ご機嫌を取りに

 この世で一番強力なのは思い込みだ、と思う。

「だから何を怒ってるのって聞いてるだけでしょう」
「だから何も怒ってねぇって言ってるだろ」
「それならもういい加減電話くらいまともに出たらどうなの」
「今現在まともに出てるだろうが、なんの文句があんだ」
「まとも? これが?」
 思わず、手にしている携帯電話を握りこんでしまう。
「まともに電話に出る気のある人間は、着信拒否にした挙句五回も違う番号から掛けないと出ないような失礼なことはしないと思うよ」
 おかげで、三台の携帯電話を駄目にしている。
 最初の携帯電話は普段から使用しているからとそのままだが、その他の機体は全て、契約から一週間もせずに手をつけなくなり、解約できる期日を待っている。日本国内ならプリペイド式という選択もあったが、日本に来ることなどほとんどない相手にかけるには不便で、仕方なく国際通話のできる電話を何度も契約する羽目になったからだ。その作業自体は全て部下がしていたのだから、そうたいした手間ではなかったのだが、問題はその後で。
 どの番号で掛けても、こちらだと気付くと相手は即座に電話を切ってしまうのだ。
 メールでも固定電話でも同じ。さらにはことごとくすべての番号に着信拒否設定をしてくれて、何度、お客様のご都合でお繋ぎできません、といった類のアナウンスを聞いたことか。今日の電話だって、新しく契約した電話からかけているのだ。新規だからこそ、相手も電話に応じている。これを、まとも、とはとてもじゃないが思えない。
 もうかれこれ一ヶ月近く、そんなことを繰り返しているというのに。頑なな相手の態度は、一向に柔らかくなる様子を見せない。
「…失礼はどっちだ」
 低く、とても低く返ってくる声に、おや、と目を見張る。
 これまでの四回は、ここにたどり着くまでに通話は断絶されていた。最後に、果てろ、とお決まりのセリフを残すことも忘れずに、ぶっつりと。なのに今回は、違う言葉が返ってきた。いい加減、腹の虫が収まったのだろうか。
「延々と電話ばっかり繰り返して掛けてきやがって」
「隼人?」
 声が沈む。聞き取りづらいほどに小さく低い音に、決してその怒りが収まったわけではないことが窺われた。それどころか、なぜかもっと深くになっているような予感がする。
「どーせ俺はイタリアから出ねぇよ、引きこもりの根暗野郎だよ」
「何を…」
 急に言い出すのか。
「財力も地位も気遣いもボスにゃかなわねぇよ、悪かったな!!」
「隼っ」
 ぶつん、と通話が切れる。お決まりの言葉も残さない、明らかに感情に任せた態度で。
 昔から感情最優先で動くところがあったが、さすがに最近ではそんな短気な様を出さなくなっていた。腹の中で考えていることは十代のころから変わりはないのだろうけれど、それを顔に出さずに流す術や、口に出さずに消化する術を、獄寺は獄寺なりに学んで、実践していた。生まれ持った性格ゆえに、必ず成功していたわけではないけれど、今のように爆発させることは珍しい。
 それにしたって今のは意味不明すぎる。
 引きこもりと言うが、イタリアから全く出てこないわけでもないし、根暗というのは、おおよそ獄寺の印象とはかけ離れた場所にあると思う。財力だって地位だって、一般社会で通用するしないはともかくとして、裏社会ではかなりのものだ。今やボンゴレ十代目の右腕と言えば、恐怖の対象ですらある。気遣いという点では多少の難があるかもしれないが、そう卑下したものでもないと思う。
 何より。
「…ボスって、誰…?」
 ツーツー、と無機質な音ばかりを繰り返す受話器に問うても、当然、答えなど返ってくるはずもなかった。

 一か月前、少し時間ができたからと電話をした獄寺に、たった一言、果てろ、とだけ言われて以来。ことごとくすべての連絡手段を拒否され、理由すら聞くこともできないままに、時間だけが過ぎていた。
 心当たりを探してみても、どうにも思い当たらない。
