この手に未来を

 薄暗い部屋に、風の動く気配がした。
「お久しぶりです、雲雀さん」
 何も変わらないように見える虚空に笑いかけた男は、静かに席を立ち、会釈をする。
「話は」
 ただ暗いだけの場所から、不機嫌そうな声が響く。続いて、かつ、と革靴の音がすると、ようやく明かりの届く場所に人が現れた。上下共に黒いスーツに、小豆によく似た色のシャツ、艶やかな黒髪、冷たい黒い瞳には表情など伺えない。
 どうぞ、と勧めた椅子に雲雀が腰を下ろすのを確かめてから、男も同じように座る。
 小さな小さな、円卓だった。安いビジネスホテルにあるようなそれには、酒が半分ほど入れられている一本のデカンタと氷の入れられたアイスペール、空のグラスが一つに、酒の満たされたグラスが二つ載せられていて、横に立てられたスタンド一つが、唯一の光源になっていた。
「来てくださって助かりました。雲雀さんに直接連絡がとれるかどうか、ちょっと賭けだったんですけど」
 はは、と軽い笑い声を漏らして、目の前にあるグラスをとる。
「草壁さんに話を回してしまうと、どこから漏れるかわかりませんし。あ、いや草壁さんを信用していないわけではなくて、あの人はあくまで一般の方ですから、いざというときに危険に巻き込みたくないですし」
 グラスが回され、中で氷が音を奏でる。暗い室内に流すには、少し場違いな音楽だ。
「ああ、でも巻き込まれてくれなきゃいけないのか。難しいな。出来るだけ、巻き込みたくはないのに」
「ねぇ」
 いまだ空のグラスを前にした男が、声を遮り腕を組む。
「そんな下らない独り言を聞かせるために僕を呼び出したの?」
 いい度胸だと、声より顔より、態度が言っている。
 その空気に、やんわりとした笑みを返してグラスを置くと、黙ったままのもう一人に顔を向けた。こちらは完全に威圧されてしまったらしく、飲みもしない酒を手にしてぐるぐると回していた。
「俺からでは詳しい話をしても意味がないでしょう。話は、彼から」
「えっ!? そ、そんな」
 急に話を向けられて、何かを誤魔化すようにグラスを握る青年は明らかに狼狽する。半分ずり落ちた眼鏡のレンズ越しに向けられた目は救済を求めていたが、男は憂い顔で首を振るだけだ。
「はぁ… お腹が痛くなるから、出来るだけ避けたかったんだけど」
 うだうだと愚痴を続けて、青年はようやく顔を上げた。ずれた眼鏡を直し、持っていただけのグラスも戻す。
 その指には、見慣れないデザインの指輪がはめられていた。

