跪くということ
「あ、お帰りなさい、雲雀さん」
どこまでも迷路のような廊下を長々と歩き、漸くたどり着いた部屋の、重苦しい扉を開けて室内に入る。同時に向けられる目は、出迎える声を発した十代目こと沢田と、側近の山本、所用で訪れているというランボのものだけ。
「お疲れ様でした。助かりましたよ」
「別に。仕事だから」
椅子に座ったままこちらを見上げる沢田にそう返し、状況報告をする。
並盛中学で彼らと出会って、十年。月日は面白いように流れていって、そして自分の居場所も流れ、今イタリアの地に足をつけている。山奥にある、人目につかない城のような屋敷。それがイタリアで最も勢力を持つファミリー、ボンゴレの本拠地だ。
マフィアという立場に興味はなかったけれど、沢田の家庭教師でもあった男の、お前の好きな風紀委員の仕事も続けられるし、敵対ファミリーならいくらでも咬み殺して構わないという言葉に惹かれて、日本での生活をすべて捨ててきた。もともと、そんなに執着も持っていない。
確かに、風紀委員の仕事はある。街の様子は日本もイタリアも変わらない。一歩裏道を入れば、そこにはいくらでも獲物が居た。街の風紀を乱し、秩序を綻ばせようとする、排除すべき獲物が。
それ以外は、直に沢田から命が下されない限り、好きにしていていいということだった。そういうものだから、と言って左手にしたリングを示されれば、それで納得した。遠い昔に聞いた意味は曖昧にしか覚えていないけれど、自分にだからこそこれだったんだろうと、今ならなんとなくわかる。
「…はい、確かに。それで雲雀さん、次なんですが」
「なに、もうあるの」
「いえ、逆なんです。暫くはそう大きな動きもなさそうなので、ここに居てくださればそれでいいです。緊急時には呼びますから、携帯は忘れないで」
「判ってる。じゃあ、僕もう行くよ」
この屋敷には、幹部連中には個室が与えられ、さらにはゲストルームや室内プールに、武器庫、地下シェルター、緊急時の抜け道まで完璧に揃えられていた。この屋敷一つで既に国のようなものだと、帰ってくるたびに思う。
「雲雀さん」
くるりと踵を返したと同時に、呼ばれる。視線だけで肩越しの背後を見れば、沢田は、十年前と変わらない、どこか困ったような笑顔で、駄目ですよ、と言った。
「雲雀さん一人を見逃すわけにはいかないんです。下に示しがつきませんから」
「…下なんて誰も居ないけど」
「この部屋は、常に監視してますから」
ウィン、と羽音程度のモーター音が耳を掠めた。部屋のどこかに隠し監視カメラがある。
「…これ、出来ればやめさせてもらいたいんだけど」
「伝統なんだそうです。俺たちはまだある意味、新参ですし… 出来れば俺も、どうにかしたいんですけど」
力不足ですみません、と大してそう思ってもなさそうな沢田の言葉に、ため息を落とした。さくさくと絨毯を踏みしめる。ゆったりと大きな椅子に座った沢田の前に膝を着き、その手をとった。
十年の間に、沢田は随分変わった。根本的なところはやはり甘いままだけれど、人の扱い方を覚え、人を見る目を養い、そして完璧にボスをこなしている。
上に立つ人間になったのだろう。だから今のボンゴレには、そう大きな問題もない。
けれど、別に彼に忠誠を誓いその傘下に入ったわけではない雲雀にとって、この行為ほど滑稽なものはない。
愛の誓いでもあるまいに。
手の甲へのキスなど。
沢田の執務室から開放され、そのまままっすぐに自室に向かった。いくらでも分かれ道があり、あちらの扉から誰が、こちらの扉から何が、とマフィアは昼でも忙しいらしい。
漸く住居に割り当てられる棟に着き、しんと静まり返っている廊下に安堵した。絨毯敷きの所為で、その響く音が好きな革靴は音を出さないけれど、それがゆえに廊下は静寂に包まれ、心地よく出迎えてくれる。
