蝉時雨

 まだ夏も終わらぬ九月の初め。
 並盛中では、夏休みの間に出された課題をものに出来ているかどうかの休み明けテストが終了し、各自にその結果が返され始めていた。手元に散らばる点数に嘆くものもあれば、安堵に胸を撫で下ろす者も居る。
 十人十色のその中で、ただ一人だけ、満点のテスト用紙を大量に抱えながら、妙に憂鬱そうな表情を浮かべた生徒が居た。
「獄寺君、ちょっといい?」
 手にした紙に、×印と平均点以下の数字ばかりを並べた同級生がその前に座り、ここなんだけど、と質問している間も、どこか上の空で。
「こんなのわかるわけない… 獄寺君?」
 ひら、と目の前で手が振られる。それで初めて気がついたかのように、緑色の瞳を瞬かせて、無理な笑顔を貼り付けた。
「す、すみません十代目、ついぼーっとしてて…」
「いいけど… どうかした?」
 下から覗き込んでくる大きな明るい色の目に、一瞬だけ、顔をしかめる苦悶の表情が映った。けれどそれはすぐに消え、いいえ、と笑顔に切り替わる。
「ここのところ残暑がきびしくて、夜寝苦しくて。寝不足が出てるみたいっす」
 天然の、染めているわけではない銀髪を掻き上げて、笑う。
 それを見上げながら、バレバレの嘘だなぁ、と気づきながらも、口に出されることはなかった。
 確かに嘘なのだろう。それはもう、見た目でも明らかだし、何より直感で来るものがある。これは嘘で、本当は何事か悩みがあるのだろう、と。けれど、さすがにそこまで血は教えてくれない。所詮教えてくれるものは、こんなふうなちょっとした勘程度のことや、したくもないバトルで身を守るために少しだけ先のことがわかるくらいのこと。誰が何を考えているかなんて、到底わかりっこない。
 いつでも隠し事なんて出来ないはずの相手が、必死になって隠そうとしている。
 そのことにまで突っ込んでいいのか、未だに判断は出来ない。
 だから、こんな風にあからさまな嘘で塗り固められた仮面に、手が出せないんだ。
「…俺ってほんとダメ…」
「そんなことありませんよ十代目! これは、ようは使う公式さえ判断できれば簡単なんです。いいですか…」
 独り言のような呟きをどう勘違いしたのか、テストのことだと思ったらしい相手が、つらつらと説明してくれる。都合のいい勘違いだからと突っ込まずにいたけれど、説明してくれる内容は高度すぎて判らない。もっと噛み砕いて教えて欲しい。
 けれど、そんなに器用な人間なのなら、きっと彼は今ここに居ないだろう。
 なんとなく、そんな気がした。
「十代目?」
「あ、ごめん。なんでもない」
 今度はこちらが嘘を吐く番になってしまった。
 そっすか、と言った相手は、引き続いてテスト解説をし始める。
 けれどありがたいその講義も、十分と経たずに付いていけなくなり、数学の誤回答を三つ残してその席を引き上げた。

