贈り物
イタリアの気候は日本とよく似ているが、決定的に違うのはその湿気だ。夏などは耐えられなくて、その間だけでも日本から逃げ出したいと、本気で毎日思ってしまったほどだ。
きっと冬になったら大丈夫だ。冬はどちらかといえば乾燥する。こんなに過ごしにくいことは無いだろう。
そう思っていたのに。
「ゆだんした…」
決して安くないマンションの、広い一室。必要最低限以下の生活必需品しか置かれていない室内では、本来の床面積よりも広く見え、一人暮らしという状況も重なり、愛想が無い。
飾り物一つ無い壁に唯一備え付けられた暖房が、こんこんと暖かい空気を部屋中に送り出す。環境配慮など知ったことかとばかりに上げられた温度は、多分普通の人が見たら、暑い、と言いたくなる様な温度だろう。
けれど、寒い。
寒くて寒くて仕方ない。
「くっそー… まさかこんな情けねぇことになるなんて…」
ぐすり、と鳴る鼻をすすり上げて、ため息を吐いた。声まで掠れて別人のように聞こえる。
部屋が寒いのは、何も自分が一人暮らしだからでも、生活必需品が少ないからでもない。
単純に、住人が風邪を引いたからだ。
ことの起こりは昨日。
普段から負担の多い沢田に少しでも楽をしてもらおうと、凄腕家庭教師に相談した結果、大掛かりな雪合戦を開くことになった。チームわけで沢田と離されたり、突如乱入した姉の所為で棄権するハメになったりと散々なゲームだったが、ここまでなら今までもあった話で、別段珍しくも無い。
全員の意識が戻った頃には既にリボーンの姿はなく、寒いから、という沢田の提案により一同で銭湯に行くことになった。ところが体に刺青があるという理由でディーノが入浴を断られ、それに気を悪くした部下が銭湯を買い取るという、金に物を言わせる解決方法をとった。後で聞いた話では、権利は元の持ち主に返したということだが、一度的にキャバッローネファミリーの持ち物となった銭湯に小一時間浸かって、漸く解散となったのだ。
問題は、その後だった。
沢田と別れ、山本と別れ、漸く自宅につく頃には折角銭湯で温めていた体もすっかり冷え切ってしまい、暖房を入れて即ベッドに入り込んだのだが、目が覚めれば体が起き上がらないほどの熱で。
見事に、風邪を引き込んでしまったのだった。
「うう、さむい…」
握り締めていた携帯電話を離し、もそもそと手を布団に入れ込む。
どうにかして沢田に、今日は学校を休むという連絡だけは入れたが、返事を確かめる余裕も無い。耳元でぶるぶると震える携帯を取るのも億劫で、心の中だけでスミマセンと謝る。
思い出してみても、昨日のあの湯冷めが一番の原因だろう。雪合戦の間は寒さを感じなかったし、気絶から目が覚めたときも同じだ。他に思い当たることが無い。
失敗した、と今朝目が覚めてから何度も思ったことを反芻する。
冬も終わりに近づき、季節は春を後ろに控えている。こんな時期に引く風邪は長引くだろう。おまけに質素なこの部屋には、体温計や風邪薬もなく、常備している飲み物だって水が二、三本くらいのものだ。どう考えたって、長引く。
こんなことなら夕べ、沢田の家に泊めてもらえばよかった。ディーノが宿泊するということで、よければ山本君と獄寺君も、と沢田の母親に言われたのだが、断腸の思いでお断りした。今の沢田家は人口密度が高い。自分などが居れば、沢田に余計な負担をかけるだろう。そう思ったからなのだが、こんなことになるなら、と後悔ばかりが押し寄せてくる。
体調管理も右腕の務め。
せめて薬を買いにいく程度には回復しているといい、とわずかな望みを託して、獄寺は目を閉じた。
かちゃん、というわずかな音で、不意に目を覚ます。
枕もとの時計を見上げれば、夕方の五時を大きく回っている。もう社会人の勤めも終わる頃だろう。隣の住人でも帰ってきたのだろうか、と覚醒し切れない頭でぼんやりと考えながら体を起こした。
睡眠でいくらか回復したのか、体を起こせるくらいにはなっていて、これで薬を買いにいける、と息を吐く。市販薬でも、飲んで一晩寝れば明日には学校に行けるだろう。
