bacio

 その日はいつもと変わりない、ただの休日だった。
 秋晴れと言うにふさわしい空を頭上に沢田家に向かえば、まだ九時前だというのに誰の気配もなく。これは後で知った話だが、なんでも秋晴れに気を好くした沢田の母が朝から大量の弁当を作り、近くの山にハイキングに行っていたのだそうだ。そのついでに、沢田のみリボーンから特別コースで行くよう命じられ、かなり大変だったらしい。本来ならば跡を追い、供をするのが右腕としての役割だが、出遅れてしまった以上はしかたない。残念ながらその時点ではどこに向かったのかすらわからず、仕方なく踵を返した。
 行く先を失い、山本の店に顔を出したが、当人は部活だとよく似た父親に言われて終わった。川原を散歩ついでにうろついて、途中で見つけた野良猫としばし遊び、猫が飽きた頃にはすでに時計は昼を指していて。
 とてつもなく無駄な時間を過ごしている気がする。
 それに気が付いたのは、立ち寄ったコンビニで適当に買った昼食を片手に、ありがとうございました、と送り出された瞬間だった。
 しかし、気が付いたとしても行くあても目的も見つからない。どうしようかと、コンビニに入ろうとする女子高生に邪魔そうな目で見られ、慌てて歩きだしながら考えた。
 沢田家、山本家が駄目で、自宅にも帰る気はしない。この立派な秋空の下、ただ閉じこもっているのは、ふらふらと目的なく歩き回る以上に無駄な時間になる気がしたからだ。
「そうだ」
 空を見上げ、夏よりも高くなったその青に、ふと思い浮かぶ場所がある。
 訪れたどの家とも違い、決して無人になることが無い場所。謀らずも、留守にしている山本が向かった先ではあるが、野球部のグラウンドに顔を出さずにたどり着く方法もある。
 まず誰にも会わないだろうし、まさか休日にわざわざ出向くような馬鹿はいないだろう場所だ。
「…いるかもな」
 名案に意気揚々と歩きだした足が、ぴたりと止まる。
 だが、これもまた山本同様、会わずに向かうことが可能だ。ならば、案ずるよりも生むが易し、と昔の偉い人が言ったという言葉もある。まずは行ってみることにしよう。
 そう思い直すと、止まっていた足を再び動かし、獄寺は歩きだした。


 こそこそと、泥棒よろしく忍び込んだ建物は、同じ敷地内に多数の若者を収容しながらも、コンクリート製の建物内部はしんとしていた。一応、万が一に起こるかもしれない面倒な事態を回避するため、履いてきたスニーカーを室内履きに変える。きゅ、という独特の音が人気のない通路に響いて、足を止めて耳をそばだてた。
 聞こえてくるのは、こもった大人数の声だけ。ガラスの向こうで騒ぐ人々の遠い声が、その意味すらわからないほど霞み掛かっていた。
 校舎内に気配はない。あったとしても、いまだ遠くて掴めない位置にある。
 三度足を動かし、今度は慎重に歩きだした。まかり間違って妙な音を立てれば、この学校で一番やっかいな奴が飛んで来かねない。完全回避は出来ないかもしれないが、ぎりぎりまで接触したくはなかった。
 用心に用心を重ね、出来るかぎり人気のない廊下を選んで、階段を登る。二度三度と繰り返し、ようやく目的地である扉の前に辿り着いた。
 だが、ここで気を抜けば全てが水の泡だ。より一層慎重に、扉のノブに手を掛けた。
「…いない、か?」
 わずかな隙間から覗く先には、やはり人の気配はない。
 よかった。とりあえずここまで接触がなければ、経験上、しばらくの間は大丈夫だろう。
 ふ、と肩の力を抜いて、扉を開いた。
「なにしてるの」
「ぎゃあぁぁああ!」
 まず間違いなく何の気配もなかったはずの背後から突然聞こえた声に、肩が跳ね上がる。
「………うるさい…」
 ばくばくと、落ち着かない動悸に胸を押さえながら振り返れば、失礼にも耳に指を突っ込んだ雲雀が、心底うるさそうに顔をしかめている。
「ててててめぇが悪ぃんだろうが馬鹿!」
「せめて、もっとまともな声にすれば良いのに」
 ため息混じりに言われなくても、我ながら情けない悲鳴だと思う。思うが、驚かせた本人に言われる筋合いはない。
「それで、なぜ休みの日に学校に来てるわけ? 一応、用事のない人間は立ち入り禁止なんだけれど」
 首を傾けながら聞いてくるが、その手は既に見慣れた武器を握っている。