 時間ができたから呼び出したという理由は珍しくないし、過去にも何度かそう言って呼び出したり、訪れたりしている。予定などあってないような自由業であることは互いに承知しているし、その辺は臨機応変に、言いかえれば都合次第で変更されたり、ダメになったりしていた。
 それについて文句を言うことは少ない。お互い様だと、理解しているのだと思っていた。
 それがなぜ、今回に限り、急にこんな態度に出たのか。
「全くわからない」
 案の定、直後にかけた電話は見事に無視された。目の前に置かれたままの携帯電話も、もう用済みだろう。また解約手続きを言いつけなければならない。
 最後の電話で、獄寺は確かに、ボス、といった。
 彼がボスと呼ぶのはこの世でただ一人だけだが、あいにくとそのボスにはもうずいぶん会っていない。電話でのやりとりや、メールでのやり取りは何度かあるが、直接会うようなことは滅多にないし、会ったとしてもその場にはボスの右腕として獄寺本人も必ず同席している。今まで、沢田と二人だけで会ったことなどないくらいだ。いつだって右腕としてそこにいたし、会話は彼も耳にしているはず。今更沢田と自分を比較したりはしないだろうし、沢田と比較できるような位置に彼自身を置こうとはしないのだから、あんな言い方はおかしいだろう。
 それなら、誰か他のボスということになる。
 だが、心当たりがない。マフィアなら大小さまざまに、それこそ星の数ほどに存在しているが、付き合いのあるファミリーは少ないからだ。ボンゴレを筆頭に、二つか三つくらいだろう。他は弱すぎて話にならない。一度利用したらもう価値が薄れてしまう。
 ボンゴレではありえない。なら他のファミリーだろう。他とは言っても、どれもボンゴレの傘下にある者たちばかりだ。先日呼びつけられて長期滞在を余儀なくされたファミリーもその一つだが、あれは第一の配下といっても過言ではないほど、ボンゴレに心酔している。滞在期間中も、幾度となく沢田の話と、いわく武勇伝らしい話を自慢げに聞かされ、何度も武器を取り出し打ちのめしたほどだ。弟弟子が可愛くて仕方ないのだと全身で語っているが、自慢する相手を間違えているとしか思えない。
 あれをボスとは言わないだろう。単なる能天気だ。戦闘の腕と炎の性質、頭の回転の速さは認めるが、部下がいないとまともに武器もふるえないような人間では、ボスとはとうてい言えない。人のトップに起つためには、いつでも毅然としていられる能力も必要だ。そういう点では、ディーノよりも沢田の方がまだ伸びしろはある。
「…ああ、埒が明かない」
 ふ、と息を吐いて立ち上がる。
 このままここでどれだけ考察を重ねたとしても、決して結論は出てこないだろう。
 普段の獄寺ならばともかく、一度ふてくされてしまうと思考があさっての方向に飛んでしまう男だ。腰を落ち着けて話を聞く以外に方法はない。互いに自由業、突然訪れても、時間がとれるかどうかは定かではないが、取れなければ取らせるまでのことだ。いざとなれば、沢田を脅してもいい。
 そう判断し、着物の帯に手をかける。
 着物ではなく、ましてスーツでもない、シャツとパンツにジャケットというラフな格好で自室から出てきた上司に目を留め、お出かけですか、と尋ねる草壁に、一度考えるように首をかしげた雲雀は、うん、と頷いて顔をあげた。
「ご機嫌を取りに、イタリアまで」

 残した言葉に仰天したまま動かなくなってしまった草壁をそのままにして出向いた先の城は、相変わらず豪華で、けれど静かな佇まいでそこにあった。
 訪問先が幹部であるにもかかわらず最初に通されたのはなぜか城主の部屋で、主でもある元後輩は安堵した顔つきで、待っていました、と告げる。
「僕を?」
「はい… あまり口出しするのもどうかと思ったので特に連絡もしなかったのですが。俺も馬に蹴飛ばされるのは御免ですし。ですが、ちょっとさすがに手がつけられなくなってきたので」
 はあぁぁああ、と長い溜息をついた沢田は、左手に控えていた山本に何事かを確認すると、こちらに向き直った。
「獄寺君は自室にいます。今日はもう出てこなくていいと言ってますから、どうぞゆっくりされていってください」
「ねぇ。手がつけられないって、どういうこと?」
