嵐の日
常にない激しさを伴った嵐が、並盛に降り立ったその日。
小さな部屋の中で、とても大きな出来事が起きていた。
「なんでこんな…」
一体全体、何がどうなって、こうなってしまったのか。
ぼんやりと呟く自分の声の弱さに、獄寺はさらに肩を落とした。
夏を前に、並盛に限らず日本全国で大気が不安定になっていた。さまざまな前線が入り乱れるだとか、なんとかだとかいう異常気象が原因で台風が早期に発達したとか、理解できなくもないけれどする気が起きないニュースを確認していた携帯電話に、一つの着信が入る。
それは毎朝のモーニングコールを勝手に請け負っている風紀委員長からで、内容は、今日は臨時休校、というものだった。
「臨時休校?」
「そう、雨風がひどいからね。まさか嵐の日に出歩くような馬鹿だとは思っていないけれど、一応忠告」
「うっせぇよ」
誰が出歩くものか。さすがにそこまで馬鹿ではない。
「そう? ならいいけれど」
「つか、なんでテメェから連絡が来るんだよ。連絡網があるだろ」
緊急事態に備えて、各クラスにはそれぞれの連絡先を記した連絡網が作られている。それは自分のクラスも例外ではないし、書かなければいけないから、と沢田に言われて仕方なく携帯電話の番号を書き込んだ。自宅としている一人暮らしの部屋に固定電話を設置しておらず、そのことを担任の知っていたから、特に問題もなかった。
あの連絡網は、こんなときのために作られたはずだ。だというのに、なぜクラスどころか学年すら違う相手から連絡が来るのか。
「ああ… 君は関係ないから知らないだろうけれど、電話線が一部切断されたんだ。今は携帯電話でしか連絡が取れない状態になっている。停電もしてるしね。混乱がひどいから、連絡網は機能していない」
「そうなのか?」
「これだけ荒れていれば学校に行くような生徒はいないだろうから、必要もないけれどね」
確かに、連絡がないからと登校するような学校好きは、今電話をしている相手しか思い当たらないが。
「残念ながら僕も家だよ、期待に添えなくて申し訳ないけれどね。とにかく、今はまだ明るいから関係ないけれど、夕方からは停電が痛手になる。あまり携帯は使わずに、電池を保っていた方がいい」
「ああ、そうする」
「じゃあ、切るよ」
気をつけて、と。
最後の最後に僅かな心配りを見せて、風紀委員長からの電話は切れた。
「気をつけるも何も、出歩いたりしねぇっての」
ぴ、と小さな音がして、こちらからの通話も切る。
視線を向けた窓の外では、風がひどく渦巻いていた。飛ばされる草木や、誰かが放置したのだろうビニール袋、小さな看板など、さまざまなものが飛ばされている。がたがたと派手な音を立てる窓ガラスも、風向きが変われば割れそうなほどに揺れていた。
「こりゃヒデェな…」
細長い日本列島では、南で発生した台風が北上しながら移動するため、首都圏に舞い降りる頃には威力が落ちているのが常だ。時折、空気を読まずに発生する台風が強い勢力で襲いかかることもあるが、今日の天候はそれととてもよく似ているような気がする。
「そういや、停電してるっていってたな」
窓の外は荒れているが薄暗いだけで、電気は必要ない程度に明るい。常に通電している家電製品と言えば冷蔵庫だけの室内では、停電を確かめるのも難しかった。周囲がこれだけうるさいと、モーター音すら聞こえない。
ならばと、手にしたままの携帯電話を、枕もとに置いた充電器にセットする。常時コンセントに差し込んでいる充電器なのに、いつもの確認音がしない。どうやら本当に電気が止まっているらしい。
「うわ、めんどくせぇ…」
これでは、自由に携帯電話をいじれない。充電が切れてしまえば、電話もできなくなる。そうなれば当然、沢田からの連絡も受け取れなくなり、彼の危機に気付けないままになってしまう。それだけは避けたかった。
仕方無い。大人しくしているか。
他に選択肢をなくした獄寺はそう判断し、とりあえず水が止まってしまう前にシャワーだけは浴びようと、電話を放り出して浴室へと向かった。
幸いにもまだ水は止まっていなかったらしく、心地よく身を清めることができた。電気が止まっているからドライヤーは使えなかったが、こんなものは自然乾燥でいい。充電器を突き刺したたままの携帯電話には、席をはずしている間に連絡は入らなかったらしく、なにもない待ち受け画面だけが出迎えた。それを確認し、二つ折りの電話を開いたままベッドに投げだす。