 本来なら、多少腹黒い入学方法を取ったにしても、きちんと在籍している生徒が校舎内にいたところで違反でもなんでもないはずだが、この男にそんな正論は一切通用しない。気に入らなければ殴られる。並盛中学では日常茶飯事だ。
 応戦するのが嫌なわけじゃない、むしろ喜んで受けたいが、いまだに動悸が治まらなくて、うまく言葉が出てこなかった。
「なに、それ」
 どうしたものかと考えあぐねている間に、ふ、と雲雀の視線が下がる。追って自分の手元を見れば、そこには買ってきたばかりの昼食が入ったビニール袋があって。
「なにって… 昼飯」
「昼飯? いまから?」
「そんなにおかしな時間じゃねぇだろ」
 コンビニを出た時、まだ時計の針は十一時に届かない位置にあった。あれから一時間経っていたとしても、丁度昼時だ。何もおかしくはない。
「ここで食べるつもり?」
「へ? あ、ああ…」
 訝む様子の雲雀が、さらに深く眉根を寄せた。
「なんだよ」
 ようやく正常に回りだした頭が、はっきりしない相手の態度に苛立つ。手にした武器をだらりと下げ、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべるのは、珍しいし気持ち悪い。
「…あまり、勧めない」
「は?」
 ずいぶん長い間黙り込んでいたように思う暴君は、ぼそりとつぶやくと、下げていた武器をしまう。一度下げてしまうと、雲雀は滅多なことじゃ武器を出さない。たいてい意味のわからない理由だが、今回もまったく予想できない。
「勧めねぇって…」
「意外に寒いんだよ。君が風邪なんてひかない馬鹿なら好きにして良いけれど」
「っだと!」
 嘲る言い方に、かちんとくる。
「あいにく僕は風邪をひきやすいから、下に行くよ」
「嘘吐け、テメェのは単なる怠けじゃねぇか!」
「好きなように」
 くるり、と黒い制服が翻る。そのまま、言葉通り階段を下りていった。
 どうしてこう、人の神経を逆撫でするような言葉をわざわざ言うのか。選択の仕方が明らかにおかしい。
 扉の向こうは、変わらない秋晴れが広がっている。穏やかに照らす太陽のおかげで暖かいし、簡単に風邪をひくようには見えない。いつもの制服ではないし、風もほとんど無い。なにをもって、寒い、と判断するのか。
「どうするの」
 扉に手を掛けたまま考え込んでいると、階下から声が掛かる。視線を下げると、あれだけ失礼な口調で馬鹿にした暴君が、何故か待っていて。
 迷いは一瞬だった。


「あれ、誰もいないのか」
 開けられた扉の内側には、見慣れた光景しかない。無人の室内で、カーテンだけが風を受けて翻っている。
「滅多に居ないよ」
 それもそうか。
 いまさらなことに一人頷いて、室内に足を踏み入れる。続いて入った部屋の主人が横を通り抜け、肩に掛けていた黒い学生服を外し、椅子の背にかけてから座った。それきり、黙り込んで何某かのプリントを広げる。毎日何を見ているのか知らないが、時折思い出したようにボールペンで書く仕草をするところを見るに、必要なものではあるんだろう。
 先程の奇妙な態度は鳴りを潜め、すっかりいつも通りという態度で居るのを見て、引き戸を閉め誰もいないソファに腰を下ろした。この部屋に来ると指定席はここで、横になっていようと本を読んでいようと、騒ぎさえしなければうるさく言われることはない。
 適当に買ってきた昼食を、やっぱり適当に選んだ雑誌片手に片付けてしまうと、時計はジャスト一時を知らせはじめた。
 その、いかにも学校という丁の安っぽいチャイムに、こほん、という小さな音が交じった。雑誌に向けていた視線をあげると、唯一の同席者が決まり悪そうにしている。
「なんだ、風邪か?」
「少し」
「へぇ…」
 珍しい。風邪を拗らせただとか言うことはあっても、単なる建前で、体は丈夫らしいのに。
「ん? じゃあ、屋上で風邪ひきやすいってのは」
 つい一時間ほど前に、そんなことを言っていた。並盛中の屋上は開放式で、放課後に教師が鍵を締め、翌日開かれるまでの間しか閉じられることはない。にも関わらず生徒の出入りが少ないのは、学校に君臨する風紀委員長が気に入っている場所だからに違いないだろう。変に出入りして、痛くもない腹を探られたくない。そうして、他者を嫌う暴君は絶対的な場所を二つ手にしている。
