晴れの日
赤ん坊を一人預かるというのは、並大抵の大変さではなかった。普段から問題児であるランボを見ているから、多少は覚悟ができていたつもりだったのに、悲しいかな予想と現実はまったく違うということを、嫌というほど思い知らされることになる。
嵐の日に携帯電話から出てくるという、あまりに非常識で信じがたい登場をしてみせた、自分の遺伝子を継ぐ赤ん坊。預ける場所など当然なく、帰す時期が来るまでは仕方がないと、一人暮らしをしている自宅で面倒を見ることになり、いつもは静かで他人の気配など欠けらもない部屋が、賑やかで騒がしくてたまらない。
立ち上がることも満足に出来ないくせに動き回ってあちこち触りぶつかり倒すを繰り返し、一時として目が離せない。低いテーブルがあると簡単に立ち上がるものだから、リビングに置いたガラステーブルはクローゼットの奥にしまい込むことにした。それ以外にも、とにかく危ないものは全て仕舞い、すっきりとしてしまったリビングにはソファとラグくらいしかない状態で、その上室内で煙草も吸えなくなってしまった。火を使うなどご法度だ、と。
煩わしい事ばかりだ。
「なにより、テメェが四六時中ウチにいやがるしな…!」
「面倒を見ろといったのは君だ」
ぷい、と赤ん坊を抱えた、居候二号が顔を背ける。
全くなんだってこんなことになったのか。
すでにこの事態が始まって三日になろうかというのに、脳内は疑問符に埋め尽くされてばかりいるのだった。
「そりゃお前も面倒見て当たり前だとは言ったが、なにも泊まり込むことはねぇだろ!」
未来からきたという赤ん坊は、頭の痛いことに自分だけでなく、雲雀の遺伝子をも持っている、らしい。どれだけ未来の話なのか分からないが、遺伝子研究が進歩したその時代では、一人の遺伝子から作られるクローンだとか、男女間の対外受精だとか、難しいながら現存する方法ではなく、まったく違う人間二人の遺伝子を使い一人の子供を作りだすことが可能になっているのだそうだ。理解しがたい、完全な夢物語だとしか思えないが、こうして目の前に存在されては否定も出来ない。
黒々とした柔らかい髪に、深く濃い緑の瞳。どことなく互いの特徴を残した顔立ちは、まさしく論より証拠という言葉そのものだった。
どれだけ否定しようとしても、そしてどれだけ非常識で非科学的でも、間違いなくこの赤ん坊は自分と雲雀の子供なのだ。
「気の短い君一人に出来ない」
「気の短さだけはてめぇに言われたくねぇよ!」
「あまり大声を出すと泣くよ」
「ぐっ」
雲雀の腕の中から、びっくり眼がこちらを向いている。大きな音は苦手らしく、あまり大声を出すと手が付けられなくなるほどに泣き出す。既に経験済み、殴られ済みだ。
思わず口籠もれば、片腕で抱いた赤ん坊の背を撫でる雲雀が、呆れたといわんばかりの顔で息をつく。
「そんな様子の君と二人になんて出来ない。結局、沢田の家では何も得られなかったんだろう?」
「う…」
文字通り降って湧いた赤ん坊は、所詮中学生でしかない二人では手に余り。世話に必要な道具一式を雲雀が風紀委員を総動員して用意させ、その間にインターネットを駆使し子育てマニュアルを集めて片っ端から目を通した。が、どの媒体にも必ず、ご両親が愛情を持って育てて下さい的なことが書いてあって、それは自分達に当てはまるのかどうなのか、一応は自分達ではあるが実際に生まれた場面に立ち合った訳ではないのだから正確には違うんじゃないか、と疑問を口にすれば。
「…時々、君の馬鹿さ加減には感心するよ」
あまり嬉しくない評価をされてしまった。
とりあえずその問題は横に置くことにして、改めて今後について話し合った結果、やはり一度経験者に話を聞くのが妥当だろう、ということになった。
しかし母親という立場の人間にはことごとく心当たりがなく、沢田の母親を思い出せたのは、ベビーシッターのサイトを探そうと携帯を開いた時だった。
そうして訪うことになった沢田家で、けれど肝心の人には会えず。ただ一人出迎えてくれた沢田にも、全て本当の事を言うわけにはいかなくて、未来から来た赤ん坊はイタリアから来たことにし、両親は帰れない場所にいるマフィア、ということにした。あながち間違いでもないし、言葉が足りないだけでほぼ事実だ。でなければ、沢田がああも簡単に信じるはずがない。彼に備わる超直感は、かすかな嘘でも見破ってしまうものだから。
