カフェテリアにて
かちゃん、と陶器特有の音がする。
秋口のイタリアは涼しく、夏の名残を時折滲ませながらも、確実に気温が下がっていることがわかってきて、過ごしやすくて気に入っている。南の方に行けばまだまだ暑いのだろうが、幸いにも相手が指定してきたのは北イタリア。天候によっては肌寒いときもあるだろうが、今日は程よく快晴だ。
場所は一度だけ行ったことのあるカフェテラス。カフェラテがおいしいから、なんて理由で、わざわざここまで来たらしい相手は、そのお気に入りがいっぱいに満ちたカップに口をつけて、時折傾け、実に優雅だ。
というか。
「お前、一体なんの用でここまで俺を呼び出したんだよ…」
テラスには数脚のテーブルセットが用意され、まばらに人が座っている。中には足元に小さな犬を横たわらせている人なんかも居て、絵に描いたような午後の時間。
だというのに、空気を読めない黒服の男が二人、穏やかな空気に溶け込めもせず向かい合っているというのは、ものすごく、変だ。
おまけに、向かいに座った男の言うことときたら。
「別に」
と来たもんだ。
「はぁ?」
「これが飲みたかったんだけど、一人だとつまらないからね」
再び、陶器の音。見ればカップの中身は、三センチほど減っていた。
「…つまり、それを飲みてぇと思ったけど一人だとバカみたいだから場所を埋めるために俺をわざわざここまで呼びつけた、ってことか…!?」
「ワオ。少し会わない間に、多少は賢くなったんじゃない?」
わざとらしく目を見開いて、驚いた仕草。
「て、めぇ、なぁ…!! 俺はここまで来るのに、十代目に頭下げて今日の仕事を山本に頼み込んで代わってもらって大量の金をバラまいてきたんだぞ…!」
本当なら今頃、取引先との会合に出ているはずだった。とはいえさほど重要性のない会合だ、誰が出ても構いはしなかっただろうが、相手から出来れば自分を、と指名があったのだ。少し前に話したことのある幹部で、随分と気に入ってくれていた。だから本当なら、指名どおり、自分が行くのが筋で、礼儀で、一番良かったんだ。
それなのに、急に携帯電話に入ってきた、
「至急 去年のカフェテリアにて」
という、曖昧で中途半端なメールで全てがひっくり返った。
至急、と書かれたのでは、急がないわけにはいかない。滅多に連絡などしてこない相手がそんな言葉まで使うのだから余程なのだろうと、慌てて非番だった山本の部屋に飛び込んだ。いいぜ、と軽く一言で代わってくれたが、その後に余計な一言を言われた。
「雲雀ならしかたねぇよなー」
酷く、余計だった。
その後、沢田にその旨を報告と許可を得に行くと、至極あっさりと、いいんじゃない、と言われた。
「山本が構わないなら俺は何も。というか、ここで獄寺君を引き止めちゃうと、後で雲雀さんが怖いからね」
にっこりと笑顔で言われたが、申し訳なくも正直、これも余計な言葉だ、と思った。
とにかく、そうして漸く本部を出たはいいが、指定された場所は遠い。普通なら陸路を行くのだが、至急、の文字がちらついて、結局大枚叩いて空路を取った。大枚、と言うほどの金ではなかったけれど、ここは大きく言っておくのがセオリーだ。
そうして漸くたどり着いた店では、穏やかな空気に包まれながらも溶け込めない黒服の男が、優雅に足を組んで迎えたわけだ。
「やぁ」
そんな、至急、なんて言葉がどこにと言いたくなるほど、のんびりと。
「俺ぁ今日の為にスーツまで新調したってのに… 台無しだ畜生」
「何、君、僕より仕事を取ろうっていうの」
「っ、あのな、今そんな話してるんじゃ」
途端に不機嫌になった雲雀と焦る自分の間にある空気を、どこかで聞いた音楽が割った。
「はい」
胸元から携帯電話を取り出した雲雀は、今まで話していたことすら忘れたように、普段の声色で電話に出た。先ほど聞こえた音楽は、もう十年近く変えられていない、携帯電話の着信音だ。懐かしき、母校の校歌。電話自体はもう何台も代替わりしているのに、それだけは一度として変えられたことがないのを知っている。そしてあれは専用の着信音で、あとは全て、同じ、だということも。
