姉の手 君の手
ふと目が覚めて、その瞬間、みていた夢を忘れた。
なんだろう。とても懐かしい夢を見た気がする。
窓の外は、夏の終わりを思わせるとても心地いい青空で。
寝起きなのに、なぜか瞼が熱かった。
「おはようございます、十代目」
朝の仕事は、まず君主である沢田を迎えに行くことから始まる。
ボンゴレファミリーの本部でもある城は、その名に恥じることのない大きさを誇り、部屋数も数え切れないほどにある。だがそのほとんどが来客用にと用意されている部屋で、城主や幹部に与えられた個室は少なく、寝起きするための部屋はさらに奥に用意されていた。
朝起き、身支度を済ませた後の仕事は、この個室から執務室へと、沢田が移動する間の警護だ。
「おはよう、獄寺君。あれ、今日は眼鏡なんだ」
叩いた扉の中から現れた沢田は、隙間から見上げたこちらの顔を見てから、廊下へ足を進める。ぱたん、と軽い音をたてて閉じられた扉を背に、歩き出す上司の後を一歩遅れて付いていく。
「ええ、少し仕事を片付けましたので」
先を歩く沢田の後を追いながら、曖昧な返事をした。
普段から眼鏡を使用しているわけではなくて、近場にあるものを見るときにだけ使用している。典型的な遠視で、普段生活をする分には何の支障もないが、手元の書類やパソコン画面を長く見続けることは難しくて、こればかりは昔から強制を余儀なくされていた。それを沢田も知っているし、仕事中はかけていることの方が多い。そう疑問にも思わなかったのだろう。
朝から仕事を片付けていたのは本当だ。けれど、今日に限り眼鏡をかけていた理由は、他にもある。
「今日は何があったかな」
「朝食を済ませられたあとは、書類に目を通していただきます。かなりの枚数ですので覚悟してください。正午からは、同盟内ファミリーのボスとの会談を兼ねた昼食。その後少し時間がとれますが、三時にならないうちに城下の視察が入っています。この時間でよろしかったでしょうか」
「うん、十分だよ」
夏の間、世界的観光地であるイタリア国内は観光客でごった返していて、情けないことにそれを見込んで姑息な手を使う輩が増えてくる。ボンゴレをはじめとする同盟ファミリーはそれを容認しないことで意見が一致していたが、さすがに下の下まで目が行きとどくわけがなく。中にはちょっとした騒動になる一幕もあった。
が、多くの国で、すでに夏は終わりを迎えている。観光大国イタリアとて例外ではなく、夏の終わりと同時に、観光客の多くが自国へと帰り、海外に出ていた旅行者が帰ってきている。旅行気分を引きずったまま帰ってきた人間ほど危うげなものはなく、沢田は、国内に人が多い間よりも、こうした気の緩みの方が心配だと、常々呟いていた。
だからなのか、夕べ自分が下がった後、明日の予定にそれを組み込めないかとの連絡を、沢田から直々に受けた。
「夏も終わりだから、一度見ておこうかと思ったんだけど… 急に悪かったね」
「いいえ。今日はもともと予定が少ない日でしたし、自分の仕事のうちですから」
要求を呑み予定を組み上げるのも右腕の仕事。当然、受け入れて予定を組んだ。
その代りに、会談の終了予定が多少繰り上がってしまったが、これはどうとでもなることだ。相手が同盟ファミリーのボスとはいえ、あくまでトップはボンゴレの長である沢田で、格下の相手は、帰れと言われれば帰るしかない。
「夜は特に予定はありませんので、視察は存分にできることと思います」
「うん。そうしよう」
できれば陽のあるうちから宵までという、沢田の希望通りの時間を組むことができた報告に、沢田は満足げにうなずく。
「獄寺君に任せちゃうと、全部完璧に仕上げてくれるよね」
「そんなことは」