膳は急げだ、とベッドから立ち上がりかけて、獄寺は違和感に足を止めた。
この部屋ではこの小さな目覚まし時計だけが時間を知らせるもので、後には何も無い。テレビもラジオもなく、枕元に置かれているのはそれだけのはずなのに、今は違うものが三つほど追加されていた。
封の切られていないスポーツドリンクが二本と、市販ではない、病院で処方されたらしい薬袋。
手に取り開けてみれば、中には三日分の薬と、服用方法が印刷された紙が入っていた。解熱と抗生物質と胃薬。典型的な風邪の処方だ。
表の患者名を見ても、無記入のまま。
ただ、下のほうに印刷された病院名には、見覚えがある。
並盛中央病院。
院長以下全ての職員を、たった一人の中学生が支配する病院の名前。
それを見なければ、沢田が見舞いに来てたのか、シャマルが様子を見に来たのか、と考えただろう。けれどこんな病院の、きちんと処方された薬を無記名で持ち出せる人間に、心当たりは一人しかいない。
うつらうつらとした意識が、一気に目覚め頭が回る。目が覚めたときにしたあの音、あれは隣の住人ではなく、誰かがこの部屋から今出て行ったという音だったんじゃないのか。
慌てて布団から飛び起きる。床は暖房のおかげか冷たくもなく、そのままの勢いでベランダに走った。窓をあけ、薄暗くなり始めた外に踏み出す。
「…雲雀っ」
手すりに手をかけ下を覗き込む。薄暗くなってきた道をぽつぽつと照らす街灯が、足を止める黒い背中を照らしていた。
「お前、なんで」
がらがらの声が、階下の雲雀に届いたとは思えない。
けれど雲雀は、いつもの肩をすくめる仕草をして、くるりと街灯の下で振り返る。
「僕の手元には、毎日欠席者の報告が届く。君の名前があった。沢田に聞けば熱を出したという。だから来ただけだよ」
単語をつなげたような言葉は、それだけ聞けば冷たく聞こえるだろう。
でも今部屋の中には、彼が持ってきたと思しき薬がある。飲み物がある。言葉よりも雄弁に、行動が心情を語っている。
「薬を飲んで、さっさと寝ることだ」
じゃあね、と小さな声が聞こえる。振り返った時と同じように踵を返した雲雀は、呼び止める間もなく、夕闇に染まり始める道を歩いていった。
「なんだよ…」
ぎゅ、と冷たい手すりを握り締める。
がらがらのかすれた声。この声が届いたとは思えない。今更張り上げても無駄だと判っていても、今、声に出して言いたかったのに。
「礼のひとつくらい言わせろ、馬鹿」
雲雀の姿が完全に見えなくなってから部屋に戻ると、今まで横になっていたベッドに、見覚えの無い何かが乗せられていた。紫地に白で模様の入ったそれは上着のようで、ジャケットでもコートでもない不思議な形をしている。これも雲雀の持ってきたものなんだろうと袖を通すと、嘘のように暖かい。多少もこもこするが、それは傍目にも暖かそうだろう。
おまけに、使いもしないキッチンには小さな鍋が掛かっていて、中には湯気の残る粥が満たされ、なんともいえない気分になる。
「あいつ、なんで女じゃないんだろう…」
女なら絶対口説く、と言っても意味の無い事をつぶやきながら、粥を口にした。卵の溶かされた塩味の粥は、味覚の怪しい今自信は無いが、多分美味くはないものなんだろう。けれど、空の胃に落ち染み渡っていく暖かさと、心に広がる別の暖かさが、それを何にも負けない食事にした。
そうして体を暖め薬を飲んだ獄寺は、再び布団にもぐりこむ。
暖房の温度を適温に設定し、布団に入るには嵩張り過ぎる上着を布団の上に広げて、暖かさに包まれたまま見る夢はさぞかし心地よいものだろう。
明日にはきっと学校に行ける。
沢田に侘びをいい、そして出来れば、雲雀に礼を言いに行こう。
ついでにこの上着の名前を聞いておこうかと、ぼんやりと考えているうちに薬が効き始め、この日二度目の就寝となった。
その日見た夢は、戸締りをちゃんとしなさい、と顔も覚えていない母親に叱られる夢で。
翌日、全く同じ言葉を雲雀に投げかけられることになるとも知らず、獄寺は懇々と眠り続けた。
アニメエンディング画より。獄寺半纏!! ▲