 肝心の部分を言わないまま話を進めようとする沢田にそう突っ込めば、一度口を開き、閉じて、諦めたように話し始めた。
「妙に卑屈なんです」
「卑屈」
「意味もなく自信満々というか、いつでも堂々としている獄寺君にしては珍しいくらい、何をしても卑屈な様子で… 特に、立場だの対応だのに、一倍敏感になっていて。慰めても発破をかけても逆効果で困ってたんです。一度休暇をとらせようかとも思ったんですが、今の獄寺君だと、そのまま帰ってこなくなりそうで怖くて」
「あぁ…」
 確かにそんな状態なのなら、あの明後日男は帰ってこないだろう。見捨てられたと、そう思うに違いない。
 単純思考でもある。昔からそうだ。なのにどうして、肝心なところでまっすぐに話を聞いてくれないのだろうか。
「ダメもとで雲雀さんに連絡してみようかと思っていた矢先だったんですが… 助かりました」
「別に君のためではないけれど」
「わかっています。でも、その… 見ていて可哀想なくらい、一ヶ月間落ち込んでいたので。明日には元気な獄寺君に会えると期待しています」
 丁寧に頭を下げた沢田が、では俺は用事がありますので、と客を自室に置いたまま山本を伴い出て行った。常にその役を担っていた右腕の状態は、仕事に支障をきたすほどに悪いのだろう。
 しかし。
「落ち込む…?」
 ほんの数時間前の電話を思い出す。どう聞いても、落ち込んでいる人間の口調ではなかった。卑屈になっているのは認めるが、むしろこちらが落ち込みそうなほどの態度をとる男が、現在進行形で落ち込んでいるというのか。
 おまけに、沢田の口ぶりはこちらに非があるようなものだった。そもそも、獄寺が落ち込んでいるから自分に連絡を取ろう、なんて考えになること自体がおかしい。気落ちの原因がこちらだと、沢田がそう思う何かがあったということだろうか。
「…腑に落ちない」
 何か気持ち悪い。どこですれ違いが起き、勘違いが発生しているのかわからないが、これは確実に情報がいき違っている。
 おそらくは高額なのだろう絨毯の敷き詰められた沢田の執務室を出て、廊下を歩く。無駄に広いボンゴレ本部内は、そのわりに閑散としていることが多い。今まだ権力者である九代目と、その次代を担うことが決定している十代目である沢田が、両者ともに暴力を嫌う、いわゆる穏健派であるがために、抗争などと非常に縁遠いためだ。本部を中心として各地にはシマと呼ばれる支配地があるが、そのどれもが支配者というよりは警護のようなもので、治安維持のために人が出払っていることが多く、争い事が起きる前に交渉を持ち出し無血開城、なんていう話は腐るほど聞いてきた。それを全力で支えブレインの役目を果たしているはずの右腕は、今現在全く機能していないらしいが。
 歩きなれた廊下を進んでいると、次第に絢爛な内装から質素な内装に変わり、味気ない扉ばかりが立ち並ぶ区域に出た。来客者の目に触れることがない、ファミリー内部の人間の、生活空間だ。
 そのうちのひとつ、幾度か叩いたことのある扉の前に立つ。こん、という軽い音に、少しの間をおいて返事があった。
「開いてる」
 機械越しではない、けれど扉越しの籠った声に、返事をせずに扉を開けた。
 一人で生活をするには広すぎるように思う室内は、閉められた窓にかかる白いレースの先に日の照らす山々が見えるさわやかな景色だというのに、なぜか空気が沈んでいるように見えた。その手前、向い合せに置かれたソファの一方に腰をおろしている部屋の主は、出入り口が薄暗く誰が入ってきたのか見えていないらしく、目を細めてこちらを見ている。
「…鍵も掛けずに不用心だね」
 何気なくかけた言葉で侵入者が誰であるかを悟ったのだろう。一瞬で顔を厳しくした獄寺は、じ、とこちらを睨みつけた後で、そっぽを向いてしまった。
「自分の家でまじめに鍵なんかかけるか」
「いまどきスパイなんて珍しくない」
「そんなもんに侵入されるほど軟じゃねぇ」
「そう? わりに、今日もずいぶんと静かだ」