「いやー… さすがにこの予定を組むのは、山本やお兄さんじゃ無理だからね」
ははは、と軽い笑いを洩らす。確かに、今あげられた人間の中に、デスクワークが向いている人間はいない。笹川に関して言えば、椅子に座ることすら苦痛なんじゃないだろうかと思える。
「他の人を信用しないわけじゃないけど、やっぱり俺にとっては獄寺君たちの誰かに任せた方が安心できるから… 負担だけど、よろしくね」
「お気遣いありがとうございます。ですが、自分はこの仕事に満足しておりますし、そのお言葉だけで十分です」
沢田のそばにあることは、何より一番望んでいたことだ。今の仕事にも、立場にも、何一つとして不満はない。
「そう? でもあまり無茶はしないようにね」
いつでも向けてくれる労いに、自然とこちらの心も明るくなる。昔から、沢田にはそういうものがあった。だからこそ、ついていこうと思えたのだ。
「はい」
素直に頷き、次第に近づいてくる執務室の扉を開くため、足早に歩きだした。
昼の会食が終わってしまえば、仕事は一気に減った。
街に視察に出るという沢田が、運転手に部下を、同行者に山本を指名したために、同行するつもりでいた自分の予定は、ぽっかりと開いてしまうことになったのだ。そのために朝、夕方に片付けるつもりでいた書類を処理してしまったのに。
「…まいったな」
執務室にと割り当てられている部屋は、沢田の執務室に比べると狭くて質素だ。とはいえ、個人で訪れた客を一度は通すこともあるために、多少は調度品などを揃えている。書類のない、電話とスタンドだけが置かれた机に腰掛けて、なんとなく窓の外を見れば、空は端の方から茜色に染まり始めていた。
ふ、と息をついて、かけたままだった眼鏡をはずす。
朝からどうにも調子が出ない。どうにか仕事はこなしたし、朝からの書類処理も、間違いなどはなかったはずだ。最終的な処理をまわした部下からは、何の連絡もない。
目覚めが悪かったのかと言われれば、夢を覚えていないだけで、悪くはなかった。ただ無性に切なくて、どうして忘れてしまったのかだけがわからなかった。おまけに寝起きにもかかわらず、大泣きしたように瞼が熱く、腫れぼったい気がして。洗顔ついでに確認したが一見すればわからない程度だったし、とりあえず眼鏡をかけていれば誤魔化せるだろうとかけていたが、もしかしたら沢田には通用していなかったかもしれない。もしそうなら、追及されなくて良かった。まさかこの年になって、夕べ見た夢が思い出せなくて調子が出ない、なんてことは口が裂けても言えない。
それにしても、あれはいったい、何の夢だったんだろう。
目が覚めたときに忘れてしまった夢は思い出さないほうがいい、と昔聞いたことがある。
体が、脳が、覚えていることを拒否したくらいなのだから、よい夢ではなかったのかもしれない。子供のころから悪夢は山と見てきたし、一時的に二度と思いだしたくないような生活をしていたこともある。ボンゴレに拾われることがなかったら、今でもその生活にしがみついていたのかもしれないと思うと、ぞっとするほどだ。
でも、あの強烈な懐かしさが、それを否定している。
「…なんだったんだろうか」
悪い夢ではなかったはずだ。懐かしさと切なさに満ちた、不思議な夢だった。
なのに思い出せない。目を閉じて意識を集中しても、思い起こせるのは、起きた時に見た夏の青空と、目を閉じる直前まで見ていた静かな夕暮れだけで。
「ああ、いや」
そうだ、夕暮れだ。
夢の中で、夕暮れの中に立っていたような気がする。今の自分じゃない、高校生でも中学生でもない、もっともっと幼い自分が、夕暮れの中に佇んでいた。
吹きわたる夏の終わりを含んだ風と、揺れる草木の音。さわさわと頬を撫でていく風の匂いまでが、とてもリアルに思い出される。
