reale in tempo

 過去を思い出すことは容易い。
 けれど、正確に、となると、これが案外難しかったりする。
 たとえば、この日にどこに遊びに行ったのかはちゃんと覚えているのに、じゃあ何時にそこを出たのだといわれれば曖昧にしか判らない、といった具合の、そういう記憶の曖昧さだ。こればかりはしょうがない。人間は所詮機械じゃない、全てを正確に覚えておくことなど出来るはずもないだろう。
 でも、そうも言っていられない状況、というものもある。

「…時間がないな」
 ぽつ、と時計を見ながらつぶやいて、雲雀は歩を早めた。
 覚えている限り、過去の自分と今の自分が入れ替わる時間まで、残り一時間もないだろう。どういった仕組みなのか、未だ研究途中である御伽噺のような道具を使い行うタイムスリップは、九年と数ヶ月前に初めて経験した。そろそろ霞がかかりそうな記憶を引っ張り出して、出来るだけ正確に思い出した時間を遵守し、歩く。
 もう少しだ。もう少しで、届く。

 どこからともなく、かちん、という音を聞いた気がして、獄寺は顔を上げた。
 未来から過去に飛ばされて数日。財布もタバコも置いてきてしまったから、結局行く当てもあるわけではない自分は、兄だと偽ってかつての自宅に居座っていた。面影が多少でもあるのか、それとも微妙な外国語訛りを演じた所為か、相手はあっさりと信用し合鍵を渡してくれた。助かったのは助かったが、少し、不安にもなる。
 あれから、山本も笹川もハルも、ランボにイーピンすらこちらに飛ばされた。当初の予定通りというか、記憶どおりだということを差し引いても、今未来にいる過去の自分が落ち込んでいるだろう穴を思ってため息が出る。
 冷静に考えればわかることだ。深く思い悩むな。お前なら、俺なら、出来る。
 そう遠くから祈り続けることしか出来ない。人間なんて無力だ、リングだボックスだとどれだけ騒いだところで、所詮は道具。なければ何も出来ない。
 座り込んでいたベッドから立ち上がり、適当に服を正して部屋を出た。過去の自分は、財布は持っていってしまったようだが、幸にもカードだけは自宅に残してくれていた。おかげで、いつまでも堅苦しいスーツを着ていなくて済む。
 上着代わりのシャツを着込んで、靴を履いて、歩く道は相変わらず穏やかだ。
 イーピンやランボは、過去に行きなれている。事情はすぐに飲み込むだろう。山本も頭だけは柔軟だ。状況を判断し、適切だと思った場所にいる。まあ、実家のすし屋だが。おおらかな父親は息子が一晩で十歳年をとっても笑って済ませてしまうらしい。
 逆に、笹川やハルなど、実家に戻れないものもいる。状況だけは理解してくれたのか、大人しくホテル暮らしをしていて、ここ数日はなつかしのなんとかツアーと銘を打ち遊び歩いている。そうでもしなければ、不安で仕方ないのだろう。
 過去はこんなにも穏やかだ。静かで、毎日が穏やかに過ぎていく。
 こんな日々を望んだわけではなかった。でも、近しいものを望んでいた。
 マフィアなんて商売をしていながら静かな日々は暮らせないだろうが、できるだけ主の意に沿った、悪事に手を染めない生活がしたかった。日の下を歩けるような、そんなものになりたかったのに。
 過去に入ると思い出す。
 きっと、自分はこの延長線上に居たかったのだ。
 中学生なんて、楽しいばかりの日々を、永遠と。

 かち、かち、と聞こえるはずもない秒針の音が頭に響く。
 打ち込まれる打撃は強く、指にはめられたリングは最強と名高いリングに肩を並べようかというほどのもの。おそらく、もうリングの一つも残っていない自分では、太刀打ちどころか指先一つ触れられないだろう。
 それでもいい。リングを全て使い、ボックスを無理やり開口してでも、この男に手傷を負わせる必要があった。
 後から来る、者の為に。
 ああ本当は、こんなことに手を取られている暇はないのに。
 あの巨大な機械。過去とのつながり、向こうからこちらにつながるラインを一方的に遮断したと思われる、あの機械。そこに、もう既にたどり着いていなければいけない時間なのに。
 楽しくてしょうがない。
 ボンゴレは今の時代でも最強の名を欲しいままにしていた。ほんの少し前、そのトップを亡くす、などという失態を演じるまでは。
 最強名高いファミリーの次期ボス。弱いはずがない。それを卑怯な手の末あっさりと葬った男の下につくには、随分とプライドの高いだろう男が、ぜい、と息をつく。酸素密度が低くなってきている空間に慣れていないのだろう。
 時計を見れない。
 けれど、時間は確実に迫っているはず。
 ああ本当に、どうしようもないほど、楽しい。
 頬が裂け血が吹く。打撃が腕に入り、骨のきしむ音がした。愛用の武器は既にその姿をなくし、グリップすら残っていないのに。
 惜しい。この時間は、もうすぐに終わってしまう。自分は、この時代から、戦いというリングから追い出されてしまうのだ。
 判っていたことだし、だからこそリングを全て使った。
 それでも惜しいと思ってしまう自分に笑ってしまう。もう、時間も何もかもずれ込んでいて、全て予定が狂ってしまっているのに。
 最後の一撃が向けられる。
 かちん、と音がした、気がした。

