幸せの温度

 目が覚めると、何度か見たことのある白い天井だった。
 腕を見れば何かの管が繋がれていて、視線を巡らせれば視界の端々に何かが映る。耳障りな音や、見たことのある機械の数々。視界の下のほうに僅かに映る薄緑色が酸素マスクだと気づいたのは、目の前にシャマルの顔が現れたときだった。
「おー、起きたか、隼人」
 女以外は診ない、という主義はどうしたというのか、脈を取り、点滴の残量を見る。何か調整でもしているのか、途中にある小さな器具を弄って、再びこちらを見た。
「声はでるか?」
「……ヤブ医者」
 喉は張り付くように痛いし、出てきた声もマスク越しな所為かどこか自分のものとは違っている感じがするけれど、自分で出そうと思って出した声だ。間違いはない。
「可愛くないねぇ、お前は」
 言葉の割りに、声は明るい。幼い頃から世話になることがあった元主治医は、それなりに自分の無事を喜んでいるのかもしれない。
 ああ、そうだ。
 何より無事を確かめなければいけない人が居た。それを確認しなければ。自分の無事や怪我の程度などどうでもいい。
「シャマル」
「あん?」
「じゅ、うだいめは?」
「ああ、あのガキか。アイツは怪我も大したことなかったし、栄養剤打って一週間もしたらぴんぴんしてやがったぜ」
 頑丈だよな、とけらりと笑う医者に、よかった、とため息を付いた。マスクの中で篭る呟きは、シャマルの耳に届くことはなかったらしい。
「他のも大体無事だ。ビアンキも、まぁ腹は縫ったが傷跡も大して残らないだろ。野球小僧は、あれも程度は酷いが回復は早い。普段から身体を鍛えている人間ってのは得てして回復も早いんだが、特殊な感じがするなあのガキは。もう一人の小僧も、見た目ほど酷くはないな、あっちは専門外だが。問題は…」
 ぺらぺらと、医者の守秘義務など何処吹く風とばかりに動いていた口が、急に静まる。
 あの場に居たのは、十代目である沢田と、義姉のビアンキ、ファミリーらしい山本と、リボーン、フゥ太、そして、もう一人。
「……雲雀、は」
 あいつの怪我は酷かった。それは、助け出した自分が一番よくわかっている。借りを作るのは気持ちよくないからと、力の入らない自分に肩まで貸してくれたが、あのときの雲雀の体力は限界が近かったはずだ。どうみても軽症ではない傷と、暴力の後。いつもなら誰にもなんの文句も言わせずに力を振るうことのできる凶悪な風紀委員長は、恐らくは唯一の弱点をつかれて、その力の十分の一も発揮することなく、納得できない状態に陥ったはずだ。怪我の程度も、きっと一番深刻なはず。
「それが、鎮静剤打たないと静かに眠りもしない奴でな。看護婦が器具を取り出す音でも目を覚まして、ちっとも安静にしやがらねぇ」
「だろうな」
 元々、健康なときですら、眠りの浅いタイプの男だから。
「そんなわけで、あいつにゃ強制的に眠ってもらってるよ。使いすぎはよくないから、まぁ夜だけだけどな」
「怪我の、ほうは」
「骨折が多すぎる。が、綺麗に折れてるからくっつくのも早いだろ。若いってのはいいねぇ」
 しみじみした言葉に、オヤジくせぇ、と呟く。今度はマスク越しでも聞かれていたらしく、うるさいと笑いながら返された。
「お前の怪我も、もうだいぶいいんだ。ボンゴレの医療技術には恐れ入ったぜ、普通ならもっと期間がかかるもんだ… こいつは要らないだろう」
 口元を覆っていたマスクをはずされた。吸い込む空気は、独特の消毒液のにおいに溢れていたが、それでも心地いい。
「お前の場合は他の奴より怪我が多いからなぁ。傷が多少残るだろうし、輸血は終わりだが暫くは包帯と絆創膏暮らしだな」
「ちっ… だせぇの」
「治療中に抜け出すからだ。自業自得だな」


 その日のうちに沢田が顔を見せ、開口一番、ごめんね、と謝られてしまった。
「そんな、十代目」
「あの時、俺が行かなきゃよかったんだ。そうしたら、怪我もこんなに酷くなかったよね、ごめん」
 そう何度も謝る姿が、本当に辛そうで、痛そうで。
 たまらず、手を伸ばした。
「十代目が気に病む事は何もありませんよ。平気ですって、すぐ治りますし」
「獄寺君…」
「約束したでしょう? みんなで遊びに行きましょうって。すぐに治しますから、そしたらどこでも行きましょう。どこがいいですか?」
 伸ばした手を、恐れ多くも組んだ手に重ねた。伝わってくる温かさは、彼が生きているという証明以外の何物でもなくて。
「…山本の、試合があるから。それに、行こう」
「はい」
「京子ちゃんや、ハルや、ビアンキも、リボーンもランボもイーピンもフゥ太も、みんなで行こう」
「はい」
「……獄寺君」
「はい?」
 重ねた手が取られる。包帯越しに、大切そうに扱ってくださる指先は絆創膏だらけで。彼自身も決して無傷で済まなかったはずなのに、一介の部下に過ぎない自分を、こんなに労わってくれる。
「君が、無事でよかった」
 無事を喜び、怪我をいたわり、決して見捨てようとしない、大切な人。この人のためなら、怪我なんて痛くない。いくらでも、どんなことでもしよう。
「ありがとうございます、十代目」
 指先から伝わってくる思いと熱が体中に回り、血の気が失せ冷たくなった体が温まっていく。
 それは、ひどく幸せな温度で。
 こんな温かさを伝えられるこの人が、頼もしく誇らしくあるのと同時に、すこし羨ましかった。