幼いころの自分は、きれいな子供用のスーツを着ている。実母の死を知り、城を飛び出してしまう前のことだろう。あの頃はまだ何も知らなくて、自分はこの城にいてもいいのだと信じ込んでいた。城の主を父と、その妻を母と信じ、二人の娘を姉と信じた。毎日が甘やかしと溺愛の中にあって、不自由も不満も疑問もなく、楽しいばかりだった。
「…そうか。あの頃だ」
夢は、それが唐突に崩されてしまう前の、記憶だ。
生まれ落ち、そして城を出るまでの、数年間。
子供の少ない城の中で、唯一の遊び相手は姉だった。父の部下たちも遊んでくれないわけではなかったが、子供と大人では遊びの定義が違う。子供同士で遊ぶことの方が自然と多くなり、そして年齢的にも二人してわがままといたずらが大好きだった。いたずらをいさめる側である大人となど、遊べるはずがなかった。
城の周りには緑豊かな森林が存在していて、それを少し抜けてしまえば、城の外に住む人間が世話をする畑が何枚もあった。春には種をまき、夏に水を張り、秋には実りとなる。その光景を見るのは意外に面白く、けれど大人に言えば警備の名目で何人もの見張りがつくことが分かっていたから、よく姉の手を取り一緒に駆けていた。生粋のお嬢様として育てられたビアンキも、当時はまだ幼く、それに不満を言うこともなく付き合ってくれていた。少なくとも、あの奇妙な料理を作りだしてしまうまでの間、姉との仲は良かった方だと思う。
年上の姉に手をひかれ遊び、時には突き放し、また手を取り。
そうして、あの日に出会ったのだ。
夏の日の終わり。夕暮れに染まる畑は一面の麦畑で、茶色く色が変わり実りを宿したそれらは、風を受けて揺れている。運ばれてくる秋のにおいと、それに反する夏の夕暮れがアンバランスで、まるで世界がここだけ切り取られたような感覚に陥った。
あたりには人の気配も、動物の気配もなく、森に囲まれたその場には二人しかいない。とても不思議だった。それと同時にとても怖くて、つないだままの手を強く握りこんだのを鮮明に思い出す。
忘れていた、きれいな日の思い出だ。
「そんなころもあったな」
それから数年もしないうちに、ビアンキは料理に異様としか言えない才能を見せ、真実を知った自分は城を飛び出すことになる。姉の手も、振り払ってしまったままだ。
ああでも、こんなことを思い出してしまうのなら、自分はまだ完全に姉と決別できたわけではないのかもしれない。
頑なに拒否していた子供のころも、勘違いしている彼女に対して誤解を解かずにいた。その甘えを享受してくれていた姉に、別の意味で依存していた。それは、今でも変わらないような気がする。
互いに二十歳も越して、すでに自立しているというのに、情けない話だ。
自嘲を唇に浮かべて、ゆっくりと目を開ける。
窓越しの空は、夕暮れを過ぎてすでに藍に染まり始めていた。
沢田が視察から帰ってくる頃には、城は夜に閉ざされ、人の気配もまばらになっていた。
ただいま、とかけられた言葉はなぜか電話からで、執務室に戻っているからと笑い交じりに告げられて、あわてて部屋を飛び出す。ぼんやりとしている間に時間はずいぶん過ぎていたらしく、廊下もまた暗く夜に沈んでいた。帰還にも気づかないほどぼんやりしていたのかと思うと恥ずかしいが、気にしている場合ではないと、とにかく沢田の執務室へと急いだ。
「失礼します、十代… え?」
短いノックに返ってきた、どうぞという言葉に扉を開ける。
そこには、豪奢でいながら落ち着いた、いつもの執務室が広がっている。はずだった。
「これは…」
決して狭くないボスの執務室に、どうしてだか見慣れた顔が多数ある。沢田や山本、笹川はいつもの通りだとしても、最近はめっきりボンゴレに入れ込んでいると噂の情報屋フゥ太に、泣き虫の治らないランボ。