結局、ボロが出てしまう前に帰った方が賢明だと、何一つ有益な情報が得られないまますごすごと帰ってきた自宅では、呆れ顔で雲雀が待っていた、というわけだ。
以来、雲雀は自宅に帰ることはなく、なぜか居座っていた。赤ん坊の面倒を1人で見るのは難しく、正直助かったのだが、何故先に家主へ確認してくれないのか。
「全く、君にもう少し落ち着きがあれば、僕は学校担当でいられたんだけれどね」
「あぁ?」
腕から擦り抜けようとする赤ん坊を慎重にフローリングに降ろすと、腕と膝で器用に動き回る子供を視界に入れながらも、雲雀がソファに座りこむ。見慣れている学生服ではなく、おそらくは私服なのだろうシャツとパンツという姿は、非常に珍しい。
「君、まさか授業中もこの子を抱いてる気だったの?」
「そうしなきゃどうすんだよ。家に置いとくわけにもいかねぇだろ。一週間も学校にいかねぇなんてのも無理だし」
授業はさほど重要ではないが、沢田の警備は絶対事項だ。たとえ子供を背負っていたのだとしても、止めることはできない。
「だから、学校では僕が面倒をみると言ってるんだ」
「…は?」
突拍子もないことを言う雲雀を、ぽかん、と見てしまう。当人は、そんな反応が返ってくることが不満らしく、ふてくされたようにぷいっと顔を背けたが。
「どういう…?」
「最初から、学校に居る間は僕が面倒をみるというつもりでいたんだ。一応は親らしいし、責任はあるだろう。けれど、君がその調子だと、家でのことを君だけに任せるわけにもいかないからね」
その日並盛中学では、登校時間に合わせて恒例の風紀委員による校門チェックが行われていた。
戦々恐々としながら、立ち並ぶ風紀委員たちの間を通りぬけていく生徒の中には、不要なものを持ち込むという理由で取り上げられる者や、校則違反の服装をしているからとどこへともなく連れ去られていく者、中には風紀委員に逆らったというだけの理由で救急車を呼ぶはめになる者もいた。
そんな中、恐れることなく元気一杯に登校して来たのは、並盛中が誇るボクシング部のキャプテン、その人で。
「おお、今日もすごい光景だな!」
週末にひどい嵐が訪れた並盛町では、小中高を問わず全ての学校が閉鎖になっていた。当然出歩けるはずもなく、閉じ籠っていることしかできなかったおかげで、笹川了平はストレスの塊になっていた。幸いにも、心地のよい台風一過となった土曜日と日曜日には自主トレができたのだが、後始末に追われる学校は封鎖されたままで、おまけに地面は泥と水とゴミが散乱している状態と、悪い事が山と重なり、十分に体を動かすことができなかったのだ。
今日は思いっきりボクシングバッグが打てる。
それだけを楽しみにしていた笹川は、いつもの登校時間よりもかなり早くに家を飛び出していた。
「お前たちも毎回毎回大変だな」
正門付近で、どの生徒よりも体格のいい、張り出した前髪をもつ同級生に話しかけると、にやりと口元だけで笑った。
「これが我らの使命だ」
「そうか。では極限頑張れよ!!」
片手をあげて、彼らの前を通り過ぎる。特に見咎められることはなかった。
なんだか良く分からないが、風紀委員は嫌いではないと思う。多少行き過ぎた体罰を加えることがあるとは思うし、部費のことではいつも委員長である雲雀と対立している。何故学校から部に与えられる費用について、風紀委員会が口出ししてくるのかは分からないが、立ちふさがる以上、拳を交えるのはいたしかたないことだ。
仲がいいのかと聞かれればノーだが、彼らの姿勢には共感するところもある。協調性などもって生まれてこなかったらしい委員長の下で、彼らは常にその意志を尊重して、協力し合っている。時には自分たちがその牙にかかることもあるというのに、顧みる様子もない。ぶれることのない彼らも素晴らしいが、あの統率力と強さは、見習いたいほど素晴らしかった。
「うん?」
グラウンドの端に用意されている部室まで、体を温めるついでに軽く走っていると、ふと視界に黒い影が入ってきた。
授業開始まで、まだかなりの時間がある。それでも、朝練がある部活生のために正門は開けられているし、誰よりも早く登校してくる風紀委員たちはすでにスタンバイが終わっている状態だ。部室までの道のりで、生徒とすれ違うのはそう珍しくない。
だが、何かいま、おかしくはなかっただろうか。
「おい、雲雀!!」
「何」
走り過ぎかけた足を止めて、勢いをつけて振り返る。だが相手は、ゆったりと首だけで振り返った。
