ubriacarsi

 週末のドラッグストア。
 立ち寄ったのは、何のことはない、歯ブラシが駄目になりかけていたのを、店の前を通りかかり全国共通のテーマソングが流れているのを聴いた瞬間思い出したからだ。そういえばもうぼろぼろだった、と自宅の洗面所に置かれた哀れな姿を思いながら、店内に入った。目的の物はすぐに見つかって、他には何もないと即座にレジに向う。あまり、中学生男子が長居したい場所でもない。
 そのレジの隣に、それは鎮座していた。
 手を出したのは、レジ待ちの時間を潰すため。
 裏面に目を通したのは、なんとなく。

 歯ブラシと共にそれをお買い上げしたのは、たった一文字の所為だった。

「ってー…」
 時間は過ぎ、ドラッグストアに寄ってから、既に一週間半が経とうとしていた。
 相変わらず学校は平和そのもので、唯一の敵といえば独裁政権の権力者だけ。それも、いつかは絶対に勝たなければいけない相手だと、顔を合わせればそのたびに撃ち合いになるが、悲しいかな獄寺が勝利したことは一度もない。
 化け物じみた実力と、冷静な判断。
 立ち居振る舞いさえ静かな権力者は、今日も静かに此方を見下ろしている。
「今日はもう終わり?」
 ひゅん、と風を切る音。
 ダメージを食らったコンクリートの外廊下が、かつん、と革靴の音を響かせた。
「…獲物がなくなった」
 制服の下には、いつでも大量に武器を仕込んでいる。正直に言えばまだ残ってはいたが、これを使い切ってしまえば帰り道が不安になる。日本は平和で、道を歩く程度では命の危険なんて事故程度のものだが、それでも除ける不安要素は出来るだけ排除しておきたかった。ダイナマイトの最低確保は、そのためだ。
「君は大道芸がなければ駄目?」
「だ、大道芸って言うな! 俺は俺で誇りもってボム使ってんだ!」
 嘲りを含んだ声に、足を繰り出す。余裕をもってそれを交わした相手は、ふ、と口元だけで小さく笑い、手にした獲物で軸足を打った。
「っ、てぇ…!」
 骨打つ痛みは尋常じゃない。手加減など知らない相手は、容赦なく二打目を打ち込んでくる。それを寸でのところで避けて、腕を支えに打たれたばかりの軸足を繰り出すが、あいにくと空振り。
「ぅわ!」
「ワオ、見事なフルスイングだ。尊敬するね」
「うるせぇー!!」
 崩れた体制は簡単に戻らない。隙を狙って必ず打ち込んでくると思った相手は、けれど静かに立っているだけで。気づいたら、その両腕から凶器の姿が消えている。
「…雲雀?」
「仕方ないから見逃してあげる」
「へ?」
「さっきの間抜けな転び方見たら気が失せた」
「なっ… っとに、一々癇に障るヤツだよテメーは!!」
 言いながら、どさりと腰を下ろした。一度気が失せてしまえは、雲雀は手を出さない。次のスイッチが入るまでは、とりあえず安全だ。
 校舎の裏には、人気がない。学校は放課後も遅く、校舎に残っているのは教師だけだ。そのほとんどが、こんな場所には滅多に出入りしない。風紀委員の、特別指導の場だと知っているからだ。
 こんな場所に出入りして、もし万が一、委員長による強制指導の場面にでも出くわしたら、自分たちが被害をこうむりかねない。まして今回は、ダイナマイトまで取り出している。教師にとっては頭の痛い問題だろう、けれど一生徒でしかないはずの雲雀がやることには口を出さない。そんなわけで、雲雀恭弥率いる風紀委員会は、この場所を確実に自分たちのものにしていた。
 今も、背後の校舎から人の無配がしない。教師のいる職員室は棟が違うから、皆知らん顔で退避しているのだろう。
 いい気なものだ。そんな風だから、たった一人の中学生に教師から生徒まで支配されるようなことになるんだ。
「今日は以前よりもった」
「ったりめーだろ、やられっぱなしでたまるかよ」
「ふうん」
