大空の日
台風一過と呼ぶに相応しい、晴れやかな大空が広がる土曜日。
目の前に立つ友人が抱えるそれに、沢田綱吉はこぼれ落ちそうなほど目を見開いた。
「申し訳ありません、十代目…」
しょんぼりと肩を落とす友人をよそに、その腕に抱えられる柔らかそうな物体から視線を逸らすことも出来ず。
絶対また厄介ごとだ。
そう、確信した。
「えーとつまり、来日してたイタリアの知り合いが、昨日の嵐で遠方から戻れなくなったから、しばらくこの子を預かるんだね?」
「は、はい」
一連の説明をまとめて確認すると、友人獄寺隼人は至極真面目な、それでいて困惑を残した顔で頷く。どうやら、ここまでの話は冗談でも嘘でもないらしい。
とりあえず玄関先では、と獄寺には自室に上がってもらうことにした。幸いというか、今日は母も居候の子供たちも揃って出かけている。昨日の停電で冷蔵庫が動かず食材が痛んでしまい、米と具の乏しいみそ汁、唯一無事だった乾物という朝食に納得できない居候たちにより、ちょっとした騒ぎになってしまったからだ。それはそれで美味かったのだが、日本にありながら日本人の比率が異常に低い沢田家においては文句の方が多く、仕方ないわねぇ、と笑う母が子供たちのご機嫌取りも兼ねて買い物に出てしまった。帰ってくるまでには、かなりの時間がかかるだろう。
久しぶりに一人を満喫するつもりでいたというのに、まさかこんなことになるなんて。
「それで、親はいつ頃?」
「はい、メールが入りまして、一週間ほどで迎えにこれるとか」
「一週間? ずいぶんかかるんだね」
「はい… そういうわけで、少しお母様に御指南いただこうと思ったのです。大抵のことはネットで調べられましたが、細かいこととなるとどうしても」
「そっか」
獄寺が面識のある人物で子育ての経験があるのは、今現在子連れで買い物に出かけている母だけだろう。
気付いたら居候と化していたランボで嫌というほど思い知ったが、子供の世話は簡単じゃない。フゥ太くらいの年になれば会話も意志疎通も問題ないが、ランボは未だによく分からなくて、毎日お手上げ状態だ。
意志疎通どころか立ち上がることもできない赤ん坊を、気の短い獄寺一人で面倒を見るとなると、かなり大変ではないだろうか。
「それで、明後日からはどうするの?」
「はい?」
「明日は休みだから良いけど、明後日からは学校があるし。連れていけないでしょう?」
常に抱えていなければいけない赤ん坊となると、さすがに同伴は無理だ。預かると決めた以上、いくら獄寺でも日中一人で家に残すようなことはしないと思うが。
「ああ、平気です。連れていきますから」
そんな心配をよそに、動く子供を抱き直しながら、当人は事もなげに言う。
「え… でも、先生とか、風紀とか、いろいろ言ってくるんじゃないかな…」
教師陣は、生活態度は悪くとも成績は学校一である獄寺に対し、最終的には甘い。ごり押しをすれば、まだ黙らせることは出来るだろう。
だが、風紀はそんなに容易じゃない。トップである雲雀は、女子供だろうと容赦する事はないし、学校規律に誰より一番うるさい。こんな乳飲み子を連れて登校するようなことは許さないだろう。それなら、世話好きの母にでも預けてしまうか、学校自体休んでしまった方がいいように思うが。
「雲雀に話を通しましたから、問題ないかと」
「は!?」
あっけらかんと差し出された言葉に、思わず声が大きくなる。
「ひ、雲雀さんに話したの!? この子のこと!?」
「え、ええ… 腹は立ちますが、余計なもめ事にはしたくないですし。あいつに話しておけば、とりあえず学校内では問題になりませんから…」
びっくり眼で頷く獄寺が、なにか検討違いの答えを返す。
それは、確かにそうなのだけれど。
「よく許したね、あの雲雀さんが」
並盛中で学校規則といえば、生徒手帳に記されている文句ではなく、風紀委員が掲げる規則だ。例え校則が許しても、つまり教師が許可したものでも、雲雀以下風紀委員が駄目だといえば駄目になる。理不尽でも、並盛中ではそういうものだ。
こんな子供を連れていくなど、学校側もそれなりの理由があれば許可するかもしれないが、大の騒動嫌いである雲雀が許すなんて。
「赤ん坊は嫌いじゃないとか?」
「いやうん小さい生きものは好きみたいだけどね?」
それはあくまで小動物という括りであって、そのなかに赤ん坊が含まれているとは限らないんじゃないだろうか。
肝心なところで天然の気がある獄寺の発言に心中だけで突っ込みながら、渦中の存在に視線を向けた。獄寺の腕のなか、短い手足と大きな目をくりくりと動かしながら、赤ん坊は機嫌よさそうに笑っている。
