1 息が、つまるほど

 ピアノは、母親が唯一遺したものだ。
 年若くして父親にたぶらかされ、自分などを身ごもってしまったがばかりに、永遠に未来を失ってしまった哀れな女。幼い頃に聞いた噂話はそんなもので、それがどれだけ子供だった自分の心を傷つけたか知れない。
 それまで姉だと信じてきた女とは半分しか血が繋がらず、母だと信じた女は赤の他人で。 
 自分を取り巻くもの全てが一変した。それまで信じてきたもの全てがひっくり返った。
 世の中には信じられるものなど何も無い。
 幼い自分がそう思っても、仕方の無いことだったと思う。
「…ちっ、手抜きしてやがんな」
 ぽーん、と高く跳ね返ってくる音に舌を打つ。
 ここはもっと低く、重みのある音で響かなければいけない。確か音楽大学を出た教師が整備を担当しているはずだが、大した調律の腕でも無いんだろう。狂ったピアノの音は、酷く耳障りだ。
 ピアノは、母の得意だった。かつてはその腕を見込まれプロになろうとしていたというのだから、かなりのものだろう。子供心にもその音は綺麗で、楽しみながら弾いているのが聞いている側にもよく伝わる、そんな弾き手だった。
 年に数度しか会えない、それもわずかな時間だったのに、母親は強請ればその都度辛抱強くピアノを教えてくれた。子供の短い指で弾ける曲など高が知れてる。上手くいかなければかんしゃくも起こしたし、もう弾かない、と駄々もこねた。それでも、じゃあ次はこれにしましょう、と簡単なのに楽しげな曲を、次々と弾いて見せた。
 おかげで、当時はピアノは楽しさそのものだった。
 義姉に奇妙なものを食べさせられることもなく奏でる音は、間違いなく、獄寺自身の音だったから。
「まだ動けばいいけどな」
 椅子を引き、腰を下ろす。指に嵌めたリングを全て外して、軽く動かした。
 もう随分弾いていない。ボンゴレに拾われる直前、ちょっとした事件を機に再び弾き始めたが、それでも昔のようには動かない。楽器を奏でるというのは、一日その楽器に触れなければそれだけ腕が落ちるという。それなら、今の獄寺の腕は、昔の頃に戻ってしまっているだろう。
 初めて母親に会ったときに、弾いたくらいには。

 半分眠りかけていた意識を、不意に揺り動かされて目を開けた。
 時計を見上げれば、昼を少し過ぎた時間。校舎内は一クラスの例外もなく午後の授業を執り行っているだろう。扉の向こうの廊下もしんとしているし、休み時間特有のざわめきは一切感じられない。
 今自由に動いているのは、受け持ちの授業がない教師と、自分くらいのものだろう。
 それなのに、今、何かが自分を揺さぶった。
「…音楽室か」
 音は途切れることなく流れている。時折躓くようにして音が重なるが、止まりはしない。
 聞き覚えはある。これは、ピアノの音だ。
 音楽の授業がある時間に屋上に行くと、似た音が流れてくる。誰が整備しているのか知らないが、この学校のピアノは一音だけ外れていて、嫌でもわかってしまうから間違いは無い。
 午後一番の音楽室。使用の予定があっただろうか。
 思い出そうとしても思い出せず、寝起きで多少ぼやける頭を軽く振って、立ち上がった。