 人影も疎らな建物の前で足を止める。
 カレンダーどおりなら今日は平日で、一応は学校というシステムが稼動しているはずだ。それを縛るのが校則という決まりで、破るのが自分たちだった。はたして授業などいくつまじめに受けたのか。
 見上げた窓が開き、ひらひらとカーテンが踊っているのを見て、笑う。
 システムが規則を正しく履行できるようにと見張るはずの機関、そのトップは、規則を大幅に無視してあの部屋で横にでもなっているだろう。守れ、という立場の人間が守らないのだから、本当に意味がわかっているのかと問いただしたい気分だ。
 時計に目を落とし、時間を確かめる。
 正確な時間を聞いたわけじゃない。そもそも、本人も覚えていなかった。大体この辺じゃないかな、なんて曖昧な話を、もう随分前に聞いたのだ。
 気配のない校舎に入り、静かに廊下を歩く。出来るだけ、気配を殺して。踊り場をいくつか経由して、たどり着いた扉の横にある壁に背を着いた。
 もう一度時計を見る。かち、かち、と秒針が進むのを、息を殺して待った。
 数え始めて、二分。かちん、と今までと違う音を、秒針が立てた、気がした。
 同時に、室内から、ぼふん、という間の抜けた音がする。振動で揺れた扉が落ち着くのを待って、壁から身を離し、躊躇いなく扉を開けた。
「…よう、いい姿になってんじゃねぇか」
 狭い室内。置かれた応接セット。何のためにあるのかわからない旗。真正面に置かれた物々しい机。
 そして、ソファの横に立つ、血だらけの黒い男。
「やあ」
「何してきたら、んな血だらけになれんだよ」
「少し遊びが過ぎただけだ。楽しくて、つい時間を忘れた」
 ふ、と笑う口元に、血が這う。こんなにも血を流している姿は、滅多に見ない。
「ま、でもテメェも飛ばされたんだ。諦めるこったな」
「判ってるさ」
 目元にかかる血を鬱陶しそうに袖でぬぐう。赤が引っ張られて、余計に広がった。
「ったく、拭くもんも持ってねぇのかよ」
 わざとらしく息をついて、一歩、近づいた。
 昔はあんなに広く感じた部屋なのに、妙に狭く感じる。体が大きくなった所為だろうか。遠いように感じた距離も、すぐに詰められる。
「あーあ、これ顔洗ったほうがいいって」
「判ってる」
「しょうがねぇ。シャワーくらい貸してやっけど、せめて顔だけでも目立たない程度に拭いてこいよ」
 ほら、とポケットに入れたハンドタオルを顔に押し付ける。
「…用意のいい」
「ったりめぇだ」
 ごそごそと顔をぬぐう雲雀が、そのタオルをどける。黒い髪や黒いスーツには、一見しただけでは血は認められない。目立たない所為だ。
 馬鹿みたいに白い肌に散っていた血だけを丁寧にぬぐい、頬に残る傷だけを残した雲雀を、そういえば随分久しぶりに見る気がする。ここ数日、もっと若い、幼い彼しか見ていなかったから。
「…ま、あとは若いもんに任せるしかねぇさ」
 血の拭われた、白い頬に指で触れる。暖かくて、めまいがしそうだ。
 するりと指を滑らせ、頬を撫でて、髪に触れる。
「あれ、なんか… 短くねぇ?」
 最後に雲雀に会ったとき、確か今よりかなり長かったはずだ。顔を隠していて、それが面白くなくて、つい憎まれ口を叩いた覚えがある。
「あれから少しして、切ったから」
 誰かさんが煩いからね、と余計な一言がついてきた。
「うるせぇな。ああ、うん、けど」
 記憶よりも短い髪に、ほんの少し、指が絡む。すぐにほどけてしまうそれを見て、笑った。
「短いほうがいい。似合う」
 顔が良く見える。
 そう、口に出さずに足した一言が聞こえるはずもないのに、聞こえたように雲雀も笑んだ。穏やかな、柔らかい笑みで。
「隼人」
「何?」
 髪に触れた指がとられる。まだうっすらと血の残る唇が触れ、黒い瞳が細められた。
「久しぶり」
 漏れた一言は、聴きなれた言葉だ。
 けれど、何より一番聞きたかった、声。
「…うん。久しぶり」
 幼い姿も良かった。懐かしさばかりで、指先一つ、触れることはかなわなかったけれど。
 けれど、どれだけ良くても、懐かしくても、そこはもう過ぎてしまった時間だ。リアルタイムじゃない。自分にとってのリアルタイムは、今、目の前にいる。
 曖昧にしか思い出せない時間。記憶。
 でも、これだけは間違いじゃないから。
「雲雀」
「何?」
 離れた指を伸ばし、頬の傷に浮く血を拭った。そこに、軽く口付ける。
「会えてよかった」
 過去も、今も、全部ひっくるめて。
 それだけは、嘘じゃない、間違いじゃない。
 記憶も時間も曖昧になるけれど、思いだけは、ちゃんとあるから。
 つぶやけば、僅かに目を見開いた雲雀が、すぐに笑う。
 そうだね、なんてらしくない甘い言葉を返した唇が、静かに触れてくるのを待って、獄寺はゆっくりと目を閉じた。

過去組は捏造ばかり。でも山本はありえそう。