08. 本当は余裕なんて少しも、 (※咎狗の血・シキアキ家庭教師パラレル)

 唐突に部屋に飛び込んできて、今日から貴様の家庭教師だ、なんて尊大な台詞を吐いた男は、意外にもきちんと決められた時間に家を訪れ、決められた時間きちんと勉強をし、帰っていく。
 ただ、相変わらずその態度といったら、教師が生徒に対するものというよりは、主君が配下に対して取るような態度で。
「馬鹿か貴様」
 こんな言葉は当たり前だ。
 聞いていて腹は立つが、なんとか口癖なのだと思い込んで、ぐっとこらえる。
「何度説明したらわかる」
「…判らないから、アンタ雇ってるんだろ」
「成長しないのは俺の責ではないな。生憎、人間に説明する言葉は知っていても、虫けらに説明する言葉は知らん」
 さくさくと突き刺すようなそれは、教鞭をとる人間の口から飛び出してくるものとは思えないほど辛辣な言葉で。
 我慢我慢、と言い聞かせるも、指先に力がこもって、ノートに綴られた英単語が奇妙な文字になった。
 英語の成績が降下の一途を辿り始めた、数ヶ月前。
 本気で進学が危ぶまれるほどに低下してしまい、このままではヤバイ、と雇った家庭教師が、今机の横で偉そうに足を組んでいる、英語の家庭教師だというのになぜか白衣を着た、この眼鏡男だった。
 登場からして、突然窓を割って飛び込んできたり、挙句人のことを意味の判らない単語で飾り立てたりと忙しい男だったが、それ以降はちゃんと玄関から入ってくるし、一応は扉も開ける。時々、足で開けることが気になりはするのだが、それは大目に見る。自分だってしたことがないわけじゃない。口うるさい母親に見咎められ、金切り声でしかられてからはやらなくなったが。
 だが、それ以外のことは、どうしてこんな人間が家庭教師として成り立っているのかと、疑問しか頭には浮かんでこないほどに、この男は酷かった。
 判らないといえば馬鹿といわれ。
 筆が止まれば屑といわれ。
 成績が横ばいなら雑魚といわれ。
 多少でも下がれば死ねといわれる。
 教師だとか言う前に、人間としてどうなんだと問いたい。
「なんだ」
「…なんでもない」
 ちらりと見れば、眼鏡の向こうから紅い目が視線を返してくる。まっすぐに見ていられなくて、視線をはずした。
 シキと名乗った男は、頭はいいんだろう、と思う。
 決して教え方が下手なわけでもない。言葉は尊大だが、勉強に関しては間違ったことは言わない。判りやすくもある。
 ただ、それに対応できるのなら自分の成績はここまで下がらなかった、というだけのことで。
「…つまり俺が悪いのか…」
 事実に気づいて、思わずへこんだ。
「なんの話だ」
「なん… いや、俺の、成績の話だ」
 はぐらかそうとして、止めた。そんな話ばかりしていても仕方ない。今は、少しでも成績を上げることを考えなければ。本当に落第してしまう。
 広げられた参考書は、シキの持込みだ。スタートが中学生英語からで、馬鹿にしているのかと思ったが、復習してみれば、なんと中学英語で躓いていた。よくこれで高校など合格したものだ、と見事に鼻で笑われたが、こればかりは反論のしようもなく、黙って受け入れた。
 どうにかこうにか高校英語まで進んだが、授業内容までは程遠い。幸いにも、腕だけは確かな家庭教師だ、自分の努力しだいで上昇していくだろう。そう信じるしかない。
「アキラ」
「何」
 適当な返事を返しながら、先ほどの奇妙な英単語の隣に、改めて単語を綴る。ひとつでも多く単語を覚えることも有益になる。
 ひとつ、ふたつと増えていく単語が、二桁に上ろうとしたところで、話しかけてきたはずのシキが黙り込んでいることに気づいた。
「何だよ」
