5 素直 ※十年後

 雨が降る朝。
 人目につかない場所、というわけでもないが、ボンゴレ本部の城は山奥に在る。建物は古く、煙る朝の雨に映える赴きある様相にふさわしい年月を重ねてきたが、内部は幾度となく改装しているせいか、内外のギャップが激しい建物でもあった。城という名を掲げている通り、内部には部屋数も多く、パーティ時などに使用する客室数もかなりだ。ホテルほどにあるだろう。
 そんな城に、人の出入りが乏しい場所がある。
 幹部といわれる、上層部の人間が寝起きしている私室が揃えられた棟だ。
 人が住んでいるはずなのだが、現在のボンゴレ幹部には足元に根が張ったものが少ない。どれもこれもがふらふらとしていて、滅多に自室にも帰らないし、ヘタをすれば年単位で空けていく。おかげで、帰ってきたときには道に迷うことがあるくらいだ。
 そんな中でも、数人、必ずこの棟で寝起きしている幹部が居る。
 そのうちの一人である幹部は、いつになく早く目を覚ましてしまい、カーテンの隙間から陰鬱な雨を見つめていた。
「…よく降る」
 さあさあと降り続ける雨は、一昨日の夜からのものだ。随分と長く続いていて、このままでは渇水の恐れはなくなるが、洪水の危険性が出てくるだろう。ここは高地だから関係は無いが、城下はそうも言っていられない。
 色々と面倒が多い。大人になるって言うのは、面倒を背負い込むことでもあるのか、と最近よく思う。
 子供の頃は、早く大人になりたいと思っていた。子供ならば誰もが夢を見ることだろう。欲しいおもちゃだとか、本だとか、そういうものが自由に手に取れる大人になりたいと夢見ている。けれど現実に大人と呼ばれる年齢になったとき、欲しい何かを手にするためには代価が必要で、代価を得るには手段が必要なのだと思い知らされる。そしてそれは決して容易ではなく、日々遊ぶ暇も無いほどに仕事に追われる。おもちゃや本が欲しかったはずなのに、手に入れられるようになると、手に入れている暇がなくなるのだ。
 子供の夢は他愛ない。けれど、叶えるのは決して容易ではない。
 楽しみのために生きているのか、生きるために楽しみを見つけるのか。判らなくなって、挫折する場合もあるだろう。よく聞く話だ。
 けれど、自分は違う。
 楽しみのために生きることは望まない、生きるために何かを持とうなんて考えことも無い。
 この命は、全てただ一人のためだけに存在するからだ。
 自分ではない、第三者のためだけに。
「…んだよ」
「さむい」
 後ろから回ってきた腕が、中途半端に着たままの寝巻きに絡む。
「風邪ひきかけてんだよ、おとなしく寝てろ」
 肩に乗る頭を軽く叩けば、痛い、と文句が飛んできた。
「痛いわけがあるか、この石頭。ほら、寝てろって」
 体を揺すれば、腕は離れたが、今度は手をとられた。
「何」
「一人だと寒いから」
「…俺はゆたんぽじゃねぇぞ」
「懐かしい単語だね」
 小さく笑った声が、少しかすれていた。

 夕べは、珍しく早くに部屋に戻れた。
 いつもなら日付が変わっても帰れないし、シャワーを浴びて、軽く仮眠をするためだけに戻ってくることもある。そんな日々の中で、昨日だけは偶然、早くに帰れた。ボスである沢田の、今日はもう何も無いと思うから、という曖昧な言葉一つだったが、彼の曖昧には大きな意味がある。だからこそ幹部達は一様に、なら大丈夫だろう、と思ったのだ。
 そうして一人一人と去り、最後に沢田の執務室を退室した自分は、まっすぐにここまで戻ってきた。
 シャワーが基本の国であるにもかかわらず、無理を言って用意してもらったバスタブに湯を張り、久しぶりにゆっくりと風呂に浸かった。うっかり眠りそうになりながら体を温めて、一杯だけワインを飲み、これまた久しぶりに腕を通せた寝巻きに包まれゆっくりと眠る。
 はずだったのに、だ。
「…なんだ?」
 雨粒が降り続ける窓に、異質な音が混じった。かつん、とか、こつん、とかいった類の、硬質な音。
 奇襲や夜襲にしてはおかしい。沢田は、今日はもう何も無い、と言っていた。彼の直感は絶対だ、今日はもう何も起こらない。なのに、この音は何だ。
 自然と眉間に皺を寄せながら、枕元に置いていた武器を取る。小型のそれは、先端の導火線に多少の細工を施した最新式のダイナマイトだ。火種は必要だが、湿気に強い。試しに使うにはお誂え向きの夜だ。