「それで」
 短いようでとても長い説明が終息する。途中、しゃべりすぎて喉が渇いたらしい青年が、水と間違い置かれたままの酒を呷ってしまいむせたことで話は頓挫し、ようやくすべての話を伝えられた男の口から出てきたのは、一から十まで万事何もかもがどうでもいいと言わんばかりの冷めた声だった。
「君は、君の面倒を見ろというのかい。この僕に」
 相変わらず何も注がれないまま、ただそこにあるだけのグラスに向けられた目は冷たい。
 温度というものを感じさせない男だ、と青年は思った。
 事の次第を曝したというのに、動揺すらしない。濡れた烏の羽に似た色をしている瞳はただまっすぐにグラスだけを見ていて、揺らぐ予兆すら写さない。まるで瞳そのものがガラスのようだ。黒く艶めき、それでいて何にも染まらない、ありえないガラスのよう。
 それはあまりに人間臭くない、人形のような表情だった。
「すみません、雲雀さん」
 心から申し訳なさそうな声に、一度も上げられなかった瞳が上がる。誰にも侵されない強い光を宿した視線に、男は自嘲を唇の端に浮かべた。
「どんな言い訳を用意しても、雲雀さんに納得してもらえるものではないと思います。だから俺は嘘を言わないし、彼も同じです」
 ふ、と伏せた視線を向けられ、青年ぎくりとした。
 そう面識があるわけではない、一つ年下のイタリアンマフィア。純粋なイタリア人ではないが、遠い昔に僅かな血を引いた彼の、日本人にしては薄い瞳が憂いを帯びていた。
 そう。今青年が口にした計画であり、男が断腸の思いで可を下した計画は、彼の死を前提に話を進められている、彼にしてみれば死後の話だ。憂いもするだろう。
「遠くない日に、ミルフィオーレからボンゴレに対する攻撃が始まります。彼らが持つリングはとても強力で、ボンゴレリングを破棄してしまった俺たちでは勝てる相手ではありません」
「僕は君たちとは違う」
「勿論です。ですが、雲雀さん一人が有能では駄目なんです。リングが七個であることを考えれば、あちらにも守護者は七人です。そんな無理をさせられない。わかってください、雲雀さん」
「わからないな」
 懇願にも似た声色に、雲雀の返答はにべもない。
「リングはそもそも君が壊させた。やめろという声に耳を貸さずに。なのに、必要になったら過去からひっぱりだしてこようなんて随分だな」
 それに、と続く声が、わずかに揺らぐ。
「この場に三人しかいない。群れないことはいいことだけれど、僕はこれも納得しがたい」
 青年は見た。ガラスのような黒い瞳が、ほんの少しだけ色を映し出したのを。
 それは淡くすぐに消えてしまったが、何が彼の心を揺らがせたのか、言葉を向けられた男には納得がいった。
「…彼らを信用しないわけではないです。むしろ今、この現状において俺が信じるべきは彼ら以外に居ない」
 テーブルの上に載せていた手が震えている。
「だからこそ、彼らを騙さなければいけない。万に一つの失敗も許されないこの作戦には、彼らの命もかかっている」
 ぎゅ、と握り込まれた手が、勢い良く上げられ、顔を隠した。誰にも見られるわけにはいかないと、頑なに拒むように。
「本当の本当は、すごく恐い。一歩間違えたら、この世界は駄目になってしまう。けど俺には、皆が死んでいくことの方が堪えられない。俺は守る力が欲しくて、力を掴み取ってきたはずなのに、それは悪いものを引き寄せる。だからリングも壊したのに、過去の俺たちにまで手を出してそれを手にしようとしている奴がいる。彼の力を借り、その計画を頓挫させることは可能です。ですがそれは危機を先延ばしするだけで何の解決にもならない」
 ぐ、と指先が前髪を握り込む。
「皆、死んでしまうことになる……!!」
 悲痛な、叫びだった。押さえられてはいたし、室内に響くような大声ではなかった。けれどその痛さが伝わり、青年は思わず目を背けてしまった。
 二十歳を越した大人とはいえ、青年と男の間には一歳の差がある。下なのは彼だ。一年前、同じ年だった頃の自分には堪えられただろうか。命を狙われ、愛する人間の命を危機に晒し、親しい友を騙して、その責任を全て背負うことが。
 想像するだけでつらいそれらが、彼には全て現実として圧し掛かっている。小さな、細い肩に。
「……結果、彼らの命が救えるなら、俺は嘘を吐き続けます。本当ならランボもイーピンも逃がしてあげたい。けど逆に危なくなるくらいなら、俺は過去の俺に全て託します。ですから」
 ゆっくりと青年の顔が上げられた。泣いているのかと思った瞳には静かな力だけが宿り、絶対的な決意と炎が揺らめいている。
「不本意だろうことを承知で言います。雲雀さん、力を貸してください。あなただって、むざむざ危険に追い込みたくはないはずです」
 誰を、とは言わない男に、黙って聞いていた雲雀は眉をしかめる。
 少しの沈黙が場を包むが、やがて雲雀がため息を吐くことで、刺々しい空気が打ち消された。
「僕は昔から、君のそういうところが大嫌いだ」
 苦い顔をした雲雀が、組んだ腕を解く。
「…僕は僕が思うとおりにする。かわりに、過去の僕と入れ替わるまでは君の世話も引き受けよう。殺されても文句は聞かないよ、僕にはその理由がある」
「はい」
 物騒な言葉にうなずく男に、心底腹が立ったらしい雲雀は冷たく睨み付けて、席を立つ。
「一つ訂正しておくけど」
「はい?」
「僕はあの子を傷つけたくないわけじゃない。ただ、誰かに傷つけられるのが気に食わないだけだ。だから、君がこれからすることには腹が立っている。君は守るための嘘だと言うけれど、あの子を傷つけることに変わりはない」
 肌だけが明かりに反射し、うっすらと白く浮き上がる。黙って立っていれば、目を見張るほどに顔立ちの整っている男なのだと、青年は初めて気付いた。腹立たしさで寄せられた眉間の皺も消え、黒いガラスには淡いオレンジ色が映り込み、顔立ちを余計に引き立たせている。
「傷なら僕が付ける。どうしても奪わなければならないなら」
 くすり、と薄い唇が笑う。
 暗く、寒気が走るくらい綺麗なのに、どこか危うい笑顔だった。
「僕が殺す」
 革靴の音が響く。再び闇に紛れる雲雀の背が掻き消えてしばらくし、やっと男は息を吐いた。短い期間とはいえ、これでもマフィアのトップとして様々な局面に立ってきた。なのに、やっぱり今でも一番恐いのはあの人だ、と痛感する。
「はぁー… なんなんだあの人… ぅ、お腹いたい」
 男の様子に、雲雀が完全に退席したことを知った青年は、深い深い息を吐く。知らぬ間に止めていたらしく、息を吸うだけで喉が痛かった。
「あの人、ちゃんと計画どおりにやってくれるのかな…?」
「不安は残るけど、大丈夫だと思うよ。簡単に納得はしてくれないけど、嘘は言わないって言ってたから」
 男が薄く笑い、すでに氷と酒が分離しているグラスを持ち上げて、回した。波のたつ音が、耳に優しい。
「さっきから、誰のことを?」
 雲雀といいこの男といい、ずっと誰かについて話している。
 青年の疑問に、男は僅かに笑い、水で薄まった酒を口に含んだ。飲み込まれていく琥珀色の酒がなくなり、ガラスにうっすらと水滴が残る。
「とても大切な人だよ。彼にとっても、俺にとっても。だから交換条件みたいな持ち出し方はしたくなかったんだけどな… 雲雀さんは頑固だから、こうでも言わなきゃ説得できなくて」
「はぁ」
 答えになっていない。そうは思うが、はぐらかされているんだろう。それほどまでに言いたくない事を蒸し返すほど野暮ではない。
「さて、じゃあ俺たちも行こう」
「はい」
 グラスを戻し、男が立ち上がるのに合わせて、青年も腰を上げる。
「上手く行くかな」
「上手くやらなきゃ、俺は睨まれ損だよ」
 冗談めかしているが、目は本気だ。薄い茶色の瞳には、固い決意が籠っている。
 そう。全てを上手く運ばなければ、既に年単位でミルフィオーレの幹部として潜入している青年も、狙われた最強ファミリーを束ねる男も、そしてその親しい人間、最終的にはこの世界さえなくなってしまうかもしれない。
 誰にも未来はないのだ。

 男の手がスタンドに伸びる。
 下がった紐を引いて明かりを消せば、室内は完全な闇に閉ざされて、やがて誰の気配もなくなってしまった。

どんなときでも雲獄。