03. 指が肌をすべる感触
雨は嫌いじゃない。
そう言うと、曖昧過ぎる、と機嫌の悪い声が返ってきた。
「そうかな」
「好きでもない、んだろうが」
「ああ、そうか」
言われれば確かに、そういう風に受け止めることもできるだろう。穿ち過ぎだとは思うが、お互いの性格を考えたら仕方ないような気がする。
「黒様はほんと、鋭いね」
細かい、とも言うのかもしれないが。
「お前がふわふわし過ぎてるだけだ」
未だに違和感のある左腕を動かしながら、黒鋼の言葉はそっけない。
サクラの体が連れ去られて、数日。動くことができずにただ時が過ぎるのを待つだけの間、黒鋼はなくなった左腕の代わりに着けられた義手を使いこなすことに集中していた。魔法や秘術ではなく、科学という方面から作り出されたそれは、細かい端子が神経に入り込み、なくなった部分を補い、伝えるべきことを伝える器官に送る、という役割を果たしているらしい。つまり、元の腕とそう変化がない、ということだ。
ただ、急ぎでという注文に従い届けられたそれには外皮がなく、むき出しの機器が目に痛い。
「このままで問題ない」
外皮は、という言葉に、それだけで答えを出した。
確かに機能的に問題はないだろう。あるとすればそれは、事情を知らぬものから向けられる視線だけだ。けれど、元からそんなものを気にするような男でもない。
だから今でも腕はむき出しのままで、きっとこれからも変わらないんだろう。
腕を切り落とすなんて、無茶をしたことも、忘れられないまま。
「おい」
こつん、と頭を小突かれる。知らずに落ちていた視線を上げれば、刀の柄が目の前にあった。
「痛いよ」
「うるせぇ。そもそもてめぇ、何しにここに来たんだ」
「何って… 君の、様子を見に」
眉間に寄せられた皺が深くなる。
「お前の様子見ってのは、花がどうだの天気がどうだのくだらねぇ話をすることか」
「お年寄りみたいな言い方しないでよー」
「十分だ」
「そりゃま、確かにそうですけど」
実際年齢で言えばそれくらいは離れているだろうから、否定する気もないけれど。
何かを話していたい、と思ったのが、第一だった。
長く、長い時間、いろんな嘘やごまかしで生きてきた。本当は知っていたはずなのに、そんなことをすればきっと自分が痛いだけだということを知っていたはずなのに、止められなかった。止めるすべがなかった。
王に選択を迫られた時、死を選んでいたほうが幸せだったんじゃないのかと、一度も思わなかったと胸を張って言うことができない。二人一緒にいることで災いを呼ぶと、最初からわかっていたのだから、どちらか片方になればよかった。自分が死を選べば、兄弟は生きていられた。たった一人の王子として、命を全うしたかもしれない。
でもそれは、自分だけの選択だ。半身とも言うべき兄弟は、同じように、この身の生存を願った。
相反する同じ願い。なのに、自分だけが生き残ってしまった。
それに報いるため、母と同じ顔をした魔法と、新しい命で、彼に生きていてほしかった。無理なことだと、ありえないことだと、わかっていたのに。
たくさんの嘘と、たくさんのごまかしが、今でも身に渦巻いているようで気持ちが悪い。
だから、話していたい。
もう何も隠すことなどない。今話すべきでない事柄はいくらでもあるけれど、時が来れば必ず話せること。嘘でもごまかしでもない。何のフィルターも通さず人と話ができる。
それなら、相手にはこの男がいいと、そう思った。
いろんなことをごまかしながら、嘘だらけだった自分に、それでも手を伸ばしてくれた、この。
「何だ」
じっと向けていた視線に、居心地悪そうにするでも、照れるわけでもなく、まっすぐに視線を返してくる。
こういうところが怖いと思った。うらやましいと思った。
この男の、すべてが。
「あのさ、雨が嫌いじゃないって言うのは、本当なんだよ」
唐突に話を元に戻せば、渋い顔をした黒鋼は、それでも黙って耳を傾けてくれている。
「昔からなんだ。なんだか、こう、外界と遮断される気がするでしょ? それだけで安心するところがあって」
深く、生きた人間の来ない谷に捨てられ、目にするものと言えば高い塔と、命のない体だけ。雨が降っても雪が降っても、避ける隠す場所すらなかった。