 いつ来ても、厳重な警備というものが敷かれているところを見たことがない。いわく、ネズミ一匹すり抜けられないほどの完全な警備、をしているらしいが、そのほとんどが機械任せだというのだから、匣と指輪の世界においてはあまりに弱い。
「本拠地が一番手薄だなんて、本末転倒だ」
「うるせぇ。関係ねぇだろうが」
 愛想というものを一切排除した、冷たい声。
 これで本当に落ち込んでいるのだろうかと、疑いたくなる。
「まだ怒ってたの」
「だから怒ってねぇよ」
「なら、こっちを見るくらいしたら?」
 部屋に一歩踏み入っているというのに、最初に視線を向けたきり、獄寺の眼は窓の外に向いている。わざとこちらを見ないようにしているのなんて、バレバレだ。
「顔を見るのも嫌になったのなら、そう言えばいいのに」
「…言ったらどうするってんだ」
「そうだな。このまま帰って二度と顔を見せないか」
 手にかけたままのドアノブから、手を離す。背で押せば、ぱたん、という乾いた音がした。
「っ!」
 外を向いていた目が、こちらを向く。明るい場所から暗い場所へ急に視点を移せば、暗さに反応しきれなかったことだろう。逆にこちら側からは、暗い場所から明るい場所がはっきりと見える。眩いくらいの夏の日差しは、レースのカーテン越しでも緑色の目が揺れている様を、はっきりと見せつけてくれた。
「無理やりにでも見せるかな」
「て、めぇっ!」
 室内に残っていることにようやく気付いたらしい。一気に逆上したように顔が赤く染まり、座りこんでいたソファから立ち上がった。
「帰るなんて一言も言ってない」
「うっせぇ! 今すぐ帰れっ」
「いやだね」
 室内に敷かれた、絨毯の上を歩きだす。沢田の執務室よりは質のよくないそれを踏みしめ、一歩一歩と近づけば、不機嫌、というよりは混乱している表情が、よく見えた。
 手を伸ばし、間近に来た顎をとらえる。無理やりこちら向かせれば、怒りと別の何かでないまぜになり、複雑な緑色をしている眼が睨んできた。顔も見たくない、というわけではないようで、それがわかれば十分だ。
「相変わらず、かわいくない顔」
「俺がかつて一度でも可愛かったことがあったか」
「あったよ」
 一度と言わず、何度でもそう思っている。獄寺自身に、自覚はないだろうけれど。
「けど、この顔はあんまり可愛くないな」
「どんなだよ」
「言いたいことを飲み込んでいる顔だ」
 おおよそマフィアという職業に向いていない性格をしていると思う。一番適性がないと思われた沢田は、なんだかんだと言いながらもこなしているし、山本や笹川は、おそらくはどの職についてもやって行けるだろう。ごく普通の家庭に育ち、ごく普通に人生を全うしていただろう彼らより、一番この世界を望み、この世界で生きてきた獄寺が、一番向いていない。こんなにあからさまで、勤まるなんて不思議なほどだ。
「どうでもいいようなことには突っ込んでくるくせに、本当に聞きたいと思うことを絶対に聞かない。矛盾した性格をしているね、相変わらず」
「…っせぇ」
 こちらには自覚があるらしい。ぐっと飲み込んでから、顔をあらぬ方向にむけてしまう。ついでとばかりに伸ばしていた手を払われ、体ごと窓の方に向けてしまった。
「わからないな。どうしてそう頑なに拒むのか」
 何も、仕事に関して突っ込んだ話をしようと言っているわけじゃない。それは、スーツではなく私服で訪れた時点で、獄寺も気付いているだろう。守秘義務も仕事も何も関係がない、完全にプライベートな内容で来訪し、二人の問題について話をしようと言っているのに、どうしてそれをこうまで拒むのか。
 何か聞かれて困るようなことがあるのならともかく、こちらに何事かの非があるのなら、と尋ねただけで、つまりは獄寺の非を追求しようというのではないのに。
「そういえば、何か言っていたね。ボスがどうだのと」
 だんまりを決め込んだらしい、ガラスの向こうを見たままの背に話しかければ、その肩がわずかに揺らいだ。
「一応考えてはみたんだけれど、どうにもそれが誰のことか思い至らない。沢田のことでなければ、何だと言うの?」
