君の居ない世界・3

 途切れ途切れの獄寺の声は、無線を通じてほとんどの人間に知らされていたらしい。
「この基地は、移動する。一区画ごとに移動できて、その所為で、バラバラにされた」
 聞きながら、そういえば昔そんな映画があったな、と思い出す。一区画ごとに区切られた場所を行き来して、最終的にゴールを目指す、というものだ。区画にはその場所を正しく通り抜けるための出口が一つだけ用意されていて、それ以外を通ろうとすると何かしらの罠が働き、最初は数人居た味方が一人、また一人と脱落していくという、ホラーに分類される映画だったように思う。たまたまテレビを付けたまま寝てしまって、目覚めた夜中に目に入った映画は、子供心に恐ろしく結末まで見た覚えが無い。
 状況とあまりに違いすぎる暢気な感想に自分で呆れたが、かわりにすんなりと理解できた。
 つまり、出かけに確認してきたはずの基地内の地図は、ほとんど役に立たないということだ。今自分たちの居る位置くらいは脳内で把握していたが、獄寺の言葉を信じるなら若干の誤差があるだろう。若干、であると願う。
「とりあえず、雲雀の元に向かいます」
 肩に担ぎ上げた二人のうち、一人には意識が無い。体は鍛えられている人間だし、最悪の事態は免れるとは思うが、やはりこのまま長時間放置しておくのは危険だろう。
「雲雀…?」
 きてんのか。
 小さな、本当に小さな呟きが聞こえた。
「ええ、私とは別行動ですが」
「って、なんか、奇襲が…」
「ああ」
 獄寺の言葉に、思い出す。確かに彼らが基地から出て行くと同時に、ボンゴレ基地内部にある倉庫に誘き出された殲滅隊を、雲雀は一人で相手にしている。が、そんなものは、彼にとっては準備運動にもならない。
「怪我一つ無く戻りました。着替えだけはしましたが、負ったのは返り血だけです」
「そう、か」
 ふう、と左隣から吐息が漏れる。
 心配していたのだろうか、とふと思って、違うな、と首を振る。
 心配などしていなかったはずだ。雲雀が、獄寺が負けることなどもうないと、そう信じていたように。獄寺もまた、雲雀が負けるはずが無いと信じていただろう。
「ちっ… 怪我の一つでもすりゃよかったのに…」
 下手な舌打ちと憎まれ口。
 ここに雲雀がいたなら、いつもの言葉を聴かされていただろう。
「…可愛げの無い」
 耳の奥によみがえる、言葉の意味とは正反対の、いつくしむような声。
 早く聞かせてあげられればいい、と思う。
 遠く、手の届かない過去に行ってしまった、かの人に。