そして、目の端に入る、つい先ほどまで懐かしい思い出の中で共にいた姉は、あの頃の面影を残しながらも大人の女性になり、そのギャップに一瞬どきりとしてしまう。見慣れているのは、現在の彼女なのに。
「あの、十代目…?」
これはいったい、なんの騒ぎだ。昔から一か所に集まることが多いメンバーではあるが、最近では個々の仕事が忙しく、何か特別なことでもない限りこんなことはできなくなっていたのに。
「やだなぁ、みんな獄寺君のために集まってくれたのに」
「はい?」
集団の真ん中にいる沢田は、何が面白いのかずっと小さく笑っている。
何の話だ。自分のためなんて、余計に意味がわからない。
「本当に忘れたの? 今日は獄寺君、誕生日じゃない」
「え… あ、そうでした、か?」
思わぬボスの言葉に、驚きが残ったままの鈍い動きで腕時計を持ち上げれば、盤の端についている小さなカレンダーは、確かに九月九日を示していた。
「本当だ」
「呆れた子だわ、自分のバースディを忘れるなんて」
「ははは、けど、すっげ獄寺らしいよな」
「うむ。確かに獄寺らしい。だが、そんなことではいつか重要な予定すら忘れてしまうぞ」
「お兄さんに言われるとちょっと…」
「まあまあ、せっかくのおめでたい席なのですから、みなさん楽しみましょう」
「そうだよ。ほらハヤト兄、こっちこっち」
一斉にしゃべり出す連中の中から、フゥ太だけが一歩踏みだしてきて、背を押し始めた。
「お、おい。フゥ太」
「あのね、僕のランキングの中でトップに入る店のケーキを、ツナ兄が買ってくれたんだ。ハヤト兄はあんまり甘いもの好きじゃなかったよね」
押されるがままに歩き出せば、扇状に広がっていたメンバーがさあっと避けた。
そうして現れたのは、いつもは堅苦しい書類か酒しか置かれない応接用テーブルに所狭しと用意されている、豪勢な食事だった。ただその量は、全員で食べるにはあまりに少ないように見える。成人男性が四人、十代の食べ盛りが二人に、小食ではあるとはいえ成人女性が一人だ。どう見繕っても、この量では足りないだろう。
原因はおそらく、真ん中に置かれたケーキらしきものだ。よくあるデコレーションが何一つとしてされていない、とてもシンプルなものではあるが、大きさはかなりのもので、決して広くはない応接用テーブルの半分を占めている。
「だから、ちょっと甘いの控えたものを作ってもらったんだ。本当はビアンキ姉が作るって言ってたんだけど、ケーキ二つはここのテーブルに乗らないし無理だよって言って、また今度にしてもらったんだ」
「残念だわ。これほど腕を振るえる機会はないのに」
ふう、と心底残念そうな溜息がビアンキの唇から洩れる。他のメンバーは、フゥ太の機転の良さに胸を撫で下ろしているだろうけれど。
「それじゃあ、改めて」
ランボが全員の手にグラスをまわし、フゥ太がグラスにシャンパンを注ぎこむと、沢田が口火を切る。いつのまにか、全員がテーブルの周りに集まっていた。
「獄寺君の誕生日を祝して、乾杯」
あげられたグラスが、きん、と心地いい音を立てる。釣られるようにしてあげた自分のグラスに次々と触れ合う音が響き、終ると同時に、わぁと声が上がった。
それは、一様に祝福の言葉で。
なんだかとても照れくさくて、くすぐったいものだった。
「…あ、ありが、とう…」
言い慣れない礼に、全員が笑う。ひどいじゃないかと思うが、その笑い声も目も優しくて、反論する気さえなくなってしまった。
なんだろう、誕生日を祝われるのは、こんなにくすぐったくなるものだっただろうか。
「ハヤト」
「…姉貴」