 世にボスと言われる人間がどれだけいても、獄寺がそうだと認める人間は片手ほどにもいない。それだけ彼の判断基準は厳しいし、判断のもとになっている人間に心酔しきっている。その判断基準に言わせれば、どうにもやはり、自分に原因があるらしいが。
「…一か月考えても、でてこねぇってのか」
 ガラス越しの緑色が、こちらを見ている。
「全く」
 反射で薄く見えるそれに頷いて返せば、どこかで、ぷち、という音が聞こえた気がした。何かが、切れる音が。
「てめぇみたいなデリカシーのない人間、初めて見たぜ」
「僕にそんなもの求めてたの?」
「ねぇとは思ってたさ、でも最低限あると期待もしてた。人並以下でも、つま先程度でも、多少のデリカシーがある人間は、目と鼻の先にある場所に三日間も滞在するってのに連絡の一つも入れないどころか帰り際になってあくび交じりに出てこいなんてふざけた呼び出ししやしねぇだろうからなっ!!」
 一言でよかった。
 仕事で数日間滞在することになったと、ただそう一言くれれば、ああそうなのかと納得できた。まして相手は知らない仲じゃない。本人は望まないかもしれないが、一応は師弟関係にある男の場所に居座ることにも、大変だろうなとさえ思えただろう。
 それくらいの分別はできる。子供じゃないのだし、逐一報告しろと束縛する気もない。できるはずがない相手だと、痛いほどに知っている。
 ただ一言。
 他人の口から聞くくらいなら、本人の口から、聞きたかった。
「…あぁ」
 叩きつけられるような言葉に、ようやく納得がいった。
 一月前、獄寺がたった一言で電話をきったあの日は、長らく引き留められていたディーノの本宅から、ようやく解放された日だった。酒だ食べ物だ着物だと、どうにかして引き留めたいらしい魂胆は見え見えだったたが、それらはすべて好みに合っていたし、仕事のことで頭の回るディーノと研究結果を突き合わせているのは、仕事と割り切ればやれないことではなかった。
 気づけば三日も経過していて、いい加減もういいかと本宅を抜け出し、イタリアにある支部に顔を出した。ろくに眠れもしないベッドを用意されて不眠がたまっていたこともあり、少しの仮眠の後、支部からまた違う他国の支部へと移動する少しの空き時間に、出てこられるのなら、と獄寺に電話をした。その時、もうすでにディーノから自分が滞在していたとの連絡がボンゴレに入っていたのだろう。
 それで。
「妬いたの?」
 ついこぼした言葉に、最初に反応したのは腕だった。振り返りざまに繰り出される拳を、反射で出した掌で受ける。ぱあん、という乾いた音が室内に響いた。
「…てめぇマジで一度生まれ変わってこいよ」
「どれだけ繰り返しても、僕は僕だと思うけどな」
 受け止めた拳を握って、下におろす。動作につられるように手を下しはするが、暗い緑の瞳は一ミリもずれずにこちらを睨んでいた。
「まあ、跳ね馬のところにいたのは事実だからね。それに関しては何も言わないよ。けれど、あれを僕に対する気遣いだと思われているのは不愉快だな」
 多少の誤算はあった。三日も滞在するつもりではなかったし、できれば日帰りしたいほどだった。のらりくらりと仕事に関しての話を先延ばしにして、次々と用意したのだというもてなしを披露するディーノとは、何度も衝突した。そのたびに帰ろうとはしていたが、仕事を盾に取られてどうしようもなく長居してしまっただけだ。
「あの男の話を君がどう受け取ったのかわからないけれど、僕にとっては気遣いでも何でもなかったし、君があの男に劣るところなんて何もないよ」
 酒も食事も、悪くはなかった。口には合った。
 けれど、ただそれだけだ。
「地位も財力も、僕にはどうでもいい。ねぇ」
 睨みつけてくる緑色が、また揺れる。その目元に唇で触れれば、震えるだけで、逃げはしなかった。
「そんな余計なものがなくても、僕はここに来たよ。それだけじゃ不満?」
 仕事や興味をひかれるものがなければ、すでに十年来の付き合いになろうかと思える相手でも、こちらから出向いていく気はしない。ましてや数日間滞在するなど、考えただけでも溜息が出そうだ。そんな面倒くさいこと、見返りがなければやっていられない。そんな性格を知っていたからこそ、ディーノはあれだけのものを用意したのだと思う。
