天秤
突然鳴り響いた携帯電話の着信音に、獄寺は眉を顰めた。味気ない、初期設定音がぴりぴりと部屋にこだまし、一向に収まる気配はない。隣に投げだした黒い機体が音に合わせて震えて、早く手にとれと訴えている。
だができれば、手に取りたくない。このまま音が止まり、掛けてきた相手があきらめてしまうことを願いたい。
そんな願いも虚しく、電話は鳴り続ける。
三分待っても止まないコールに、溜息を吐いた。これだけ待っても止めないなら、おそらく一晩中だって鳴らしているだろう。さすがにこのまま無視して寝られるほど、神経も太くないつもりだ。
今度からは、音も振動設定もオフにしておこう。
そう決めて、震える機体を手にした。開いた窓には、嫌な心当たりがその名前をくっきりと記している。
これ以上ないと思えるくらい深い溜息を落として、通話ボタンを押す。耳に流れ込んでくる、聞き慣れているはずの母国語が、何故か全く知らない言語のように聞こえた。
自然と覚醒した意識が、ぼんやりとしている。見上げた天井はいつもの自室で、隣で丸くなる黄色い子猫もいつもどおりだ。軽くずらした視線の先で、夕べ脱ぎ散らかしたままの服が床で皺になっている。
カーテンから差し込む光は明るく、今まで暗闇の中にいた目には眩しい。肩で留まっていたシーツを引き上げ、頭からかぶることで光から逃げた。再び訪れる、柔らかい薄闇に心地よく目を閉じる。
直後。
飛び上がるようにしてシーツから抜け出て、枕もとに置いたはずの携帯電話を見た。しんと静まり返り、震える様子すら見せないそれを取り上げ開くと、示された時間は昼にほど近い。
「…嘘だろ……」
遅刻なんて可愛いものじゃない。完全な無断欠席だ。
それ自体は、どれほどの痛みでもないが、沢田のそばに居られないことが心苦しかった。右腕たるもの、常に主の側に侍って当然。それが、のうのうと昼まで寝ているなんて、とんだ失態だ。
しかし、今更学校に行くのも情けない。のこのこと、間抜け面晒して沢田の前に出ていくのは、これ以上ない屈辱だ。もちろん、寝坊などという情けない真似をしたのは自分であって、その辱めを受けて当然ではあるのだが、喜んで辱められる馬鹿などどこにもいないだろう。できれば、回避したい。それが駄目なら、できるだけ先延ばしにしたい。いつか受けなければならない罰則でも、できる限り延長したいと思うのは、人間の性だ。
ぐるぐると混乱し始めた頭を抱えて、シーツに突っ伏す。隣で、にょおん、と不満そうに猫が声を上げるが、機嫌をとってやる気は起らなかった。
どうしたものかと視線を向けた携帯電話が、ちかちかと光って何かを訴えている。メールでも入っているのだろうかと再び目の前に持ってきた液晶画面には、メールではなく、数件の着信が表示されていて。
ボタンを押し、表示された着信履歴に、今度こそ血の気が引く音がした。
「い… 怒り狂う姿が見える…」
画面越しに、とてもリアルな姿が想像できて、うう、とうなり声をあげる。
たった三件の履歴。起きなければいけない時間に一回と、その十分後に一回。そして始業直前に一回。たったそれだけなのに、行間から無言の重圧が伝わる気がした。
耐えられずに、携帯電話を放り出す。枕の上に落ちた電話のバックライトに、並盛中風紀委員長の名前が三回、判を押したように並べられていた。
「元気そうで安心したよ」
午後三時半。すべての授業工程が終了し、放課後となっている時間に扉を叩いた件の委員長は、出迎えたなりそう言って、唇の端を持ち上げるようにして笑った。
「ご… ご心配を、おかけしまして…」
「とんでもない、君が元気そうで何よりだ。僕の心配など杞憂に済んでよかったよ」
台詞だけなら優しげな、けれど纏う空気は果てしなく暗く淀んでいる雲雀は、それで、と首を傾げる。
「ここまで来て立ち話もなんだ、と僕は思うんだけど」
だから部屋に上げろ、と言っているらしい。率直に言えばいいのにと思うが、今は何を言っても反抗としか取られず、当然のように武器が飛んでくるに違いない。嫌なことは可能な限り先送りにしたい精神が働いて、何を言うこともなく体を引いて出迎えた。
慣れた様子で部屋にあがりこんだ雲雀は、案内も待たずにさっさと部屋に入っていく。戸締りをして後を追うと、リビングで足元に擦り寄っている猫を抱え上げているところだった。
「無断欠席をした割に、部屋が片付いているわけでもないようだけれど」
