穏やかな午後
学生服を着ているくせに、どうしてか雲雀は昼間に顔を出すこともあった。
「…お前、学校とかどうなってんの…?」
一度そう聞いてみたが、笑って流されたのでそれ以降は聞かないことにしている。思い出してみれば、自分も褒められるような優等生ではなかった。煙草は中学の時分で覚えたし、酒もそう変わらぬ頃から口にしている。毎日授業を面倒に思っていたし、サボタージュなんて当たり前だった。その自分が大人になった今、過去の自分と同じように学校に行かない雲雀に、学校に行け、とえらそうには言えない。
誰もが一度は通る道だ。いつかは笑って、そんな事もあったと、そう話せるようになるさ。
そんな軽い気持ちで、言い換えればどうでもいいような気がして、獄寺は雲雀のことに一切口出しをしないことにしていた。面倒なのも、多少あった。
結局は、獄寺にとって雲雀はあくまで雲雀であって、それ以上でもそれ以下でもなく、学生でも社会人でもなかったからだ。
「やぁ」
そう短く声を掛けて、診察時間前の病院に、当たり前のように顔を出した雲雀は、空の待合室と診察室を見て回して首をかしげた。
「助手は?」
「休みが欲しいんだとよ」
「へぇ。じゃあ今日は一人なんだ?」
「俺一人でどうにかなるわけねぇだろ。休診日だ、休診日。札かけてあったろーが」
今しがた雲雀が入ってきた扉を指差す。そこには、今日は休診にすること、急患は受け付けるのでその場合はインターホンを押すことを書き記した札をかけてある。病院の院長は確かに獄寺だが、一人でこの数の患蓄を世話できるわけがなく、まして外面の悪い医師だけではどうにもできないため、自然と休診日は助手の休み希望と重なることが多かった。
札を手に取り、ふうん、と呟いた雲雀は、いつものように入院として預かっている犬の檻の前まで歩く。すでに懐いている犬は、いつものように顎を撫でられて心地よさそうだ。
「じゃあ、今日は暇?」
「暇ってことはねぇけどな。こいつらの面倒は見なきゃならねぇし、急患もねぇとは限らねぇ。ま、いっつもより時間があるといえば、あるが」
それがどうした、と振り返れば、別に、と短く答えが返ってくる。
「どっちにしろ午後にならねぇと空かない。用事があるならそれからにしてくれ」
いつもは助手任せの仕事が、一手に自分に押し寄せてくる。仕方ないとはいえ、これが以外にきつかった。
暫く犬を撫でながら考え込むようにしていた雲雀は、じゃあ、と顔を上げる。
「暫く、寝てるよ」
病院はいまどき流行の洋風の建物、ではなく、ごく普通の病院だ。コンクリート打ちっぱなしの外観に、一階に診察室や手術室、二階には入院した患蓄を預かる部屋の一部や、餌や薬を保管しておく保管室がある。
そして三階は、獄寺の住処だった。
元は違う医師に預けられるはずの病院で、その医師の希望通りに立てられたのがこの建物だ。三階建てで三階に自宅、というものに憧れていたそうでこうしたという話だが、獄寺にしてみれば、住む場所が職場であると言う利便性だけしかない。2LDKの間取りもそこそこだし、急患にも対応できる。そうでなければ、住む場所を探して、預かっている命を残したまま家に帰るようなことになっていたのだから。
「しかし…」
その話を雲雀にしたのはまずかった、と今頃になって舌を打つ。
なんとなく建物の話をされたときに、三階は何があるのだと問われ、自宅だと答えた。以来、雲雀は病院だけでなく自宅まで出入りするようになっていた。
ため息をついて、天井を見上げる。そこには白い壁があるだけで、その向こうの更に向こうで、雲雀はさっさと眠りについているはずだ。家に帰って寝ろと何度言っても聞かず、結局こっちが根負けしてしまった。
どうして雲雀相手だとこうも簡単に負けてしまうのか。七つも年下の、男なのに。
再び口をついたため息に、軽快な音楽が重なった。見れば、時計が正午を知らせている。
「なんだ、もう昼か」