 気が付けば風紀委員室か屋上にいるくらいだ。よほど気に入っているんだろうとは思っていたが、まさか。
「…だから勧めないといったんだよ」
「上にいたのか?」
「昨日から天気が良かったから、少し油断したんだ。風がもう冷たかった」
 余程ばつが悪いのが、不貞腐れたような物言いだ。
「鬼の攪乱、ってやつだな」
「ふん」
 笑いながら言えば、ぷいと外方を向く。いくら雲雀とはいえ、切れば血が出るし、腹を出して寝れば風邪もひくだろう。鬼ですら病になるというのに、一応は人間であるのだから、当たり前だが。
「あ、そうだ。飴ならあるぞ」
 ふと、先程コンビニで飴を買ったのを思い出した。十個が束になっていて、よくある袋入りの飴ではなかったが、口寂しさを誤魔化すくらいなら丁度いい。
「飴? めずらしいね」
「まぁな」
 学校に来れば、最悪雲雀と顔を会わせる覚悟をしなければいけない。その時に、煙草を口にしていると高確率で機嫌が悪くなるとわかっていたから、万が一を考えてコンビニに引き返した。まさかとは思ったが本当に遭遇してしまったうえ、本来の意図とは違っても役立つのだから、何が起こるかわからない。
 白いビニール袋に手を突っ込み、目的の品物を取り出す。果実のフレーバーではなく、そっけないミント味の飴をひょいと投げた。
「のど飴」
「甘ったるい飴なんか食う気しねぇからな」
「ふうん」
 適当な返事に、ぺり、と包装が破られる音がまじる。出てきた個別包装の銀紙を剥ぐと、透明と緑色が半分になった飴を口に放り込んだ。
「ああ、だいぶ楽だね」
「だろ?」
「君も、口にするなら煙草よりこちらにすればいいのに」
「っせーな」
 大体予測できていたセリフへ無愛想に返して、雑誌に視線を戻した。
 煙草は、そもそもが嗜好品のつもりではなく着火の目的で口にしていたものだから、そう簡単にやめるわけにもいかない。中毒性があると分かっていても、だからこそ止められない。
 このことに関しては、すでに嫌というほど口論してきたし、実力行使でも訴えられ続けてきた。散々に叩きのめされた挙句、煙草をケースごと取り上げられるなんていうのも日常で、一応は学校周辺で口にしないよう心掛けてはいるが、匂いと味が多少残るものらしく、どうしたって雲雀にはバレてしまう。
「何?」
 ちらりと向けた視線に、雲雀が顔をあげる。
「な、んでもねぇ」
 それに首を振り、また雑誌に視線を戻した。
 煙草を咎める理由としては、一般的に言われるのは健康被害だろう。中毒性がある、病気の発症率が高くなるなどと言って、とにかくやめさせようと勧めてくる。沢田が口にする理由も大抵これで、だから彼の前では必要以外口にしないようにしていた。
 ただ、この男だけは違う。時々は体に悪いだの臭いだのと言うが、もっと大きな声では言いにくいような理由を訴えることの方が圧倒的に多い。
 持ち上げた雑誌の影から、相変わらず机に向かったままの暴君を見る。
 馬鹿みたいに綺麗な姿勢と、それなりに綺麗なペンの持ち方をして、さらさらと紙に何かを書き込んでいる。そのどれよりも、から、と音を立てて動く口元が目についた。
 ああ、飴か。
 親指の先ほどの塊が、両方の頬を行き来する様子が遠目からでもわかった。ずいぶん子供っぽい食べ方をするなと思いながら、視線はその動きを追ってしまう。からころと、転がされるたびに飴が音を鳴らす。歯に当たるのだろう。時折頬を内側から押し、その形が傍目にもわかる。全く姿を現さなくなったときには、もごもごと口が動いていたから、舌の上で転がしているらしかった。
 一連の行動を横目で追って、湧きあがる感情が信じられず、雑誌に顔を埋める。
 ああ、やばい。
 キスしたい。


 しかし、これを正直に伝えるにはとてつもない勇気がいる、と思う。
 いままで数えるのも馬鹿らしいほどにしてきた行為ではあるが、覚えている限り、自分から仕掛けたことは片手ほどもないはずだ。もしかしたら、一度もないかもしれない。それくらい滅多に湧きあがらないし、したいなと思うよりも早く仕掛けられていることが多くて、よく考えたらそういった意味で不満に思うようなことは今日までなかった。
