価値というもの

「そういや、渡すものがあったんだ」
 本当に今思い出した、という顔の獄寺がそう言って差し出したのは、鍵だった。
「きれいだね」
 アンティークなのかずいぶんと古めかしく、新しいものにはない、その鈍い銀色の輝きがきれいで、思ったままを口にした。
「そうか? 古いなとは思うけど」
「きれいというのは、なにも新品にだけ使われる言葉じゃないだろう?」
 たとえば新品の鍵が目の前にあって、人の脂も磨くための油も付着していない状態をきれいと表現する人はいるだろう。誰も触れていないそれに初めて触れるとき、ためらうこともある。無垢なものに触ることで、多少なり汚してしまうという心理が働くからだ。無垢なものは美しいと、そう思う人間は、新品を美しいというだろう。触れづらいと思うだろう。
 けれど、古びた鍵を見て、幾人もの手を経て擦り減りくすんだ色を見ても、そこに施された造形や、長く使用されてきたという歴史に感じ入り、美しいと表現する人もいる。美術館でショーケースの中に飾られた過去の遺物に、心躍らせる人間もいる。触れてみたいと思うだろう。
 相反するが、美しいと思うものを前にしたときには、大体がどちらかに分類される。
「…これ、そんなに価値はないと思うぞ」
 まあ、除外される人間も、確かにいるのだが。
「価値の話ではなかったんだけれどね。それで、この鍵がどうしたって?」
「ああ」
 当初の話題に帰れば、思い出したと獄寺は口を開く。
「少し前に、一部屋買ったんだ。そこの鍵」
「部屋? 家ではなくて?」
「部屋だ」
「どうして」
 獄寺は、一ファミリーに在籍している、マフィアだ。職業としてはあまり褒められたものではないだろうが、彼自身が幼いころから望み、叶えた夢でもある。
 そうして現在、そのファミリーの中でも幹部という立場にある彼は、本拠地として厳重な警備がされた城に一部屋宛がわれ、そこで生活しているはず。何も必ずそこで生活をする必要はないし、家族のある人間なら自宅を構えていてもおかしくはない。が、ひとり身で幹部で、実家もすでに失われて久しい、家族も義姉一人だという彼には、城を出ていく理由もないように思えた。
 それが、部屋を買ったという。
「大した理由はねぇんだけど」
 ちゃり、と小さな音をたてた鍵が、投げられた。
「なんとなく、息抜き用?」
「ふうん」
 短い放物線を描き手の平に落ちた鍵は、暗い銀色の光を放っている。
「もとは長期滞在用のアパートなんだ。買い上げになったようなもんだが、一応それなりの金は出したからな。こっちが住所と、メンテの業者」
 紙が二枚、差し出される。一枚は業者の名刺だったが、片方は獄寺の名が入った名刺だ。裏返せば、流暢な筆記体で住所らしき羅列が書かれている。
「用意がいいね」
「準備してたからな。最悪、五分で別れるときでも渡せればいいかって」
 そう言って、何かを思い出したように、獄寺が喉で笑う。
「そういや、同じようにしてお前の連絡先聞いたことがあるな」
「……ああ」
 何のことかと思ったが、思い出した。
 そのころは、まだプライベートな連絡先を知らせていなかった。そのことで不貞腐れた獄寺に、その場で名刺に連絡先を書いて渡したことがあった。別々にイタリアに渡り、片方は自ら立ち上げた組織へ、片方はすでに作られた組織へ身を寄せたこともあり、ろくに連絡を取り合うこともなかった頃のことだ。懐かしい。
「覚えてたの?」
「いいや。でも」
 ふ、と笑う気配がする。
 喉ではなく、唇の端だけで笑う獄寺は、同じ造作の顔なのに、先ほどとは全く違う表情をしている。
「どっかで、覚えてたのかもな。だから、書いたんだと思う」
 その場で書くのではなく、用意していたものなのならば、他に書く紙はいくらでもあっただろう。それがわざわざ名刺の裏という場所を選び、筆を走らせた。
 その行動に、裏付けが全くなかったとは、言いきれない。
「とにかく、使いたいときに使えばいい。俺も使うけど、あんまり頻繁には使わないだろうからな。メンテ業者には、話を通しておくから」
「うん」
「それと、その鍵古く見えるけど、複製できねぇらしいんだ」
 手の中の鍵を指さす。そう、複雑な作りには見えないが。
「長期滞在用だって言っただろ。頻繁に取り換えることが多すぎて、何代か前の管理人が面倒臭がったんだと。複製できないような鍵にしちまえば、失くされてもふっかけて請求できるし、借りる側も用心するだろうって」
「なるほど」
 賢い選択だ。
「付け替えるのはかまわねぇけど、どっちかの鍵でしか入れないような事態は困るから、用心しとけよ」
「わかった」
 今はスーツの内ポケットに入れておく他に方法はないが、研究所のプライベートエリアに戻ればいくらでもしまいようがある。なくさないよう持って帰ることの方が重要か。
 頷くと同時に、どん、という鈍い音が響いた。体ごと揺れるような、すぐ近くで起きた振動に、獄寺の顔が変わる。
「時間切れだ」
「むしろ、よくこんな時間があったと思うけど」
「確かに。五分で済ませられると思ってたけど、やっぱり時間かかるもんだな」
 苦笑いを浮かべて、獄寺が手にした匣を持ち上げた。なんとも彼らしいカスタマイズの施された赤い箱が、解放を待っている。
「…僕は、この状況下でよくそんな話を持ち出したと言いたいよ」
 ふう、と息をつき、同じように匣を取り出した。
 今日予定していた調査は午後からのもので、部下から伝え聞いていた場所まで移動するべく、町を歩いていた。そんな中で突然起こった戦闘は、最初こそ銃火器を使い行われていたが、流れ弾による被害が減少すると同時に、ごく普通に生活していればお目にかかることのないような奇妙な動物たちが暴れ始めた、らしい。逃げ惑う人間がそう口にしていたのを耳にし、まさかと行き先を変更した。
 その先にいたのが、どうやら抗争中らしいボンゴレファミリーと、その敵対ファミリーだった。
 一般市民たちがいるところで暴れるのを嫌う当主が二代続くおかげで、ボンゴレはめったに表立ってこんな騒動は起こさない。どうせ相手方がおこしたものだろうと予測できていたし、それなら適当に裏から手を回して潰し、匣と指輪だけを奪いさっさと去ろうと、そう思っていた。
 まさか、入り込んだ裏口に、同じように潜入しようとしていた獄寺がいるとは、思いもせず。
 目的を話せば、なら好きにしていいからとりあえず手伝っていけ、と言う。利害が一致すれば協力もやむなし、が風紀財団とボンゴレファミリーの関係だ。まあいいかと頷き、一通りの段取りが終わったときに獄寺が持ち出したのが、件の小さな鍵だった。
「どうせなら、もっと落ち着いた場面で渡してほしかったね」
「贅沢言うなよ。ほら、行くぞ」
 ぼう、と獄寺の指にはめられた指輪が、きれいな赤い色の炎を灯す。
 仕方なく肩を竦めて、同じように指輪に紫色の炎を灯し。
 飛び出していったのは、同時だった。

