02. 今、舌舐りしたでしょう

 雪のように舞うそれを愛したのは、何もその散る様が雪に似ていたからじゃない。
 淡い色も主張がなく好きだし、何より、たった一本で咲いていても人目を惹く、その存在感を愛した。
 多くの花は、大量にあってこそ人目を惹く。同じ満開でも、薔薇の棚と、一本の桜の樹ならば、どちらが雄大に思えるか見なくとも判るだろう。その、孤高さが気に入っていた。
 優美さだけではない、日本という小さな島国で散るためだけに咲き誇る花。
 けれどいまや、それは世界中の何所でも楽しめるようになっていて。

「なんだこりゃ…」
 静まり返っていた一人の世界に人の声が紛れ込んできて、閉じていた目を開けた。
 そうすればあたりは一面緑の原っぱで、目の前に広げられた一人分の酒と食事、そして背を預ける一本の大木しかここにはない。
「お前なぁ、こーゆー金の使い方止めろって」
「どうして」
「聞いてると腹が痛くなる」
「ふん」
 自分などよりよほど金を持っている男の言葉が逆におかしくて、ゆっくりと視線を横に向けた。
 そこには、なんとも中途半端に、スーツの上から着物を羽織った男が立っていて。
「何、その格好」
「入る直前に、これだけはってお前んとこの部下に言われて」
「着ればよかったのに」
「へぇ」
 意地の悪い笑い方をした男が、自分のネクタイに手をかけた。
「他のヤツの前で脱いでいいって?」
 しゅる、とこれ見よがしにネクタイが解かれる。挑発の仕方が稚拙だ。
「お好きにどうぞ」
「…面白くねぇ」
 余裕の笑みが、悔しげなものに変わる。本心を言えば、ネクタイ一つどころか髪を耳にかける仕草ですら他人の前でされるのは気に入らないけれど、今ここでその挑発に乗るほど子供でもない。後で存分に言って聞かせればいいだけだ。主に、体に。
「着付け方なんかしらねぇんだよ。そしたら、肩に掛けるだけでもいいっつーからそうしたんだ」
「いい加減覚えなよ」
「あれしてこれしてって面倒くせぇ。この決まりどうにかなんねぇの?」
 風紀財団という名の雲雀恭弥私設機関には、財団トップのプライベートエリアに入る際には着物着用、という決まりがある。それはどの支部、どの地区でも共通していて、今現在立っているこの地でも当然、それは厳守されてしかるべきものだ。
「着物はいい」
「なんで」
「着崩したらみっともないし、自分でも気持ち悪い。風紀が乱れない、一番いい制服だ」
 スーツも嫌いじゃないし、昔着ていたような詰襟の学生服も嫌いじゃなかった。でも、一番気持ちが引き締まるのは着物だ。長く海外などをうろついていると、余計にそう思う。
「お前らしすぎる理由で反論の余地もねぇな」
 ぷ、と噴出すようにして笑った男は、解いたネクタイを適当にスーツの胸元に仕舞って、止めていた足を動かしだした。一歩、一歩と近づいてくる。黒地に赤で刺繍の入った裾がそのたびにひらひらと舞い、散る花びらに絡んでいた。
「今日は何?」
「別に、大した用事もねぇけど…」
 一歩の距離を残した男が止まる。さわりと風が吹いて、背にした大木から花が散り、それにつられるように男が視線を上げた。
「すげぇな、これ」
 惚けたような声。
「移植したとかとかじゃねぇよな」
「まさか。もともと、ここにあったものだ」
「なるほどな… それで、わざわざこんな場所に大金払って土地買ったのか」
 見渡す限りの緑の原、咲き誇る一本の樹木。
 ここは元々、小さな農村だった。今でも半径を2.5kmも進めば、小さな家の影が見えるだろう。土地を買った分、そちらにずれ込んだだけだ。もちろん、移築、移動、整備の全般に金を出したし、土地代も払った。正規の取引だ。
 その理由は、この背にしているたった一本の、桜の木のため。
「でも、なんでこんなところに」
「昔、移住が始まったばかりの時に、どこかの日本人が苗木を植えたらしい」
 その時の日本人は早くにこの土地を引き上げたが、残った住民、そしてその子孫達が、この樹の世話を引き継いできた。おかげで今、桜は満開に咲き誇って、この目を楽しませてくれる。
 初めてこの樹を見たとき、その雄大さと、たった一本で誇らしげに立つ姿に惚れ込んだ。