わらわらとテーブルの上に広げられた料理に手が延ばされ談笑が始まる中、どうしようもなくグラスを持ち壁際で立ち尽くしていた隣に、ビアンキが立つ。触れるものがすべて毒となる性質をもつ彼女ではあるが、ある程度は自分でコントロールできるらしく、その手に取られた皿の上には、サンドウィッチや果物が元の形のまま乗せられていた。
「早いものね、あなたがこんな年になるなんて」
「なんだよ、年寄りみたいな言い方して」
「失礼ね、三つしか変わらないわ」
「そっちが上だけどな」
軽口をたたけば、なにも言い返さずに口元で笑うだけのビアンキが、はい、と皿を差し出してきた。毒には変わっていないと分かっていても口にすることはできそうにないが、無下に断ることもできず、とりあえず受け取る。
「あなたが、あまり自分の誕生日をよく思っていないこと、知っているわ」
同じように壁に背を付け、しばらくの間黙って遠目にメンバーを見ていたビアンキが、ふと口を開く。
「…昔の話だ」
「そう? それなら言うけれど、本当はずっと、こうして祝いたかったのよ、私」
長い瞼が伏せられる。くるりと回されたグラスから、炭酸のはじく音が聞こえた。
「私は嬉しかったわ。あなたが私の弟としていてくれたことが。きれい事と思うでしょうけれど、あなたのお母様も、あなたを産んだことを決して後悔されていなかったと思うのよ。だから、祝いたかった。あなたのお母様ができなかった分も」
「姉貴」
「亡くなった人は何も言えないわ。まして私は何を言う権利もない。でも罪悪感から言っているわけでも、同情しているわけでもないのよ。人として、そう思うの」
不意に、未成年組が飲むために用意していたジュースと酒を間違えてランボが飲んだ、と騒ぎが始まる。
あわてて水を飲ませる沢田や、けたけたと笑っている山本、鍛え方が足りないと意味不明なことを喚く笹川に、あーあとあきれ顔のフゥ太。
全く変わらないメンバーが、相変わらずの騒ぎを繰り広げる様子を、ビアンキは微笑ましそうに見て、こちらをちらりと見る。
「それに、こんなにあなたのことを祝いたいと思う人がいるのだもの。悪いことばかりではないと、思いなおしてもいいころじゃない?」
城を飛び出す原因となった、実母の死の真相。そう言えば劇的なものに見えるが、今にして思えばマフィアとして起こりえないことではなかった。だからといって、同じマフィアというグラウンドに立った今も、それが最善だったとは思えない。父にはもっと手を尽くすことができたはずだ。それをせずに、正式な妻ではないにしても己の子を産んだ女に対して最低だったと、すでにいない父に対して今でも腹立たしい。
長く心に住み続けた憎しみは、完全に消え去ることはなく。確かに、いまだ心に引っ掛かるものはある。
けれど。
「…そうだな」
母の死は誕生日の五日後。そう知って、己の誕生日を心待ちになどできなかった。
けれど、祝いたいと思ってくれる人がいる。
母の死にばかりこだわり、自分が生まれた日すらを憎く思うことを知りながら、それでも生まれてきたことを喜んでくれる人が、確かにいる。
それはおそらく、母のそれによく似た、無償の思いだ。
ビアンキが言うように、母はきっと後悔などしていなかっただろう。夢をあきらめることになり、男の身勝手で子と引き剥がされたというのに、年に数度会うだけのきれいなお姉さんは、会うたびに笑顔でいたのだから。
「そうよ。だから来年からは、そんな仏頂面はやめることね」
冗談めかした姉の言葉に、ふ、と笑う。
「うるせぇよ」
返した言葉に、可笑しそうに肩をすくめたビアンキは、相変わらずぎゃあぎゃあと騒いでいる連中に近づいて行った。テーブルの端に置かれている水の入ったグラスを手に取ると、それは瞬く間に毒々しい色と姿に変わり、そのままアルコールが回り始めたらしいランボの口に吸い込まれていってしまった。
