霧の日

 台風が全ての雨雲を取り去り、見事に晴れ渡ったその夜。
 並盛一帯は、奇妙な霧に包まれていた。
「…いい予感がしない」
 窓の外を眺めながら不穏そうに呟く居候に、それだけは同意する、と頷く。
 やはり、いい思いはしなかったのだった。


「随分面白いものを手に入れられたそうですね」
 にっこりと、それで人が騙せるのではないかと思うほど見事な笑顔を見せる男を前に、深くため息をついた。
「…お前って、本当に暇なんだな…」
「ええ、まぁ。日がな一日、寝ているしかないもので」
 暇なんです、と。
 面白そうに笑いはするが、現実の世界でこの男がいる場所は、地球上のどこかにある深い牢獄の中だ。噂に聞いた牢獄は、脱獄することはおろか、外部の様子を知ることすらできない。本人が言うように、一日中寝ているしかない場所。
 そんな場所にいて、よくもこんな笑い方ができるものだと思うが、そもそもこの男とは思考回路が違い過ぎる。育ち方の違いと言われればそれまでだが、とにかく、相容れることは一生ないだろうと思う。それは相手も同じだろうに、どうしてこんなにも頻繁に訪れるのか。
「君が面白いからですかねぇ」
「人の頭を読むな!!」
「そんな余計な労力、使いませんよ」
「出来ないと言え!」
 さらりと肯定しやがって。
「現実世界ならばともかく、ここは僕の庭ですから。出来ないことはとても少ないのです」
 ゆったりとソファに腰かけた骸は、そう言って腕を組んだ。
 だからそのソファはいつどこから取り出したんだと言いたくなったが、出来ることが多いのならばソファくらい簡単に取り出せるだろう。もう面倒過ぎて突っ込むのも嫌だ。
「それで、また暇つぶしに来たのかよ」
 どうぞ、と勧められた、やっぱりいつの間に出てきたのかわからないソファに腰をおろして、三メートルほど空けた先に座る男を見る。
 こうして骸が他人様の夢に割り込んでくるのは、なにも今回が初めてというわけではない。前にも、暇だからという理由で出てきたことがある。いわく、以前一方的に結ばれた憑依契約のせいで、今でも微かな繋がりがある、らしい。いい加減切れてしまえばいいと思うのに、こうして再び出てきたことを考えると、どうやらいまだに繋がっているようだ。
「そうですね。それと、クロームから面白い話を聞いたもので」
「面白い話?」
「ええ、なんでも今日、ボンゴレに用事があるとかで並盛に出向いたそうなのですが」
「ああ」
 そういえば、放課後にそんな姿を見た気がする。どこか影のある他校の女子生徒が正門にいると一部で騒ぎが起こり、風紀委員が総出で対処に当たっていた。並盛で他校の女子生徒を見かけたと言えば、たいていは沢田に会いにきた三浦ハルなのだが、影がある、という部分が全くもって該当しない。人目があるところで陰など見せない女だし、何より正門前でもじもじと出てくるのを待つ、なんていうしおらしい真似をするような女でもなかった。
 案の定、風紀委員に呼び出された沢田が出向けば、そこにいたのはクローム髑髏で。いつもくっついている二人組はおらず、ひとりで訪れたその理由が、ボスの顔が見たかっただけ、だったことに何より一番驚いたのだが。
「あれが用事かどうかはしらねぇけど、来たな。確かに」
「その時に、あなたが面白いものを抱えていたとか」
「おも…」
 面白い。あれを、面白いと言うのか。
「十分面白いでしょう? 少なくとも、日本の中学生は校舎から赤ん坊を抱えて出てくることはまずありませんよ」
 独特の笑いを洩らしながら、骸は重ねて、とても面白いです、と言った。
 放課後に並盛を訪れたクロームは、ボスが元気かどうか顔だけ見にきた、と告げて、すぐに去って行ってしまった。