「…雲雀」
ぽすん、という間の抜けた足音に、声が混じる。
「もしかして待たせた?」
「あ、いや。俺今日オフだから。することなくて、散歩の、途中」
誰が見ても百パーセント嘘の言い訳をしながら、獄寺は座り込んでいた絨毯から腰を上げる。うろうろと視線を漂わせたまま、そ知らぬ顔で。
「散歩の途中に、僕の部屋の前で座り込んでたの? すっかり忠犬だね」
その様子があまりにおかしくて笑うと、とたんに機嫌を損ねた獄寺は、誰が犬だ、と噛み付いてきた。そういうところが犬だというに。
「まぁいいや、仕事帰りで疲れてるんだ。君の相手はまた今度」
「仕事終わったのか?」
「暫くは待機。今日はもう寝ようかと思うんだけど、何?」
仕舞いこんでいたキーを取り出す。たとえファミリー内といえども、腐ってもマフィア幹部の個室。その鍵の様相は特殊で、確か複製が不可能だと聞いている。だから失くしてくれるなといわれて以来、チェーンに通して首にかけることにした。これが一番失くさなくていいし、仕事中は指輪もこれに通している。指輪は、どうにもトンファーの握り心地に影響が出たから。
ちゃらりとチェーンのかかったままの鍵を鍵穴に通す。まわせば当然のようにかちりと開いて、自室に数週間ぶりの風が入る。
「そ、か… や、別に、何もない」
「そう」
キィ、と開けた扉が軋みを上げる。
「…雲雀?」
「何」
「入らないのか?」
開けられた扉。その前にただ立っているだけの、二人の男。
不思議そうな声に、ため息が出た。これがわざとならともかく、天然なのだから始末が悪い。
「君は入らないの?」
こんな場所で待っていたくせに。
今日仕事を終えて帰ってくることは、事前にわかっていたことだ。性格上誰かと共に行動するというのが苦手な自分に割り振られた仕事は、どれも一人でこなせるものばかりだった。おかげで仕事に不満はない。
今回の仕事にしても、そう大変なものではなかったけれど、潜入から壊滅までの間に数週間の時間を要した。そのおかげか攻略は楽なものだったし、すべての後始末を終えて帰れる日がわかるくらいには、余裕だった。
それはボスである沢田に伝えられて、その側近の一人でもある獄寺に伝わるのは当たり前のことで、だからここに居る上で、今日が非番だというのなら、つまりは、そういうことなんだろうと。
「…入る」
「どうぞ」
一歩引いて入室を促せば、獄寺は遠慮がちに足を踏み入れた。目の前を通り過ぎていく横顔が、微かに朱を帯びていて、思わず口元がほころぶ。
「お前、もう十代目にはご挨拶に伺ったのか?」
「面倒だから先に済ませてきた。さっき言っただろう、暫くは待機だと、沢田から言われている」
だから携帯だけは手放すなと、そう作ったような困り顔で言った沢田に、仕方なくとはいえ膝を突いたことを思い出して、知らず顔をしかめた。
駄目だ。あの儀式めいた規則だけは、早くどうにかしてもらわないと、こっちが先に切れて、この仲間意識の強い城の中で城主を咬み殺しそうになる。
「そ、うか」
「…隼人?」
思わず、といった様子で言葉を呟く獄寺の様子が、すこしおかしい。安堵したような、奇妙な声色だった。
「い、いや。お前、何かと後回しにすんだろ? 先に済ませてるなら、よかったと、思って」
「仕事だからね。これで金をもらっている以上、それくらいの良識はわきまえてるつもりだよ。何、済ませていなかったら、手でも引いて連れて行ってくれるつもりだった?」
まるで子供がそうするように。
そういえば獄寺は、誰がそんなこと、と牙を。
「ぁ… ああ、そう、だな」
剥かない。
「…隼人、何なのさっきから。言いたいことは早く言ってくれないと、僕はそんなに気が長くないよ」
