退屈な日々
毎日毎日何かと騒がしい生活を送るうちに、人はいろんなことに慣れてくる。
同じことの繰り返しが多い仕事や、変わらない面子との会話。決まったやり取りを何度もしているうちに、感覚が慣れ、いろんなことに鈍くなっていく。
病院と言う特異な場所に勤務している身として、慣れは大敵だ。判断を誤り、救えた命をすべり落としてしまうことすらある。
だから、できるだけ日常を日常にしない努力をしてきた。
慣れは大敵。
日々を繰り返すな、同じことをしているうちに人間の感覚は狂ってくる。
確かにそう、言い聞かせてきた。
けれど。
「ねぇ、この犬何処が悪いの? 健康体そのものっぽいけど」
「見た目だけで病気は判断できねぇんだよ! いいからお前は座ってろ!!」
ゲージの向こうで吠え立てる犬を目の前に、平然としたそいつはそう言って犬の鼻先を撫でる。撫でられた方も心得たもので、昨日今日会ったばかりのはずの男に、吠え立てていたことすら忘れたようにぱたりと尻尾を振って見せた。
「犬はいいね、従順だ」
「ああそうだな。ほら、腕出せ」
「こっちは全然従順じゃないし」
「いいから腕! いつまでもダラダラ血ィ流してんじゃねぇよ人の病院で!!」
変わらず犬を撫でる手の、その逆の腕を引いた。黒い制服では色が沈んで見えないが、その腕からは絶えずぱたぱたと鮮血が流れ落ちて、リノリウムの床を染めていく。
「病院だからいいじゃない」
「ここは人間の病院じゃなくて、動物の病院なんだよ!!」
数ヶ月前、この街に引っ越してくると同時に一つの病院を開業させた。
元は恩師でもある先輩獣医が切り盛りしていた病院の、系列病院に当たる場所で、赴任予定の先生が急遽外国に行くことになったからと後釜に添えられた。理由は気に入らなかったが、それでも納得できない仕事の多い大病院に辟易していた自分には天の声のような話だったのだ。
一ヶ月もするとぱらぱらと患蓄も増え、飼い主たちの相談に乗ることもある。けれどそれは主に助手の仕事で、どうにも外面の悪い自分には向かないらしく、診察さえ終わらせたら後は全て助手にまかせっきりだ。
そうして三月も経つ頃から、次第に生活はマンネリ化してきた。
毎日同じ顔の患蓄に、飼い主たちの下らない話。
やっぱりどうにもこういう仕事を向かないのかもしれないと、かつてこの道を選択した頃の過去の自分に言い聞かせてやる方法はないものか、そんな意味のない妄想までしてしまうほどに、日々に慣れてきた、そんなときだった。
動物病院に、一人の人間が転がり込んできたのは。
「何度も言うけどな、ここは人間の病院じゃねぇんだ。あんなところと違って不衛生なんだから、たまにゃあっちに行けよ」
年相応に筋肉の付いた腕に、包帯を巻く。元々動物用の道具しか置いていなかったのに、こいつが転がり込んでくるようになってからは、救急箱に一通り人間用の治療道具が揃ってしまっている。
これもきっと一種の慣れだ。
ぱちり、と金具で包帯を止めて、箱の蓋を閉じた。
「煩いんだよ、こんな傷だと。その点、こっちは黙って手当てしてくれるから」
「そりゃあなぁ…」
黒い制服の下の腕。決して太くはないそれに付いた傷は、明らかに刃物によってできた傷だ。滑った程度の軽い傷だし、何も病院で縫うような必要はないだろう。逆に病院に行ってしまえば、やれ警察だ、やれ誰が、と面倒くさいことになるだろうことは眼に見えている。
しかし、だからといって動物病院に通っているというのも、変な話ではないか。
「何、僕が来ると何か不都合でもあるの?」
血で汚れてしまったらしい制服に腕は通さず、目の前ですうと目を細める。
あの日転がり込んできたときも、この男は腕に傷があった。あの時は今よりも酷かった。
それ以降、一体何が気に入ったのか、この男は週に何度も怪我をしたといって病院に転がり込んでくるようになった。その程度は軽く、一番最初の傷が一番酷かった位に、日を追うごとに軽くなっていく。
それでも、どれだけ軽い傷でも、それこそ猫に引っかかれたような傷でも、この男は必ず病院の扉を叩いた。
気に入られていることは、何となく判っている。理由も何もわからないけれど、それだけは確実で。
好かれていると判って、悪い気はしない。頼られるのも悪くない。
だから、こんな独占欲だって、かわいいと思えないこともないんだ。
「…なんにもねぇよ。ただ、傷に菌が入ったりしたらお前の腕切り落とすことにだってなりかねないんだぞ。俺は、そっちの方が不都合だ」
ため息交じりの言葉に、男は薄く笑って、へえ、と言った。
「そうだね、それは困るな」
「判ったら…」
今度は人間様の病院に行け、と言いかけた言葉が、真正面から伸ばされる包帯が巻かれた腕に引き寄せられて止まる。
「何…!?」
「腕がなくなるのは困るよ」
高くもなく低くもない、耳に心地いい声が響く。
「こうして、抱くことができないものね」
「っ… 雲雀、てめぇっ…」
僅かな濡れた音が、直接注ぎ込まれる。思わず詰めてしまった息に、男、雲雀恭弥は喉の奥だけで笑って、腕を解いた。
「それじゃあ、そろそろ行くよ。お世話様」
言い残して、まるでもう未練などひとかけらもないのだという風に、黒い制服の裾を翻して出て行った。扉の閉まる音が、一人残された待合室に響く。
「……二度と来るなクソガキ…!!!」
ある日突然訪れた、黒い制服の高校生。
彼の登場は、確かにつまらなくなりはじめた日常に、これ以上ないほどの変化を与えた。
けれど。
「なんで七つも年下の男に言い寄られてんだよ俺は…」
望んだのは、こんな変化ではなかったはずなのに。
残されたのは、既に彼を受け入れ始めている証拠にしかならない救急箱と、耳元に落とされたキス一つで赤くなってしまっている情けない自分ひとりだった。
パラレル。高校生雲雀×獣医師獄寺。 ▲