電気が止まったところで、冷蔵庫の中はミネラルウォーターしか入っていないし、冷房が必要なほど暑くも、暖房が必要なほどに寒いわけでもないから、空調も止まってしまって構わない。
こうなると、意外と生活に支障がないことが分かって、少し驚いてしまった。
「ま、しょうがねぇな」
今のところ、携帯の使用が限られてしまうだけで、自分の生活には何の変調もない。このまま止まりっぱなしだというのならば問題だが、そのうち復帰するものだ。たまには電気を使わない生活も悪くないかもしれない。
それを確認して、読みかけのまま放っていた本を取り出した。こんな時に読んでしまうのが一番はかどる。
ごろりとベッドに横になって、首にかけたタオルで時折髪を拭いながら、ページを進める。窓からは絶えずガタガタと窓の震える音が響き、その中には風紀委員長いわく嵐の日に出歩く馬鹿のテンション高い叫び声も混じっていたが、様子を見に体を起こすことはしなかった。馬鹿には付き合っていられない。
やがて、そんな様々な音が聞こえなくなった頃。
それらに代わり、どおん、という腹に響くような音が耳を劈いた。
「な、なんだぁ?」
慌てて体を起こし、窓の外へ視線を向けた。変わらず風と雨が吹き荒ぶ様子だが、その暗くどんよりとした雲に、きらりと何かが光るのが見えた。
雷だ。
「最悪…」
雨風に加えて、落雷までとは。
ひどくなる一方の天候では、しばらく電気の回復は望めないだろう。
ぴか、と稲光がきらめく。
間をおかずに、どおん、という音が、今度はとても近くで響いた。
「え、これ、近づいてきてないか?」
雨風では、せいぜい電気が止まり水が止まる程度だ。それでもかなりの被害ではあるが、人が死に至るようなことではない。病院など、本当に電力が必要な場所では非常電源が用意されているだろうし、水もしかりだ。大災害というわけでもないのなら数日で収まるし、多少不自由はあるだろうが命には係わらない。
だが、雷となると話は別だ。最悪死を招くし、命が助かったとしても、何かしらの後遺症や火傷を負うことになる。それに、室内が安全というわけでもないのだから、性質が悪い。
「まずいな、とりあえずコンセントに近づくのはやめとこう」
電源タップから感電することもあることを思い出し、あわててベッドを振り返った。そこには、すでにバックライトも落ちて待機状態の黒い画面を晒す携帯電話と、それに繋がれた充電コードがある。コードの端は、コンセントにつながれていた。抜いておかなければ、携帯自体が駄目になる。
急いで電話に近づき、手に掛けた。
その時。
「っ、うわ!」
窓の外で大きな稲光が起き、ほぼ同時に腹を震動が揺さぶった。直後に、音が響く。
まずい、落ちた。
そう理解するのとほぼ同時に、獄寺は見た。見てしまった。
誰にも触れられることのない携帯電話の画面が輝き、ばちばち、という火花を散らせるのを。
直後、部屋はあり得ないほどの光に満たされ、獄寺の視界は白で埋まってしまった。
「っ… な、なんだ、いったい…」
反射的に閉じた目を恐る恐ると開けてみれば、部屋を満たした光はすでに消え失せていた。発光は一瞬だったらしい。
ふるりと頭を振れば、一時的に失ってしまった視力が、徐々に戻ってくる。ぼんやりとしていた光景が、少しずつ浮かび上がるようにして見えだしていた。
「なんだってんだ、マジで」
いくら雷が落ちたからと言って、携帯が勝手に発光するはずがない。それも、まるで爆発したかのような反応だが、そんな音は一切しなかった。
ならば、いったい何が起こったのか。
「……ん?」
次第にはっきりとし始める視界と、映る世界。
光が部屋を満たす前と、何一つとして変わるはずのない光景なのに、何か違和感があり、首をかしげた。
今は電気が通らず機能していない冷蔵庫と、本や多少のアクセサリーが仕舞われている棚。中途半端に開かれたクローゼットの扉に、壁に掛けた制服、ベッドに転がった携帯電話と、それにつながる黒いコード。殺風景だとあきれられるくらいに何もない、いつもの自室。
そうだ、何一つとして、変わらない。
なのに。
「……なんだこれ……」
目の前には、全く覚えのない、小さな何かが転がっていた。
黒い髪に、うっすらと緑がかったでかいガラス玉。ころころとしたまん丸い体の、どこからどうみても正真正銘、一歳程度の赤ん坊、が。
「は…… はぁぁあぁぁぁあああ!?」
嵐の日。
突然舞い降りたそれは、キセキなのか、イタズラなのか。
ただ呆然とするしかない獄寺を見上げた赤ん坊は、満面の笑みを浮かべていた。
パラレル開始ー。 ▲