 いや、不満じゃない。不満じゃなくて、欲求だ。してほしい、ではなくて、したい、なのだから欲求というのが正しい。
 思い返せば、ここ数日はそういったこともなかったように思う。特別何かがあったわけでなくて、なかったわけでもなく、つまりは仕掛けてこないからする機会もなかった、というだけだ。雲雀は気まぐれが服を着て歩いているようなところがあるから、急に仕掛けてくるかと思えば、手のひらを返したように放置されることもある。今は後者の気分なだけだ。
 それなら素直に言ってしまえばいいと、そう気持ちの上では分かっていても、それを許さないプライドがある。女じゃあるまいし、まさか最後にキスしたのが何日で、手をつないだのが何日で、なんて日記をつけているわけではないし、そんなことを気にしていると思われるのも心底嫌だった。
 こういうとき、案外男同士というのは不便なのかもしれない。
 生まれ育った国があまりに自由過ぎた所為か、同性同士という部分に大きな抵抗はなかったのだが、なまじ男ばかりの中で育ってきてしまったものだから、男らしさには強く憧れている。そして憧れている男らしさの中に、自分からキスを強請る、という項目は含まれていなかった。
 けれど今、無性に、したい。
 雑誌を読んでいる風を装ってはいるけれど、耳だけは変わらず小さな音を捉えている。からからと、徐々に小さくなっていく飴と、硬い歯がぶつかり合っている音が、ずっと聞こえていた。
 今頃あの小さな飴は、あの器用な舌に転がされているのだろう。日本人は手先が器用だとよく聞くが、雲雀に限っては指先だけではなく舌先も器用だと思う。いや指先も確かに器用で、時々気が向いた時に髪を撫でられるのは、心の底から恥ずかしいのと同じくらいに、嬉しいし気持ちがいい。気が短いせいで、シャツのボタンに限っては千切り取ってしまうのは問題だが。
 飴が絡む音に、舌の根が疼く。しつこく追いかけて来るくせに、こちらから触れようとすれば逃げる、意地の悪いときを思い出すからだ。舌は内臓だと聞くが、そんなものが触れ合うとこんなに気持ちがいいのかと、人が最初に実感するのはこの時だと思う。触れ合い押し付けあって、息苦しくなり酸素を求めて口を開ける、その様までリアルに甦りそうだった。
 指先が痺れる。握りしめた雑誌の端が歪むのも、ページなんて見れないだろうというほどに顔を押し付けてしまうのも、止められなかった。
 どうしたらいいのか。どうしたら、できるんだろうか。
「ねぇ」
「っ!! な、ななななな、なんだっ!?」
 すぐそば、耳元から声が聞こえて、冗談ではなくソファから飛び上がってしまった。派手な音を立てて横に逃げていくのは、冷静に考えれば蟹みたいで間抜けじゃないだろうか。
 見れば、いつの間に席を立ったのか、雲雀がすぐそばまで来ていた。雑誌に顔を埋め込んでいて気付けなかったらしいが、それにしてもあんまりに唐突すぎる。
「…その情けない声、どうにかならないの」
 本日二度目になってしまった叫びに、憮然とした様子で顔をしかめる。
「何か、は僕のセリフだと思うけれど。一人で百面相してて、面白いけど、話しかけても返事すらしないんじゃ馬鹿みたいだよ」
「う、うっせぇな! 考え事してたんだよっ」
「何の」
「何、何って…」
 まさか、お前が飴食ってるとこ見てキスしてるのを妄想しました、と正直に言えるはずがない。
 反論できずに口籠ってしまうと、ふう、という溜息が聞こえた。
「全く、少し相手をしないとすぐこれだ」
「人をガキみたいに…」
 むっとして顔をあげると、何故か雲雀がまたそこにいた。それも、ソファに腰をおろして、既に足など組んでいる。
「お前、風紀のことは」
「一人百面相が気になって手がつかない」
「え…」
 それは、もう風紀の関係に手をつけない、ということなのだろうか。それで、ここにずっと座っているつもりなのだろうか。
 混乱し始める頭の片隅に、がり、という音が聞こえる。まだ微かに動いている口元で、飴が噛まれているようだった。噛む癖があるのかと、思う端で、普段よく耳にする口癖を思い出した。そういえば、よく舌も噛まれるな、と。
 思い出してしまったのがいけなかった。
「…なぁ」