「けっ…」
テーブルに肘をつく。向かいの席に置かれたのは一脚のカップ。こちらの手元にはなにもない。注文を、まだしていない所為だ。
わざわざ仕事を蹴って、側に控えていると誓った十代目の側を離れ、大嫌いな山本に頭まで下げて来たのは。
「いや、いい。後は哲に判断を仰いで。それで構わない」
こんな思いをするためじゃなかったはずなのに。
「……仕事優先はそっちじゃねぇか、バーカ」
「何か言った?」
「別に」
頬杖をついてそっぽを向く。通話は終わったらしい。
「可愛くないな」
「大歓迎だね」
ふん、とわざと鼻を鳴らした。子供っぽい仕草だとわかっていても、今更取り繕う相手でもない、と気にしない。
全く、こんなところまで来て、馬鹿みたいだ。何もかも投げ出して出てきたのに、用事が暇つぶしの相手だったなんて、馬鹿らしくて溜息も出ない。何年付き合ったって、何を考えているのかなんて全くわからないけど、今回ばかりは、さすがに少し情けなかった。
「隼人」
名前を呼ばれるのと同時に、そっぽを向いたが為に自然に相手のほうを向くことになってしまっていた耳を引かれる。
「っ、なんだよ」
その手を弾いて、首を引く。
「耳、今日は何もしてないんだね」
「……誰の所為だ」
急げと言われたのに、のんきにピアスなどつけていられるか。
「そんなに急いだんだ」
「至急、ってのは急げってことだろうが」
「君のことだから、てっきりシャワーでも浴びてさっぱりして、身支度を完璧に整えて出てくると思ったけど」
どこまでのんきだ、それは。
「…悪かったな、風呂も入らず着替えも中途半端でピアスもしないまま出てきてよっ!」
それもこれも、全部、連絡をしてきた相手が相手だから、だというのに。
ああ、駄目だ。情けなくて、馬鹿みたいな自分が、滑稽でたまらない。
「さっさと飲めっ! 俺はすぐにでも帰りたいっ」
「……へぇ」
カップにかけようとしていた細い指が、ぴたりと止まる。
「飲むまでは、居るんだ」
「腹立つなお前はっ。そもそも、そのために呼んだんだろうがっ」
これでこのまま帰れば、自分は本格的な道化師だ。今日一日の用事を丸々潰してきたのに、たった数時間で帰ったのでは、誰にも顔向けできない。
「そう」
言うと雲雀は、何を思ったのか、伸ばしていた指を引いた。
だから、お前は。
「人の話を…っ」
「飲めないから置いてるだけだ」
「はぁ!?」
「熱い」
きっぱり、と。
「…ってさっきまで飲んでたじゃ」
「冷めるまでの間だ」
ぽん、とどこかで音がする。
「それまで、待つだけ」
店のすぐ側にある時計がたてた、小さな告知音だった。多分、一時間ごとなんかに鳴るように設定されているんだろう。
不意に、どれだけあの音が響いても、雲雀は二度とカップに手をつけないだろう、と思った。あんなに好きだと言っていたのに。世界中を巡っているはずの足をここに向けてまで飲みに来たのに。
どうしてか。
それがわからないほどの馬鹿じゃないつもりだ。
急速に、気持ちが静まっていく。
至急といわれた。急げと。それで来てみたらただお茶するだけで、合間に仕事の電話なんかしやがって。部下に任せるとか、信頼百パーなことさらりと。だけど、雲雀が仕事を他人任せにするなんてとこ、今まで一度も見たこと、が、ない。
注文は、と唐突に声が聞こえた。視線を上げればかわいらしいウェイトレスが、メニュー片手に立っている。今頃来たのか、とちらりと思ったけれど、メニューを受け取らず、口を開く。
「同じものを、一つ」
暖かなカップが運ばれてきて、ようやく雲雀は冷め切ったカフェラテに口をつけた。
ゆっくり、のんびりと傾けて。
けれど、もう一つのカップは、湯気が消え、冷め切って、ミルクの凝固が見られても、どちらもが手をつけず、ただそうして置いてあるだけだった。
十年後雲獄。実は草壁の呼び名に反応し書いた話です。(これで?) ▲