普段、赤ん坊とは思えない赤ん坊がそばにいるせいか、なんだか不思議だ。大人しく抱かれ、肩に乗ることもさくさくと歩くこともなく、拳銃も取り出さない。エスプレッソではなくミルクを飲み、口を開けば嫌味ではなく読解不能な音しかない。
そうか。赤ん坊とは、本来こういうものなのか。
「それでは十代目、お母様のお帰りは分かりませんか」
しみじみと赤ん坊を見ていると、獄寺が不安そうに聞いてきた。
「そうだね… いつかはわからないなぁ。なにせ食べるものを大量に買うはずだし、ランボが一緒だから」
昨日も、1日閉じ籠っているしかないからと、全員が室内にいた。普段からランボを毛嫌いしているリボーンだけでなく、外で遊べない子供たちは目に見えてストレスをためていた。今日が晴れだとわかった瞬間に飛び出していったリボーンはまだ帰らないし、わがままなランボの鬱憤晴らしに母が付き合うのだから、夕方まで帰らない可能性が高すぎる。
再び肩を落とした獄寺の腕で、赤ん坊が身じろぐ。何度か抱き直すが、結局赤ん坊は床に下りてしまった。
「おい、駄目だろ」
「いいよ、獄寺君」
どうせ子供ばかりが暴れ回る家だ、いまさら赤ん坊が一人うろついたところで大したことはない。
「ただ、うちは普通の子供の方が少ないから、あちこちに危険物があるんだけど」
銃器を使いこなす赤ん坊に始まり、頭に無限の武器を隠し持つ幼児と、幼いながら拳法を得意とする子供。さらには触れる物皆全てを毒にする者までいるのだから、どこよりも一番危険な家でもあるのだが。
「親が親なので、その辺は」
「だよねー…」
何を気にすることがあるのか、とでも言いたげな獄寺に、乾いた笑いを返してしまう。彼の、イタリアの知り合い、というのだから大方予想はしていたが、やはりあちら関係なのか。
「ええ、まぁ…」
苦笑いを浮かべる獄寺の腕から降りた赤ん坊は、きょとん、と首をかしげる。まだ歩くことはできないのか、ずりずりと手と膝でこちらに近づいてきた。
「あ、まだ歩けないんだ」
「はい。台に掴まって立つ、くらいはするようなんですが、支えなく歩くことは出来ないみたいです」
「へぇ」
ますます赤ん坊らしい。
可愛らしい水色の服を着せられ這う赤ん坊が、目の前で止まる。大きな目がこちらを見上げ、首をかしげていた。
「はは、かわいいね」
真っ黒な髪の下には、驚くほど白く、けれど血色のいい桃色の肌がある。こぼれんばかりの大きな目は深く濃いダークグリーンで染められ、それは赤ん坊ながらに整った顔立ちを持つこの子供にはとてもよく似合っていた。
「抱きあげても平気?」
「はい」
親代わりである獄寺が頷くのを待って、小さな体を抱き上げた。
「うわ、やわらかい」
脇に差し入れた手が、ふにゃふにゃとした感触に包まれる。視線の高さまで抱き上げた赤ん坊は、抱きあげられ慣れているというのか、とにかくなんの抵抗もなくじっとして、相変わらずこちらを凝視していた。
と、思ったら、その深緑が一気に水を帯び、そして。
「え、えぇぇぇえぇ!?」
ふぎゃあああ、と火がついたように泣きだし、じたばたと手足を動かしはじめた。さっきまであんなに機嫌がよかったのに、どうして。
「え、何、何で!?」
「いや、俺にもさっぱり」
獄寺も混乱しているらしく、訳が分からない、という表情を浮かべている。
とりあえず、中途半端に持ちあげたままというのもあんまりかと、胸に抱えてみたが、より一層泣きじゃくるだけで。おまけに嫌だとでもいうように腕を突っ張るものだから、体は痛くないが、何か無性に心が痛い。
「なんだろう、俺が嫌なのかな」
「まさか! 十代目が嫌だなんてそん…」
勢いよく否定した友人は、けれどそのテンションを一気に下げて、今度は黙り込んでしまう。考えるような仕草をして、いやいや、と一人で首を振っていた。
「え、何?」
何か心当たりでもあるのかと見てみるが、はっとしたように顔をあげた獄寺は、なんでもありません、と首を振るだけで。
「と、とにかく、預かります」
「ああ、うん」
差し出された手に、相変わらず泣き続けている赤ん坊を返す。すると、人が変わったのがわかるのか、少しぐずるだけで赤ん坊はすぐにおとなしくなってしまった。その背をなだめるように叩かれると、ひっく、としゃくりあげる音だけが聞こえてくる。
「す… すごいね、獄寺君…」
以前フゥ太が、保父に向いているランキングを作ったときに、普段から子供嫌いと年上嫌いを豪語する獄寺がトップだったことがある。その日はあいにくの雨で、天候と体調に左右されるというランキングは当たりより外れの方が多かったらしいが、もしかして調子はずれのランキングもそれなりに当たるのだろうか。こうしている姿は、保父に向いているナンバーワンにしか見えない。