 ゆっくりとベッドから足を下ろし、窓辺に近づく。また、こつん、と音がした。
 次の瞬間。
「……てめぇは、出入り口わかってんのかよ…」
「いいから、開けて」
 窓の外に立つ黒いスーツ。ここはビルにして十階ほどの高さがあるというのに、平然としている。壁でも登ったのかと思ったが、足元に見慣れない装置があるのが見えた。どうせまた、何か新しいボックスでも見つけ出したんだろう。
 はあ、と溜息一つ落として、窓を開けた。
 雨粒とともに、真っ黒な男が滑り込んでくる。途端に、部屋には水のにおいと血のにおいが充満した。
「怪我してんのか」
「僕が? まさか」
 匣を仕舞った上着を脱いで、手近なソファに投げ出す。グレーのソファに何とも知れない液体が染み込み、ああもう使えないな、となんとなく思った。
 変わらず振り込む雨を避けるために窓を閉め、カーテンを引いた。薄暗かった室内はさらに暗く、頼りないスタンドの明かりだけが二人を照らし出している。
 匂いの正体は全て返り血だったらしく、上着さえ脱いでしまえば、白いシャツにはほとんど汚れが無い。胸元にだけ多少散っているが、他は綺麗なままだ。鬱陶しそうに上げられた前髪の下、頬に飛んだ返り血が雨に流れて薄くなっている。
「それで、なんだってこっちに来るんだよ」
「僕のところまでの距離がありすぎた。雨で視界は悪いし、足元も怪しいから。こっちのほうが近くて」
「それなら正面玄関から入って来い。てめぇなら顔パスだろ」
「面倒」
「あのなぁ…」
 ここまで、たとえ匣を使ったとはいえ、登って来る事のほうが面倒だろうに。正面玄関から入れば、一応は守護者の一員であるこの男に、誰も逆らいはしない。そのまま全てがそろっている客室に通されただろう。文句は言うだろうが。
「ここの警備、どうなってるのか知らないけど、随分甘いんだね」
「万全だよ。お前が特殊すぎるだけだ」
 この男を捉えることが出来る警備など、あるはずがない。城の周辺は半径五キロが完全警備になっていて、野生動物ですらすべて監視下に置かれる徹底振りだ。けれど、通用しない相手もいる。
「暫く眠らせて。眠くて仕方ない」
 くあ、と欠伸をすると、先程上着を投げ捨てたソファに横になろうとする。
「シャワー浴びるか、せめて着替え位しろよ」
「面倒」
「お前の都合なんか聞いてねぇ。俺のソファそれ以上駄目にすんな」
「うるさいな、眠いって言ってる」
 ぎらり、と黒い瞳が睨みつけてくる。
 どういった経緯か知らないが、この雨の降る中、この付近で武器を取り相手に血を流させるほどの戦いをしてきたのだろう。十年ほど前なら単なる喧嘩だっただろうそれは、今はもう、どれだけ格下相手でも立派な戦だ。
 その中で見てきた血に当てられているのか、いつもなら穏やかな黒が、今はぎらぎらとしていて。
「…ここで濡れたまま寝るか、着替えてベッドで寝るか。好きにしろ」
 けれど、以前ならいざ知らず、今の己とて子供ではない。いい加減、そんな目に臆することもなくなった。
 適当に引っ張り出した着替えと、新品のタオルを三枚ほど用意して放り投げ、後は構わないことにする。気が立っているときのこいつは、相手にすれば本気で咬み付きかねない。放っておくのが一番だ。
 そう決め込んで、こちらはベッドにもぐりこんだ。折角温まって落ち着いていた体が、一気に冷やされた室温の所為で下がっている。先程まで居た自分のぬくもりの残るシーツが心地いい。
 突然の訪問者はあったが、それ以外は、穏やかな夜だ。寝てしまうに限る。
 そう決め込んで目を閉じたとたんに、ぞわり、と寒気が背中を、否、腹を伝った。
「ひっ… てめ、冷てぇよ馬鹿っ」
「僕が寒い思いしてるのに君だけぬくぬく寝てるって何」
「だからシャワー浴びてこいって言っただろっ!!」
 というか、嫌なら濡れるようなときに出歩くな。
「シャワーなんて浴びてる暇があるなら寝たい」
「この万年睡眠不足が…」
 がさごそと音を立てて、背後からベッドに潜り込んでくる。先行して入り込んでいた、雨に濡れて冷えた手だけが、体温を奪い去るように生身の腹に触っていた。寒い。
「お前着替えたんだろうな…」