雑誌や上着が散らかる周囲を見渡してから嫌味を一つ落とすと、背を向けたままで続けた。
「一日中寝ていたのなら、さぞかし頭がすっきりしているだろうね」
「別に、一日中寝てたわけじゃない」
「へぇ」
つい口をついた反論に、面白がるような声が上がる。
「なら、一日何をしていたの? 学校にも来ず、欠席の理由を連絡するでもなく、電話にも出ないで」
背中を向けたままなのに、射竦められるような気配だった。
これを感じるのが嫌だったから、と説明しても、おそらくは納得しないだろう。
学校に行かなかったのは、できるだけ直接会うことを避けたかったから。連絡をしなかったのは、どうしたってまともな言い訳ができる自信がなかったからだ。
先延ばしにすればするほど、状況は悪化する。それがわかっていても、本当に嫌だったから、つい無視をしてしまった。
後悔することは山ほどある。電話に出れば良かったし、電話をすればよかった。遅刻でも何でも学校に行けばよかったし、そもそも寝坊などしなければよかった。遡れば、夕べからの自分には選択ミスが多い。
息をのむ。ごくりという音が、やけに大きく聞こえた。
「目覚まし、掛けてたんだけど、携帯の音もバイブも切ってて、全然気付かなかったんだよ。夕べ、遅くまで電話してて、起きれなくて。だから」
「電話?」
悪かった、と続けるはずの言葉が、唐突に遮られる。
「そんな遅くまで、電話を?」
「え、ああ。最初は無視してたけど、しつこくて。出たら切らせてもらえねぇし… それで、やっと切れた時に、つい音とバイブ消しちまって、そのまま寝たから」
電話に出る前に決めたことを実行して、ようやく横になった。それが、時間までは覚えていないがもう明け方に近い時間だったはずだ。
おかげで、仕掛けていた目覚ましアラームも、もういいと何度断ってもかかってくるモーニングコールも、おそらくは遅刻や無断欠席の理由を問うために掛けられたのだろう電話も、すべてを画面表示だけで知らせることになり。当たり前のように、全く気付かなかった結果が、今目の前にある。
正直な話、たかが学校に行かなかっただけでこれほどまでにキレられる理由はない。沢田の側に居られなかったことは自分の失態で、これに関してはキレるべき相手もキレる本人も自分であるがために、あまりに虚しすぎてキレる気にもならない。が、クラスメートでもなければ担任教師でも、指導教員でもない、あくまで一生徒である雲雀がわざわざ放課後に自宅まで押し掛けてくるほどにキレられるのは納得がいかなかった。
「よくも、そんな夜中まで」
「しかたねぇだろ、あっちは時差が…」
言いかけた言葉に、また無機質な音楽が重なり、思わず肩が跳ねた。
ソファの上、適当に投げだしたままの携帯電話が、震動はしないまま音楽だけを鳴らして着信を伝えている。
昼間に起きた時、とりあえず着信がわかるようにしていなければと思い、音だけは鳴らす設定にしておいた。それきり、鳴ることはなかったのに、どうして今、このタイミングで。
どうしようか躊躇している頭に、出ないの、と妙に冷静な声が届く。
「けど…」
出れば、絶対に長くなる。短く終わらせられるだけの自信はない。一応、来客があるという現状で電話に出るのは、なんとなく気がひけた。
けれど、抱いた猫を下ろす雲雀は、こちらに背を向けたままだ。
「早くしなよ、うるさくてかなわない」
下ろされた猫が、慌てたようにリビングから出ていく。猫の形をしているだけで、内実は兵器であるはずなのに、見たこともないような脅え具合だった。動物好きの雲雀に愛でられることは嫌いではないはずなのに、微かに寝せられた耳が痛々しいほどだ。
機嫌が悪い。ものすごく悪い。あれだけ大好きな小動物に伝わってしまうほど、あからさまに悪い。
こうなっては、どれだけ正論を言っても無駄にしかならないだろう。仕方無く、諦めて電話をとった。
変わらず聞こえてくる母国語と声に、うんざりする。板挟みとはまさにこのことだと、向けられたままの黒い背中を睨みつけた。
電話の用件は大したことじゃない。
数日前、本部から十代目候補沢田綱吉の日常に関する観察レポート、要は行動を調査し提出しろと命じられた。その催促だ。