 思ったよりは弾けるが、酷い音に変わりない自分の演奏に、顔をしかめた。
 昔からこんな音だっただろうか。なにせ昔過ぎて記憶が曖昧だ。はっきりと思い出せもしない曲を、記憶を頼りに弾いて、それでいてよい音にしようというのはさすがに無理だったか。
 はあ、と溜息をついて手を止めた。
 これはリハビリが必要だろう。別にプロを目指しているわけでもなんでもないから、自分が満足できるまで弾ければそれでいいのだし、適当に時間を見つけて弾きに来ればいい。
 そう納得して、椅子から立ち上がろうとした、瞬間。
「なんだ、もう終わり?」
「いっ…!?」
 いきなり声をかけられ、中腰のまま振り返った。
 そこには、いつの間に入ってきてここまで進んだのか、真後ろとも言っていい場所に黒尽くめの男が立っていた。
「おま、いつの間に」
「ついさっき、扉から。気づかないから、声もかけなかったんだけど」
 指で示されたのは、音楽室に唯一ある扉。ピアノに面して座れば完全に背面になる場所で、確かに気づき辛いかもしれないが、音でもすれば気づいたはずなのに。
「君、授業は? まだ五時間目のはずだけど」
「じ、自習だよ。急にプリント課題が出されて、さっさと終わらせちまったから、暇だったんだ」
 五時間目が始まると同時に飛び込んできた担任は、担当の先生が急用で帰ってしまったので今日はこのプリントをやっていてください、と慌しく紙を配って出て行ってしまった。すぐに扉が開く音がしたから、多分隣のクラスあたりに受け持ちの授業があったんだろう。
 監視の居ない自習。ものの十分で終わってしまった課題。
 そうなれば、午後一番のかったるい時間に、おとなしく教室に留まっているのは勿体無かった。
 今頃教室では、全てに正しい答えが書かれた自習課題を前に、沢田と山本が書き写すことに必死になっているだろう。それが、教室を退出することに対して沢田が出した条件だったからだ。
「どうして教室でじっとしていないのか…」
「うるせぇな、てめぇにだけは言われる筋合いねぇんだよ」
 呆れたように溜息をつくが、雲雀だって一応は学生だ。所属しているクラスでは、当たり前に授業が行われているはず。
 ここに居るということは、同じようにサボっている、ということじゃないのか。
「今は僕が興味ない授業だから」
 さらり、と不条理な事を言った風紀委員長は、すぐそばの机に腰を下ろす。
「それで、もう終わり?」
「ああ?」
「ピアノ。さっきから弾いてたの、君でしょう?」
「…聞いてたのか」
 あんな、引っかかってばかりの、曲ともいえない曲を。
「風紀委員室まで聞こえてた。まあ、普通の人間なら聞こえなかっただろうけど、僕は耳がいいから」
「ああそうかい…」
 そりゃあ、葉が落ちる音だけで目が覚めるというのだから、防音壁くらい飛び越えるだろう。
「それで、わざわざ委員長自ら咎めに来たってわけかよ」
「うん。まあ」
「そのわりに、随分おとなしいじゃねぇか」
 普段の雲雀なら、問答無用で後ろから殴り倒していただろう。なのに、咎めに来たというわりにはおとなしく座っている。
「見逃してあげる」
 だから、と雲雀の薄い唇がわずかに笑った。
「何か、弾いて」

 そういうと獄寺は、ぽかんと間の抜けた顔をした。
「な、なんで」
「聞きたいから」
「俺の、ピアノを?」
「そう。嫌ならそれでもいいよ、君を咬み殺して終わりだ」
 仕込み武器を取り出せば、ぐっと顎を引いた獄寺は、何かを考えるように視線を漂わせてから、改めて椅子に座りなおした。
「何弾きゃいいんだよ。言っとくけど、かなり弾いてねぇから音は酷いぞ」
「いいよ、どうせ良し悪しなんて大してわからないし」
 昔から音楽に造詣が深いとか、趣味で音楽鑑賞をするだとか、そういうわけでもないから、音の良し悪しなどわかるはずも無い。楽譜に沿って間違いなく弾かれるのは、確かに綺麗というか整っていると思いはするが、それだけが判断基準になってしまう。きっと大部分の人間がそうであるように、雲雀自身も例外ではなかった。
 音の違いなど大して判らない。
 聞きたいと思ったのは、単なる気まぐれだ。
「それで弾けとか言うなよ… で、何を」
「そうだな… クラシックなんてよく分からないから、校歌で」
「……うちの?」
「そう。なにか問題が?」
「ありませーん…」
 はあ、とあからさまに気落ちしたらしい獄寺が、ピアノに向かう。そういえば楽譜も置いていないのに、どうやって弾くのだろうと思っている間に、獄寺は一音をはじき出していた。
 それは、間違いなく並盛中校歌。
「…暗譜してるの?」
「何度か授業で聞いたから、覚えてただけだ」
「楽譜を見たことは」
「ねぇな」
 こともなげに応える。が、それは簡単なことじゃないはずだ。
 けれど、その疑問に対する獄寺の答えは簡潔だった。
「もっと複雑な曲を耳で覚えてたから、この程度なら軽い」
 そう話している間も、獄寺の指は休むことなく動いている。
 理由としては判りやすいが、それだけで覚えられるものなのだろうか。いくら判りやすい校歌でも、数度で覚えられるほどには楽ではないはずだ。
 結局、一音も間違えずに弾ききった獄寺は、ふ、と肩を落としてから振り返った。
「終わったぞ」
「うん。じゃあ、もう一回」
「はぁ? 校歌をか?」
「話してて、あんまり聞いてなかったから」
 頷けば、渋い顔をしながらも獄寺は前を向く。武器を取り出されるのが嫌だというよりは、単にピアノに向いているのが好きな様子だった。
 そうして、もう一度流れ出す校歌。
 ああ、やっぱりこれだ。さっき、半分寝ていた意識を引っ張り起こした音は。
 ピアノの良し悪しなんてわからない。音の質などわかるはずも無い。
 けれど、判っているのは、この音楽が、酷く耳に心地いいことだけだ。