「あぁぁあランボー!」
案の定、泡を吹いて昏倒してしまうランボに沢田が駆け寄り、抱き起こす。その眼はすでに沢田を映してはいないようで、がたがたと揺すられるがままになっていた。
「全く、ハヤトの誕生日祝いに無粋な子ね。それで酔いも醒めるでしょう」
「相変わらず怖ぇのなー」
「しかし良い気付けではある。ショック療法というやつだな」
「…あんな療法なら、僕、お酒なんて飲めなくていいや…」
うんざりしたようなフゥ太に、山本と笹川が笑っている。その奥では、相変わらず沢田とランボとビアンキが騒いでいた。
なんと賑やかな誕生日祝いだ。
幼いころには城をあげてのパーティが開かれたし、あのころの規模に比べれば全然小さい。でも、あんな形式ばかり気にして口先だけの祝いをささげられるよりも、こんな小さな集まりで心から祝ってもらえることの方が、何倍も嬉しくて、何より温かい。
こんな思いができるのも、あの人がこの世に送り出してくれたからなのだ。
そう考えれば、なるほど確かに、誕生日も悪いものじゃないかもしれない。
五日後。
いつものように、沢田にわけを話して一日の休暇がもらえた。
出生に関して承知していたボスには快く送り出してもらえたし、先日祝いをしてもらったことに関しての報告もしたいと冗談交じりに言えば、あんまり子供っぽくて笑われるかもね、と笑っていた。
あの日の騒ぎは、唸りながら気を失ったランボと、腹いっぱいで眠ってしまったフゥ太を別室に寝かせたことでお開きとなった。翌日、すっかり片付いた沢田の執務室で、実は午後からの視察をほとんど誕生祝いの準備に走り回っていたというのを聞いた時には、さすがに呆れてしまったが。視察のついでに買い物をしただけだよ、という沢田の言葉に嘘はないと思うが、護衛であるはずの山本はほとんど側にいなかったと言うのだから、呆れを通り越して言葉を失ってしまう。
そんなのんびりした上司に見送られ、普段は乗りまわすことが少ない私用車で出発した本部から、ひっそりと建てられた母の墓までは、多少の距離がある。
途中の花屋で買った二つの花束を車の後部座席に置き、再び発車させる頃には、既に時間は昼に近かった。最初の目的地である事故現場に一つの花をささげ車に戻ると、助手席に放り出したままにしていた携帯電話が、着信を知らせていた。点滅するランプが、すでに着信は切れ記録だけが残っていると知らせている。
今日休むことは、ファミリー幹部はほとんど知っているはずだ。緊急連絡だろうか、と電話を開くと、そこにはいつでも人のタイミングを読んだとしか思えない行動をする奴の名前が表示されていて。
「…お前はホント、俺に発信器でも仕込んでんのかよ…」
「してないよ、そんなこと」
折り返しかけた電話の第一声に、失礼な、と不貞腐れたように返す雲雀は、おもしろくなさそうに続ける。
「何日か前に電話をかけたのに、つながらなかったんだけど」
「え、ああ。悪い、少したてこんでて… って、メールしただろ」
誕生祝いをしてもらっている最中に、どうも電話があったらしいことは確認していた。でもそれが翌日で、しかも世界のどこにいるかもわからない相手で、朝になって折り返しかけた電話は運悪くつながらなかった。一応メールで、出られなくて悪い、と送っておいたが、メールが返ってくることはなくて。
「それを、今見た」
「……さすがにそのことで責められるのは納得いかねぇぞ」
自分が電波の悪い所にいるだけじゃないか。
「責めはしないけど。まさか一人でいじけてるんじゃないかなって」
「失礼だなおまえは。違ぇよ、十代目が祝ってくださってたんだ」
「へぇ」