向けられているのは背中で、そこにはいつもの学生服が靡いている。左腕の部分につけられた腕章もいつもどおりで、なのにその肩には、見慣れないものが乗っかっていた。
「それはなんだ?」
たたた、と早足で来た道を戻り、雲雀の肩に顔を近づける。
黒い学生服の上、どう見てもまだ一歳程度だろう子供の顔が、ちょこんと乗っていた。
「なんに見えるの」
「赤ん坊だな」
「じゃあ、そうなんじゃない」
そっけない返事はいつものことだと気にしない。すでに三年もの間、これと付き合ってきたのだから、今更すぎて突っ込む気にもならない。
だが、これは突っ込みどころがありすぎる。
「なぜ赤ん坊が学校におるのだ」
「僕が連れてきたから」
「お前が? 弟か妹か?」
多少年が離れているようには思うが、ありえない話ではない。
「違う」
しかしきっぱりと否定が言い渡されてしまい、余計に首を傾げた。
妹や弟だというのならば、この自己中心的な同級生が赤ん坊を学校に連れてくることもさほどおかしくないと思えるのだが、違うのならばいったいどういう理由でこんな幼子を連れて登校してきたというのだろうか。しかも、今雲雀が向かっている方向には、校舎ではなく正門がある。このまま正門で風紀のチェックに立ち会うつもりなのか。
「そのつもりだけど?」
何が悪いの、とでも言いたそうな顔が、肩越しにこちらを見ている。
悪いわけではないが、登校してきた生徒たちが仰天しないだろうか。恐怖政治の元締め、並盛中風紀委員長が、赤ん坊を大切そうに抱えて風紀チェックをしているなんて。
赤ん坊に視線を向ければ、落ちそうなほどに大きな目が、不思議そうにこちらを見ていた。まだ目の前のものが何かを判断できないのだろう、雲雀の肩に小さな指をかけて、光の加減で緑色にも見える目を、じっとこちらに向けている。
「…ふむ、誰かに似ているな」
その緑色に、なにか覚えがあるような気がしたが、すっきりと出てこない。
ふわふわとした黒髪や、白く柔らかそうな肌は、赤ん坊独特のものだ。引っ掛かる部分など何もないのに、その瞳だけは、喉に魚の骨が引っ掛かるような、気にしなければ気にならないのに気にすれば延々と気になる感じがした。
「……気のせいじゃない」
随分と長い沈黙の後そう言うと、じゃあね、といつもの言葉だけを残して、雲雀は立ち去ってしまった。しっかりと正門に向かっているところを見ると、やっぱり変わらず風紀チェックに立ち会うつもりらしい。
「気のせいだろうかなぁ…」
絶対どこかで見たことがある。だが、気のせいじゃないかといわれてしまうと、その見たことがあるという記憶自体が気のせいなのかもしれないという気になってしまう。
遠ざかっていく黒い背中からは、やはりちょこんと子供の顔だけが出ていて、まだこちらを見ているようだった。
どういう縁なのか、ここ最近は赤ん坊によく出会う。だが今までの常識をはるかに覆す、流暢に話しさくさくと歩き、時には重火器を手にすることもある赤ん坊たちばかりだったせいで、どうにもあの子たちを赤ん坊という部類に入れることを無意識に拒否していた。彼らは赤ん坊ではなく、それそのものが個人だと認識していたおかげで、学校に頻繁に出没することも、さほどおかしいとは思っていなかったのだが。
よもや、雲雀が抱きかかえなければいけないような、そんな赤ん坊が校内に居るとは。
「面白いこともあるものだな」
疑問は山のようにあるが、もともと考えるということは向いていない性格だ。そんな時間があるのならば、体を動かした方がいい。
赤ん坊を抱えている雲雀、という珍しいものに出会っただけで、十分に面白かった。
そう思考に切りをつけて、改めて休日の間にたまったストレスを発散するべく、笹川了平は意気揚々と部室へと走り出した。
その後校内は、恐怖の風紀委員長が赤ん坊をあやしながら正門に立っていた、という前代未聞の事態に騒然となり。雲ひとつなく晴れ渡った空には、てめぇ何してんだ、という誰かさんの叫びがこだましたらしいが、そのころにはすでに面白い事態は笹川の脳内からなくなっていた。一日の授業を終え帰りついた自宅で、今日獄寺君が面白かったんだよ、と妹に言われて初めて、ああそういえばあの緑色の目は獄寺のものだったな、と思いだしたくらいだ。
けれど、なぜ獄寺に似た瞳をもつ赤ん坊を雲雀が抱いていたのか、という疑問に行きあたることはなく。
ストレスも十分に発散した笹川了平の一日は、特になんの疑問もなく普段通りに終わってしまった。
べるぜば… ▲