後ろ手に扉を閉める。オートロックが音を立てて降りた。
主人が不在の期間閉められていた室内の空気は湿っていて、引かれたままのカーテンの所為で光も届かない。合間からこぼれる一筋の光だけが、床の一部を焦がしそうなほどに照らしていた。もっと広い部屋はいくらでもある、という前代から勤めている世話係に言わしめるほどに、雲雀が自室と選んだ部屋は狭かったが、それはあくまで城の内部にある部屋の比率から言っただけで、一般家庭で言えばリビング以上の広さがある。それにバスや寝室がプラスされているのだから、同等の広さの部屋を都心で借りれば、家賃は考えたくないくらい高いだろう。
広い部屋に射す、たった一筋の光。そのすぐ脇に立つ獄寺は、暗闇の中で読めない表情のまま、だって、と呟いた。
「なんか、よくわかんねぇけど、先に挨拶してもらっときてぇんだ。それだけだよ」
「それだけにしては、随分絡むね」
「っ、だから、わかんねぇんだって!」
薄暗い部屋の中で、獄寺の右手が握りこまれるのが見えた。
「お前が、十代目に挨拶してるのを見るのは、なんだか、落ち着かない」
苦しげに吐き出される声は、光の中を漂うわずかな埃を揺らす。
「全部済ませて帰ってきてほしいって思っちまう。わかんねぇよ、理由なんか。ただ、嫌なんだ」
駄々をこねる子供のように言うと、獄寺は黙り込んでしまった。
だが、そういえば、自分が仕事を終わらせて帰ってきたとき。獄寺が沢田の側にいることは極端に少なかった。止むを得ない仕事上の都合で休みが取れないときを除いて、いつでも獄寺は休みを取っている。そんなに頻繁に取れるはずもないのに。
ボンゴレの中でボスへの挨拶といえば、雲雀にとっては滑稽以外の何者でもない、あの儀式めいたしきたりだ。膝を折り、その足元に跪く。傅く、と言ってもいい。
ばかばかしくて、早くなくしてしまいたい、古い忠誠の示し。
それを、見たくないと、そういうのか。
「…僕はてっきり、君は僕の帰りに合わせて休みを取ってくれているんだとばかり思っていたけど」
都合のいいようにとっていた自分に笑う。そうか、そうだったんだ。
「でも、そうしていてくれたほうが助かるな」
「え…」
「僕も、あんな姿を君に見せたいと思わない」
絨毯を踏みしめて、一歩近づく。側に寄る気配に気づいたのか、獄寺が顔を上げる。薄墨の中で、不安に揺れる緑色の綺麗な瞳が、こちらを見上げていた。
「沢田には言っておいたよ、早くこんなことやめろってね」
「十代目に」
「昔に比べて随分擦れてしまったから、聞くとは思えないけど」
十年前の彼なら、そうしろと言われれば死に物狂いでそうしただろう。でももう、今の自分たちは十代の子供ではないし、立場はまったく逆転してしまった。暴力に任せてすべて解決してしまおうと思えるほど、子供ではなくなってしまっていた。
「ねぇ、隼人」
「な、に… 雲雀っ!?」
濃い色の絨毯に片膝を突いて、跪く。元ピアニストの手をとり、それを口元に寄せた。
「雲雀やめろっ! しなくていい、そんなことっ」
「どうして? 僕はしたいだけだ」
させられている、というだけの沢田と、そうしたくてしている、獄寺。
同じ行為でもそこにある心が違う限り、時にはただの絵空事となり、時には思いの表現になるということに、君はまったく気づいていない。
困惑した獄寺の声が、手の甲に唇を寄せると途端に詰まる。わざと音を立てて何度も繰り返し、ゆるく唇だけで指先を食んだ。
「ひ、ばり…っ」
息の詰まる、耳に心地いい声。爪に舌を這わせば息が上がり、音を立てれば指先が揺れた。
「やだ、ひばり、もう止めろ…っ」
すっかり上がってしまった息で、そんな風に切なげに言われて。