自然は平等だ。死した人間にも、死ぬことすら許されない人間にも。
雨が降れば、音が激しく鳴り響く。あたりに広がる骸の姿すらかすむほどに降れば、何もできない小さな体は、ただしゃがみこんで丸まって、何も考えずにいられた。
ここは死の谷なんかじゃない。きっと夢で、今もかけがえのない半身と眠っているのだと、思い込めた。
たった、数刻だけの、短い夢。
「暗いよねぇ」
ふふ、と笑って、足を投げ出す。向かいに座る男の横に伸びた自分の足は、頼りなく細かった。
「だけど、すぐに気づいた。雨が降っても雪が降っても、オレに待ってる現実は何一つ変わらなくて、やっぱり塔に上るためだけに手を伸ばすって言う、それしかなかったんだ。それからは、あんまり好きじゃなかったな」
雨は命を救う。けれど同時に、奪いもする。
「雪が降ると指がかじかむ。雨が降れば指がすべる。現実的な悩みしかなくなったから、それからは、うれしくはなかったんだけど」
黙って話を聞いてくれる黒鋼が、ふ、と視線を上げる。先を促すそれを受けて、思わず笑った。
「少しずつ記憶が上書きされていくんだ。サクラちゃんみたいに」
嫌な思い出ばかりの雨。雪。
助けることのできなかった命と、救うことのできなかった国と、今はもう存在すらしない空間と。
いろんなものばかりを思い出させて、心を巣くっていくのに。
「あの時、君が止めてくれなきゃ、多分オレは同じことを繰り返してた。そうしたら、きっと上書きなんてされなかった。ずっと同じところを繰り返してたと思う」
旅の詳細を知っていながら黙っていたことに、黒鋼は何も言わない。お前の望んだことじゃないと、無言で許してくれる。
許して、先に進めと、そういってくれる。
雨はこれからだって降るだろう。雪も積もる。
でも、多分これからは少しずつ、いい思い出が上書きされていくはずだ。過去は消えずにいつまでも胸を苛むだろうけれど、きっと、少しずつ、それが思い出に変わっていく。
「好きになれると思うんだ。雨も、雪も」
君のそばにいられれば。
それが限りある時間でも、あと少しの時間でも、きっと命を全うした時間のはずだ。心行くまで生きた。そう言って、消えていける。
「君の嫌いなオレから、少しは変われたかな」
命を投げ出すのが何より嫌いだといっていた。自分が助けようとした命が無残に消えていくのを目の当たりにしてしまった、自分だけが生き残ってしまったことに責任を感じる、まっすぐな彼らしい言葉だ。よく似たものを目にしたはずなのに、正反対の考えに陥ってしまった自分は、さぞ腹立たしかっただろう。
けれど、今はもう違う。変われたと思う。
いろんなものを手放した。けれど、帰ってきたものは、それよりも大きなものだ。
「ちったぁましかもな」
「辛口」
にやり、と口の端だけで笑うのを見ながら、腰を浮かす。胡坐をかいた足の上にまたがれば、今まで見上げていた赤い瞳が下に見える。
「何だ」
「うん」
肩に触れる。人の肌と人口の機械が重なった部分が指先に触れて、無意識のうちに撫でてしまう。肌をすべる感触に変わりはないのに、義手になったとたんに、それはやはりどこか硬質で、冷たい気がした。
切り落とした腕。消えていくはずだった自分を救うために、対価として投げ出された、大切な腕。
きっと記憶から消えることはなく、生きている限り後悔するだろう。どれだけ黒鋼がかまわなかったのだと言っても、きっと消えない。でも、上書きはされる。今はまだ降り続ける雨でも、必ずあがるのだから。
旅の終わりはまだ来ない。短い休息は数日であけてしまう。
その間にできる限りで記憶の形を変えていく。旅の終わりを迎える為に。
「なんでもない」
撫でた傷口に頬を寄せる。
口に出しては言わないけれど、あの男が、黒鋼を選んでくれてよかったと思う。国を滅ぼされ父母を奪われ、悲しい過去にしかならなかったとわかっていても、よかったと、そう思ってしまう。だってそうでなければ、こんな風に変われなかった。
前に進める。命も記憶も後悔も、何もかもを背負ったまま、まっすぐに。
ふと見た外に、数株の紫陽花が寄り添うように佇んでいる。
あれは何と問えば、雨季に咲くのだと説明してくれる黒鋼の声で、またひとつ、雨の記憶が上書きされた。
日本国での空白時間。 ▲