普段自分のしない仕事をしていると、どうしても時間が経つのが早い。気づけば仕事の数も減り、時間も午後になる。
「しょーがねぇ、今日はもう引き上げるか。また夜に見に来るからな」
くうん、とどこか心もとなさげな声に笑い、鼻先を撫でて裏口から出た。鍵をかけ、すぐ側の螺旋階段を上がる。途中の踊り場で二階にでて、同じように入院患蓄の様子を一通り見て扉に錠をした。
もう一度階段を上がり、今度開ける扉は自宅のものだ。玄関先に、自分のものではない靴があるのは変な感じがする。
室内が静かなのを見ると、まだ眠っているのか。
そう思いながらも、足音を抑えることもせずに廊下を歩いた。リビングの扉を開ければ、案の定、犬と猫に埋もれて雲雀が眠っている。
「…まぁ、いいけどな」
ソファに横になるでも、毛布の一つでも敷いて横になるでもなく、床に直接身体を横たえるそのすぐ側に、中腰に腰を下ろす。
動物病院という触れ込みの所為か、病院の前に子猫や子犬が捨てられていたことが何度かあった。そのほとんどが張り紙効果のおかげで貰われていったが、数匹、貰い手の付かなかった猫がいる。それが今、雲雀の腹で丸くなって寝ている。
「わりぃな、もう暫く付き合ってやれ」
枕代わりにされている犬に、苦笑いしながら頭を撫でた。心得たように身体を起こさない犬は、雑種ながらも頭がよい、昔から獄寺が飼っている犬だ。中型と大型の間の体格で、性格もおとなしい。
犬を枕に、猫を抱いて、日向で眠る雲雀は静かだ。寝息ですら、細く小さい。
獄寺は、この妙な来訪者の正体を知らない。
学生服を着てはいるけれど、本当に学生かどうかも確かめたことがない。年齢を聞けば答えたし、それから逆算して自分とは七つという年齢差があるが、それも雲雀の自己申告したもので嘘ではないという確証はなかった。
知っていることといえば、名前と、その声で呼ばれる自分の名前の甘さだけ。
はやと、と、年下の癖に、そう感じさせない声色と甘さ。
雲雀恭弥という名前と、その声しか知らない。
ゆえに、獄寺にとって雲雀は、制服を着ているくせに学校に行く気配のない学生ではなくて、単なる雲雀恭弥という一つの存在でしかない。知りたいと思わないことはなかったけれど、知ろうとは思わない。それがどうしてだか、判らないけれど。
犬の鼻先を撫でて、猫の喉を擽り、最後に雲雀の髪を軽く梳いて、腰を上げる。時間は既に、正午を回った。朝から仕事ずくめで腹も減ったし、作り上げて雲雀を起こせばいいだろう。
そうして、心の中でざわめく何かを、髪に触れた指先から這い上がってくるような何かを隠すように、踵を返してキッチンに向かった。
すぐ側にあった気配が遠のいて、雲雀はゆっくりと目を開ける。視線だけで追えば、キッチンの方で灰色の髪が忙しなく動き回っているのが見えた。
元々眠りが浅い雲雀は、多少の物音でも目が覚める。獄寺が玄関を開けた時点で完全に目が覚めていけれど、わざと眠ったふりをしていた。何か文句を言えば、起きているとばらして驚かせるつもりだったし、黙って無視しようとしたならそれはそれで声を出して脅かせるつもりだったのに。
獄寺はそのどちらも取らず、ただ側に座り、髪を撫でて、離れた。おかげで、目を覚ましていると知らせるタイミングを完全に失ってしまったのだ。どうしたものか、と小さくため息をつく。
と、腹の上の猫と、頭の上の犬が緩く反応した。
それに、口の前に指を当てて黙る仕草を示した。動物が判るかどうかは定かではなかったけれど、何かを察したのか、両者はまたゆっくりと元の姿勢に戻っていく。
昼の太陽は高く、窓際の床は冷たいのが心地いい。
部屋には、数匹の動物と、自分と、年上の獣医がいるだけ。
こんな空気も、案外悪いものじゃないな。
食事の出来上がっていく音とにおいを確かに感じながらも、意識はまどろみ、雲雀は今度こそ眠り込んでしまい、食事ができたと獄寺に肩を揺すられるまで目を覚ますことはなかった。
パラレル。動物に囲まれて眠る雲雀。 ▲