何故いまさらそんなことを言い出したのか、本部の考えることは時々よく分からない。トップである九代目や、その守護者たちならば、そんなことは言わないのだろう。けれど、ボンゴレという組織を動かしているのは彼ら七名だけではなく、無数の幹部と、それに連なる家族たちも含まれる。そのうちの誰かが、こうして個別に命をよこしてくるのは、なにも今に始まった話ではない。中には勉強になることもあったし、ちょっとした小遣い稼ぎにもなった。
だが、この観察レポート、というタイトルが気に入らない。
本来こういった観察が必要なのは、内部に軋轢を生みかねない人物に対してだ。現在、唯一の後継者である沢田以外に将来ボンゴレを継ぐことはできない。それなら、排斥するよりも内包する方が得になる。例え内部の派閥であろうと、敵対するのは賢くない。年若いボスだとしても、下手に出ることが一番だ。
幹部の大半はそう判断しているのだろう、無茶な命令はしてこない。こういった、どうでもいいような仕事を言いつけてくるのは、たいてい幹部の中でも年若く、人の失敗を楽しむタイプの幹部だ。いくらボンゴレがいいもんのマフィアでも、たったの一人もそういった人間がいない、というわけでもない。だからこそ、門外顧問が存在している。
案の定、レポートの提出理由は、十代目候補としとてふさわしいかどうか個人的に見定めるため、という下らない理由だ。
そもそも、十代目に沢田が推薦されている理由は、第一に血縁だ。初代から異国で受け継がれてきた、確かなボンゴレの血脈。第一で、絶対と言ってもいい理由と、神の采配と謳われ自らが持ち上げている九代目が推しているという事実。この二つがそろう人物が、ただ一人沢田綱吉なのだから、幹部がどれだけ粗を探そうとしても無駄でしかない。意見があるのならば、九代目に直訴するのが筋だろう。
第二に、かかわった多くの人間が見てきただろう、沢田の人間性。学校の成績が悪かろうと、運動が苦手であろうと、それらを補ってなお余りある包容力が、沢田にはある。それは、権力や金に固執しがちなマフィアという色の中あって、本来一番必要でありながら、現在一番不足しているものだ。
そしてなにより、十代目の側近くにあると決めた以上、沢田の不利になるような情報を漏らすつもりはない。金と引き替えにできるものではない。売るような真似は、たとえ沢田を裏切ったとしてもすることは絶対にないと断言できる。
とにかく、そういったやり取りを、ここ数日ずっと繰り返している。何度断っても何度も連絡が来るし、時には脅しに似た言葉まで出してくる。さすがはマフィアだ、というところだが、正直もううんざりしていた。
昨日の晩も、延々とその繰り返しだ。時差があるというのに、こちらの時間帯などお構いなしに鳴り響く電話のおかげで、寝ることもできなくて。
その上、不機嫌極まりない奴まで家に乗り込んで来ているのにもかかわらず放置して、元凶の電話に出なければいけない。
なんだこの、板挟みというより、八方塞がりの状況は。
理解できない。理不尽すぎる。
それでもまだぐだぐだと続け、どうせなら一度イタリアに戻って来いという相手に、どれだけの金を積まれてもやる気はないし文句があるなら九代目に直接言え、しばらくイタリアに出向くつもりもないとだけ言って電話を切ってしまう。ついでに電源まで落としてしまったのは、できる限りもう邪魔をされたくないからだ。ここで幹部からの印象を悪くするのは将来に響くが、それはその時に考えることにする。
バックライトもなにもかも落としてしまった携帯は、うんともすんとも言わない。折りたたんでカウンターに置いてしまえば、五分後には存在すら忘れていられるだろう。
問題は、いまだ部屋に立ち尽くしている黒い男だ。
ちらりと視線を向ければ、相変わらず背中を向けたまま、窓の外でも見ているのか一歩として動いていない。頑固の塊みたいな男だ、いまだに気に食わない気分なのかもしれない。
どうしたものか、どう声をかけたものか考えあぐねていると、向けられていた黒い制服の背が、くるりと翻った。腕を通さない袖が舞い、腕章のある片袖だけが重そうに揺れている。
「何? 電話」
「あ、ああ。さっき言ってたやつ」
さらに不機嫌が増しているかと思いきや、雲雀の表情は少しだけ落ち着いていた。険を含んだ視線が柔らかくなり、暗く沈んでいた黒い目が、わずかに光を取り戻している。それでもまだ、どこか機嫌の悪さがにじんでいるのを見るに、完全に回復したわけでもないらしいのが面倒くさいが。
「そこで話すから、丸聞こえなんだけど」