 黒曜の三人組は、沢田の体を乗っ取り世界中のマフィアを殲滅することが当初の目的であり、今現在も目標だと公言している。その中へ唐突に飛び込んだクロームには、骸たちのようなマフィアに対する確固たる憎しみがない。彼女の中にあるのは、骸に対する妄信と、仲間として立場を確立させてくれる沢田に対する信頼だけだ。どれだけの過去を背負っているのか知らないが、彼女も孤独の中にいた人間であることに違いはない。そういった人間は、最初に手を差し伸べてきた人間を深く信用し、愛してしまう。相手が骸であったことが彼女にとって幸いだったのか災いだったのか、わかるのはずっと先の話になるだろう。
 今分かることは、骸に対して情報の発信源となってしまう彼女の前に、あの子を軽々しく出してしまった自分の馬鹿さ加減だけだ。
「それで、どちらの女性が?」
「あのな、一応聞くが、どうして俺の子だと淀みなく思うんだお前」
 曲がりなりにも中学生。誰が見ても首の据わった赤ん坊を抱えているのには、年齢が合わなさすぎる。
「クロームが、どうみてもあなたに似ていると言うものですから。ただ、見たところ日本人とのハーフのようだから、あなたがこちらに来てからだろうと言うのですよ。確か、あなたが転校してきたのは、一年ほど前でしたか?」
「よく調べてるな…」
「一応は」
 けれど、と骸が首を傾ける。
「計算が合わないのですよ。あなたが日本に来たのが約一年前。けれど、来日直後に出会った女性との間にできた子だとしても、まだ首が据わるような年齢になるはずがない。違いますか?」
 人が宿り生まれるまでの時間は、十月十日と言われている。その式に当てはめてみるならば、あの子供が一歳程度の子供であるのを見る限り、計算は合わない。
 それもそうだ。あの子供は確かに自分の子供ではあるらしいが、あいにくと誰かの腹を介して生まれたわけではないし、何より第一、この世界には存在しないはずの子供だから。
「違わないな」
「ならば」
「知り合いの子供なんだよ、今は一時的に預かってるだけだ」
 ひらひらと手を振ってみせれば、それはおかしい、と骸が言う。
「おかしい?」
「ええ。クロームは、あれでなかなか敏い子ですよ。どうみてもあなたの面影があると言っていた。そして日本人の血も見えると言っていた。僕は、その言葉に嘘も間違いもないと思います」
 きっぱりと言い切ると、数メートル先に座る骸が、首をかしげて見せる。どう見ても、面白がっているようにしか思えない。
「僕は、あなたが子供を儲けていようと、非難するつもりはありませんよ、ええ。年若い父親だとは思いますし、また無駄にマフィアが増えるのだなとは思いますが、どうせいつか潰してしまえば済む話です」
「骸、テメェな」
 ぴく、と知らず頬が引きつるのがわかった。
 骸や黒曜の連中にとって、マフィアが忌むべき相手だというのは理解している。生い立ちを聞けば、仕方がないと思えた。
 だが、それとこれとは関係がない。
 わが子を将来殺してみせようと言われて、どうして笑えるだろうか。
「そう殺気立たなくとも、今のところ僕には何もできませんよ。クロームも、敏い子ですがまだまだ幼く、甘い。赤子を殺せと言っても、拒否されてしまう。僕が直接手を下せるのは、少なくとも今ではない」
 こちらの怒りを見透かし、宥めるようにそう言うと、骸はわざとらしく肩をすくめた。
「とりあえず、それは置きましょうか。君が知り合いから預かったのだと言うのならば信じることにしますが、それを学校に連れていくというのがどうにもそぐわないのですよ」
「…そんなの、テメェの知ったことじゃねぇだろ」
「僕は一向に構わないのですが、クロームが非常に気にしていましてね。あの子も女性ですから、母性本能とでもいうのですか」
 わざとらしく額を抱えるポーズを無視し、そういえば、と数時間前の出来事を思い出した。
 クロームは、沢田の顔が見たかっただけだと言う割に、沢田の供をしたこちらの、正確にはその腕の中を妙に気にしていた。ちらちらと向けられる片方だけの瞳は、確かに何かを訴えたかったようだが、結局帰るまで黙ったたままだった。