 騒動からひと月も経たないうちに、名刺に書き留められている住所を訪れた。
 結局その日、獄寺と再会することはなかった。当初の目的でもあった匣と指輪を数個いただいて、さっさと戦線離脱したせいだ。その後、後始末をさせたとかなり罵られたが、こちらとしては、好きにしていいとの言葉に従ったまでだ。後始末まで手伝うとは言っていないし、そんな面倒に好んで巻き込まれていくつもりもない。それでもやはりぎゃあぎゃあと喚く獄寺の電話を一方的に切り、その件は終了にした。
 その時に手に入れた匣と指輪についての研究もひと段落し、ようやくこの場所を思い出した。一緒にしまいこんでいた名刺のメンテ業者に連絡を入れ、少しの間滞在すると伝えれば、用意しておきますと簡潔だが丁寧な言葉を返された。獄寺の言っていたとおり、すでに話は伝わっていたらしい。
 そうして迎えた日が、今日だった。
 辺りは静かな住宅街で、車の音ですら遠い。馬車でも走りだしそうな古い町並みは穏やかで、とてもマフィアの一幹部が隠れ家として選ぶとは思えないような、ごく普通の田舎町だ。
 その一角にあったアパートは、鍵と同じように古い外見の、けれど内装は手入れが行き届いた建物で、アンティークの鍵で開かれた扉とその向こうに広がる部屋も、印象は古いのに、とても奇麗な部屋だった。
「…なるほど」
 獄寺が気に入るのもわかる。落ち着いた、静かな空間だ。
 ソファとベッドの置かれた広い部屋は、もとはリビングとしてだけ使われるべき部屋なのだろうが、寝室の用途も兼ねていて不思議な風景になっている。他にも部屋があるのに兼用している様子が、子供のころ家主が一人暮らしをしていたワンルームアパートを思い出させた。備え付けの小さなキッチンには、あの料理下手がそろえたとは思えないほど充実した調理道具が、やはり使われたことなどないのか、曇り一つなく飾られている。きらきらと反射する光がまぶしいほどに、全く触れられてもいない。
 振り返れば、最後に獄寺がここを去ってからどれだけの時間を無人のままで過ごしていたかわからない部屋が、それでも人の気配を残しつつ、しんと静まり返っていて、まるで、短期間留守にしていた自宅に帰ってきたような錯覚に陥る。
 人は、きれいなものと言われて二つを思い浮かべるだろう。人の手に渡ったことのない新品か、人の手を渡り歩き歴史を刻んだアンティークか。
 獄寺は、この鍵にアンティークとしての価値など無い、と言った。あまり興味もない自分の目から見ても同意見だ。名のある芸術家が施した造形とは言い難い飾りと、傷だらけの表面。金に換えようとしても、二束三文で門前払いが関の山だろう。
 けれど、この鈍くくすんだ色をした小さな鍵には、金に変えられない価値がある。
 なんでもないことのように渡され、なんでもないことのように受取った小さな鍵は、この部屋を守り、そして受け入れてくれるものだ。誰にも知られることのない生活と時間を守り、その場所へと入れる二本だけの鍵。
 だからこそ、初めて目にしたときよりもさらに美しく、かけがえのないものだと思える。新品でもなく、これといった歴史を積み重ねていない、平凡な鍵だけれど。どんな無垢なものよりも、歴史的な遺産よりも、はるかに失い難いもの。
「…なんてね」
 らしくない考えに肩をすくめて、息を吐いた。
 今日は休むつもりでここまで来たのだ。こんなことに神経を使って無駄に疲れたくはない。さっさと休もうと、スーツを脱ぎベッドに横になった。
 目を閉じれば、遠くに声がする。子供たちが騒ぐのか、それは次第に遠くなり、やがて聞こえなくなって。
 周囲がしんと静まり返ってしまうと、広いアパートの一室には、小さな寝息だけが響いていた。

タイトル凝れなくてすみません。ひばりたまおめでとう!