 秋は嫌いだ、と言う。
 理由はないけれど、この夏から秋に変わっていく季節が一番嫌いだ、と獄寺が眉を寄せてつぶやいた。
「理由もなく嫌い?」
 夏を嫌いな理由は誰でもわかるだろう。特に外国育ちでもある獄寺が、この島国独特の湿気の多い暑さに耐えられるとは、正直思わなかったくらいだ。でも、秋を嫌いな理由が今ひとつわからない。女でもあるまいし、まさか虫が増えるから嫌だ、なんていうはずもないだろうし。
「そんなもんいちいち必要かよ」
 不機嫌を隠しもしない言葉に、それもそうかと空を見上げた。
 既に校舎の中には生徒が少なく、下校時間を過ぎた今、残っているのは部活生と風紀委員、あとは教員くらいのものだろう。テスト明けの部活解禁初日だ。どこの部も、張り切って練習をしているらしい。すぐ下にある音楽室から聞こえるコーラスと、けたたましく響く蝉時雨が、高くなり始めた秋の空に消えていく。
 ここ数日、どうにも獄寺の様子がおかしい。
 元から授業はサボりがちではあるが、九月になってまともに顔を見せていない。夏休みに入る前は、そこそこまじめに登校していたし、九月はじめの始業式にもきちんと出ていた。明けてすぐのテスト期間にもきちんと来ていた。なのに、テストが終了すると同時に、途端に出席が不安定になった。
 今日も、すでにいつも付き従っている同級生は帰宅したというのに、獄寺だけが屋上に留まっている。いつもなら、誰よりも一番隣を歩きたがるくせに。
 理由など知らない。話さないからだ。
 とにかく、夏休みが明けて、否、正確には九月に入って。
 獄寺の機嫌は急降下していった。
「あーあ」
 真隣で横になる獄寺が、急に声を出した。
「早く冬になんねぇかな」
 心の篭らないつぶやき。願っても仕方のない願い。
 一体なんだって、こうも秋を嫌うのか。
 判らないまま、秋空に浮かぶ雲のように、時間は静かに流れていった。

 それから数日したある日。
 ばたばたと廊下を走る音が響き、ついで応接室の扉がノックもなしに開かれた。飛び込んできたのは、どう見ても不機嫌最高潮の獄寺で。
「廊下は走らない」
「っせぇ!! テメェの指導がなってねぇ所為だろ!!」
 何のことを言っているのか、ぴしゃん、と派手な音を立てて扉を閉めた獄寺は、背を預けた廊下側に意識を向けて、やがて肩の力を抜いてその場に座り込んだ。
「隼人?」
「…これだから女ってのは好かねぇ…」
「は?」
 呪詛のように低くつぶやいた獄寺が、ふー、と息をついて上半身を上げる。そのまま這いずるようにしてソファまで来て、隣の空いた場所に頭を落とした。
「何か?」
「廊下、派手に追い掛け回された」
「ワオ。違反者続出だ、委員は何をしてるんだ」
「女のパワーに勝つかよ、お前の部下が」
「……それは、確かに」
 草壁クラスまでなればともかく、他の部下一同はほぼ横ばいだ。力の程度も、頭の回転も、所詮一般の中学生程度。自分の目の届かない場所で女生徒に涙でも見せられたら見逃してしまうかもしれない。
「女子生徒と鬼ごっこでもして遊んでたの?」
「オニゴッコ? なんだそりゃ」
 さら、と銀髪に指を絡めれば、口端にだけ笑みが浮いた。
「知らない? 数人でやる子供の遊びだよ。一人が鬼になって、残りの人間が捕まらないように逃げる」
「ふーん、物騒な遊びだな。日本ってのはワカンネェ」
 他人事のように言いながら、うっすらと目を閉じる。続けて髪を撫でれば、そのまま眠ってしまうのではないかと思えるほどだった。
