水面下の攻防
日差しの心地よい、ある夏の日。
真夏日でも快適に過ごせるようにと、一定の湿度に保たれているはずのボンゴレ本部内は、一室だけが設定温度よりも体感温度が下がっているという異常事態になっていた。地球環境を全く無視し、広い城のいたるところで空調機器がフル稼働しているにもかかわらず、だ。
起こるはずのない出来事の原因は、機器の故障でも設定の間違いでもなく、その室内にあった。
「…寒いなー、ここ」
ははは、と笑い交じりの、空気を読んでいるのかいないのかわからない山本の言葉に、そうだねぇ、と力の抜けた声を返すことしかできない城主は、この空気を醸し出している二人の人間、否、向かい合っている二人のうちの片方に、ちらりと視線を向けた。
普段から激昂しやすい性質でもある彼は、それでも近年、それを抑える方法を学んでいた。年を経るというのはそういうことなのだろうと思う。昔のように、いちいち誰にも彼にも噛みついていくようなことは少なくなっていた。
それなのに今、彼はものすごく静かに牙を剥いている。
向かい合った、こちらは涼しい顔をしている、他ファミリーのボス相手に。
事の起こりは簡単だった。
一つの仕事に片がついたから遊びにきたと、昔とまるで同じ文句を使い城を訪れたディーノが、話のついでに一人の人物の名前を出したことだ。
「雲雀さんですか?」
「そう。寄った? こっちに」
メイド服の給仕がテーブルの上に置いたコーヒーカップへ手を伸ばしながら、ディーノが応接用のソファからこちらを見上げてくる。すっきりとまとめられたはずの髪がわずかに解け額に掛かる様は、昼間に見ても妖しいものだ。本人にその気は全くないのだろうが、勘違いする人間がいてもおかしくない。さすがに耐性がついたが、頬を染めた給仕が名残惜しそうに立ち去っていくのを見る限り、変わらず色香は発せられているらしい。
「いいえ、もうずいぶんと来てませんが」
立ち寄ることは、確かにある。
ごく稀ではあるが、こちらに来たついでに立ち寄ったというのがほとんどで、それでも出入国の頻繁さを考えると、何回かの内の一回でしかない、という程度の訪問だ。もともと、共同作業だの集団行動だのをひどく嫌がる人だから、たったそれだけの訪問でもものすごく驚く出来事なのだが。
しかしそれを、どうしてディーノが尋ねるのか。
「うん、ここ何日かうちにいたから。ついでにこっちに寄るかなー、って思ってな」
「は?」
初耳だ。
逐一連絡が入ってくるわけではないのだから、まあこんなこともあるだろうと思う。だが初めて聞くことだ。ディーノの屋敷に雲雀が滞在していたことも、雲雀がイタリアに来ていたことも。
「え、何日も? 雲雀さんが、ですか」
「ああ。少し突き詰めて話しておきたいことがあってな。何日か引き留めたんだが…」
コーヒーカップを優雅に持ち上げて、お決まりのように一度は舌を焼き、息を吹きかけ冷ましたコーヒーに口をつける。
「今朝、気づいたら居なくなってた。話は全部終わってたし、朝になってから出て行ったって報告もあったから、ならこっちにも寄ったかなって思ったんだけど。なんだあいつ、愛想のないやつだなぁ」
けらけらと可笑しそうに笑うディーノは、気づいていないのだろうか。
先ほど、ディーノの言葉を耳にした瞬間、たった一文字の言葉を漏らしたまま、固まっている人間がここにいることを。
「ひっ、雲雀さんらしいですね…」
「本当になぁ。あいつガキのころと全く変わってねぇだろ? 見てて面白くてさぁ」
「いや、ええっと… その、俺たちから見れば、やっぱり先輩ですし、そこはなんとも…」
どうしよう、どうしたらいいんだろう。話を逸らせばいいのか、それともこのまま続けていいのか、それすら判断ができない。マフィアとしてこの地に降り立ち、少なくとも五年が経っている。なのに、いまだかつてこんな窮地に追い込まれたことはない気がする。
隣が見れない。右腕として日々尽くしてくれる彼が、今ばかりは見れない。
「…突き詰めてするような話が、なにか?」
ふわりと真横から風が吹くと同時に、落ち着いたいつもの声が聞こえ、ひっ、と喉が引きつった。
声は普段どおりなのに、話し方や、言葉の端々に冷たいものを感じる。窓なんて開いているはずがないのに風が吹くのも、彼から発せられているせいだ。冷たい、とても冷たい、殺気に似た感情の風が。
「え? ああ。いや大したことでもなかったんだが…」
「大したことでもないことで、あの一人好きが何日も滞在したと?」
「まぁな」
ソファで寛ぐディーノには、なにも変化がない。まさかこの人、本気で気づいていないんだろうか。この、熱いような寒いような、何とも言えない空気に。
「引き留めるために随分散財したんだぜー? ほら、あいつ無類の日本好きだろ? 食べるものから飲むものまで、全部日本から取り寄せたりしてな。それも、軒並み高級品だ」
「ペットボトルの水と適当な食い物で満足するやつじゃないからな」
「だろ? 茶も一級品を買い付けに行ったし、酒もそれなりのもんを用意したんだ、一応。おかげで概ね満足したみたいだったけど… そうそう、着物が好きだって聞いたから、これまた用意してな。なんて言ったっけ、なんとか織りっていう珍しい布で作らせたら、気に入ったらしくて。あいつ持って帰ったらしいんだ。ははっ、意外にそういう可愛いところもあるんだけどなー」
