雲の日

「なに、これ…」
 呆然とした声が、己の口から漏れる。それは奇しくも数十分前、獄寺の口から出た言葉と同じだったのだが、当人は知る由もなかった。

 多少空気を読まない嵐の所為で、並盛中学が臨時休校となったその日。
 天下の風紀委員長といえども停電と外出不可能のコンボを食らっては身動きがとれず、仕方なくガタガタと窓を打ち鳴らす音が響く室内で、ページの進まない文庫本に目を通していた。いまはまだ天候の所為で薄暗いとはいえ本くらいは読めるが、夜になっても停電が続いてはそれも出来なくなる。こう風音が煩くては眠れもしないし、充電が不可能な携帯電話は出来るだけ使用したくない。
 八方塞がりとはこういうことを言うのだろうと、置かれている状況にため息を吐き、ページをめくる。
 その表面に一瞬、眩しいほどの光が反射し、続いて、どおん、という低く唸るような音が響いた。雷だ。
「落ちたな」
 音というよりは振動に近い。腹に直接打ち込まれるような感覚は気分が悪くて、知らず眉間に皺が寄った。
 天候が悪化するのは仕方ない。だが、おかげで予定という予定全てが駄目になってしまうのは、強いストレスだ。
 早く回復すればいいのに。
 如何ともしがたい願いを心中でつぶやき、再び本に目を落とした。まだまだ嵐は去る気配もない。大人しくしているしかないだろう。
 諦め半分で文字をなぞる視線が三ページ目まで進んだ頃、不意に聞き慣れた校歌が流れはじめた。紙面から顔を上げれば、隣に置いてあった携帯電話が着信を知らせている。
 手に取り開いた待ち受け画面には、数時間前に電話をかけた相手の、見慣れた名前が印されていて。
「なにか…」
「おい雲雀お前今すぐうちに来い!」
 あったのか、と続く言葉に、電話の向こうから声が被せられる。挨拶も何もないのはいつものことだか、こんなに唐突に叫ばれるのも滅多いにない。おまけにその内容と言ったら、先ほどの電話内容をまるっと無視したもので。
「無理に決まってる」
 窓の外は暴風圏内だ。木々や看板に限らず、ヘタをすれば人が飛ばされる。こんな中を歩く、バカみたいな趣味はない。なぜ進んで濡れなければならないのか。
「用事があるなら君が来ればいい」
 それが筋だ。だというのに。
「無理! 絶対に無理!! いいから来い、いますぐに!」
「あのね…」
「雲雀!」
 イラつきの交じる声が、切羽詰まった訴えに掻き消える。
「頼むから…っ」
 聞いたことのない、弱々しい声。これまでに遭遇した様々な窮地を、強気と根性で乗り切ってきたはずの男が出すには、あまりに頼りない色を漂わせていて。
「すぐに行く」
 今日はとんだ厄日かもしれない。
 窓に打ち付ける雨粒を見ながら、これから自分に降り掛かる災難は嵐程度ではないかもしれないと、風紀委員長は苦い思いで電話を切った。