 あの三日間のことは、ただそれだけの話だ。
 沢田にしてもディーノにしても、他の誰かでも、それらは何の見返りもなく出向くに値せず、ましてやただご機嫌をうかがいに足を運ぶ相手などではない。
 こんな風に、国境どころか日付変更線を跨いでまで顔を見に来る相手なんて、ただ一人だ。
「っ… お前は、本当に、一度生まれ変わった方がいいと思う」
 驚いたように目を見開いた獄寺は、何かを探すように視線をそらしたあと、そう呟いて顔を伏せてしまった。
「なぜ」
「そうしたらたぶん、どんな女でも選り取り見取りだと思う」
「意味がわからない」
 生まれ変わることと何の関係があるのか。
「わかんねぇんならいい」
 伏せた顔が、肩に落ちてくる。耳に飾られた小さなリングが、目の端で反射した。
「あーもー馬鹿らしい… 一ヶ月間返せ」
「お互い様」
 一ヶ月間もどうしようもないすれ違いをしていた。その間に駄目にした携帯電話は四台で、今日も予定をいくつか潰してここまで来た。今頃部下たちが上へ下への大騒ぎで調整しているはずだ。
 同じように、沢田の言を信じれば調子の出なかったらしい獄寺のこの一ヶ月も、おそらくはひどいものだったのだろう。ダメにした電話の数と同じだけ不機嫌が頂点に達する日があっただろうし、今日もその任を解かれ部屋に待機させられていた。よほどの状態でなければ、またその自覚がなければ、控えるなんてことを了承するはずがない男なのに。
「真っ直ぐなところと顔くらいしか取り柄がないんだから、今度からは誤解とか嫉妬とかしてないで、ちゃんと話を聞いてよ」
「…いろいろ余計な言葉ついてるぞ。つかだから妬いてねぇっての」
「じゃあ、なんだって言うの。もうごめんだよ、こんなのは」
 それでなくとも、頻繁に会えるわけじゃない。互いに仕事があり、所在が定まらないことが多いのだから、仕方がないのだとわかっている。そう、理解し合っていた。だからこそ、たまにする電話でまで喧嘩腰でいられたのでは、まともに話も出来ない。声も聞けない。
 それを、仕方ないのだから、とあっさりと諦めてしまえるほどに、浅い思いではない。
「……単なる、八当たりだったんだ」
 悪ぃ、と声が聞こえる。
 首筋に触れそうな位置で洩らされる、小さな謝罪。
 八当たり。確かにそうも言うだろう。こちらに何か不備があったわけでもないし、ましてや不貞行為があったわけでも断じてない。それなのに一方的に腹を立てるのは、八当たり以外にない。だからこそ、その理由を聞くのは、正当だと思う。
「どうしても話す気はないの」
「ない」
「…仕様のない」
 正当だとは思うが、そう言って無理やり言わせることは不可能だろう。それはもう、獄寺という男がそうなのだからどうしようもない。無理に口を割らせたところで、また後々機嫌が悪くなるだけだ。
「聞かないのか」
「もういい」
 しつこく問いただしても、無理やり言わせても、二人の間にしこりが残るのなら、もう深く追求しないことにする。
 とりあえず獄寺の機嫌は治ったのだし、こうして向き合って話もできるし、触れていられるのだから、他のことには目をつむる。
「…知らない間にずいぶん寛大になったな…」
「寛大とはまた違うと思うけれどね」
 単に諦めただけだ。
 そう言えば、少し迷うように顔をあげて、また肩に銀髪をうずめた。触れたままだった手が離れゆるく腰に回り、指先だけでシャツをつかむ。
「…跳ね馬が」
 同じように腰に腕を回せば、ほんの少しだけ体重がかかってくる。あまり体格が変わらない、年も一つしか変わらない男のそれは存外に重く、自然と足に力が入った。
「跳ね馬?」
「あいつが、お前が着物持って帰ったって、言ってた」
「着物? …ああ」
 あれか、と既に手元にない布地を脳裏に移す。
 確かに持って帰ったが。
「あれなら、もう加工に出したよ。見たかったの?」
「…は?」
「だから、跳ね馬の用意した着物… いや、あれは着物とは言わないな」
