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「それでなにが気に入らないの?」
ある休日の午後。
扉を叩いた自分を、ふて腐れてます、という顔をして出迎えた獄寺は、面白くありません、という雰囲気を隠しもせずにソファ代わりのベッドを陣取ったままぴくりとも動かなくなってしまった。
一体なんだってこんなことをしているのか。その理由すら一言も言わないで、何かを察しろと言うように、黙り込んでいる。
とはいえ、自分には全く何の心当たりも無い。これは、別に自覚が無いとかそういう意味ではなくて、本当に、心当たりが無いのだ。
昨日は休日だったが、当然のように登校した。普段は授業や制裁に手を取られて進まない書類整理や雑務が山のようになっていて、世の中は週休二日で休みだというのに、風紀委員には全く関係がなくなっている。そもそも一委員会であるはずの風紀委員に、こんなに仕事ばかりが増えているのはおかしなことなのだが、違反者の報告、その程度、校舎の破損部やその優先修復の要請書など、副委員長以下がほとんど役に立たない委員では処理速度が速いわけもなく、結局こうしてほとんどの処理が委員長の手に収まってしまうのだ。一人で片付けるには無理が出てくる。
ようやく書類が片付いたのはもう夕方近くて、そろそろ正門を閉める、という当番教員の言葉を受けてようやく席を立ったほどだ。
それでも仕事は残してある。書類には全て目を通したし、緊急性の無いものは全て後回しにした。
日曜日でもある今日は、つまりかなり無理をして作った休日だったのだけれど。
「て… メェ、んな時間になんの用だ!」
そう、とても人を出迎えるときにかける声ではないような怒号を響かせて、眉間の皺も最大級、不機嫌も満載の獄寺に、出迎えられたというよりは怒鳴りつけられた。
昨日一日を閉じこもってばかりいた自分には、今日のこの時間に獄寺を怒らせるような心当たりが全く無い。携帯は常に持っていたし、何度か草壁から報告があった程度で、他では鳴りもしなかった。だから、彼からの連絡を無視したと、そういうこともない。
色々と理由を考えてはみるが、何一つとして浮かび上がってこず、降参だと問いかけてみれば。
「テメェで考えろ」
だけだ。
どうしろというのか。
全く、普段はぎゃあぎゃあと煩いくせに、こんなときばかり静かになるのは卑怯だ。
時間はすでに、二時を回っている。この部屋に入って三十分は経ったのに、よく怒りが持続されるものだ。
これ以上はここに居ても無駄かもしれない。
そう思い腰を上げようかと決意しかけたとき、不意に、ため息が聞こえた。
視線を上げれば、無意識だったのか口を隠す獄寺の顔が、どこか気まずそうに見える。思わず吐いたため息だったんだろう。
「…それで」
こっちがため息をつきたいくらいだ、と声を上げたい気持ちを抑え出てくる言葉は、どこか平坦だ。無理やり落ち着こうとしているからかもしれない。
「君は、僕にどうしてほしいの。帰れというのなら帰るよ」
居ても仕方ない。むしろ、帰れと言ってくれたほうがいい。
「…んな、あっさり聞くタマかよ」
返ってこないだろうと踏んでいた返事は意外にもあっさりと返ってくる。それでも視線を向けないあたりが、怒りなのか意地なのか。
「僕一人で話し続けるのを見ていたい? 悪趣味だな」
なんと滑稽な姿だろう、それは。
言外に、本当に帰る、と含ませると、ようやく獄寺の表情が動く。戸惑うような、動揺するような、気持ちが揺らいだときに見せる目の色に、怒りの静まりが見えた。やはりいくら獄寺でも三十分の持続は無理だったようだ。
「じゃあね」
けれど、それを振り切るように立ち上がる。
本当に強情だ。どうして、言葉を発することを止めてしまうのか。今もきっと、喉元まで出掛かっている言葉を耐えているのだろうに。
口を突きそうになるため息をぐっとかみ殺し、俯く銀色を撫でて、手を離した。
結構な無理をして作った休日だったのだが、まあ仕方ない。無理やり暴くことも出来るが、疲れと睡魔でその気力もない。とりあえず今日は、触れられただけいいとしよう。
そう自分を納得させて、踵を返した。
扉まで数歩。広くは無いワンルームの部屋では、玄関など無いに等しい。
板張りを歩く。扉を過ぎて、使われた形跡の無い簡易キッチンを抜けて、靴を履き、扉に。
「……危ないんだけど」
がん、と派手な音を立てて、扉に何かが当たる。ごとん、と足元に転がったのは、吸殻の無い灰皿だった。
振り返れば、今まさに投げましたとばかりの姿勢で止まっている獄寺が、肩で息をしている。
「う、るせぇっ。テメェなんかそんなので頭殴られてもっとバカになっちまえばいいんだっ」
「子供みたいなこと言わないでよ」
「ガキで悪かったなっ!!」
怒鳴りつけた獄寺が、目元を乱暴に拭う。
まさか。
「…なんで、泣くの」
「泣いてねぇっ!!」
「嘘にもなってない」
履いたばかりの靴を踵で脱いで、室内に戻る。灰皿は無視だ。
「いきなりきたと思ったら手土産もないのに当たり前みたいにあがりこみやがって」
それは、出迎えた獄寺が、何も言わず扉を閉めもしないし、あがっていいのだと思ったから。
「テメェの家でもねぇのにくつろぎやがるし」