 握りしめていた雑誌を放り出す。飛び退いた所為で空いたスペースを、四つん這いで詰めた。
 距離は近い。手を伸ばして肩に触れれば、学生服もなくシャツだけしか間にない熱はすぐに伝わり、振り返る唇は、簡単に触れられそうに近くて。
 強請るのはプライドが許さない。
 それなら、自分から奪えばいいだけだ。
「何… え、ちょっと、何」
「ぶっ」
 つい、と寄せた顔を、目標の直前でストップされた。それも掌で。
「っ、何だよ!」
「君こそ、何、急に」
「何って、別にいいじゃねぇか」
 まさか、こんな拒否のされ方をするとは思わず、むっとしてしまう。衝動的だったとはいえ、それを拒まれるとも思わなかった。
 顔を押さえつけるようにしてガードを張る手を、握り込んで外させる。十五センチもない距離で、なぜか雲雀は驚いた顔をしていた。
「良い悪いじゃなくて」
「じゃあなんだよ」
「あのね」
「したくないのか」
 俺は、こんなにもしたいのに。
 恨みがましくなってしまう言葉に、雲雀が目を見開く。黒い瞳が真ん円になって、ついでため息とともに閉じられた。
「そうじゃなくて」
「ならいいだろ」
「良い悪いじゃないと、今言っただろう。とりあえず、落ち着いて」
 掴んだ腕を、逆に取られる。落ちつけと言う言葉通り、取られた手がソファに押さえつけられ、動けなくなってしまった。
「…じゃあ、なんだよ」
 どうしてこんな拒否のされ方をするのか、全くわからない。良い悪いじゃないと言いながらも、触れされることすらさせないのだから、それはつまり嫌だと言うことじゃないのか。
 いつだって好き勝手に仕掛けてくるくせに、こちらから仕掛けた途端拒否するなんて、あんまりだ。
「全く、いつもは文句を言うくせに、今日はなんだってそんなに積極的なの」
 はあ、とわざとらしく息を吐き、雲雀が力を緩める。けれど指が離れることはなく、開いた黒い瞳が真剣にこちらを向いている。
「したいけれど、できないでしょう」
「なんでだよ」
 誰がいるわけでもない応接室。二人だけしかいない場所で、誰が来る気配もなく、むしろこの部屋には教師だって滅多に近づかない。むしろ最適な場所だ。
 そりゃあ、昼食に簡単なパンは口にしたが、まさかそれで嫌だと言うのか。
「違うよ。あのね、どうして僕が飴なんて食べてると思ってるの」
「は?」
 飴。飴というと、あのミント味ののど飴か。
「え、のどが悪いからじゃ…」
「そうだよ。つまり、風邪気味なんだ」
「ああ…」
「だから、君が屋上へ行くのも止めた。そうだよね」
「うん」
「それなのに、もし君に風邪が移ったら、何の意味もないじゃないか」
 滾々と、子供に言い聞かせるような口調に、つい頷いてしまう。
 確かに、そういって屋上への足を止められた。風邪をひきたくなければ着いて来いと、そう言われてここまで来たはずだ。それは確かなのだけれど。
「どうせ積極的になるなら、もっと体調が万全の時にしてほしいね」
 説得できたとでも思ったのか、そう言って今度こそ手が離された。
 話は理解できる。頷くこともできるし、正論だろうと思う。ここで風邪をひいては、いろんなことに支障が出るのは分かり切っている。雲雀がそんなことを気にしていることには驚くが、気遣われていることにも、多少気持ちが浮つく。
 けれど、そんな正論と理性が最強の世の中なら、欲に溺れる人間などいるはずがない。
 離された手で、今度は肩ではなく胸倉を掴む。警戒していなかったのか、珍しくあっさりと掴まれた。
「っ、だから」
「うるせぇな!」
 まだ何か言い募ろうとするのを遮る。ぐ、と押されるように言葉を飲み込んだのを見て、掴んだ胸倉を引き寄せた。
「風邪ひこうが飯食った直後だろうが知るか。俺は今、したいんだ」
「隼人」
 すぐそばにある唇が、咎めるように名前を呼ぶ。
 それを振り払い、睨み返し。
「飴より煙草より、お前がいい」
 何かを言おうと開く、その薄い唇に噛みついた。


 結局、雲雀自身の風邪も大したことがなかったらしく、感染することはなかった。
 が、そのあと妙に雲雀がのど飴を口にするようになったのは、きっと風邪よりも厄介なものがこちらから感染してしまったからだろうと、疼く腹を抱えることになる。

男前の獄寺