ループ

 一日、一日とその間隔は短くなっていく。

 沢田の教育係を受け持ってから数日。元の潜在能力に底の見えない幼いボンゴレは、目覚しい速度で成長していく。日に日にその速度は上がり、彼からしてみれば十年後の現代に存在していた沢田綱吉には遠く及ばないものの、その片鱗を見せ始めていた。
 二人の沢田綱吉の間に開いていた、遠く霞むほどの距離は、短くなっていく。
 とはいえ、それも多少霞が取れた程度だ。今のレベルで満足してもらっていては困る。
 この世界に居た沢田は、あんなものじゃなかった。グローブの制御、炎の純度、研ぎ澄まされ完璧にコントロールできていた直感能力。その全てで、彼は巨大マフィアの頂点に立っていた。
「十代目は、今の立場を決していいものとしていらっしゃらない」
 悲しそうにうつむく緑色の瞳を思い出して、足を止めた。
 目の前に立ちふさがる襖を開けて、桐箪笥ばかりが立ち並ぶ部屋に足を踏み入れる。普段立ち入らないのに埃の一つも舞わないのは、この研究所に所属している部下がきちんと手入れをしているからだろう。樟脳の独特のにおいが鼻を掠めた。
「俺は十代目にボスになって頂きたかった。でも、俺の願いと、あの方の願いは、あんまりに正反対だったんだ」
 数年前に空けたピアスの穴が、一つだけ何も飾られず、空洞のままになっている。その向こうが、見えるはずがないのに、あの時、見えたような気がした。
 小さな座卓の上に、畳紙が出されている。見れば、陰干しされたらしい着物がひとつ、壁にかかっていた。おかげで多少樟脳の匂いが落ちている。
 スーツのボタンに手をかけ、肩から落し、腕を抜いた。適当に畳紙の上に投げ出して、ネクタイも放り出す。腕のボタンを外し、シャツも脱ぎ捨ててしまう。
「俺は、あの方に何が出来るんだろう。あの人の願いなんて、誰も叶えられないのに、あの人は俺達の願いばかり聞き入れて、それでいいって、笑ってくださるんだ」
 完全に目を伏せ緑色を隠し、代わりに銀色の髪が肩に触れた。他人を思いながら僕に寄りかかってくるのは君の悪いところだ、と跳ね返そうとして、結局そのまま、見えもしない穴の向こうに視線を凝らしていた。
 壁に掛けられた黒い着物を手にとり、袖を通す。衿を整え、帯を締める。
 着物は好きだ。気持ちが引き締まる。昔、まだ幼い中学生だった頃、一般の生徒達とは違う黒い学生服が、気持ちが引き締まって好きだった。着物にも同じものを感じるし、同じものを求めている。だから、箪笥には黒い布地のものばかりだ。
 入ってきた襖とは逆に位置する襖を開く。だだっ広い畳敷きの部屋は二十畳を軽く超えるだろう。向こう側に広がる箱庭で、獅子脅しが軽い音を立てた。
「恭さん。何か持ちましょうか?」
 真中に用意された座布団に腰を下ろすと同時に、縁側から草壁が声をかけてきた。
「…そうだね」
「茶も珈琲も紅茶もありますが。燗も出来ます」
「日が高いうちから飲むような悪癖はないよ。それに、酒は手元が狂う」
 嫌いじゃないが、寝酒以外ではあまり呑まないことにしている。多少の量で酔うわけでもないが、あれは判断能力を鈍らせ、手元を狂わせる。いいことは少ない。嗜好品は、度を過ぎれば単なる害だ。
「茶でいい。折角久しぶりに日本に帰ったんだ」
「はい。では、すぐに」
 わずかな音も立てずに、草壁が退席する。
 広い部屋には、ただ時折落ちる獅子脅しと、それに注がれる水の音だけが響いていた。
「雲雀」
 耳の奥から、声がよみがえる。
 目を閉じれば、今でも肩に重みがかかっているようで、小さく息を吐いた。