「お前、イタリア語わかったっけ?」
本来なら場所を移すべきだろうけれど、相手が理解できない言語であることと、そもそも聞かれたところで何か問題のある内容ではなかったからと、少し離れるだけにとどめた。まさか、知らない間に理解できるようになっていたとでもいうのか。
「単語程度なら」
「いつの間に」
「別に、なんとなく耳につく言葉を覚えただけだよ」
あっさりと言うが、この日本に居て、イタリア語を頻繁に耳にする機会などそうありはしない。和製英語ならぬ和製伊語というものすらあるこの国で、純粋な意味で他国語を習うには、独学では厳しい。簡単な旅行会話くらいならどうにかなるかもしれないが、込み入った会話を理解しようと思うなら、相当の努力が必要のはず。
相変わらず、よく分からない男だ。
「なら、分かっただろ。この電話のせいで寝れなかったんだよ」
「そのようだね」
「電話に出られなかったのも、連絡しなかったのも悪かったけどな。そういう事情もあったんだから、今回は見逃せよ」
他意は一切なく、純粋にその理由だけだ。
頑として言い張れば、まぁいいよ、とようやく諦めたように溜息を吐いた。
「君の無断欠席率が上がったところで、僕が痛いわけじゃない」
「なら」
「ただ、ここで君を見逃せば、今後も見逃さなくちゃいけなくなる。最低でも、無断欠席に対するペナルティは負ってもらうよ」
「…しょうがねぇな、何だよ」
ペナルティなど受けなければいけないとは思っていないが、これ以上話がややこしくなるのだけは避けたい。せっかく、どういったきっかけか知らないが機嫌が浮上し始めているのだから、余計なことは口に出さないのが吉だ。
「いくつか分からない単語があったから、ヒアリングの回答を」
「はぁ?」
予想外の要求に、身構えていた体から力が抜ける。
思わず見返した雲雀は、けれど至極真面目な顔をしていて。
「何か不都合でも?」
「ねぇよ。ねぇけど、そんなのでいいのか?」
「構わないよ」
僅かに頷く仕草に、あっけに取られる。
「ま、まぁ、お前がいいならいいけど」
「そう」
再びくるりと背を向けた雲雀が、今度はリビングに置いたソファに腰を下ろす。肩にかけていた学生服を脱ぎ、ソファの背に掛けるところを見ると、長居をしていく気になったらしい。
何を考えているのか、全く予想もできないまま、ためらいながらも横に腰を下ろす。日本に来て揃えた家具はまだ新しく、響くほどの音はしなかった。
「何度も電話がかかってきているのは理解できた。沢田の、何をどうしろって?」
「本部にいる幹部が、観察して報告しろって言ってきたんだよ」
「観察、報告」
単語を、舌の上で転がすように反復する。それに、正しい発音と単語で返せば、なるほどと頷いた。
そんな事を数度繰り返すうちに、雲雀の中で語彙が増えて来たらしく、最終的にはほとんどの会話を一応は理解していた。そこへ至るまでに、電話の内容をほぼ伝えてしまっていることに気付いたのは、翌日のことだったが。
「なるほど、下らない催促だね」
「全くな。気に入らねぇなら堂々と九代目に意見を言えばいいし、見たいなら俺の手なんか介さずにテメェで見に来ればいいんだ」
それを、こちらをイタリアに呼んでまで報告させようなどと、下らないにもほどがある。
「用事もねぇのにいちいち行ってらんねぇっての」
「転入したころは頻繁に出向いていたと思うけど」
「最初はな。こっちは火薬の取り扱いにうるせぇし、どうしても手に入れられないものだけ、買い付けに行っていただけだ。ほとんどすぐ帰ってきただろ」
恐怖政治のもとに支配されている並盛一帯ならばともかく、国中で平和ボケしているところのある日本では、ダイナマイトなど手軽に用意できない。イタリアでも簡単なことではないが、こちらよりはずっと楽に調達できる。どうしたって、あちらに行かなければ無理だった。
事前に電話で予約を入れて、手にしたらとんぼ返りしていた。懐かしい話だが。
「そう」
一通りの解説を終えると、ようやく納得ができたらしい。ソファに深く座り込んで、背もたれに頭を預けている。
学年ですら自分の好きな学年だ、と言い張る男の頭が、そう悪くないことは知っている。時々あまりにも直感的で呆れることもあるが、雲雀はもともと頭の回転が速い方だ。こんな簡単な会話程度なら、すぐに覚えてしまうかもしれない。