 いまや日本の国花となった桜は、日本中何所でも大群で植えられている。けれど、この花は本来一本で姿を楽しむものだと思っている。
 大量に咲き誇る姿は、それはそれで綺麗だと思う。美しいと思う。散るときなどは、特に。
 けれど、一本で居ることの気高さや孤高さ、単体でいても失われない優美さは、それに勝る美しさだと、思っている。
「ふーん…」
 花を見上げる緑の色が、わずかに濃くなる。
「何?」
「いや、別に。そうだ、土産があったんだ」
 何かを思いついたようにして下げられた目は、もう元の色に戻っていた。ああいう色をしているときは、絶対に何かある。意地っ張りで頑固ものの相手は、絶対に言わないし、悟らせまいと誤魔化すけれど、正直すぎて隠しきれていない。
「土産?」
「正確には、お前の部下から。そろそろ切れるだろうから持って行ってやってくれ、ってさ」
 ほら、と小さな籠を差し出される。
 受け取り蓋を開ければ、内側に保温材が仕込まれていて、中には徳利が三本、わずかな湯気を立てながら収まっていた。
「用意のいいことだ」
 ついさっき空になったばかりの徳利を退け、新しいものを取り出す。適温に暖められた酒を小さな盃にとり、口を寄せれば、ふわりと心地よいアルコールが鼻先を掠めた。
「昼間から飲むの、珍しいな」
「特別だよ。普段はしない」
 昼間に飲む酒は、確かに気持ちいいが、何かあった場合に対処できなくなる。少しの量では酔わないが、やはりどこかアルコールで麻痺していて、判断が下せなくなる危険があるから、出来るだけ避けたかった。寝酒程度が常で、それも一本も飲まないのだから、本当に体を温めるだけのものだ。
 今日は完全なオフだ。仕事の関係は全て部下に任せているし、緊急の場合に限り連絡が入るようになっている。ここ数日は新しい研究結果も上がっていないし、リングやボックスに関する目ぼしい情報も入ってきていない。一日くらいトップが居ないくらいで動かない教育はしていないし、多少の酒くらい構わないだろう。そう判断して、既に二本空けた。
「呆れた。それでけろっとしてんのかよ、お前」
 つらつらと説明する間も口をつけていた所為で、聞き終わった男が溜息混じりにそう感想を漏らす頃には、既に盃は空になっていた。
「おかしい?」
「日本酒は度が高くなくても匂いで酔う。残りも酷いし… 俺は苦手だ」
「そうかな」
 確かに二日酔いにはなると思うが、飲み過ぎなければいいだけの話だ。冷やしても暖めても美味いのだから、洋酒には無い楽しみ方も出来ると思うのだが。
「ワインだってブランデーだって暖めて飲める」
「そうだけど… 何? 急にそんな事言い出して」
 今まで一緒に酒を飲んだことが無いわけでもない。何度か、酔いつぶれたところを介抱したこともある。けれど、どれだけ酒の席をともにしても、好みに口を出してくることはなかった。
 突っかかり方が変だ。
 視線を上げてみれば、緑色の瞳が動揺で揺れ、直に戻る。
「別に…」
「またそれ? 気に入らないことなら口に出して言えって、何度言っても治らないね」
 突っかかってくるときは噛み付く勢いで迫ってくるくせに、そうでない時は気持ち悪いくらいすぐに引く。悪い癖だ。子供のときから言っているのに、一向に改善する様子が無い。
「っ、なんにもねぇからそう言ってるだけだっ」
「それならいいけど」
 頑固者のことだ、どれだけ突いた所で本当のことなど言いはしないだろうと、さっさとあきらめてしまう。
 空の盃に改めて注げば、満たされる直前に、どさりと隣で音がした。ふて腐れ顔の男が、不機嫌もあらわに腰を下ろした所為だ。
「…よこせ」
「これ?」
「他に何がある」
 不機嫌丸出しの顔で、つい今しがた嫌いだといったものを口にしたがる。意味がわからない。
「はいはい」
 それでも、望むのなら差し出さなくも無い。生憎と盃は一つしか持ってきていないから、注いだばかりの自分のそれを差し出した。
「…辛い」
 受け取りもせず、差し出されたままの盃に口をつけ軽く啜った男は、眉間にいつも以上に皺を寄せて呟く。
「自分で持てば」
「もういい」
 ふい、と視線を外すと、立ち上がるでもなくそこに座って遠くを見ている。