 沢田たち過去からの訪問者達がこの世界に来て、既に二週間近くが経っている。緊急連絡先としてボンゴレの幹部全てが草壁直通の番号を承知しているが、それが使われることなど滅多にないと思っていたのに。その滅多は、意外にもあっさり起こった。
 そうして、随分久しぶりに降り立った日本の地。
 何も変わっていないようで、大きく変わっている。
 変わらないものなどないのだろう。たとえばそれが十年でも、五年でも、一年でも、一ヶ月、一日、一時間、たった一秒の時間でも。何もかもが刻一刻と変わっていく。幼い沢田が才能の片鱗を、たった数日で見せているように。
 焦燥ばかりが募る。一日、一日と、それが襲ってくる間隔は短くなっている。
 早く帰したい、早く帰って欲しい。
 早く、返して欲しい、と。
「失礼します」
 縁側から再び声がして、目を開けた。盆に茶器を、片手に鉄薬缶を持った草壁が歩いてくる。
「おやすみでしたか」
「いや…」
「眉間に皺が寄っておいでです。そりゃ私の得意なので、恭さんにとられちまうと困りますし、癖になってしまったら私が怒られます」
 冗談めかした事を言いながら、草壁は手を動かす。急須に湯が張られ、小さな湯飲みに琥珀の液体が注がれた。
「お前も言うようになった」
「へい」
 口元だけで笑い、草壁が湯飲みを差し出す。受け取って、ゆっくりと口をつけた。
 付き合いも十年を越せば、さすがの堅苦しい部下もこんな冗談を言うようになった。年は同じはずだが、彼の場合は老成しているように思う。
「ボンゴレの仕上がりはいかがですか」
「そうだな… 遠く及ばないけど、ま、形が多少整ったくらいかな。何か動きはあった?」
「今の所大きなものは報告されていませんが、近く、イタリアで動きがありそうです」
「判った。ところで」
 空になった湯飲みを置く。新しく二杯目を入れている草壁は、動きを続けながら返事をした。
「さっきの、誰に怒られるの」
「へい?」
 こぽぽ、と湯飲みに二杯目が注がれる。先ほどより濃い目の琥珀の中で、小さな葉のかけらが泳いでいた。
「皺が癖になったら怒られるって。誰に」
 湯飲みを取る。草壁は笑むだけで何も言わない。
「恭さん、日本に帰るとお茶を飲まれますね」
「まぁ…」
「私はすっかり日本茶に詳しくなりました。ですが、お恥ずかしい話ですが、いくらたってもそれ以外はなかなか上達しませんで。特に珈琲だけは、おそらく生涯駄目なものと思われます」
「…何が言いたいの」
 なんとなく、掴めてきたけど。
「いえ、ただ」
 す、とすり足で一歩分下がった草壁は、そのまま立ち上がり、縁側まで退る。
「郷に入っては郷に従え。よい風習だと思うだけです」
 では、と頭を下げて、草壁が下がる。
 静まり返ってしまった広い部屋には、暖かなお茶と、憮然としている自分しかいない。
「…本当に、言うようになったよ」
 眉間に指をやる。軽く揉み解すようにして、息を吐いた。
「雲雀、俺は、あの方に何が出来るんだろう」
 緩やかに声が戻ってくる。
「お前みたいに憧れや恐怖の対象にもなれず、山本のように頼られることも、跳ね馬みたいにバックアップもできない。俺は、一体」
「鬱陶しい子だな」
 あの時漏らした言葉を、もう一度口にする。
 聞く相手が居ないことなど、わかっている。それでも、耳の奥から聞こえてくる声に、あの時と同じように返した。