止められる男がどれだけいると思っているのか。
「仕方ないな」
指を最後にきつく吸い上げて、突いた膝を起こした。闇に慣れた目は、真っ赤に染まった獄寺の、昔と少しも変わらない表情を捕らえた。
「さっきも言ったけど、僕、今日仕事終わったばかりなんだよ」
「あ、ああ…」
「だから、早く休みたい」
赤く熟れる頬に口付けて、いつまで経っても細い腰に腕を回した。
「もちろん、君も一緒に」
どう、と少し低い位置にある顔を覗き込む。
少しためらうように視線を迷わせ、けれど最終的に、獄寺の腕が首に回った。子供のように抱きついてくる。
「…俺、明日は仕事」
「そう」
普段、人前では寄り付きもしない恋人が、誰の目も無いことに安心して擦り寄ってくる。ごろごろと喉を鳴らしそうな表情。
かつての子供の頃とは、皆随分変わった。
沢田はずる賢い一家のボスに。山本は負けず嫌いに拍車がかかって、ランボは相変わらずだけど、笹川は今や海外の支部をいくつか任されている。
皆変わっている。いつまでも、子供のままでいられない。
獄寺はこんな風に甘えられるようになり、自分は、暴力とは違う駆け引きを覚えた。
「でも、帰らないでしょう?」
たとえどんな目に合わされたとしても。それが予想ではなく確信で、間違いなく起こりうる未来だとしても、君は決して否と言わない。
わかっていて仕掛ける。そして君もそれに乗る。これが僕らの覚えた、大人の駆け引きだ。
「…帰す気があんのかよ」
「全く」
「じゃあ聞くな」
くく、と喉の奥で笑う獄寺の顔が、すぐ側にある。
「おかえり、雲雀」
吐息が掛かるほど近い位置で落とされる声。
ただいま、と返し、漸くその唇に触れた。
「ところでさ、ツナ」
雲雀が去って、暫くして。ただ黙々と仕事を片付ける沢田に、山本は声をかけた。
「何ー?」
「さっきの、ヒバリに言ってた、カメラってヤツだけどさ」
顔も上げずに書類に目を通し続ける沢田は、ああ、と声だけで笑った。その表情は、山本の位置からでは見えない。
「そんなの、ホントにあんの?」
「ないよ」
さらり、と当たり前のように。
「…こえーぞ、バレたら」
「うーん、雲雀さんは何もしないと思うけど。でも、一応それらしいのはつけてあるんだ。ほら、昔流行っただろ? フェイクカメラ」
「ああ… ゲーセンなんかの、景品の?」
「そう。アレを思い出して、ちょっと精巧に作ってもらったんだ。記録部分が無いだけで、リモコン一つで動く、見かけも重さも音もフォーカス機能もまったくの本物をね。さすがの俺でも、この部屋に入ってくる相手を疑いはしないよ」
確かに、自分たちがまだマフィアなんてものに触れてもいなかった頃。日本の片隅で小さく小さく生きていただけのあの頃に、そんなものがあったような気がする。防犯意識の低い国では、だだそれだけで安心していたのだろうかと、当時から疑問で仕方なかったものだが。
「じゃあ、わざわざ、ヒバリにあれをさせるために?」
「まぁ… 確かに、雲雀さんにはちょっと意地悪かなと思うけど、仕方ないかなぁ。あの人のためでもあるんだし。それとね、雲雀さんだけじゃないよ。獄寺君も、山本も、ランボもね」
「俺たちもかよ」
「そうだよ。だから山本は、知らないふりをしてくれなくちゃ」
「そりゃいーけどよぉー… ヒバリのためって、何が?」
漸く顔を上げた沢田は、答えもせずに、昔に比べると随分黒い笑顔で笑った。
そんな笑顔をするようになったのは、もちろんイタリアに来てからだけど、なんだか最近度を増してきたような気がする。
「…俺は今無性に、十年バズーカで昔のお前に会いたいと思ったよ」
もれた愚痴に、沢田はただ、訳知り顔で笑うだけだった。
たったあのひとコマからここまで妄想できるって。 ▲