 このあたりは元が牧草地で、動物が放し飼いにされているような場所だった。その所為か土地の持ち主が住んでいた家と家畜用の厩舎以外には何一つ建物がなく、一面が緑の原だったのだ。その二つの建物も移築し、今は名残すらなく、この周辺は本当にこの桜以外に何もなくなってしまっていた。
 見るものなど何も無いだろう、こんな場所に。
 特に用事も無いというこの男は、一体何をしに来たというのか。
「…ヴィンテージの」
「え?」
 唐突に聞こえた声は小さい。口に運びかけた盃を止めて、隣を見た。
 相変わらず遠くを見たままの緑色が、ほんの少しだけ翳りを帯びている。
「結構、いいワインだったから、お前でも飲めるかと思って」
「ワイン? どこに?」
 言葉に、首を傾げてしまう。
 そんなもの、何所にも持っていなかったはずだ。
「…入口で、お前んとこの部下にやった」
「どうして」
「先にそれ渡されちまったら、どーしようもねぇだろ」
 ふて腐れた声。
 ああ、そうか。
 つまり、二人で飲もうと思ってわざわざここまで来たのに、先に違う酒を飲んでいるからとらしくもなく遠慮して、持参の酒と使いの酒を交換してしまったわけだ。
 それで、偽物の土産を口にする僕が、気に食わなかった、と。
 先程好きでもない酒を口にしたのは、八つ当たりを多少なり反省した、というところだろうか。
 言えばただそれだけのこと。どうして口に出していえないのか。
「それじゃあ、それは後で頂く」
 けれど、そんな天邪鬼がいいと思うのだから、自分も相当末期だと思う。
 素直で、なんでもハイハイということを聞くような忠犬ならどこにでも居る。力で従わせようとしたなら、十割の確率で落とせるだろうが、そんなものに興味はない。牙をむき、いつでも掴みかかってくる様なプライドの高い犬の方が、落とし甲斐もあれば、従わせ甲斐もあるのだ。
 素直に言えないくせに、そんな自分が一番嫌いな男だからこそ、簡単に手には出来ないし、手にしたときの優越は何にも変えられないと思う。
「…けど、やってきたぞ」
「僕の部下に、僕の物に勝手に手を出すような馬鹿は居ない」
 たとえ、お前たちで飲んでいい、とこの男が言ったのだとしても、おそらく入口で番をしている部下達はそれの封を切ろうとすら思わないだろう。今頃は、適温で保管されるべく支部に戻されているはずだ。
「花見は日本の風習だ。それなら、一番適しているのは日本の酒だと思う」
 く、と傾け、小さな盃を空にする。新しく注ぐことはやめて、盆に戻した。
「ワインは、こんな野外で飲むのに適してはいないと、僕は思うけど」
 どう、と横を見れば、ぽかんと間抜けにも口の開いたままの男が、少しずつ笑みを浮かべる。
「それもそうか」
 眉間の皺も消え、笑う様はまさしく花のごとく。
 男に使う言葉としておかしいとは思うが、そう思う自分の感性は止められない。背にした桜を、一目見たときから欲しいと思ったのと同じように、今目の前で笑う二十歳なんて随分前に過ぎてしまった男が、可愛いとか、そんな風に思ってしまうのも、止められないんだ。
 調子が狂う。いつもの自分じゃない。
 でも、一番自分らしいと、そう思うときも、確かにある。
「桜のせいかな」
「何が?」
 不機嫌の抜けた顔は、いつもよりずっと幼い。小首をかしげる仕草など、子供っぽいとすら言える。
 でも、それすら機嫌を損ねる要素にはならず。
「酒がおいしい」
 君が可愛い、などと言えば確実に照れ隠しでへそを曲げることがわかっているから、わざと違う言葉でごまかした。あっさりとごまかされたのか、ふうん、なんて相槌が返ってくる。
 単純で頑固者なのに、時々怖いくらいに正直者。
 もう片手なんて簡単に越してしまうくらいの年月を一緒にいるのに、未だにそれが面白いと思ってしまう。本当に、末期だ。
「雲雀」
 すぐそばで、笑いを含んだ声がする。傾ければ、酒に濡れた唇をぺろりと舐められた。
「まあ」
 目の前で悪戯が成功した子供みたいな顔で笑っている獄寺の、緑色の瞳が細められる。わざとネクタイを解き、これ見よがしにかけてくる挑発よりも、よほど扇情的な笑みだった。
 さわりと風が吹いて、また、花が散る。
「悪くはないな」
 天気のいい午後。背には花。前には君。
 なるほど確かに、悪くない。

酒話でごめんなさい。雲雀の手から酒を飲む獄寺が書きたかった。