03.おんぶ(Lamentoパラレル)

「大体、君猫じゃないの?」
「……」
「僕の知る限り、こんな無様な猫の姿は初めてだ」
「………」
「ねぇ、何とか言いなよ」
「……っせぇ…」
「振り落すよ」
「すみませんでしたごめんなさいっ」
 反射でしがみつくと、今度は苦しいと文句が飛んでくる。
 だって、仕方ないじゃないか。
 やっちまったもんは、やっちまったんだから。

 毎日のように森を歩き回るヒバリに付き合っていると、唐突に知らない場所に出たりする。藍閃は祇沙の中で一番大きな都市だが、その周りに広がる森もまた広い。祇沙のほとんどは森で覆われつくしているが、森と共生している地方の猫とは違い、藍閃の猫たちはあまり森に近づかない。それもあってか、手付かずのままで自然に大きくなっていくのだ。
 例に漏れず藍閃生まれ藍閃育ちの自分は、森が物珍しくてたまらない。自由気ままに行き来するヒバリの後をついて歩いているときも、ついあたりに目が行ってしまうくらいだ。
 知らない果実、知らない葉。群生している木の実や、いいにおいのする花を見かければ、知らず知らずの間に手が伸びている。それを何度も注意されているのだが、本能からくる行動だけはいかんともしがたく、つまりは、治らない。
 それが、とうとう今日、悪い方向に働いてしまった。
「全く、猫の癖に木から落ちるなんてありえない」
「だから、悪いって言ってんじゃねぇか」
「本当に悪いと思ってるのなら、今度からは僕の忠告も多少は聞くんだね」
「ぐっ… 気をつける…」
 森に関して、ヒバリほど知り尽くしている猫もいないだろう。対して、こちらは何も知らない。
 今日だって確かにヒバリから、やめておけ、と言われた。危険はないけれど湿気が多くて苔が多い、滑りやすいから、と理由もいわれたのに、ふらふらと近づいていったのは自分だ。その自覚は、痛いほどにある。
「ひねってるな」
 あっさりとそう判断したヒバリが、呆れたように目を細めた。
 木から滑り落ちたとはいっても、きちんと着地はしたのだ。ただ、その体勢がおかしかった所為で、変な体重のかかり方をした右足を痛めてしまっただけで。
 ずきずきと疼くような感覚が気持ち悪くて、立ち上がることにすら苦労する。訴えにも、当たり前だろ、と取り付く島がない。
「あんな体勢だったのに、よくそれだけで済んだものだ」
「だって…」
「子猫みたいに言わないで。どうしたらこうも不注意でいられるのか…」
 はぁ、とわざとらしいため息と共に、ヒバリが背を向ける。
 注意の足りないつがいなどいらないと、そう言うだろうか。
 不意に掠めた不安に、けれどヒバリは、何してるの、と肩越しに声をかけてきた。
「早くしてよ、いつまでものんびり座ってたら、村まで戻れないでしょう」
「え、けど」
「何」
「歩けねぇし…」
「だから」
 呆れた声と同時に、黒いコートが投げてよこされた。向けられたままの背中は、やはり黒い上着で。
「負ぶってあげるから、早くしなよ」
 そうして、今この状態となっているわけだ。
「まあ、酷くひねってるわけだもないようだし。明日には歩けるだろう」
 子猫でもないのにあっさりと背負われて、結構な重さだろうと思うのに、ヒバリはすいすいと歩く。単独でいるときのように、木々の間を飛びまわるようなことはさすがに出来ないようだが、それでもこの細腕にこんな力があるのだろうかと思うほど、簡単に抱き上げている。
 こちらとしては酷く屈辱なのだが、それでもこうしていないと帰れないのだから仕方ない。森の中にいつまでも居座っていては、性質の悪い賞金稼ぎたちの格好の獲物になってしまう。
「だといいんだけどな」
 さすがに明日までこうだと居た堪れない。
 ふう、とため息をつくと、そのままヒバリも黙り込んでしまい、相手のいないまま話し続けることも出来ずに進んでいく景色を見ていた。