 不機嫌は鳴りを潜めてきているようだったけれど、閉じられたまぶたが青白い。睡眠不足なのか、それとも嫌いだ嫌いだといっていた秋が深まっていくことが憂鬱なのか。獄寺の機嫌と体調は、日を追うごとに悪くなっているように見えた。
「理由は何?」
「何の」
「追い掛け回された理由。いまさら君が追い掛け回される理由が今ひとつわからない」
 顔立ちが整っていること、外国の血が入っていること、転校生が珍しいこと、成績がいいこと。いろんな要素が付随して、獄寺はとにかく女子生徒たちの興味の的だった。中学生なんてそんな時期なんだろうか、と異性などまるで興味がないために思ってしまうのだが、どうにも女の成長は早いらしい。バレンタインだのクリスマスだのといった行事の時期になると、獄寺はよく追い掛け回されていた。誰に入れ知恵されたのか、いつもの地味な花火を使った撃退も出来ないようで、本当にただ逃げ回っているだけ。
「隼人?」
 だから、そう大した質問じゃないと思っていた。のに。
 むっつりと黙り込んだ獄寺は、ソファに顔を埋めてだんまりの姿勢だ。
「何、その態度は。逃げ場を提供してるんだから、その程度の権利は僕にはあると思うんだけど」
 つん、と撫でていた銀髪を引く。分がないと思ったのか、もそもそと身動きした相手は、こちらとは逆に顔を上げて、ぼそ、と何事か口にした。
「何? 聞こえない」
「…たんじょうび、あしただから」
 いやに子供地味た言いようだ。
「誕生日? 明日?」
 言われてカレンダーを見上げれば、毎日副委員長がめくることが日課になっている日めくりカレンダーは、九月八日を示している。明日は九月九日だ。
「知らなかったな」
 獄寺に限らず、全ての生徒の資料は手元にある。ない場合は、校長から取り寄せることも出来る。が、獄寺に限って言えば、その資料があまりに曖昧すぎて、肝心な情報はほとんど載っていないのだ。
 載っていることといえば、基本的な身体情報と混血であること、出身地、成績優秀と、その程度だ。後から知ったことだが、一応はマフィアといった組織に身を置くものとして腹黒い入学をしたばかりに、自然とそうなってしまったのだそうだ。
 その記載事項の中に、誕生日は、含まれていなかった。
「いい。知らなくて。教える気もなかった」
「……それをどうして、女子生徒が知ってる?」
「しらねぇよ」
 俺が知りたい、といったまま、獄寺はまた沈黙した。
 たかが誕生日。それをきっかけに誰かを追いまわす気持ちなどかけらも理解できないが、それにしてもこの落ち込みようもないだろうと思う。
 知らせる気はなかった、と言った。
 つまり、祝福の言葉が欲しいわけではない。むしろ、欲しくないと、そういったつもりなのだろうか。
 別段誕生日だからといって何か特別なことをするつもりもないし、しなければいけない理由もわからない。その日を境に自分の年齢が一つ増え、学年があがり、書類に書き込む自分の年齢が一つ上がるだけ。ただそれだけの日だ。
 それを追い掛け回されたとなると、不機嫌になる気持ちもわからなくない。
「…暫くここに居れば騒動は治まるだろう」
 風紀委員室こと元応接室には、滅多な理由では教師すら近づかない。
 それを知って飛び込んできたのだろう獄寺は、反対側に向けていた顔をこちらに戻して、うん、とうなずく。べったりとソファに頬を押し当てたまま、それでも多少機嫌は上昇したらしい。
 沈黙が部屋を包む。時折吹く風だけが、どこか遠くで鳴いている蝉の声を届けていた。