 手を止めて顔を上げれば、つまらなさそうに頬杖を付いた男は、ふん、と鼻を鳴らす。
「単語ばかり馬鹿のように繰り返しても成績は上がらん」
「全く効果がないわけじゃないだろ」
「たかが一、二点だ。その程度単語で補ったとしても焼け石に水だ」
「…アンタ俺の成績下げたいのか、上げたいのか、どっちなんだよっ」
 口先だけの褒め言葉を言えというんじゃない。別に褒めてもらわなくてもいい。それが目的じゃないから。
 だけど、ここまで貶され続け、挙句努力まで馬鹿事のように言われたのでは、家庭教師であるこの男の存在自体が馬鹿みたいなことではないか。
「そうだな」
 一瞬、赤い目がどこかを見る。すぐに戻ってきた瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。
「どちらでもかまわないが、上がり過ぎるのは都合が悪い」
「なんで」
「俺は、存外にお前が気に入っている」
 つつ、と頬を撫でられた。
「解雇などされてはかなわん、と思うくらいには、な」
「っ… 無茶苦茶言ってるぞ、アンタ」
「そうか?」
 く、と笑った口元が、近い。
「ちょ、シキっ」
「黙れ」
 ちゃり、と音がした。視界の端を、外された眼鏡が通り抜けていく。
「ん、うっ」
 後頭部を抑えられ、顎を捕らわれたのでは逃げ出そうにも逃げ出せない。
 どうしてだか、シキはこんなことをしたがった。初対面のときも、ギリギリで逃げられはしたが、もう少しで貞操を奪われるところだった。男なのに、だ。恥以外の何者でもない。
 よく、未成年だと買えないDVDだとかに、家庭教師の女性に対して悪戯をしたりとか、逆にされたりとか、そういう設定をよく見る。一応は未成年である自分がなぜそんなものを知っているかは、とりあえず横に置いておいて。
 そういう話は聞くが、まさか同性の家庭教師に悪戯されるような日が来るとは、予想だにしていなくて。
 なのに、それからもシキは執拗に求めてきたし、もうなんだかキスくらいならどうでもいいか、くらいになっている自分にも驚く。女の子としたこともないのに、シキとこんなことになって、気持ち悪いとかけらも感じなかった。
 今も、嫌じゃないんだから、始末が悪い。
「はっ…」
 息が苦しくなるほどに貪ってようやく気が済んだのか、頭から手が離れた。口内を荒らしつくした舌が出て行くと、思わず喉が鳴る。
「ふん、ずいぶんと物欲しそうな顔をするようになった」
「し、してないっ」
「抗うな。体はすぐに堕ちる」
「ううううるさいっ。いいから、勉強っ! 成績あがって解雇はないかもしれないけど、下がって解雇なら十分にありえるだろっ」
 ぐい、と白衣の肩を押す。思ったよりもあっさりと体を引いたシキは、まあいい、と腰をすえなおした。
「一理ある」
 外していた眼鏡を、再びかける。赤い色がガラス越しに変わって、それでも威力が落ちたように感じないのはシキがシキたる所以のような気がした。
「ならば、せめて落第を回避できる程度に貴様の屑のような頭を鍛えるとするか」
「…一言も二言も多い…」
「何か言ったか?」
「いいえなんでもないですっ」
 きらりと眼鏡が光ったような気がして、慌てて机に向かう。
 確かに落第は困る。これから何十年と続いていく己の人生の、まだスタートラインに程近いこんな場所で躓くわけには行かないのだ。余裕などかけらもない。悪戯も、後で倍にして返してやればいいことにしよう。
 よし、と息を吐いて参考書に向かう。
 それを横から見ている紅い目が、まるで雨露に濡れた薔薇の花弁のように、妖しげな色をしていたことにも気づかぬまま、アキラは英単語の世界に没頭していった。

お題に沿ってない自覚があります。(土下座) フィギアCDから。