手なれた仕草をそう評すると、当の保父候補は照れたように笑った。
「ありがとうございます」
「いや、心からそう思ってるんだよ。それに、よく懐いてるね」
「昨日はかなり泣き喚きました。いい加減慣れたのだと思います」
抱きなおすようにして小さな体を揺する。やがてしゃくりあげる音すら遠くなり、しっかりと獄寺のシャツをつかんだまま、赤ん坊がちらりとこちらを向いた。深緑の瞳には、ちょっとした衝撃でこぼれおちてしまいそうなほど大きな涙が、たっぷりと溜まっている。その瞳が、どこか嫌悪を含んでいるような気がした。
「お、俺、嫌われてるのかな…」
ついこぼした言葉に、獄寺は肯定も否定もしないが、妙に恐縮が過ぎる同級生は希真面目な顔で、申し訳ありませんと頭を下げた。
「決して十代目を嫌っているわけではないと思います。ただ、こいつも急にこちらに来ることになりましたから、誰を見ても怖くて仕方ないかと」
「ああ、うん、そうだね」
獄寺の説は最もだ。
幼いころの思い出はそう多くはないが、多少の自我が出始めた幼稚園や小学校時代ならばともかく、生まれて間もないと言っても過言ではないだろう一歳児は、おそらくは親だけが自分の世界だ。その世界の中に、突然知らない人間が入ってくれば、幼いからこそ恐怖が多いかもしれない。
おっかなびっくりで向けられるモスグリーンの瞳に、ごめんね、と声をかける。不思議そうな顔をした赤ん坊は、ふい、と顔をそらすだけだった。仕草に悲しくはなるが、泣かれないだけましか。
「十代目、そろそろお暇します」
その表情をきっかけにするように、獄寺が再び頭を下げた。
「え、そう?」
「はい。このままではご迷惑ですし… ほら、帰るぞチビ」
「ち…」
チビ、とはまたずいぶんな呼び方だが、そういえば、この家に来てから獄寺は一度も赤ん坊の名前を口にしていない。赤ん坊は赤ん坊で、それが自分のことだと理解できているのか、しっかりと視線を獄寺に向けていた。
「獄寺君、この子の名前は?」
立ち上がろうとした獄寺が、中途半端な姿勢で止まる。気まずいような表情をしているのはなぜだろうか。
「それが、文字ば… 聞き逃しまして。分からないんです」
「え、そうなの?」
「はい」
預かる子供の名前を聞き逃すのは、肝心な部分で抜けている獄寺らしいが、ランボに対する態度を見ても、決して子供が好きな様子じゃない。むしろ嫌いな部分に入るんじゃないだろうかという程なのに、よく預かったものだ。
「それでは十代目、これで失礼します」
「う、うん。本当にいいの? 待たなくて」
「はい。もしかしたらまた改めてお邪魔するかもしれませんが」
「わかった、母さんには言っておくよ」
止めていた体を起こす獄寺に、あわてて立ち上がった。
抱き上げられた赤ん坊は、軽くみじろいだだけで収まりがよくなったのか、大人しくなってしまった。柔らかそうな黒髪が、獄寺の派手なシャツに乗っている。廊下を歩く間、肩越しにじっとこちらを見る濃いダークグリーンは、涙を残しているのかキラキラとしていて綺麗だった。
「では、失礼します」
律儀に頭を下げ、獄寺が玄関から出ていく。
本当に月曜日から学校に連れてくるつもりなんだろうか。風紀に許可を取ったとはいえ、授業中に泣きださないとも限らないし、なにより子供は飽きやすい。一時間近い時間をただ座って過ごすようなことは、お互いに苦痛でしかないだろうに。
「…ん?」
見慣れた銀髪が扉の向こうに消えて、ふとした疑問に声が上がった。
「…獄寺君、雲雀さんの連絡先知ってるんだ」
昨日は一日中嵐で、学校は臨時休校だった。普段から学校に入り浸っているともっぱらの噂である雲雀といえど、さすがに昨日は登校しなかったはずだ。それは獄寺も同じなのに、いったいどこで連絡を取り合ったのだろう。
携帯電話は互いに持っているようだけれど、雲雀の携帯番号など風紀委員でもない人間が気軽に知れるはずのないものだし、なにより二人の仲はお世辞にも良いとは言えない。短気同士だから、ある意味気は合うとは思うが、まさか個人的な連絡先を交わし合うほどの仲とも思わなかったが。
何気ない疑問は、けれどすでに閉じられた扉が阻み、獄寺の耳には届かず。
数時間後、騒ぎながら帰ってきた居候たちの世話に追われた沢田自身がすっかり忘れてしまったことで、それきり宙に浮いたままとなってしまった。
獄寺君ケアレスミス。 ▲