 翌日、獄寺は当たり前のように学校に来たが、そのほとんどの時間を逃亡に費やす羽目になった。女子からの猛追撃はやむことがなく、この日こそはという気迫だけが十数人の女子生徒を包んでいた。いつも思うのだが、そのエネルギーをどうして勉学や風紀に向けられないのだろうか。
 結局、逃げ場がなくなった獄寺は当たり前のように風紀委員室に駆け込んできて、その扉を硬く閉ざしてしまった。
「…もうやだ…」
「君も毎回懲りないな。最初から逃げてくればいいのに」
「うるせー。とことんやることやらなきゃ気がすまねぇんだよ俺は」
「苦労する性格だ」
 床ではなくソファに座り込んだ獄寺は、背もたれに頭を押し付けたままぐったりとしている。
 あの不機嫌は、まだ続いていた。秋が嫌いだとつぶやいた理由も、いまだにはっきりしない。
 そのままでも別段かまいはしなかった。テンションが長続きすることもあって、獄寺の感情のゲージは果てしなく頂点を保てるのだが、それもいつか限界が来る。機嫌をとるなんてことは、あまりに面倒だった。
 結局今日も、限界を迎えるべくこうして無為に時間を過ごすだけだ。
「……あー… 本鈴…」
 ジジ、とさび付いたような機械の音がして、次いで古臭いチャイムが鳴り響く。ざわざわと騒がしかった辺りは一気に静まり、学校という建物はその本来の役割を果たすべく、授業中となった。
「追い返さなくていいのかよ」
「追い返したところで素直に授業に行くとは思えない。それなら、屋上で煙草をふかされるよりここで寝ててくれたほうが風紀としては助かる」
「あ、そう」
「だから」
 手を伸ばし、うつぶせたままの獄寺の髪を掴む。それをそのまま、ソファに押し付けた。
「ぶっ!! な、なにしやがるテメェっ」
「少し寝たら?」
 手の下から見上げてくる緑色の瞳が、驚愕で見開かれる。何を、とつぶやく声が、かすれて聞こえた。
「休み明けからこっち、まともに寝てる顔を見たことがない。嫌いだかなんだか知らないけれど、起きてたらさっさと過ぎるとか、そういうものじゃないんだよ、季節っていうのは」
 掴んだ髪を離し、がしがしと混ぜる。撫でる、とは違うしぐさに、それでも緑色の瞳は閉じられなかった。
「気づいて…」
「当たり前。僕に突っかかるつもりがあるのなら、せめて体調を万全にするんだね」
 まったく、打ちのめす気にもならないほど、今の君は弱い。
 最後の言葉に、ぐ、と口をつぐんだ獄寺が、素直にソファに沈んだ。
「…あんま、寝たくねぇだけだ」
「ふうん」
「寝たら、いやな夢、ばっかり見る」
 散らばった銀髪の影から、弱々しい色をした瞳が見えた。虚ろに、ここではないどこかを見ているような瞳は、やがて閉じられ、苦しげに眉間に皺が寄る。
「誕生日なんか、嫌いだ。こんな日、こなきゃいい」
 苦痛に満ちた声。握りこまれる拳。散らばった髪が青白い首筋に絡んでいて、それは随分と挑発的な光景だったはずなのに、ぴくりとも食指が動かない。
「…そうだね」
 代わりに出てきた言葉に、握りこまれた拳がかすかに動いた。
「誕生日なんてどうでもいいと思うよ。ただ生まれてきただけの日だ、記念日になどなりはしない」
 己の誕生日ですら、ただ学校の休みに組み込まれているから覚えているだけに過ぎない。獄寺の誕生日だという今日のことも、おそらく、忘れてしまうだろう。
 覚えていたところでどうなる。年をとるだけだ。
 大切なものは、別にある。
「生まれた日に意味はないよ。君が生まれてきたこと自体にこそ意味がある」
 手にしていた文庫本を閉じる。ページが終わってしまった。
「あの女子生徒達は何を言いたくて君を追いかけるのだろうと思うよ。僕は、君に祝いの言葉をかけるつもりはないし、必要もないと思っている」
 さわりと風が吹き込む。夏が終わりに近づき、秋がすぐそばに控えているこの時期、風が冷たくなっていくのを感じるのは心地よかった。
「僕は、いつでも感謝しているだけだ」
 誰とも知らぬ男女が出会い、子が成される。やがて成長したその子が、今目の前で不貞腐れている男だというのなら、名も知らないその二人に告げるのは感謝でしかありえない。
 それに誕生日など関係ない。たった一日だけの感謝に、なんの意味があるというのか。
「……っ、かじゃねーの…」
「失礼だな」
 それでも、まあ。
 声が震えていたことを見逃す、その程度のことなら、今日限りでもいいのかもしれない。

 五日後、手元に届く欠席者名簿の中に、獄寺隼人の名があった。欠席理由は特になく、ただ手持ちの携帯電話には、イタリアに行くが明日には戻る、とだけ書かれたメールが入っていた。
 次の日に登校してきた姿は、夏休み前と変わらぬ姿で、けれど憑き物が落ちたように、どこか大人びた風でもあり。

 イタリアへの帰国理由が実母の墓参りだったと知ったのは、蝉の声が途絶えた秋の終わりだった。

誕生日の五日後が命日なんだよな、と思って。暗くてすみません。