電話の向こうから、少しだけ驚いた空気が伝わる。
雲雀は、今まで誕生日をどう思っていたかを知っている、数少ない人間の一人だ。子供のころは、そんな中で唯一その日を一緒に過ごしたこともある。わがままで自分勝手な考えをしているはずの相手は、暗いばかりの出生を知り、それに関して薄暗い考えしかできなかった自分を、けれど否定することは一度もなかった。
「よかったじゃない」
だから、なんとなくそう返ってくるのも想像できた。
「ああ」
「沢田だけ?」
「いや、山本とか笹川とかもいたな。ランボとフゥ太と、姉貴も」
「そう」
ふ、と電話越しに息遣いが聞こえた。
「ひとりでないのなら、よかった」
受話器の向こうから聞こえる小さな声。
まだ日本に滞在していた頃。幾度となく誕生日を共に過ごしてきた相手は、思い返せば祝いの言葉など一度もくれたことはない。あの頃はまだ自分の誕生日が嬉しいものだなんて思えなくて、おめでとうなんて言葉を掛けられても、きっと全力で否定していた。そんな思いに気付いていたからこそ、言葉をかけなかったんだろう。ただ黙って一緒にいるか、全く関知しない、ごく当り前の一日として別々に過ごしているかの、どちらかだった。
母に関して、納得はできないものの、ここ数年でどうにか飲み込めるようになってきた。
それを知っても、言葉はよこさない。ほしいなんて思ったことはないし、思うだけ無駄だろう。他の人間から祝辞を述べられ嬉しいと思えるようになった今でも、言ってほしいとは思っていない。
一人でいなくてよかったと、そう言ってくれるだけで十分だ。
「…あのさ、雲雀」
「何」
「この前、夢見たんだ」
脳裏に、あの日の夕焼けが蘇る。
秋風が吹きわたっていく、あの冷たさと、つないだ姉の手の暖かさ。今はもうない、あの光景。
「ガキのころの夢でさ。姉貴と手つないで走り回ってばっかのころの、昔の夢だったんだけど。よりにもよって、誕生日の前の晩で。ちょっと調子崩し気味だったんだよな」
姉を認めたくなかった。自分とは違い正妻の子という立場、幸せの真っただ中にあり何一つ疑問のない姉の姿は、次第に忌むべきものに変わっていった。それが、単なる逆恨みだということに気づけた後も、ずっと。
「けど、姉貴と少し話せて、気が抜けた。いつまでもガキだったのは俺だけで、姉貴は大人になってたんだなって。あの時みたいに、いつまでも手をつないでいたのは、俺の方だったんだなって」
共にいた時間は確かに短かったが、それに匹敵するほどの濃度で共にいた。あんなに仲が良かった過去がある。少しずつ歩み寄ることも不可能じゃないと、そう思えた。
「なぁ、今更気づくとか、都合いいと思うか?」
「…さあ、どうだろうな」
黙ったまま話を聞いていた雲雀は、少しの間をおいて話し始めた。
「君の感覚の話だから、僕には到底理解できないことだけれど。そうだね、ひとつだけはっきりしていることはあるよ」
「なんだよ」
「日本には昔から、両手をひいて子が痛がったら手を離した方が母親、という話がある。母性を問う話だ」
「あ? ああ」
ぽんと話が不明なところに飛んで行った。何が言いたいんだろうか。
「君の手を引くのが、君の姉と母親だったのなら、どちらも手を離すだろうね」
妙なたとえ話ではあるが、その通りだろうと思う。姉はああ見えて面倒見がいいところがあるし、記憶の中にある母は穏やかな人だった。痛いと言えば、離すだろう。
だが。
「それが…」
「僕は離す気はないよ」
どう関係するんだ、と続けるはずの言葉に、受話器越しの声が被さる。
「痛がる子を思うのは母親だろう。でも僕は君の母親じゃない。君が痛いと泣きわめこうと、離せと怒鳴ろうと、誰にも渡す気はないよ。それが君の母親でも、姉でもね」