 滞在中に寝巻にでもすればいい、と嬉々として差し出してきた、一枚の着物。
 なんでも日本の職人に特注で織らせたものらしいが、その正体を知れば、職人に殴り飛ばされても仕方ないだろうことを、ディーノはやってのけていた。
「形は確かに着物だったけれど、仕立ての仕方が間違ってる」
「したて?」
「そう… たとえば、君がこうして当たり前に来ているシャツがあるね。これは薄くて、見た目からしてシャツに向いた素材だとわかるだろう」
「あ、ああ」
 顔を上げ、何を言っているのだろう、という目を向けてくる獄寺を、まあ聞け、と黙らせる。
「あの男がしたのは、この布地でスーツを作るようなことなんだよ」
「…はぁ?」
 とても奇麗な、いい色をした着物だった。
 黒地にちりばめられた青海波は銀糸で織られており、それは月に照らされた暗闇の海のようで、とても美しい反物に出来上がっていた。ただ厚く、とてもじゃないが着用に適したものじゃない。ましてこれを着て寝ろなんて、言いかえれば鎖帷子でも着て寝ていろというのと同じことだ。
「あの男は何も知らないで発注したんだろうね。あれを着物に仕立てるのも大変だっただろうけど、ずいぶんと失礼なことをしたものだ。だから持って帰って、改めて帯にするために日本に送ったんだ。もう少し待てば、帯として届くはずだよ」
 着物として仕立てたものを違うものに作り変える、というのは、日本では昔からよくあることだ。けれど、着物から帯を作り直すようなことは、あまりないだろう。そもそも、布地の選択がおかしいのだということに、誰でも気づく。それでも着物を帯に作り変えるように指示したのは、あの柄が気に入っていたからだ。黒の中に浮かぶ銀糸は、とても美しくて。
「着る物としてではなくて、飾り物という意味では一見の価値もあったと思うよ。それが見たかったんじゃないの?」
 着用はできなくても、柄を楽しむためのものだと割り切れば、なにも帯に加工しなおす必要のなかったものだ。あれが展示品として飾られていたのなら、さぞかし目を引くだろう。
「いや、別に見たかったわけじゃ… つか、お前、それ気に入ってたんじゃ…」
「気に入ってはいるよ。だから飾っておくんじゃなく、帯に仕立て直そうと思ったんだし」
 緑色の目をまん丸に見開いた獄寺が、ぷっ、と唐突に噴き出す。
「隼人?」
「や、その… っ、ダメだ、止まんねぇっ!」
 先ほどまでの不機嫌など無かったように、獄寺が声をあげて笑う。いったい何が面白かったのか、全く理解できないまま、すぐそばで笑う様子を見ていた。
「ひーおかしー… お前、それ絶対跳ね馬に言えよ」
「なぜ?」
「絶対ショック受けるから。すげぇ浮かれてたんだぜ、お前が珍しく気に入って持って帰ったみたいだって。バラすために持って帰ったんだなんて、あいつ、そんなこと微塵も思ってねぇだろうな」
 いたずら好きの子供みたいな理由をさらりと口にして、少し離れていた体が、また寄りかかってきた。シャツをつかんでいた指先がしっかりと背を抱きこむほど、近くに。
「そうだ、それなら着物は一枚、俺が贈ってやるよ」
「君が? どうして」
「まあ、八当たりの侘びにな。せっかくだから、その帯にあったものにしてやる」
「君にわかるの」
「馬鹿にすんな。少なくとも、跳ね馬よりはましだ」
 まだ笑いが収まらないらしい。跳ね馬、と口にするたびに肩が揺れている。いったい何がそんなに愉快なのか。
「そりゃおかしいさ。あいつ今、この世で一番お前のこと理解してるって思ってるぜ」
「…どうして」
「自慢げに話していったからさ。ぺらぺらと、聞きもしないことを延々とな。それが単なる思い込みなんだって、わかった時のこと考えたら可笑しくて仕方ない」
 いい気味だ、と。そう笑う様子から、マイナスの感情は窺えない。すっかり機嫌もなおったようだ。
 つまりあの日、支部で仮眠をとっている間にボンゴレを訪れた跳ね馬は、勝手にあれやこれやと沢田や獄寺の前で滞在期間のことを話したということか。その内容が、聞かなければ分かりはしないが、滞在していた間の自分の行動であり、ディーノ自身の考えだったりしたわけだ。それに不快感を持っていた獄寺が、あの様子だった、と。
