君のために出来ること

 薬臭いのは好きじゃない。
 特別薬品が好きだとか嫌いだとかではなく、自然ではないものが好きじゃないだけの話だ。薬品は人間が研究の末に作り出したものだ。誇れることは理解している。効果も身をもって知っている。けれど好きになれないものは仕方ない。
 その最中に埋もれている姿を見下ろして、小さく息をついた。
 よく見ていた顔だ。全く、あの頃と変わりない。当たり前だけど。
 それよりも驚いたのは、自分の記憶力のほうだ。十年近く前に見ていた顔立ちの詳細を、間違えることなく覚えていた自分。成長した姿の方が長く見ているのに、なにかの記憶媒体に残していたわけでも、それを眺めたわけでもないのに、髪の長さ、穴のない耳朶、指輪の数、そのデザイン、わずかに切れている唇の傷にまで覚えがあった。
 判っている。これは過去の自分の物で、今の自分の物ではない。
 それでも、記憶されていた顔が目の前にあれば、錯覚だってしたくなるだろう。
「……っ…」
 不意に、苦しげな息が漏れる。酸素吸入器のマスクが外された口元はゆがんでいて、ほんの少しだけ、血がにじんでいた。
 相変わらず、君にはその色がよく似合う。
 知らず笑んで、腰を屈めた。唇に滲む赤を、舌先で拭う。口内に広がる鉄臭さは、室内の薬品のにおいよりも、よほど心地いい。
 そのままの姿勢で、後ろを視線だけで見る。この施設についての詳細は知らない。隣接して設計したとき、唯一行き来の出来る扉を互いに設置することで同意した以外、全く不可侵のまま建設が進んだ所為だ。おまけに、基本的な事を決めた後は全て部下に任せてしまった。ここに来ること自体、そう多くない。知らないことなど山のようにある。
 けれど、予測は付く。この部屋は監視されているだろう。誰かが常に見張っていなくとも、モニターはされているはず。自分が知っている程度にボンゴレという組織が用意周到だとすると、音声も拾われている可能性がある。いまさら彼との関係を誰に知られようとどうでもいいが、話は聞かれたくない。
 腰を落したまま、耳に顔を寄せた。形のいい耳朶に触れるか触れないかの距離で、口を開いた。
「ねぇ、起きてる?」
 わざと息を吹き込むように話すと、ぴく、と瞼が震えた。うっすらと開かれる緑の瞳が此方を向く。あまり、意識ははっきりしていないようだ。
「相変わらず弱いな。君、そんなことでどうやっていくつもりだい?」
「……り…」
「そう」
 小さく掠れがちに聞こえる名前。懐かしい、幼い響き。
 ゆるりと手が伸びてきた。力の入らない管の付いた手のひらが、ネクタイをゆるく握り締める。体の影になって、監視モニターからは見えないだろう。
「…か、た…」
「何?」
 耳元に聞こえる声は懐かしい。
 何もかも記憶と違わないのに、声だけは、掠れがちに聞こえて奇妙だった。
 古いレコーダーから流れる、擦り切れてしまったテープのようだ。繰り返し再生しすぎて掠れているのは、記憶のほうのはずなのに。
「無事、で」
 よかった、と。
 吐息交じりの声が耳に届いた。先ほど自分がしたように、息を吹き込むようにして。
「僕は君と違うから、あの程度ではかすり傷も負わないさ」
「……ふ、ん」
 安堵の音。笑いの反動で揺れた肩にかかる銀色の髪が、鼻先を掠めた。
 力が抜けたのか、ネクタイにかかっていた手が離れる。シーツに落ちる音だけが、わずかに響いた。
「ねぇ」
 互いに顔だけを近づけて話す声は小さい。高性能の集音マイクでも拾えないくらい、小さな囁き。
「髪、鬱陶しいね」
「え…」
「昔から何度か言ったはずだけど。髪と、服装。煙草は、論外だね」
「…そんな暇、ねぇんだよ…」
「僕には言うのに、自分はいいのかい? 本当に、わがままだったんだな」
 この時代の獄寺は、こと身だしなみには煩かった。昔からだったかもしれないが、年齢を経て、マフィアなんて立場を確立させてしまった彼は、とにかく見栄えを何より気にしたから、みっともない格好なんてものを心底嫌がったものだ。スーツだって当然のように有名メーカーの特注品で、公式の場には同じものは二度と着て行かない。そんなもの一枚あればいい、と言ったら、酷く叱り付けられたことがある。十倍にして返したが。
 そんな彼が、いくらか前に会ったときに、顔をしかめて言った。
「お前、髪ウザい」
 随分と久しぶりの再会で、しかもそれを最後に目の前の幼い彼と入れ替わってしまったわけだけれど、そのときの表情といったらない。確かに、暫くの間調べごとに忙しく放置していたけれど、鬱陶しいというほどまで伸びていたわけではなかった。なのに、本当に鬱陶しいものを見るような目だったから、つい腹が立って本気でやりあってしまい、後に沢田にしかられたとメールでしょぼくれていた。考えたら、連絡もあれが最後だ。
 君は見ていないはずだ。
 鬱陶しいといわれたから、髪を切った。たまには連絡をよこせというから、日本にも立ち寄った。イタリアにも。
 それなのに、一番見なければいけない君が、今は、遠い時の彼方に居る。
 目の前には、長めの銀髪を枕に散らす、幼い懐かしい君しか居ない。
「何の、話だよ」
「こっちの話さ… せめて、括るくらいしておきなよ。長い髪は視界を塞ぐ」
 笑って、傷の残る頬に唇を寄せた。消毒液のにおいが、強く鼻先を掠める。
「まず傷を少しでも癒すことだ。この世界は君が思っているほど甘くない」
「雲、雀…」
「おやすみ、幼い隼人。今は、眠ったほうがいい」
 耳元で囁けば、はっきりしない意識をさらに沈ませて、緑の瞳がぼやける。次第に落ちていく瞼に唇で触れ、体を起こした。
「…おやすみ」
 目を覚ませば、再び戦火にその身を投じなければならない。安息は今しか得られない。
 くるりと踵を返し、扉に向かう。案の定、出入り口上部には小さなカメラが設置してあった。超小型のカメラを一度睨み、扉をくぐる。廊下をひたすら歩けば、研究施設への出入り口がある。それをも通り抜けて、自室へと足を運んだ。
 懐かしい、幼い君。
 今はまだ休むがいい。目が覚めれば否応なく傷を負うことになる。それを防ぐことはできないが、せめて君の気がかりを一つだけ減らしておくから。君の負担を軽減できるのならば、家庭教師など安いものだ。
 だから、無事に帰って欲しい。幼いわが身の元へ。
 返して欲しい。平気で人を鬱陶しいと罵る、口の悪い子を。

 どちらも同じ君なのに、僕にはやはり、今の君がいい。
 そんなこと身をもって知ったから、早く、やっぱり切ったほうがいいな、と笑って欲しいんだ。

獄寺が髪を括っただけでここまで妄想。