 骸の言うように、一般の中学生男子が校舎から赤ん坊を抱えて出てくるというのは、非常にというか、とてつもなく珍しい出来事だろうと思う。骸や仲間のこと以外となると途端に無関心になるクロームの興味をひくくらいなのだから、余計だ。それを余儀なくされたのには、当然それなりの理由があるのだが。
「おや?」
「え?」
 今日の出来事を反復するうちに、次第にいらだちが募ってきた頭に、ぽん、と骸の声がする。
 釣られて顔をあげれば、向い合せのソファに座る骸が、偉そうに足を汲み、その上で手を組んで見せた。
「残念ですが、時間切れのようです」
「は? でもあんまり時間経ってないような…」
 つい辺りを見渡す。突然起こる意味不明な変化以外は何も起こらなかった空間が、夜が開けるように白んできていた。
 以前、こうして骸に無理やり引き込まれた時には、結構な時間を話し込んでいたが、今日は一時間もこうしていないはずだ。
「夢に時間は関係ありませんよ。この世界では一時間でも現実では数分である場合もありますし、逆もしかりです。ですが、これはずいぶんイレギュラーなようですね」
 色違いの瞳を細めて、それでは、と骸が笑った。
「またお会いしましょう?」


「…冗談じゃねぇ…」
 口からこぼれる自分の呟きが聞こえて、弾かれるように目を開ける。
 慌てて飛び起き周囲を見渡しても、そこには見慣れた自分の寝室があるだけで、奇妙な男も、ソファも何もなくなっていた。なにやら頭が異様に痛いが、無事起きることができたらしい。
「よ、よかった…」
「何が?」
「ひっ!?」
 安堵のため息に返事があり、体が飛び上がる。口から叫びが出そうになったが、直後に口元を何かで塞がれて、こもった声が上がるだけに終わってしまった。塞ぐというよりは、強制的に叩き止められた、というほうが正しい。こもった声よりも、ぱんという叩く音の方が大きく感じたのは、気のせいだろうか。
「ふ、ぐぅー!!」
「夜中なんだから騒がないで」
 耳元で静かな声が囁く。目だけで横を見れば、見え辛い暗闇の中にぼんやりと誰かの顔が見えた。どうして一人暮らしの部屋に誰かがいるのか。混乱の只中にある頭がぐるぐると走り、余計に意味が分からなくなってしまう。
「とにかく、声は出さないで。いいね?」
 こちらの混乱を理解したのか、体を離し少し首をかしげた相手が、静かに言う。それに頷いて返せば、押さえられていた口元が開封された。
「なん、で、お前…」
 二、三度の深呼吸の後に漸く出せた言葉に、雲雀が不快そうに顔をしかめる。それがわかるくらいに、目も闇に慣れてきた。
「そんなことも分からないくらい楽しい夢でも見た?」
「夢? ……あっ」
 不愉快そうな声に押され、全てを思い出した。白い空間、突然現れたソファに、あの耳に残る独特の笑い声さえも、はっきりと。
 そうだ。とてつもなく嫌な夢を見た。
「なんだってあいつは毎回毎回…っ」
 暇なら違う人間のところに行けばいい。そりゃあ、日がな一日寝ているしかないという暇さ加減には多少同情するし、寝ている間もその特殊な力が吸い取られているという現実も、奴がしでかしたことの大きさを考えれば仕方ないと思いつつ、ほんの少しだけ可哀想にも思う。どれだけ言っても同年代。数々の輪廻転生を繰り返してきたと嘯く様を信じてなお、やはりその姿は同じ年頃の学生なのだから、冷たく切り離すことは、ギリギリでできない。
 だが、それとこれとは全く別問題であり、暇つぶしのせいで安眠が妨げられることなど一度で十分だ。
「君に隙があるんだろう」
 ぎりと歯軋りするこちらをよそに、冷たいくらい涼しい声がする。不愉快というよりは不機嫌な顔が、すっかり闇に慣れた目にはよく見えた。
「隙ったって、夢の中までどうこうできねぇよ」
「それは言い訳だろう。事実、僕の方に出てきたことはない」
「あのなぁ!」
 つん、と顔を背ける仕草に、かちんとくる。どうしてこう、人の神経を逆なでするような口の利き方しかしないのか。
「騒がないで、って言ったはずだけど」
 思わず荒げた声に、雲雀はこの上なく嫌そうな顔をする。なんだってそんな顔をされなければいけないのか、とさらに苛立つ神経に、ふぃ、という何かの音が聞こえた。