 ひどいという言葉では納まらないほどひどい悪天候の中、四苦八苦してたどり着いた単身用のマンションは、その風雨のなかに有りながらも、恐ろしく静まり返っていた。嵐の前の静けさ、とはよく聞く言葉だが、嵐のさなかにありながら静かすぎる様子は、はっきりいって不気味だ。
 もしこれで、とてつもなくどうでもいいような内容だったら、咬み殺すだけでは済まさない。
 今まさに荒れ狂う天気のように、ぐつぐつと煮え立つ腸を抱えながら階段をあがり、目的の扉を叩いた。すぐに、ばたばたと騒がしい音がして、弾かれるように扉が開かれる。
「遅ぇ!」
 飛び出してきた部屋の主は、怒鳴るというよりは叫びながら、いきなりしがみ付いてきた。
「…隼人?」
 がっしりと首に腕を回し、こちらが雨に濡れてぐっしょりなのを気にも止めず、獄寺が抱きついている。
 なんだ、一体。
「何、雷が怖いの?」
「んなわけあるか!」
「だよね」
 ダイナマイトを放り投げ、あまつさえその爆風を背に受けて推進力を増す、なんていう無鉄砲極まりない戦法を取る奴が、いまさら雷が怖いだなんて。
「とりあえず、中に入れてくれない? ここに居続けるのはごめんだ」
 玄関先とはいえ、正確にはまだ外だ。
 そう言えば、ああ、とどこかまで上の空な様子で、獄寺が体を引く。何やら複雑な英文がプリントされた白いシャツには、ところどころ水の跡がある。飛びついたものだから、こちらの水が移ったのだろう。まっすぐに前しか見ないのは、獄寺の良いところであり悪いところであると思っているが、それにしても見境がない。いつもなら、例え誰の目がなくても、あんな事はしないのに。
 様子がおかしい。それは見ればわかったが、どうにも理由がつかめない。
 内心、よほど面倒なことになっているのかもしれない、と警戒しながら、勧められるままに部屋へと足を踏み入れた。必要最低限の生活必需品がぽつぽつと置かれた室内は相変わらず殺風景で、何度見ても生活感がない。おまけに今は天気が悪く、室内が薄暗くなっている。余計に寂しげに見えた。
 冷蔵庫に、棚に、ベッド。大まかにいえばその三つしかない室内は、家主とその客が玄関から入ってきたせいで、誰の気配もなく。
「ん?」
 誰の気配も、ないはずだ。
 獄寺は背後にいるし、玄関に自分たちの靴以外の履物はなかった。乱雑に出されているブーツやスニーカーはすべて家主のものだし、その中に一つ、びしょぬれになった自分の靴だけが混じっていた。それは間違いない。
 なのに、なぜベッドの上に、うごめく誰かがいるのか。
「……何、これ」
「俺が聞きたい」
 心底疲れた声色の獄寺が、とりあえず入れ、と止まっていた背を押す。促されるままに歩けば、ベッドの上の物体はさらにはっきりと見えるようになる。
 それは、その小さなころころとした物体は、生きた人間だ。
 人形でも固まりでも物体でもなく、息をし、ぱっちりとしたモスグリーンの瞳でこちらを見上げている、赤ん坊といわれる生き物。
 なんだ、これは。
「………ちょっと」
 ゆらりと後ろを振り返れば、どこか気まずそうに視線をそらす獄寺がいた。
「いったいどこでどんな間違いしたらこんな子供ができるっていうのさ。君、まさかしょっちゅうイタリアに帰る理由って、この赤ん坊の母親だなんていうんじゃないだろうね」
「だあぁぁああ!! なんでそうお約束な勘違いするんだよ!!」
「そうじゃなきゃ、なんだい、この赤ん坊。どう見たって君の遺伝子じゃないか」
 ぐ、と胸倉を掴めば、半分泣きそうな緑色の目がこちらを見上げた。
 その色合いは、恐ろしいくらいに、赤ん坊のそれに似ていて。
「これだけ確かな証拠を、よくも僕の目の前に出せたものだ」
 一度は収まっていた腸の熱が、一気に沸騰する。
 赤ん坊ができるということは、どこかで女を抱いてきたということだ。
 何もかもすべてが僕のものであるはずの、この体を使って。
「っ、だから、ちょっと落ちつけってんだよ!」
 がん、という音と同時に、額に痛みが走る。頭突きをされた。
「あいにくとイタリアにはボムの補充にしか行ってねぇよ! 日本でダイナマイトなんて簡単に買えねぇからな!! あとな! 誰かさんに散々付き合わされてんのに、そこらへんにばら蒔けるほど体力も精力も残ってるわけねぇだろ馬鹿!!」
 頭を突き合わせたまま、目の前で獄寺が吠える。
 その勢いと、刃物のように鋭く向けられる視線に、頭に上っていた血が下がってきたのがわかる。くつくつと煮えたぎっていた腹の中で、徐々に静かになっていった。
「……それもそうだ」
 確かに、日本国内でそう頻繁にダイナマイトの仕入れなどできないだろう。イタリアでならできるのかと聞いてみたいものだが、国に帰れば一学生ではなくなってしまう。その程度はできるのかもしれない。
 頷けば、盛大なため息を落とした獄寺が、ゆっくりと体を起こし、額を離した。
「ただ、まあ全部が誤解じゃねぇんだけどな… って、いいか。最後まで聞けよ」
 言葉に知らず腕が反応してしまうのを見たのか、先に予防線を張った獄寺は、胸倉をつかんだままの手を離させて、ベッドに向かう。そこに転がされている赤ん坊は、自分に近づいてくる男を不思議そうに見上げて、おもしろそうに笑った。
「つか、この顔見て何で俺だけだと思うんだよ。よく見てみろ、ほら」
 無邪気とも言える笑顔を振りまく赤ん坊を、両手で慎重に抱き上げ、こちらに顔を向けさせる。その抱き上げ方が明らかに手慣れていないが、なんとなくおかしかった。
「よくって…」
 向けられたまん丸の顔を、じっと覗きこむ。
 濃いモスグリーンの瞳は、これだけ近くなれば一層黒に近い色をしていた。周囲だけが黒く、中心に向けてかすかに濃い緑がかかっている、とでもいうのか。獄寺のそれとは、明らかに明るさが違う。肌の色はクォーターの獄寺よりも、どちらかと言えばより日本人に近いだろう。眦の上がった様子も、そういえば獄寺とは違う。
 細かい部分が違うようには見受けられるが、そもそもが同じ人間ではないのだから違っていて当たり前だ。
 それなら何がと目を細めると、ほんの少しだけ、奇妙なものが目に付いた。
 ふわふわと頭部に揺れる、柔らかそうな髪。猫の毛によく似たそれは、獄寺が親から継いだという銀色に近い灰色の髪とは似ても似つかない、真っ黒な色をしている。
「……黒髪?」
 黒髪といえばアジア周辺に多いが、なにもイタリアに存在しない色ではない。それは何も不自然ではないのだが、よくよく見れば、子供のまつげも眉毛も、すべてが素晴らしいほどに真っ黒だ。獄寺のそれとは、全く重ならない。
 そういえば、鼻もアジア圏に多い少し低めの鼻をしているし、まん丸の目をしてはいても、その眦は上がっている。
「…え、なに、これ」
 一つ一つの特徴を取り上げてみれば、確かに獄寺に重なる。
 けれど、重ならない部分。要所要所に見受けられる、明らかな日本人の面影。
 これは。
「………僕?」