 推測はそんなものだが、おおむね合っているのだろう。その証拠に、ディーノの考えと事実に行き違いがあることがわかれば、こんなに素直に腕の中におさまっているのだから。
 なんだ、やっぱり嫉妬だったんじゃないか。
 それも、思い込みの上に思い込みを重ねた、事実とは全く違うことに対して。
 電話程度で覆せるものじゃなかったはずだ。ここまでこじれていたなら、直接会って話さなければ誤解は解けなかったに違いない。
 なるほどこれは、完全な八当たりだ。
「…自覚があるだけ成長したか」
 昔ならば、その八当たりですら自覚なく行い、すべてこちらの所為だと本気で訴えてきただろう相手だ。これは八当たりなんだと、そう分かっているだけ成長している。
「なんだ?」
「…うん」
 けれどそれを素直に言えば、成長してもへそ曲がりのところは相変わらずのこの男では、湾曲してとらえかねない。せっかく上昇してきた機嫌を、ここでまた下げるのは後が面倒臭い。
「せっかくもらうのだし、今度の休暇に日本に来ればいい。よく使う呉服屋があるから」
「着物?」
「そう」
「でも、次に日本に行けるのなんて、いつかわかんねぇぞ」
「いつでもいいよ」
 体を寄せ肩に頭を預けられることで、目の前で露わになる耳に、唇で触れた。わざとたてた音は、よく響いたことだろう。
「っ… じゃあ、お前もそれまでその帯使うなよ」
 ふるりと肩が震え、背を抱きこむ腕に力が入る。反応はしているのに、頑固にもそのことは頭から離れないらしい。これで妬いていないというのなら、どれほど大きな感情になれば自覚するのだろうか。
「いいよ」
 使わなければ使わないで、帯も着物も山とある。替えなどいくらでもあるのだから、それがたとえ一年先や二年先になっても、待っていられるだろう。
 こうして直に触れ、わだかまりなく話せるのならば、あんな帯、一生使わなくてもかまわないのだし。
「…雲雀」
 肩から離れた銀糸の向こう側から、緑の瞳がこちらを見ている。その目は、陰に隠れていてもわかるほどに、何かを要求していた。膜を張ったようにうるんだ様子に、口の端だけで笑い。
 誘われるままに、その唇に触れた。

 翌日、本部に戻れば、出迎えた草壁から例の帯が出来上がっているとの報告を受けた。
 同時に、イタリアにいるディーノから、またいつでも出てこい、という伝言を預かっていると言われ、頭のどこかで何かのスイッチが入るような音がした、気がする。
「跳ね馬にはしばらくの間連絡をするなと言っておいて。それと、キャバッローネには、向こう一か月ほどすべての情報をストップしていい」
「へ、へい?」
 完全に跳ね馬関係を遮断しろという命に、あちらの腹心とプライベートでも親交のある草壁は首をかしげる。
「ああ、ついでに着物を帯にしたことも伝えておいてくれない?」
 あの日、着物を差し出してきた時、跳ね馬はずいぶん浮かれていたような気がする。すでに記憶もおぼろだが、妙に機嫌よく着物を差し出してきたものだから、その布地が帯向けだとは言わなかった。そんな気まぐれのせいで、妙な誤解と八当たりを受けることになったわけだが。
 ディーノ自身は、何一つとしてやましいことも、腹黒いこともなかったのだろう。純粋に着物として用意し、持って帰ったことに関しても文句ひとつ言わない。獄寺の言葉を借りれば、それで自慢するほどに、機嫌よくなっていたはずだ。
 だが、たったこれだけのことでこの身を理解したと思われるのは癪だ。おまけにその思い込みで、なんとも無駄な一か月を過ごさせられた。挙句覚えのないことで獄寺だけに限らず沢田にまで穏やかに非難され、正直、いろんな部分がおもしろくない。誤解は解けたとはいえ、腹の中に小さな何かが残っている。
「よろしいのですか? あれは確か頂いたものでは…」
「いいんだ、本当のことだし。それに」
 だから、これは。
「その方が、おもしろいだろう?」

 ちょっとした嫌がらせと、単なる八当たりだ。

結局ラブなんですよ。