「え…」
「ああ、ほら。君がうるさいから」
 うす暗い中、雲雀が上半身をかがめる。一人暮らしをしている部屋には、当然一つのベッドしかなく、互いに上半身だけ起こしていたのは同じベッドの上だった。そのくらいは、さすがに判断はできていたのだが、いったい何があって身をかがめるようなことを。
 再びくるくると思考が迷子になり始めるこちらをよそに、雲雀が枕もとに手を述べる。ぽす、という間の抜けた音が響き、何かを叩いているのだとわかった。それも、なんとも雲雀らしくない、優しい手つきで。
「あ…」
 その手元にある塊を見て、一気に怒りと力が抜けた。
 それなりの広さがあるベッドに横になる二人の間、いわゆる川の字の真ん中には、数日前から一時的に預かっている赤ん坊が眠っている。うるささに目が醒めかけているのか、かすかに寄せられたまゆ根が不快そうだった。
 その不快そうな顔が、目の前で赤ん坊をあやしている雲雀がする表情と酷似していて、漸く、すべてがはっきりとした。
 雲雀がここに居る理由、そして、この小さな子供がどこから来て、誰の子供なのかを、すべて。
「悪い」
 素直に口をつく謝罪に、ちらりと視線を上げた雲雀は、まぁいいけど、とあいまいな返事をする。
「起きたら君が苦労するだけだ」
「う…」
 夜に限らず昼でも朝でも眠い時に眠る赤ん坊は、すっと眠ってくれる時もあれば、盛大に大泣きしてから眠りにつくこともある。眠りたいのに眠れない、という状態らしいが、眠いのなら寝ればいいという理屈が通用しない以上、どうしようもない。それに付き合うしか、こちらには選択肢がなかった。
 今は健やかに眠っているが、夕べもかなりの大騒ぎの後に、ようやく眠ってくれた。残された二人はといえば、力の全てを持って行かれたようにげんなりして、這うようにしてベッドに上がったくらいだ。そのまま、互いに何を言うこともなく眠ってしまった。
 冷静に思い返せば、その疲れが油断を引き起こし、うっかり夢への侵入を許してしまったのだろうと想像できる。
「ん?」
 ぐずり始めるかと思った赤ん坊が、優しく叩かれるリズムに誘われ、再び深く眠りこんだ頃。
 ふと、引っ掛かるものがあった。
「何?」
 低く沈めた声が、赤ん坊の向こう側から聞こえる。
「…お前、俺が何の夢見てたのか、なんでわかるんだ?」
 骸という単語も、侵入された夢の内容も、何一つ話していない。なのに、全ての予測がついていたかのように、隙があるから侵入されるのだと断言したのは何故だ。
「ああ」
 そんなこと、と何故か機嫌が悪そうに鼻を鳴らす雲雀が、赤ん坊を叩く手を止める。屈めた体を起こすしぐさは、特になんのことはない普通の動作なのに、ゆらり、という効果音がつきそうなほど、不気味だった。
「寝言だよ」
「ね、ごと?」
「そう。随分楽しそうに呼んでいたよ、不愉快な名前をね」
 ひやりとした空気が頬を撫でる。うす暗い部屋の中は、夏前ということもあり、特にこれといった空調は入れていない。三人の体温で随分と温かいくらいのに、どうしてだか異様に寒くなってきた。
「え、いや、楽しいとかは全然なかった、ぞ」
 どちらかというと、からかわれて終わっただけだ。多少の会話はしたが、その内容は楽しいものではなかったし、むしろ誤魔化すことの方に必死になっていたように思う。
 あれは、決して楽しいと言える時間じゃなかった。
「知らないよ」
 なのに、雲雀の発する空気は全く上昇しない。
「僕にはそれを確かめる術がない。僕にある事実は、君が寝言で名前を呼んだ、それだけだ」
「それだけだって」
 潜めなければいけない声では、いまいち説得力がない。それを雲雀も感じるのか、全く信じる気がない、冷たい視線だけが返ってくる。
 そういえば、以前骸が夢に入り込んできた時も、それを知った雲雀の機嫌は最悪だった。あの時は、この男でも嫉妬くらいするのかという物珍しさと、認めたくはないが多少の嬉しさというかむず痒さというか、そういうものもあったが、今はそんなものは何もない。ただ周囲を取り巻く冷たい空気が、夏にならない涼しい夜を、冬のように寒いものに変えていた。