 二度も繰り返し弾かされる校歌は単調だと思う。
 大体、校歌なんてものは万人受けするように作られて当たり前のはずだ。判りやすく、覚えやすい音で。
 だから覚えるのにもそう手間は掛からなかったし、何より、今真後ろで座っている男の携帯電話の着信音でもあるその曲を、何度も聞かされていたのだ、覚えないほうがおかしい。
 けれど、単調な音は得てして飽きやすい。
 二度も弾けば飽きてくると、少しだけ気を抜いた時だった。
「…っ」
 真後ろから、歌が聞こえる。
 何度も何度も聞いた、校歌だ。
 嘘だろ、と言葉にすることも出来ずに、獄寺はただ指を動かし続けた。
 真後ろで、雲雀が歌っている。聞き取りづらいほどに小さな声だが、確かに雲雀の声だ。
 それも、ぞくりとくるほどに、上手い。
 たかが校歌、たかが歌だ。雲雀よりは音楽に造詣が深い自信はあるが、それでも、感性に響くような歌を歌う歌手は少なくて、誰でも同じように感じていたのに。
 どこにでもあるような中学校の校歌を、なぞるように歌うだけの男の声が、締め付けられるほどに、響いてくる。
 最後の一音を弾ききると、室内は当然静かになる。防音設備の整った音楽室では、外からの音も遠い。
 なんだったんだろう、さっきの感覚は。ただ雲雀が歌っていただけなのに。それも、多分一番のお気に入りだろうダサい校歌を、単調に。それなのに、背中に何かが走った。今もその疼きが残っている。まるで、初めて母親のピアノを聴いたときのように。
 気に入らない。意味がわからない。
 だから、もう、一度。

「お前、ちょっとこっちこい」
 弾き終わった後、少しの間黙り込んでいた獄寺は、不意に振り返ってそう言い放つ。
「何それ」
「いいから、こっち来いって」
 ぽん、と自分の隣を叩く。そこに座れということか。
「君にしては上出来な誘い文句だけど」
「誘い文句言うなっ」
「そういうところが素直じゃないよね」
 まあ、気に入ってはいるんだけれども。そういう部分も。
 仕方なく、席をたって言われたとおり隣に腰掛けた。元々一人用の小さな椅子で、男二人が余裕で座れるはずも無いが、とりあえず形だけでも座ることは出来た。
「で、何?」
「歌え」
「……は?」
 命令口調を咎める暇も無いほど突然の提案、というか命令の意味を理解できない間に、獄寺は再び鍵盤に指を落とした。
 三度流れる校歌。今度は、弾けとは言っていないのに。
 もしかして、今口ずさんでいたのが聞こえたのだろうか。到底聞こえるはずも無い、本当に小さな声だったのに。
 それでも、どうして歌えなんて事を。
 見れば、指は鍵盤を叩きながらも、緑色の目はちらちらと此方を見ていた。言外に、早く歌え、と言っているのがよく分かる。
 なんだかよく分からないが、歌えというのなら歌わないことは無い。嫌いな曲でもないのだし、伴奏者の腕もそこそこだ。それくらいのわがままなら、聞いてあげなくも無い。
 そう決め込んで、ふ、と肩の力を抜くように落としてから、改めて口を開いた。

雲雀誕生日限定拍手。キャラソンから。