「うん」
 子供のような返事が、肩から聞こえる。
 突然の訪問に、びしょぬれのまま寝ようとしたり、窓から押しかけたり。相変わらず、色んなことが自由な男だ。
 けれど、これと付き合っていくと決めたのは自分で、そうでなければらしくないようにすら感じてしまうのだから、もういい加減諦めなければいけないのかもしれない。
 そう思いなおして、腕の中でくるりと体を回した。先程よりは落ち着いたようで、暗がりでもわかるくらい、静かな目をしている。適当に着替えられた服は、サイズこそ合っているようだけれど、色がいまひとつ合わない。白は失敗だったか。
「頭も拭けって」
 手を伸ばし、肩に掛けられたままのタオルを取って頭にかける。撫でるように拭いてやれば、気持ちよさそうに目を細め、そのまま閉じてしまった。どうやら本気で寝るらしい。
「どう言い訳したもんかな」
 正式なボンゴレの一員ではないこの男が平然と城を訪れることに、不満を言うものがファミリー内にいないわけじゃない。ただ、年若い次期ボスが許可しているから黙認しているだけだ。そういう奴らは、まだ立場的には自分よりも上に居るから、ここぞとばかりに文句を言ってくるのが目に見えている。沢田が招いていない限り、この男にはここに居ることに理由が必要だ、と。
 ああ、でも。
「…どうでもいいか」
 あんな爺さん達にどうこう言われる筋合いも無いし、なにより、こいつはここを選んで来た。正面玄関からではなく、窓から。これが何を意味しているのか、わからないほど馬鹿じゃない。偶々近かったというのも嘘では無いだろうけれど、それでもだ。
 それなら、そうさせてやるだけの話だ。これには、ボンゴレは関係ない。
「ちゃんと寝ろよ、雲雀」
 ぐしゃぐしゃになった髪を解く。額に唇を落とせば、直に寝息が聞こえ始めた。
 寝起きは悪いくせに寝つきが異常にいい、子供の頃から変わらない癖に笑い、獄寺は同じように目を閉じた。

 翌日目を覚ましても、外は相変わらずの雨で。
 今日は自室待機、と早々に沢田から連絡が来てしまい、結局雲雀を追い返す理由も見つけられずに、一度抜け出したベッドに湯たんぽ代わりに引き戻されているわけだ。
「お前、本当に風邪ひくぞ」
「君じゃないから平気」
 何所となく含みがある言い方にむっとしたが、布団にもぐり飛んだ途端、夕べのように腕が絡んできて何もいえなくなる。
「あったかい」
 胸元で声がする。眼下にある黒髪は、適当に拭いてそのまま寝てしまった所為でピンピン跳ねていた。らしくない。
 子供の夢は他愛ない。けれど、大人になればなるほど、自覚する。
 子供の頃の自由は、金銭では決して手に入れられなかったものだ。思いも、夢も、何もかもが無限で、全てが無尽蔵だと信じていた。生きるための楽しみも、楽しみのために生きることも考えず、ただ生きていた。そのときの、精一杯で。
 腕の中で再び閉じられる瞼を見ながら、思う。
 大人になって、沢山のものをなくした。夢は今も同じだけれど、その夢の後ろには様々な現実が待ち構えていて、所属外の男一人部屋に招けない。きっとどうにでもなると思っていた出来事は、思い通りにいかなくなってしまう。
 夢は叶えた。望みは、あの人の成長を傍で見ていること。その命を守ること。
 俺は、俺の命は、あの人のためだけにある。夢見たとおり、あの人のために生きて、死ぬだろう。
 けれど、きっと心が死ぬのは、この男のためだ。
 子供みたいなこの男だけが、唯一、自分の心を殺せる。そう思う。
 眠るための場所に、ボンゴレ幹部ではなく、獄寺個人の下を訪れた。気まぐれなのか、思いつきなのか判らないが、たったそれだけのことで、簡単に優越感を与えるこの男だけが、そんなことが出来る。逆もまた然り、だ。
 そんな日が来ないことを願うが、来たとしても、そう思ったことに後悔はしないだろう。
 けれど、とりあえず今は、平和だし。
「俺も寝よ…」
 欠伸をして、目を閉じる。腕の中では既に寝息が聞こえ始めていて、釣られるように意識が降下していく。
 次に目が覚めたとき、雨が上がっていなければいい。
 それならきっと、雲雀はもう少しここに居るだろう。
 この、腕の中に。

雲雀誕生日限定拍手。十年後から。