「え、君子供なんて産めたの?」
「そんなわけねぇってテメェが一番分かってんだろうがアホ」
 心底呆れた、と言わんばかりの獄寺は、抱いているというよりは両手で持っているという表現が正しい状態の赤ん坊を、今度はその胸に抱き直した。片腕に乗せるようにして抱え、逆の腕で背を支える様子は、ぎこちないながらも親のしぐさだ。
「もうなんかいろいろ説明すんのも面倒だし、なにより俺もまだ混乱してんだ。あとはテメェで勝手に理解しろ」
 そんな言葉と同時に、いつの間に手にしていたのか、携帯電話が放り投げられる。片手で受け取れば、それは見たことのある獄寺の携帯で、画面は一通のメールを表示していた。
 タイトルはなく、差し出し人もメールアドレスの表示のみ。登録されていない相手からなのだろうが、問題は、その内容だった。
「なにこれ」
 並べられているのは間違いなく日本語なのだが、どうにも読みづらい。正しく日本語が続いたと思ったら、突然見たこともない文字になったり、アルファベットが並んだり、空白になったりする。読めなくはないが、非常に疲れる文面だ。
「さっき、雷が落ちただろう?」
「ああ」
 ここに来る数十分前。確かに、雷が落ちた。だが、それがなんだというのか。
「あの瞬間、携帯から赤ん坊が出てきたんだ」
「……隼人、君頭は…」
 真顔でなんてことを言うのかと、いっそ哀れにもになってくる。どうしてそんな、夢物語のようなことを。
「大丈夫だよ残念ながらな! だから、この子供は雷が落ちた携帯から出てきた、俺と、お前の遺伝子が入れられた子供なんだよ!!」
 それにかちんときたのか、とんでもないセリフが叩きつけられた。
 意識が遠くなる。一体全体、この子は必死になって何を言っているのか。
「とにかくそれを読め」
 唖然とするしかないというのに、獄寺の声は容赦がない。
 仕方なく、手にしたままの携帯電話に視線を向けた。やはり無意味に文字が連なっているとしか思えなかったが、ところどころはきちんと文章になっているようで、とにかくそれをつなげてみよう、と思いなおす。
 かなりの時間をかけ、どうにか全文を読み終えたころには、あれだけ吹き荒れていた外の様子も随分と静かなものになっていて、窓の外には曇天だけが広がっている。
 その間に、獄寺が抱えている、二人の遺伝子を持つという子供は、すやすやと寝息を立て始めていた。
「…つまり、この子は落雷と同時に発生した力で携帯電話を通してここにやってきた、僕らの遺伝子をもった子供、ということ?」
 メールの内容は、いくつか壊れている部分があり全文解明はできなかったが、要約すればそんな内容だった。ところどころに出てくる、俺、という一人称が獄寺を差すことは何となく察せたし、雲雀、という文字が何度も出てくるのも確認している。遺伝子研究の過程で生まれた技術を応用したとか、それを完成させた人間の名前などが出てきているようにも見えたが、これはあまり重要でないと切り捨てることにした。
 とにかく一番重要なのは、この子供が確かに二人の遺伝子を持っているということ。
 つまりは、二人の子供ということだ。
「そういうことだと、俺も思う」
 獄寺が神妙な顔のまま頷く。
 その腕では、変わらず赤ん坊がすぴすぴと寝息を立てていた。覗きこめば、その顔は確かに、獄寺にも、己にもとてもよく似ている。遺伝子が受け継がれるだけで、こうも同じような顔立ちになるものだろうか。
「自然にできた子供じゃないからな。不自然なこともあるだろ」
「ふうん」
 指先で頬をつつけば、起こすなよ、と獄寺が言う。
「お前に電話したとき、大泣きしてて大変だったんだ」
「へぇ」
「とにかく、そういうわけだから、お前もちゃんと面倒見ろよ」
「……え?」

 ぽたり、と髪から滴が落ちる。
 そういえば雨の中をここまで来たんだったと、急にそんなことを頭の片隅に思い出す。
 後々、それは現実逃避というんだ、とまっとうに突っ込まれることになるが、それもまた、今の風紀委員長では知る由もないことだった。

パラレル二段。小難しいことはスルーしてください。