「…ほんとに、重傷なんだな」
 暗い闇の中で、機械の音だけが響く。
 ベッドに横たわるからだが一つと、その周りに並べられた夥しいほどの医療器具と点滴の数。腕には当たり前に針が刺さり、布団は人間の身体としては不自然なほどに盛り上がっている。折れたアバラを固定するために、布団の重みで歪むのを防いでいるのだそうだ。道理で、女でもないのに胸元が緩やかなカーブになっているはずだ。
 顔中に怪我の残る横顔は痛々しく、元からそんなに顔色がいいとは言えない頬も、今は血の気を失って色白から蒼白になっている。
 月明かりの下で、それはさらに青く、痛々しい。こんな姿、見たことない。
「…雲雀」
 ダイナマイトで吹き飛ばした壁の向こうで立ち上がるのを見たとき、ああ、と思った。この男がこんなところで簡単にくたばるはずがない、そう信じていた自分の思いが、報われたように思えたのだ。
 誰かの前で膝を突き身体を崩すなど、きっと、この男にとっては屈辱以外のなにものでもないはず。それを自らの手で拭わなければ、死ぬに死ねないだろうからと、そう。
 信じて、いたから。
「ひばり」
 それでも、自分の目で確かめなければ、不安でしょうがなかった。
 見つけたときは重傷で、それでも命に別状はなかったんだと聞いても怖くてたまらなかった。このまま二度と会えないままになってしまうような、そんな、不安とも恐怖とも絶望ともつかないものが、ただ心を占めていて。
 第一である沢田の無事を確認できたら、安堵すると同時に、そんな感情が身体を支配し、まだ安静でいろと言われたのに、痛む身体を騙しながらここまで歩いた。さながら、迷子が親を探し回るように。
 指先で唯一傷もなく晒されている額に触れれば、沢田の手のひらのように、温かかった。それは、命が繋がっているという証拠。
「………よかった」
 お前も、生きていてくれた。
 死なずにいてくれた。
 誰一人欠けずに、あの戦いを、乗り越えられたんだ。
「ああ… なんだ、君か」
 ふ、と空気が動く。慌てて手を引けば、その下から僅かに開かれた黒い瞳がこちらを見上げていて。
「な、んで。薬は…」
「睡眠薬のこと? いい加減耐性でもできたんじゃない? 眠いのは、眠いけど」
 舌足らず、というよりは、あくび交じりのような声。目も完全に開いてはいない。本当に眠いらしい。
「ちょっと眠りが浅いからって、眠くないわけじゃないのに、人を不眠症扱いだ。とんでもないヤブ医者だよ」
「……お前の場合、異常だよ」
 敏感にもほどがある。
 そう言うと、ふん、と面白がるような鼻息だけが帰ってきた。目を閉じて、漆黒の瞳を隠してしまう。
「つらいか?」
「怪我? さぁ、さほどでもないけど。君の方が痛そうだ」
「どーってことねぇよ」
「僕も同じだ」
 口元だけが、笑うように歪んだ。
「…雲雀」
「何?」
「雲雀、ひばり…」
「何なんだい、わけのわからない子だな」
 まるで駄々っ子だ。
 面白そうな声が、耳に届く。
「隼人」
 さら、と衣擦れの音がした。月明かりに照らされたシーツは淡く浮き上がり、その下から伸びる包帯だらけの雲雀の手を映し出した。
 それを取り、傷に触らぬよう緩く握る。
「…こんなの、ごめんだ」
「何」
「お前は、いつだって当たり前みたいに平気な面して勝って当然みたいに笑ってないと駄目だ。こんな風にベッドに縛り付けられてるのなんか全然似合わねぇ。こんなの、お前じゃない」
「無茶を言うね」
「だって、そうでないと」
 怖くて仕方ないんだ。
 続けようとした言葉を、口を噤んで封じた。
 命の駆け引きをするのは、当たり前のこと。でもそれは、どれだけ強くてもまだ一介の中校生に過ぎない雲雀には、本来なら関係がないはずで。
 自分はいい。覚悟をしてファミリーに入り、九代目に支持し、十代目のお側にある。今まで誰も受け入れてくれなかったこの身を受け入れてくれたファミリーのためになら、いくらでも投げ捨ててみせる。
 だけど、お前は違うから。
「頼むから、雲雀」
 せめて、俺より先には、逝くな。
「…本当に、ただの駄々っ子だ。我侭にもほどがある」
 呆れた声と一緒に、手を握る力が僅かに増す。冷たい指先が、手の甲を撫でた。
「たまには我侭くらい聞けよ」
「いつも聞いてるじゃない」
「全然だよ、逆だよ、馬鹿」
 目頭が熱くなる。涙がこみ上げる。泣きたくないのに、気づけば頬を涙がこぼれていた。
「…隼人」
 どこか困惑したような声を聞きながら、出血の所為で冷たい指先を両手で包んだ。
 きっと自分では無理だろう。沢田のように、幸せな温度を雲雀に分け与えることはできない。あんな気持ちにはさせてやれない。
 それでも、こうしていられることに、何かを感じてくれたら。決して優しくはない、刺々しいだけの思いだけれど、少しでも雲雀に届けば。


 そう願わずにはいられなくて、ただひたすら手を握った。

初ヒバ獄。黒曜編終了時の妄想。