はっきりと聞こえる宣言に、思わず電話を握りしめる。
ピアノ弾きらしい、長い指の先が平たくなった母の手。料理が得意だと豪語する割に、派手に手入れされている姉の手。
どちらにも覚えがある。幼い頃のように、いまだに姉に甘えているという自覚も、多少なりある。痛いと泣きわめけば、二人はきっと手を離すだろう。
けれど、母の手を失い空いてしまった手を、華奢ではあるけれど無骨な指が、いつの間にか取っていた。話し合いや説得なんてものに一切耳を傾けず、その力ですべてを従えてきた男の指は、離す気はないと強く握ってくる。
この強い力に逆らい、突き離して、姉を選ぶのだろうか。離せということが、できるだろうか。
「…よく言うぜ」
否、恐らく、姉の手を離すだろう。
長く長い間、遠くに離れている間もつなぎ続けていた姉の手は、もう別の誰かに託すべく、放してやるべきだ。
こうして、どうしようもない自分の手を離すつもりはないという相手が自分にもいるように、彼女にもきっとそんな相手がいるだろう。いつまでも弟の面倒をみさせているわけにもいかない。
なにより、たとえ誰かの手を離したとしても、自分が離したくない。
母とも姉とも違う、この力強く、優しく甘やかしてくれる手を。
「嘘を言ってるつもりはないよ」
「分かってるよ、んなことは。ただ、お前は面倒と思ったらさっさと放り出すからな。指くらいのつもりでいる」
フロントの向こうを眺める眼前に、右手を持ち上げる。同行者もいない墓参りの旅路では、当然誰ともつながれていない指先なのに、ふんわりと温かさが滲む気がした。
「……素直じゃないね」
「お互い様だな」
ふん、と笑う声が、不自然に途切れる。
「ああ、電波が切れ易くなってきたな」
「相変わらず妙な場所にいるんだろ」
電波の状況が悪いということは、かなりの僻地にいるのだろう。指輪と匣の謎解きを第一にしている風紀財団は、トップ自らがどこにでも行ってしまうから、いつでも連絡が取りにくい。相手が雲雀ということも原因の大半を占めるが、何割かはそんな僻地に行ってしまうためでもある。衛星電話は優秀で地球上のどこにでも電波が届くが、それすら不可能になりやすい場所にいるとなると、もう連絡がどうこう言う問題でもないだろう。
「もう少ししたら帰れると思うよ」
「そうか。気をつけろ」
「君もね」
返事をする前に、ぷつん、と通話が切れる。電波が切れてしまったらしい。本当にどこにいるんだろうか。
「…情けねぇな」
ハンドルにもたれかかり、持ち上げた手を見る。
電話を忘れずによこした。それだけでもあの男にしてみれば破格の待遇だと分かっていても、声を聞けば本物に会いたくなってしまう。指先に感じた熱が、本当だと確かめたがっている。そんな情けないことは絶対に言えないのに。
ああでも、言ってみるのも面白いだろうか。絶対に驚くだろう。
「ま、言わねぇけどな」
息をついて、体を持ち上げた。まだ今日中に行かなければいけない場所がある。花が萎れてしまわないうちに着きたいし、できれば母に話したいことがある。死した人間が言葉を聞くことが叶うのかどうかわからないし、単なる自己満足で終わるのかもしれないが、それでも、話したいと思った。
今はもう、誕生日も素直にうれしいと感じられる、憎しみの心も薄れたと。
手を取る相手がいるのだから、なにも心配することはないと、そう。
「さて、行くか」
体をハンドルから離し、エンジンをかける。静かな音が沸き起こるのを確認して、発車させた。
残された花束が風に吹かれ、花弁が舞う。
涼しげな秋風に誘われたそれは、ひらりひらりと舞い上がり、やがて茜空に消えていった。
長い… でも祝えた気がする。おめでとう。 ▲