それは、唯一の相手が不貞腐れていて相手にならないから。
「大体、今日何曜日だと思ってんだ」
日曜日だ。
「そうだよっ! 日曜だってのに、俺が、なんで家に居なきゃ…」
さすがにそれは知らない。
けれど、触れた獄寺の頬が熱くて、ようやく判った。
「そう」
指先で撫でるように触れれば、薄く濡れた緑色が細められる。濡れるだけでたまらず、流れもしないそれが、深い緑をさらに深くしていた。
「待っててくれたんだ」
日曜日だっていうのにどこにも出かけず。おそらく毎週のように向かっているだろう沢田の家にも向かわず、ただここで、自分だけを待っていたのか。
「ちっ、が」
「馬鹿だな」
項から指を流して、長くなり始めた髪に絡ませる。するりと解けるそれは見た目よりも柔らかく、言ったことは無いけれど、好きな手触りだった。
「連絡一つで来るのに」
「…それこそ、嘘にも、なんねぇ」
くぐもった声が肩から聞こえた。
「そんなことない」
「ある。ぜってぇある。お前が」
俺なんかに縛られるはず無い。
言いながら背に回る腕は、縛り付けるようにきつく絡む。
それはそうかもしれない。誰かに縛られて生きるなんてごめんだし、自由にならないものが一つでもあるなんて思いたくない。ならないものなどあるはずが無い。
あるはずがないんだ。
「違うよ」
伸びた銀色の髪に唇を寄せる。不思議なほど、タバコのにおいがしない。いつも燻されたのかと思うくらいに移っているのに。
投げられた灰皿。灰は無かった。いつから吸わなかったのだろう。
「君が僕を縛るんじゃない」
影から現れる耳に触れる。びくりと震える肩から手を離して、顎にかけた。
「僕が君を縛るんだ」
寂しいのなら連絡をすればいい。
つまらないのなら文句を言えばいい。
その全ては僕のためにある言葉で、何一つとして、僕を縛るものじゃない。
口に出して言えば、それはまるで茨のように、その身を僕に差し出すために縛り付けることになるだけだ。
「だから、言って」
「ひ、ば」
「君はどうしたいの」
うろたえるように視線を漂わせる獄寺の顎を捉える。指先だけの軽い力なのに、逆らいもしないで緑色の瞳がまっすぐにこちらを見上げていた。
「何が気に入らないの」
「…土曜は休みだ」
「うん」
「なのに、テメェはいっつも学校に引きこもりやがって」
「うん」
「挙句日曜まで学校に引き篭もって」
「…うん」
本当は行っていなかったのだけれど、口を挟むことでもないか。
「…お前が、あんなところに引きこもってたら、俺は、どこに行っても、だめじゃねぇか。出かけることも出来ない」
そらされる瞳。熱を帯びる頬。
力の入っていない束縛から簡単に逃れた獄寺の顔が、真っ赤なまま、肩に沈んだ。表情も何も見えない。
「偶然にすら、賭けられない」
ああ、本当に。
「…馬鹿だな」
「うるせぇ」
「本当に、馬鹿だ。何もわかっちゃいないんだから」
偶然なんかじゃない。それは、確かに何度か本当の偶然も紛れ込んでいただろうけれど、二人が出会うのは、いつも自分が調整しているからだ。それでなくても、この街で大きな騒ぎが起こればたいてい彼らが関係している。その中に、その銀色を見なかったことはない。
どれだけ大切にして、どれだけ真剣に思っているか。
思われている本人が一番知らないなんて、なんて馬鹿みたいな話。
「何がっ!!」
「僕が、どれだけ苦心しているかってことをだよ」
勢いをつけて上げられた顔と、押し付けていた肩の間に顔を滑らせる。これでもう、どこにも逃げられない。
真正面から覗き込んだ獄寺の顔は真っ赤で、それが照れなのか怒りなのか判らなかったが、それもいい、と思う自分の口からは、全く関係のない言葉が滑り出していく。
「ね、キスしていい?」
「……は?」
「すごく、したい。今。だめ?」
「あ、のな…」
本来なら、外国育ちの獄寺は、この程度のことでは動じないだろう。けれど、愛情薄い、というよりは多少ゆがんだ愛情を一身に受けて育ってしまったらしい彼は、交わし方を知らない。
「いっつも聞いたりしねぇくせに」
「今日は別。聞きたいから。いい?」
「それ単なるいじめじゃねーか!! つーか話ズレてる!! わざとかテメェ!!」
馬鹿にしてんのか、と喚く獄寺の間近に顔を寄せる。抱き寄せている所為で引けない。でも、前に少しでもずれれば確実に触れる。その位置で止めて、じっと見た。
「違うよ、聞きたいから、聞いてる。ねえ」
ぐ、と息を呑んだのか判る。
「キスさせて?」
答えは、一つしかなかった。
やっぱり喫煙を、一時的にとはいえ控えていたらしい獄寺の唇には、あのニコチン独特の味も薄く、心行くまで貪れた。腕の中で必死に息を整えようとする獄寺が、しつこい、と憎まれ口を叩くのだって軽く流せるくらいには、気も済んだ。
時計は既に、三時を指している。
残り九時間になってしまった日曜日をどう過ごそうか。眠ってしまえれば最高だけれど、さすがに許してはくれないだろうし、素直に背に回された腕も心地よくて、勿体無くて眠ってられない。
忍び寄る睡魔と闘う委員長は、人知れず葛藤しながらも、うっとりするほど暖かい体を離すまいと強く抱きしめた。
ONOさん家のDAISUKE君のアルバムから。 ▲