「は、ははは…」
上がる笑い声に反比例するように、部屋の温度が変わっていく。この空気の中なぜ笑っていられるのか、わが兄弟子ながら不思議な人だ。
「興味のないもんには一切振り返りもしないやつだろ? そりゃもう、徹底的に用意したんだけどなー、三日が限界だったな」
「それはまたずいぶんと長期で」
「そうなのか?」
「俺はひとところに二日以上滞在するのを、ここ数年見たことがない」
「ふーん。じゃあ今回はまずまず成功ってところだな」
「今回は?」
「ああ。近いうちにまた引き留めておかなきゃならなくてな。匣と指輪に関しちゃ、今のところ恭弥以上の力をもつものはいない。結局あそこに頼るんだが、あいつ、もう十年近く師匠やってる俺に対しても全然遠慮がないからなー」
すっかり空になったらしいカップをソーサーに戻す。端に乗せられていたスプーンをはじき落してしまい、あわててそれを拾い、頭を上げる際にテーブルに一度ぶつけたが、これといったダメージもなくディーノは体を起こした。
「今回呼び出すのも大変だったんだ。なにせあいつのプライベートなんて知られてないだろう? ロマーリオと草壁の間で連絡が取れたから、恭弥に回してもらって、あれこれ餌ちらつかせて呼び出したってわけだ」
「そんなに手間暇かけなきゃなんねぇのか」
「それも仕方ないってことだ。今回でコツはつかんだし、次はもうちょっと上手くやれると思うぜ?」
「何のコツが?」
「好みとか、どう言えば引っ掛かるか、とか。そういうのだな」
くく、とディーノが口元だけで笑う。
つくづく不思議で仕方無い。どうしてこの状況下で笑えるんだ。
ディーノは気づいていないのかもしれないが、この広い執務室の中、現在席人数は四人だ。先ほどから話を続けているのはこのうちの二人。つまり、自分を入れたもう一人は、ろくに口を開いてもいない。この状況だけでも違和感があると思うのに、加えて彼がただひたすら会話を続けている人間は、一歩も動いていないし、指先一つ動かしていない。ただ淡々と口だけを動かして話し続けている。
あの、激昂型の男が。頭はいいくせに、考えるよりも手や口が動くことの多い右腕が。
表情一つ変えず、むしろ話が進むにつれて無表情になっていきながら、会話とは思えない会話を続けているのだ。
頼むから早く気付いてほしい。そしてできればさっさと帰ってほしい。
今まで一度も思ったことがない、尊敬する人物に対して思うには余りに無作法な願いだが、偽りない真実だ。
「昔から思ってはいたが、突っ張っててもまだまだかわいいもんだよ。結構簡単な手に引っ掛かることもあるしな。あいつあれだろ、子供の時からああだからさ、いわゆる悪ふざけとかに全然慣れてねぇの」
「悪ふざけ」
「覚えがないか? 肩叩いて、振り返った瞬間にほっぺたに指突き刺すの」
「…ああ」
「あれやったら、本気で引っ掛かってさ!! あんまりおもしろくて笑ったら、そりゃもうものすっげぇ勢いで暴れてくれたけど、いやあれは面白かった」
けたけたと、膝を叩いてディーノが笑う。端正な顔立ちには到底似合わない笑い方だったが、今はそれを微笑ましいとも、もったいないとも思えない。
ただひたすら、黙ってさっさと帰ってくれ、と願うことしか。
「それは、さぞかし」
めき、という音が聞こえる。
恐る恐る視線を横に流せば、能面のように無表情の右腕が、銀色の髪をわずかに逆立たせながら立っていた。その手に持たれたバインダーが握りこまれてひしゃげ、逆の手に持ったままのボールペンが粉々に砕け散り、指に通された小さな指輪にかすかな赤い炎がともっている。漂う冷たい風が、吹雪のように顔に吹き付けてきた。
ああやばい、これは。
「楽しい三日間だったんだろうなぁ…!!」
「ご、ごくでらくん…っ」
かなり久しぶりに見る、本気で本気の怒りだった。
弟子について心行くまで語りつくし満足したディーノがようやく退席した後、空調の機能が完全に回復しない間に、ふと獄寺の携帯電話が鳴り響いた。失礼、といくらか冷静さを取り戻したらしい獄寺が胸元から携帯電話を取り出すと、瞬間、まるで氷のように固まってしまった。
それだけでもう、誰からの着信なのかがわかってしまい、その場にいた全員が、タイミング悪すぎる、と心中だけで呟く。なぜもう二時間、もっと言えば三日ほど早く連絡してこないのか。
無言のままに通話ボタンを押した獄寺は、それでも一応は耳に当てて、相手の言葉を聞いている。
が、話もそこそこに。
「果てろ」
地を這うような絶対零度の低い声でそう言い放ち、電源もろとも電話を切ってしまう。
「わー!! 獄寺ストップ、ストップ!!」
ついでとばかりに携帯を真っ二つにしようとするのを、珍しく慌てた山本が止めに入り事なきを得たが、代わりに山本自身が蹴りを入れられてしまうという惨事になった。
「…雲雀さん… 間が悪いというかもう本当にいい加減にしてくださいよ…」
はぁぁあぁぁ、と深いため息を落として、一方的に獄寺に叩きのめされている山本を助け出すべく、椅子から腰を上げた。
彼らのこの、どうでもいい痴話喧嘩が早期に終結することと、弟子可愛さに一匹狼を手懐けようと画策する兄弟子が諦めてくれることを、願いながら。
馬は大好きなんですが時折憎らしいです。 ▲