許す腕

 賑やかなのは好きだ。
 みんなが仲良くしているのが一番見ていて楽しいし、そうするために、力が欲しいと、どこか矛盾したことを考えているときもある。今でも敵なのか味方なのか分からない骸と初めて出会ったときも、やっぱり早く日常に帰りたくて仕方なかった。つまるところ、自分はそういう、普通なことが一番好きなんだろう。
 こんな道を歩まなければ、出会うことのなかった人たちが、たくさんいる。
 山本や雲雀に関しては、学生生活を続けていればそれなりに接点はあったのだと思う。同じクラスの補習仲間。一つ年上の風紀委員長。接点がゼロだとはいえない。
 けれど、同じ条件に照らし合わせたとき。リボーンをはじめとするマフィア関係者、獄寺や九代目、バジルにフゥ太に、ビアンキ、イーピン、あまり考えたくはないがシャマルや骸も、恐らくは出会わないまま、一生を終えていたはずだ。
 そんな、平々凡々、ありきたりな日本人としての一生を、突き進んでいたはずだったのに。
「ツーナー?」
 ひょい、と真上から影が、逆さまに降りてくる。
「あ、ディーノ… さん」
「何難しい顔してるんだ? まさか腹いっぱいで眠れないのか?」
 はは、と何も変わらない顔でディーノが笑う。反動で揺れる金髪が、ふわりと宙で翻った。
 十年後に飛ばされて、既にどれだけの日が過ぎたのか。目的としていた入江正一は実は未来の自分と協同していた仲間で、真の敵はミルフィオーレ現ボスの白蘭だという。二転三転する状況の中で、唯一救いだったのは、無傷とはいかないまでも全員が無事に基地に戻って来れたことだ。
 だが、すぐに新しい戦いが始まる。
 息つく間もないというのは、恐らくこういうことを言うのだろう。
 新しい匣に、新しい修行。何もかもが目まぐるし過ぎて、自分の立ち位置が分からなくなる。
 平々凡々な人生を望んでいた。そのレールは確かに足元にあったはず。
 今ではもう、遠く遠くに行ってしまい、影すら見えなくなったけれど。
「…ツナ?」
 賑やかなディーノ歓迎パーティが終了し、全員が風呂に入り明日の修行開始に備え眠りにつく夜。ディーノは、滞在先にこの部屋を希望した。
「ツナと一緒でいいよ」
 先程の騒ぎで壊してしまった部屋と区画は、暫く使い物にならない。ジャンニーニの悲痛な顔が思い出されると申し訳なかったが、代わりに使える部屋と、ディーノが滞在中に使う部屋を割り振らなければとハルが言い、ディーノがそう返事をしたとき、少しだけ嬉しかった。
「とりあえず今晩はロマーリオたちも帰っちゃこねぇ。一晩だけでも可愛い弟分と過ごしたっていいだろう?」
 続く言葉には、少しだけ、がっかりしたけれど。
 ディーノも遊びに来ているわけではないし、明日からの修行には自分たちの生死が掛かっている。こんなに賑やかで楽しいのは、今晩限りだ。
 そう思えば、なぜか無性に、悲しかった。
 賑やかで楽しくて、平凡が大好きだ。そのために、帰るために、平凡ではない力が欲しい。
 矛盾した考え。安定しない精神。一度は乗り越えたはずの不安が、戻ってくる。
 なぜかは分かっていた。
「おい、ツーナー?」
 ディーノが、来たからだ。
「なんだよ、本当に腹が痛いのか? 何か薬もらうか? トイレ行くか?」
 二段ベッドの上から、長い指が降りてきて頭を撫でた。壊してしまった自室と同じ造りの二人部屋で、ディーノは楽しげに上のベッドを選んでいる。上りつくまでに一度足を踏み外し、起き上がるたびに天井に頭をぶつけているが。
「…ディーノさん」
「何だ? あ、おんぶしてやろうか。トイレなんてすぐ…」
「いや、あの、別に腹が痛いわけではないので… トイレから離れてもらえますか…」
「そうか?」
「はい」
 頷けば、漸くディーノから焦った気配が消えた。
「それなら、どうした? 匣のことなら、明日からにしよう。今日はもう休め」
「…分かってます。けど、ディーノさん。ひとつだけ、いいですか」
「おう」
 聞き覚えのあるそれより、低い声。獄寺や山本、雲雀や笹川の声を聞いたときにも、そう思った。大人になって、みんな声が低くなっていた。見た目も変わり、力もついていたのだろう。
 自分も、そうだったのだろうか。
 この時代、大人となった彼らにかかわっていた、二十四歳の自分も。
「この時代の俺は、本当に、死んだんですか」
 乗り越えたはずの不安。考えずにいようと決めた事柄。全ては、おそらくいまだ不確定な未来の出来事。