「沢田が今の立場を望んでいなかったのだとしても、今がいいと思っていないのだとしても、過去、それを選択したのは紛れもなく沢田綱吉本人だ。君がどうこう言っていい問題じゃない。それと、君が居ることでメリットなどないのに、それでも沢田が君を側に置くのなら、それはそんなことは承知で、それで構わないといっているだけなんだろう。馬鹿馬鹿しい、どうして僕がこんなことを」
 一番知っていなきゃいけない君に、一番知って欲しくない僕の口から告げなきゃいけないんだ。
「雲雀」
「これ以上くだらない話を聞かせる気なら、相手を変えてくれ。僕はもううんざりだ」
 君の、十代目が、十代目の、という、沢田第一の思考につき合わされるのは。
「…雲雀」
 甘い、甘い声。耳元に直に話すとき、獄寺はたまにそんな声を出した。ほかに誰も居ないという油断と、今このときは出してもいいのだという、甘えで。
「ごめん」
「…ふん」
 腰に回る腕の力が強い。首筋に触れる頬が熱い。
「確認したくなるんだ」
「別の奴でしてくれ」
「こんなふうに?」
「できるものならね?」
 言葉遊びのように返答が帰ってくる。
 くすくすと笑いを漏らした獄寺は、不意に体を離して、しかたねぇな、と言う。
「詫びに、美味い珈琲入れてやるよ。お前カフェラテ好きだろ。それとも、単にエスプレッソがいいか。カプチーノも受け付けてやるぜ」
「へえ、種類が増えたんだ」
 少し前まで、カプチーノは入っていなかった。
「練習したんだよ」
「僕の為に?」
「っ、ち、げぇよ!!」
 かっ、と朱を引いたように真っ赤になった獄寺が、早くしろ、と急かしながら背中を押す。はいはい、と言いながらキッチンに向かうのを、僕は、随分楽しんでいた。
「……ふん」
 ゆっくりと目を開ける。そこには畳と障子と中庭しかなく、座る自分以外誰も居ない。
 背中を押す手の熱も、美味いかどうか保障はしねぇ、と予防線を張る声も、当然、聞こえない。
 湯飲みを見れば、先ほどまで湯気を上げていた茶は冷め切っていた。けれど、草壁は本当に日本茶の淹れ方が身に付いてしまったらしく、冷めても十分に美味しい。喉を冷やすと同時に、思考をも冷やしていく。
 ボンゴレから入った沢田綱吉殺害のニュースは、こちらの研究所でも十分な騒ぎになった。本意ではないが、この組織は多少ボンゴレに偏っているところがある。部下達にも衝撃だっただろう。
 ざわめく部下達の中にありながら思ったのは、沢田の生死の確認より、獄寺の精神だった。立ち寄るたびに不安をぶつけていたあの子は、守りたいとそう言っていた相手を死なせ、きっとまともに立ってもいられないだろうと。
 実際は、そんな心配は無用だった。ファミリーのトップが倒れたことによる後始末と後の判断を、獄寺はほとんどこなしてしまった。元々山本はデスクワーク向きじゃない。獄寺に負担のかかったことだろう。
 けれど誰もが知っていたはずだ。それが、ただのやせ我慢で、沢田に対する礼儀だけで、ただそれだけで獄寺が動けていたのだと。
 沢田の望みを叶えてやりたいと願っていた。ボンゴレに終末をという、彼の願いとは全く正反対の滅びの願い。それは、たとえいつか訪れていたとしても、こんな形ではなかっただろうに。
 早く、早く、一日も早く。
 僕の元に返してほしい。僕の元に帰ってほしい。
 焦燥は襲い来る間隔を短くし、同じところをループしながら待っているのだ。
 十年前の世界で一人、一秒過ぎるごとに後悔と苛立ちを募らせているであろう、あの子を。
「…カフェラテ飲みたいな…」
 待っている。
 唯一、ただ一人だけと決めた、僕のバリスタを。

本誌雲雀私服記念。書きたかったのは雲雀が着物を着る描写。