「どうでもいいよ。けれど、今僕は非常に機嫌が悪い。それは、わかるよね?」
 伸びてくる指先が、寝巻代わりのシャツをつかむ。衿口が伸びそうなほどの力で引っ張られて、倒れるようにして顔を寄せさせられた。
 真正面に見る黒瞳は、周囲の闇も手伝ってか、いつもよりも暗く深い。その暗闇の中で、陽炎のように揺らめく何かが見えた気がして、ぎくりと体が強張った。
「ほ、本当にそれだけだぞ? ほら、放課後に黒曜の女が来てたって、お前だって知ってるだろ。そいつから、ちびのことがあいつにバレただけで」
「へぇ?」
「暇つぶしに来ただけだって言ってたし、ちびのことをいろいろ聞かれただけで」
「それで、馬鹿正直に答えたの」
 馬鹿だけ余計だ。
「じ、十代目にした説明と、同じ事を言っただけだ。わざわざ、全部話す必要もないだろ」
 突っ込みたい部分だけを飲み込んで、倒れないよう突っ張った腕に力を込める。
 どうにかして、目の前にある危機を回避しなければいけない。そのためには、無暗に逆らったり無駄に反抗することは、墓穴を掘ることにしかならないと、経験上分かっている。とにかく落ち着くことだと、必死に自分に言い聞かせた。
「言ってみればよかったのに」
「言っても信じるはずないだろ」
 携帯電話から赤ん坊が出てきた、なんて、目の前で起こってもなお現実と認めにくいというのに、口頭で聞かされただけで信じる人間などいるはずがない。
「とにかく離せって、ちびがまた起きる」
 すやすやと、聞いてる方が心地よくなるような寝息をたてながら眠る赤ん坊へ、視線を向ける。寝息は確かにしているが、まだ眠りが浅い。ちょっとでも騒げば、また起きだしてしまう。そうなれば、今度は簡単に寝ついてくれないだろう。
 それは避けたい。明日は学校もあるし、なにより不機嫌な雲雀と不機嫌な赤ん坊の面倒を見るのは、あんまりに辛すぎる。
「知ったことじゃない」
 穏やかに、それでいて必死に訴える言葉に、けれど雲雀の反応はそっけない。
「雲雀」
「起こしたくないのなら、君が声を殺せばいいだけだ」
「は…」
 暗闇が占める室内に、不意に光が走る。窓の外から一瞬だけ室内を照らした、おそらくは車のヘッドライトなのだろう明かりに、口角をあげた居候が浮かび上がった。
 嫌というほど見慣れたその笑みに、背筋が引きつる。これはまずい。本気でヤバい。
「ま、まてまてまて。冷静になろうぜ、な?」
「僕は冷静だ」
「嘘だ、絶対嘘だ。頼むから本気で落ちつけよ」
 冗談じゃない。
 今まで何度もそう思ったが、今が一番冗談ではない。どうして、いまこういう状況下で、そんな気分になれるんだ。
 眼下では赤ん坊が寝ていて、ちょっとした物音でも簡単に起きてしまいそうなくらい、まだ眠りも浅い。うっかり起きてしまえば、状況など飲み込めるはずがない赤ん坊の無垢な目と、ばっちり合ってしまうだろう。居た堪れなさが容易に想像出来て、想像なのに死にたくなる。
「落ち着いてる」
「だっ… 駄目だ、やめろって。本気で起きるから」
「言ってるだろう、君が気をつければいいだけだ。それとも、できないの?」
「あぁ!? できるに決まっ…」
 はっとする。にやりとした笑いを見て失敗したと思っても、もう遅い。
 本当に何度も思うが、どうしてこういうところで不注意なのか。自分が本当に恨めしくなってくる。
「なら、あとは君次第だね」
 間近で笑う雲雀が、胸倉をつかんだ手を離す。引っ張る力が消えて、もう腕を突っ張っている必要もなくなったのに、体から力が抜けない。 蛇に睨まれた蛙、というのは、こういうことを言うのか。
「夢も見れないくらい、疲れさせてあげるよ」

 伸びてくる指から逃れる術も見つけられないまま、せめて起きてくれるなよと、横目に見たわが子に願うのだった。

新婚家庭に一度は言わせたいセリフNo.1。