 いつの間にか隣に来ていた雲雀は、感心したとか、意外だとか、そういう感情すらも含まない声で淡々と述べる。
 その顔が、ふと、何かに気づいたように上げられる。
「ねぇ」
「何… っ、何、なにしてんだっ」
 すぐそばに、雲雀の顔がある。一体何がしたいのか、頭の天辺に顔を埋めた雲雀は、そのまままるで動物のように、くんくんと鼻を鳴らして耳元まで降りてきた。
「雲雀っ」
「いや、随分変わった匂いがするなって。君、香水でも変えたの?」
「はぁ?」
 耳元で聞かれるには、あまりに色気のない質問。
 それに思わず力が抜けて、言われたことを、そのまま反芻して考え込んでしまう。
 香水は、確かにしている。けれど、煙草のにおいを隠すためのものでもあったから、メーカーにこだわっているわけでもない。一つを使い出したら延々使っている。一本気といえばそうだが、言い換えれば単に面倒くさがりなだけで。
 ここのところ、ずっと同じものを使っている。変わった匂いなんて、する筈がないのに。
「…ああ、そうか」
 不意に思い浮かんだように、雲雀が眉をひそめた。
「これ、桜のにおいだ」
「………あ、あ」
 言われて、思い当たった。
 数日前の買い物。ドラッグストアで衝動買いしたそれ。
 あれは確かに、桜のにおいのする、商品だった。
「…お前、においもだめなのか?」
 すい、と体を離した雲雀を見上げる。
 いつぞや、かつての主治医にかけられた病の所為で、雲雀は桜が生涯の敵になった。それまでは、春になれば桜を愛でる、程度に日本人をしていたらしい雲雀は、それきりぱったりと近づかなくなった。近づきたくても出来ない、というのが正直なところだろう。
 それが、どの範囲までなのかは、雲雀しか知らない。
 色、形、姿、におい、散る様子、紙に描かれた絵。
 そのどれが平気で、どれが駄目なのか。
 自分の弱点のことなど話したがらない雲雀から聞きだせるはずもないその疑問が、桜というたった一文字を目にした瞬間浮かび、気づいたら一緒にレジで清算していた。三百円でおつりがくるはずだった買い物は、千五百円を出しても足りなくて、思わぬ出費になったのだけれど。
「今のところ、平気みたいだね」
「そ、うか」
「でも」
 どさ、と隣で音がする。
 先ほど離された体は、それよりも近くなって、隣に座っている。
「久しぶりだね」
「雲雀」
「そうか、こんなにおいだったんだ。忘れてた」
 耳元で再び、くん、と音がした。
 首筋に呼吸が触れる。そのたびに、意味もなく体温が上昇した。耐え切れずに体を離そうとすれば、動くな、と肩を押さえられる。瞬間、首筋に唇がかすめて、息が詰まった。
 拷問みたいだ。打撃による攻撃よりも、よほど効く。
「これ、何? 香水じゃないよね」
「…シャンプーだよ。気に入ったんなら、やる」
「ふうん」
 何を考え込んでいるのか、そう言ったきり、人の肩に顔を埋めてしまった雲雀は、暫くして顔を上げ、いいよ、と言った。
「いらない。君が使えばいい」
 きっぱり言い切り、掠めた首筋に、今度こそはっきりと触れてきた。舌先というおまけ付きで。
「ひ、ばり!」
「僕が使ったところで、僕には大してにおわない。君が使ってくれていたほうが、僕に届くと思うしね」
 肩を押さえた手が、逆の首筋に回る。するすると指先が撫でるたびに、項に電気が走った。
 雲雀の指は曲者だ。
 あんなに力を込めた凶器を振るうくせに、こういうときばかりはまるで力なんて入っていない、羽を触れるようにして撫でるから。
 くらくらする。酔いそうだ。その指先と、桜のにおいに。
「桜は見れなくなったけど」
 まるで歌うような声が、朦朧としてきた意識に飛び込んでくる。
「これはこれで悪くない」

桜というより桜餅なのが気になる商品です。題名は伊語。『酔う、陶酔する、夢中になる』