 普段よりも一段高い位置から見渡す森は、いつもと少しだけ違うような気がして、不謹慎にも楽しかった。落ちたばかりだというのに、高い場所ばかり目につく所為で、木の葉や木の実が良く見える。それが、自分ではない足取りで流れていくのは新鮮だ。
 左右を流れていく景色を暫く眺めて、前方を見た。ヒバリの真っ黒な髪と真っ黒な耳の向こうに、鮮やかな緑色が広がっている。
 時期はもうすぐ春になる。冬を越した木々たちが色を取り戻し始め、陽の月に照らされたそれらは生き生きとしていた。
「…春が近いな」
「そうだね」
 ぽつりともらした独り言に、返事があった。息一つ乱さずに歩き続けるヒバリは、ぴくん、と耳を動かして笑う。
「何だよ」
「いや、最初の頃は季節の変わりなんてわからなかったのにね、と思って」
「っせぇよ…」
 森に着たばかりの頃。四季はあるがその間も気温の変化が乏しい祇沙にあって、その僅かな変化にすら気づけずにいた。
 僅かな変化の間に、森は顔を変える。そのことを、この冬から春にかけての短い季節の間に知った。
 冬頃においしかった木の実が、今では辛くて食べられない。綺麗な橙色をしていたから、きっと熟れて美味いのだろうと手を着けたら、これが舌がしびれるほどに渋かった。そのたびにヒバリが、あの実は冬の間しか取れない、とか、年中取れるが冬のほうが渋いから秋口に取ると一番美味いとか、そういったことを教えてくれた。
 そういうものなのか、と感心しながら聞いていたのを、よく覚えている。森は興味深く、まだ自分の知らないことがいくらでも隠れていそうな気がした。
 で、結局その興味が高じて、今でも木だの草むらだのに足が向いてしまうわけなんだが。
「春か、早ぇな」
「そうだね」
「そういや、春の祭りもあるよな。あれって、やっぱり暗冬の時みたいに出向くわけ?」
「当然。まだ余裕はあるけど、一巡りの月前くらいで、一度賛牙長から声がかかるだろうな」
「はー… 祭りも大変なんだな」
 他愛もないことを話しながら、移り変わる景色を見る。その視界の端で、風を受けた黒髪と黒い耳が、どこか愉快そうに揺れていた。
 暗冬直前のあの日、偶然に出会ったこの黒猫につがいとして手を引かれ、歩き出した。長く賛牙としての力を発揮することの出来なかった自分が、唯一歌を届けられた相手。祭りの最中に、歌がうたえずに危機に陥ったこともあったが、それももう随分前のことのように思う。今ではもう、歌がヒバリに届かないことはない。
 さわさわと気持ちよく風が流れる。運んでくるにおいは草木と、どこかで咲き誇っているのだろう花と、すぐ近くにあるつがいのにおい。
 気持ちがいい。こんなにも、森の中は心地いいものだったのか。
 目を閉じ、歩く振動にあわせて心を開いていく。自然と、くるる、と喉が鳴る。
 心地いい。ずっと街中だけで育ってきて、こんな空間は知らなかった。
 ヒバリは知っていたんだろうか。こんなに気持ちがいい空気を。それとも、当たり前すぎて気づいていないだろうか。都会育ちで、その殺伐さに気づかなかった自分と同じように。
 それなら、知っていて欲しい。
 この森を守るのは、ヒバリたち特別警備隊の猫たちなのだから。
 ふわりと空気が揺らぐ。途端、背負ってくれているヒバリの背中が緊張したような気がしたが、それもすぐに解けた。
 変わらない速度で、ヒバリは歩く。
 ぎゅっと抱きついた首筋からは、どこか甘いにおいがした気がした。花の蜜でも、果実の甘さでもなく、例えようもない甘い甘いにおい。くらくらと目眩がしそうなそれは緑のにおいに混じって鼻腔と心をくすぐり、背負われ揺れる足元を、余計に浮ついたものにさせた。
 ここちいい、きもちいい、ずっとこのままでいたい。
 そんなことを思いながら帰る道すがら、ずっとうたっていたのだと後々知らされ、なのにその歌の内容を、何故かヒバリは頑として教えてはくれなかったのだった。

獄寺誕生日限定拍手。甘え。