案外、イタリア語で会話ができるようになるのも、そう遠い未来ではないかもしれない。十年より少し手前の未来で、世界中を飛び回っている、あの男のように。
「…なんだ?」
不意に、小さな笑いが聞こえて、隣を振り返った。リラックスした姿勢の雲雀が、うん、と頷く。
「少し、おもしろいことに気付いた」
「何がだよ」
「さっきから君、行く、と言ってるだろう?」
眠いんじゃないかと疑うくらい、ゆるい声が続ける。
「イタリアは、君の故郷じゃないの?」
「一応は」
「なのに、行く、とは面白い表現だね。対して、日本に来ることを、帰る、と言う」
寝言のような声に、唖然とする。
そうだろうか。全く意識をしていなかったから、言われても現実味が感じられないのだが。
「なんで…」
雲雀の言うように、一応はあちらが故郷だ。生まれも育ちも、血の四分の三までもが、あの国のもの。対して、日本にはまだ滞在一年程度だ。揃えた家具ですら真新しく、滅多に自炊をしないせいで台所など新品同様のまま。
改めて考え直せば、帰る、ならばあちらのはず。与えられたものとはいえ自宅もあり、朽ちたとはいえ生家も、多くの知り合いも、存在するのは全てあの国だ。
それなのに、何かそぐわない、と思う。
帰りたいかと言われると、そうでもない。いい思い出も少なく、生きてきた半分の年月を、親とその配下を恨みながら過ごしていたから。思い出される街並みのどこにも、帰りたいと思う要素がない。
「さぁね」
くわ、とあくび交じりの声がする。深く座り込んだ姿勢のまま目を閉じた雲雀が、軽く首を傾けていた。眠いのか。
「比重が、変わったんじゃない?」
「比重?」
「君の中で、日本と、イタリアを秤にかけた時、日本に傾いた、ということだろう」
途切れ途切れの言葉が、睡魔に負けそうな様子を表していた。
そうなんだろうか。日本の、この国に居ることの方が、重要になっているのだろうか。
一年程度の滞在で得たものは、生涯仕えると決めた主。信用や信頼といった言葉を使うのは癪だが、それに似た思いを抱ける程度には、戦線を共にしてきた者たち。小さな複数の小箱と、赤い宝石の嵌る指輪。ダイナマイトに代わる強力な武器と、一匹の子猫。そして。
「ん?」
ことん、と肩に何かが当たる。次いで、頬に黒い髪が触れた。シャツの肩が重く、温い。
「…寝るのかよ…」
あっさりと睡魔との格闘に敗北した委員長が、人の肩を枕に眠っている。落ちついた呼吸は、狸寝入りではなく本物の寝息だ。相変わらず、寝付きのよさには感心してしまう。
完全に傾いた体が、肩に圧し掛かっている。重い、といえば重いのだろうけれど、苦と思うほどのものでもなかった。
「変わった、か…」
得たものは多い。幼いながら家を飛び出して、あまり思い出したくない数年を過ごして、ボンゴレという家族に掬いあげられた。あの時、手を差し伸べてくれたのがボンゴレではなく、もっともっと小さくて、名前も知らないようなファミリーであったなら、今も下端として働いていたか、救いようのない場所に落ちていた可能性も大いにあった
けれど、ボンゴレに救われたおかげで、沢田や他の面子にも会えた。こうして、日当たりのいいソファに座っていられるくらいには、まともな生活もできている。
得たものは、大きい。数は少ないのに、一つ一つの重要さが全く違う。何一つ失えないと思うほどに、手放すことはできないと思うほどに。
心を占めているものは全て、この国にある。
「お前も結構変わったと思うけどな」
肩にかかる重みと、頬に触れる黒髪に笑う。
眠りたがりは前からだが、人がいるような場所で寝る奴じゃなかった。小さな物音一つで目を覚まして、それだけで不機嫌最高潮まで行ける奴が、いつ動くとも知れない人間の肩に寄りかかって寝るなんて、結構な変化だ。
比重が傾く。まるで、天秤のように。
積み重ねられていく失えないものが、この小さな国の、小さな街に集まっている。
帰りたいと、思う場所に。
寝室からそろりと出てきた子猫が、リビングの入り口で足を止める。
隙間から伺い見た室内には、ソファの上で頭を預け合いながら眠る主人たちの姿があって。気持ちよさそうなその姿に、にょおん、と一言漏らした子猫は、足早に近づき、ソファに飛び乗る。温かい主人たちの間は、最高に気持ちのいい寝床のように思えた。
夕暮れの部屋の中、大切なものばかりを乗せたソファは、全てを受け止め軽く沈んでいた。
よく寝る二人です。 ▲