 ここで未来の出来事を変え、それにまつわる過去を変えたとしても、一度は自分が死んだのだという事実は変わらない。この時代、この未来に生きる人間にとって、沢田綱吉という人間は、既に死んでいる。
 その事実は、変えられるのだろうか。
 この未来での戦いを終わらせ、過去に戻るとき。
 今目の前にいるディーノが弟分とかわいがってきた筈の自分は、甦るのか。
「…俺にも、正しい情報は入っていない。お前も聞いたと思うが、殺されたと、それしか分からないんだ」
 逆さに降りてきていたディーノの金髪が上げられる。直後、いて、という声が聞こえた。また頭をぶつけたらしい。
「その後、間をおかずにウチも襲撃されている。ボンゴレの… この時代の獄寺や山本だな。あいつらとは連絡を取ろうとしたが、無理だった」
 かん、と軽い音が聞こえた。階段を降りる音だ。今度は失敗せずに降りられたのか、妙な音も悲鳴も聞こえることはなく、目の前に現れたディーノが床に膝を着いた。
「ツナ… 考えるなと、本当なら言いたい。お前が知っても、どうしようもないことだ。そしてその未来を書き換えるために、お前たちはここにいるんだから」
 けどな、と鳶色の瞳が柔らかく笑む。
「俺は、信じてるぜ」
「え…」
「お前はそんなに簡単に死ぬような奴じゃない。そりゃあ、白蘭は強いんだろう。何か特別な能力があり、強力な匣やリングを持っているんだと思う。けれど、それはあいつだけか? お前にだって、いろんな力がある」
 先程まで髪に触れていた指が、指輪をしたままの手を取る。
「お前もいろんなものを乗り越えてきたはずだ。そしてなにより、こんなにも仲間がいる。共に帰りたいと願う仲間が、たくさんいるじゃないか。こんなに力強いものを、きっと奴は持っていないぜ」
 持ち上げられたリングに、ディーノの唇が触れる。続いて、指先に触れた。
「っ…」
「大丈夫だ、俺は信じている。この時代のツナも、決して死んじゃいない。そしてお前も、あいつらを連れて過去へ帰れる」
「ディーノさん」
「俺はお前を信じている。だから、お前も俺を信じてくれ。俺は、いつだってお前の味方だ。力になりたいんだ」
 こんな道を遺した初代が、少しだけ憎かった。
 他に候補がいないからと、自分に目をつけた九代目を少しだけ恨んだりもした。
 それでも、ただ一つだけ、感謝していることがある。
 平々凡々で、ありきたりな人生では、決して出会うことの叶わなかった友人がたくさんいる。こんなにもつらくて、こんなにも苦しい道なのに、仄かに灯る明かりのような人がいる。いつだって苦しいときに助けてくれて、大丈夫だと笑ってくれる人が。
 優しく愛しいこの人にも、この道だからこそ出会えた。
「ほらツナ、泣くなよ」
 ぼたぼたと涙が落ちていく。開けていられずに閉じた瞼に、笑い声と唇が触れた。
「困ったなぁ、お前に泣かれると弱いんだ、俺は」
 肩を抱かれ、背に腕を回される。緩い抱擁に余計に涙が溢れた。
「…しょーがねぇよな。お前まだ、十四だっけ? 死ぬだの何だのって、怖ぇよな」
 ゆっくりと頭を撫でられる。
 そうだ、怖かった。自分が死んだ未来とか、匣だとかリングだとか、意味の判らないものが多すぎて、怖くて怖くて仕方なかった。ハルや京子も耐えている、帰ることだけ考えようと決めても、やっぱり心のどこかに引っかかっていたんだろう。
 誰にも訴えることはできない不安と焦りは、心の奥深い場所に静かに溜まっていく。
 引っかかっていいのだと、誰かに言ってほしかった。怖いのが当たり前だと、認めていいと言ってほしかった。
 ディーノの顔を見て、何も変わらないでいてくれた彼に触れて、押し殺していた弱気な思いが、涙で決壊して止まらない。
「いいぜ、ツナ。けど今日だけだ。今日思いっきり泣いたら、明日から特訓なんだからな」
「ぅ、は、はい」
「あとな」
「は…?」
 優しく髪を撫でてくれた手が離れる。その手は擽るように頬を撫でて、顎を捉えた。
「これは、未来のお前と、過去の俺には内緒にしておけよ?」
「ディー… っ」
 鳶色の瞳が細まり、やがて閉じられる。
 触れた唇は、過去も未来もなく暖かくて。繰り返し、啄ばむように触れてくるのがくすぐったい。
 ああやっぱり好きだ、と思うと、なんだか余計に泣けてきて。
「俺はお前を泣かせることばかり上手になる」
 と、ディーノに苦い顔をさせることになってしまった。

年単位で待ちわびたディーノ再登場に際して。