきたと、ディーノをはじめとする同盟ファミリーたちに認められるようになってきた。引継ぎまではまだ時間がある。完了する頃にはもう立派に一家のボスになっているだろう。
 沢田も、山本も、そして自分も。いろんなものが変わっていく。
「なにしてるの」
 不意に掛かった声に、見上げていた視線を下ろす。
「別に… 昔のこと思い出してただけだ」
「そう」
「つか何でここにいんだよ」
「沢田から言われた。君、春先は放浪癖があるらしいじゃない。ふらふらして危なっかしいから、早く探して引き戻してきてくれって」
「ふん、子守かよ」
「まったくだ」
 石畳に、革靴の音が響く。かつん、かつんと規則正しいそれは、一歩分だけ残して止まった。
「それで、何を思い出してたの?」
「……言ったろ、昔のことだ。日本に行ったときとか、こっちにきたときとか、誰かさんが堂々と出迎えてくれたこととかな」
「またその話?」
 ふう、とため息。
「いい加減しつこいよ」
「一生根に持ってやるって言った」
「区切りよく五年にしてくれない?」
「ぜってぇ、ヤダ」
 俺の覚悟を無にしたんだからな。
 そう言うと、相手は残りの一歩を踏んだ。
「君が言わなかったから」
 かつん、と音が響く。
「僕も言わなかっただけだ。あの人が来たことも、こっちに早めに来ることも」
「知ってたってことだろ、俺が来ること」
「知らなかったよ。だけど、残るはずなんかないっていうのは知ってた」
 隣に並んだ黒髪が、さわりと風になびいた。
「そんな君は、まったく君らしくないから」
「……けっ、言ってろよ」
 向けた視線の先には、淡い色の花びら。舞う姿すら美しく、目を閉じる迄もなくそれはたった一人の姿を思い出させる。
 気持ちは全て日本に置いてきたはずで、次に逢うまでは全て封印したはずだったのに。
 新たな気持ちで立ち入ったボンゴレ本拠地にはすでにその姿があり、一足先に着いていた、とまで言った。
「あれ、知らなかったのか? てっきり恭弥から聞いてると思ってたんだけど」
 ははー、と軽く笑う金髪を力一杯ひっぱたいたとしても、きっと誰も文句は言わなかっただろう。狐に摘まれたとはこういうときに使う言葉だきっとそうだと、九代目や門外顧問の前だというのに本気で頭を抱えた。
 というのに。
「僕は君ほど優柔不断じゃないんだ」
 そんなたった一言で済ませやがって。
「…そりゃあーすみませんでしたねぇ」
 どうせ言うことも言えず、しなきゃならないことも全て曖昧にして逃げた、優柔不断の卑怯者ですよ。
 ふん、と最後に鼻を鳴らせば、拗ねないでよ、と苦笑の声。
「そもそも、同じ守護者なんだから、君が呼ばれれば僕だって呼ばれる。それくらいわかるだろう」
「悪かったな、単細胞でっ」
「本当、肝心なところで馬鹿だ。何をそんなに浮ついていたんだか」
「うっせー!」
 そんなこと、口が裂けたって言わない。
 群れるのが嫌いだと常に言っていた相手が、わざわざイタリアまで来るはずがないと思っていた。だから、たとえ召集があったとしても、まさか応じるなんて想像もしていなくて。
 離れなきゃいけないんだと、そればかりが頭を占めていた、なんて。
「ほら、いい加減機嫌直してよ。いい景色なのに台無しだ」
 風が吹いて、花びらが無数に舞う。かつては倒れてしまうほどにこの花が苦手だったはずの相手は、今はもう、そんなことすら忘れてしまったかのように当たり前に愛でている。
「隼人」
 穏やかに呼ばれる。あの日、空港で聞こえた声と同じ響きで。
 あの日のことは、きっと一生忘れない。
 決意したこと、曖昧にしたこと、耳に響く名や、眩しいほどの青空も。
 同じ季節が巡るたびに、きっと思い出す。
「あーあ」
 わざと肩を落として、くるりと体を回した。隣でこちらを見ていた相手が、きょと、と首を傾げる。
「忘れんなよ、雲雀」
「何を」
 判らないと首をかしげたまま、訝しい顔つきの雲雀に、笑った。
 忘れない。何一つ。
 お前がなんて呼ばれていて、俺がどう思っていて、かつて何が苦手で、何を好んで、愛していたか。
 その全てが、二人を引き合わせ。


「もう離してなんかやんねえってことだよ」


 その全てが、この決意に変わるから。

アキさんちのアンジェラさんの歌をリピートしつつ。