 体を支える肩が、右から左に変わる。滑り落ちるようにして崩れていく体を支えたのは、今まで世話になっていたそれとは全く違う、細く華奢な肩だった。
「この男には借りがあるからね」
 渋々、という言葉がぴったりに思える、面白くなさそうな声。
 そういえば随分前に、同じように体を支えられたことがあった。あの頃はまだ、指輪も匣も知らなくて、ただ迫り来る敵を倒すことだけに躍起になっていた。役に立ちたくて、自分の存在を確かなものにしたくて、今思うと随分な無茶をしたものだと思う。
 あの時も、借りだ借りだと、そんなことばかり言っていた。夕べのことにしたってそうだ。瓜をわざわざ連れて来たからと礼を言ったのに、期待しない、とあっさりと切り捨てて、貸しなど無いことにしようと。
「ひ、ばり」
「何」
 ここ数週間聞いていた声よりも、少しだけ高い。支えられる肩の位置に差が無い。長めの黒髪が鼻先を掠めて、左腕を握る手が熱かった。子供体温だ、なんて口にしたら、多分叩き落されるだろう。
「悪ぃ」
「どれに対してだい」
 ぐ、と体を沈めた雲雀が、掴んだ腕を引く。左肩から右肩に、背中を経由して移動させられた。
「無断欠席、無断外泊、挙句傷だらけになって」
 すぐそばで、黒い瞳が睨みつけてくる。至近距離で見る顔は傷も少なく、あの時とっさに出した武器の一つがその身を守ったのだとわかり、なんとなく嬉しかった。何一つ変わらない、十年経った後も変わらなかった憎まれ口が、何故だろうか、妙に懐かしくも感じる。
「…何笑ってるの」
「笑ってた、か?」
「……自覚が無い馬鹿は相手に出来ない。いいから黙ってて」
 呆れたように目が細くなり、ふい、とそらされる。
「副委員長、もう一人」
「ですが」
「早く。時間が無い」
「…へい」
 言うなり、肩にかけていた腕に別の腕が圧し掛かる。見れば、既に意識がなくなって久しい笹川がぐったりとしたまま抱えられていた。
「おま、二人も」
「煩い」
 足を踏み込んで雲雀が歩く。
 無茶だ。こんな細腕で、二人も人間を抱えて歩くなんて。まして笹川は意識すらない。意識が戻りさえすれば自分の力で回復の出来る男だ、どうとでもするだろうが、全身の力が抜けた状態の成人男性を抱えられるほど、雲雀にだって余力は無いはずだ。
「はな、せ」
 歩こうと思ったら、歩ける。いざとなったら瓜を出してもいい。
 だから、と腰を支える腕を掴む。力の入らないそれは、掴むというよりはただ添えただけだったが。
「歩ける、から。離せ」
「煩いと言った」
「痛っ」
 腰を引き寄せられ、足に痛みが走る。思いっきり傷をえぐられ、折角入っていた足の力が一気に抜けていくようだった。
「てめっ」
「黙って抱えられてなよ」
 話している間も、雲雀は進むことをやめない。数歩後を歩く草壁の背には、山本とラル・ミルチに加え、足元のおぼつかないクロームまでもが負われている。余力など、誰にも無いはず。一つでも負担は減らすべきだ。
 それなら、意識があり、まだ自衛手段がある自分が妥当、なはずなのに。
「いいか、僕は腹が立ってるんだ」
 前を見続けたまま、降り注ぐ瓦礫の音に混じって、声が聞こえる。
「何週間も無断欠席をした挙句、傷だらけになって、こんな場所にいる。君も一度、味わってみるんだね」
 それがどれだけ、味気ない世界か。
 おおよそ人間の生活というものに組み込まれている、睡眠、食事、運動、勉学。その全てがどうでもいいように感じる、あの世界。
 もう二度と味わいたくなどない。
 味気なく、色の無い、君の居ない世界を。
「もう一度だけ言う。黙ってて」
 歩き続けていた雲雀の速度が変わる。真後ろに豪快な音を立てて崩れ去る建物が続き、振り返った視界には、紫色の何かがその向こうに消えていくのが見えた。この速度で崩れられたのでは、逆に手放されたほうが負担かもしれない。
 右手で黒い学生服を掴んで、握りこむ。頬に触れる制服の感触が懐かしい。目を閉じれば、制服から漂うかすかな太陽のにおいが感じ取れる気がして、それは二週間も地下に潜ったまま修行に明け暮れていた身には懐かしかった。
 帰れたわけじゃない。ここはまだ絶望に満ちた未来の世界で、今自分たちの立たされている状況は最悪だ。楽観できたものではないし、何より今が一番のピンチだ。
 なのに、良かった、と思ってしまっている自分が居る。
 草壁と交わしている会話が、すぐそばで聞こえてくる。触れた体から声が響くのが、不思議で、嬉しくて。それに安堵してしまっている。こんな状況なのに。
「雲雀」
 搾り出した名前に、返事は無い。黙っていろと言ったきり、雲雀はこちらに視線すら向けなかった。
「戻ったら、二週間… 修行した成果、みせてやんぜ。ぶっ飛ばしてやる」
 足に力を込めて立ち上がる。肩を掴む手の力を緩めて、出来るだけ自分の力で歩いた。
 戻らなければ。還らなければ。とにかく今は、生きて。
 それは大した力ではなかっただろうし、引き摺るようにして歩かされること自体には変わりなく、雲雀の負担も大して減りはしなかったんだろうけれど。
「可愛げのない」
 そう返ってくる言葉は、ほんの少しだけ笑いを含んでいて。
 帰ってきたわけじゃない、でも、手が届く場所に雲雀が居て、笑っているんだから大丈夫だろうと、根拠も無く思った。縋った肩は華奢で、それなのに草壁のそれよりもずっと安心できる。彼には悪いけれど。
 左手を握りこんで、力を入れる。まだ炎を灯せるだけの力はある。
 帰る。必ず。
 全員で、またあの、笑っていられる世界に帰るんだ。

 その覚悟で、灯してみせる。

まさかあの短時間で、とは思うんですが。うん。