雨の日?
週末に訪れた台風は、容赦なく並盛を浚って行った。
部活という部活はすべて中止になり、学校自体が完全に閉鎖されていたわけだが、そのおかげもあって、週が明けた月曜日の話題には事欠かなかった。挨拶よりも先に、雨がすごかったとか、高層マンションに住んでいる奴らがどれだけ家が揺れたかとか、ちょっとした好奇心で雨風酷い中家の外に出て親に大目玉を食らったとか。そういう、武勇伝とも子供っぽいともとれるような話に花が咲き、いつもなら注意する立場の先輩たちまでが面白そうに話しはじめて、ずいぶんと賑やかな朝練になった。
だが、そんなテンションの高い野球部とは違い、台風明けの並盛中学では、台風よりも話題だったものがある。
「よー、ツナ。どうした、顔色悪いぞ?」
晴れて清々しい月曜日の朝。だというのに、いつもならば同級生を従えて登校してくるはずの沢田が、妙に青い顔で一人教室に入ってきた。その足取りはふらふらと危なく、おはよう、と返される声も力がない。
「それがさ、朝からちょっと頭が痛くなるようなもの見ちゃって…」
そう、朝にふさわしくない暗い声でつぶやく。
土曜日の朝から夜にかけて到来した台風のおかげで翌日のグラウンドは使い物にならず、土曜に引き続き部活中止が言い渡され、台風一過となった日曜日は自主練習を余儀なくされた。授業のない週末は野球に集中できる貴重な時間だというのに、潰されただけではなく家に閉じこもっていなければならず、だから筋トレと軽い練習だという野球部の朝練にも、実は一番に学校に着いてしまうほど心が躍ってしまって。
だから、知らなかったのだ。
朝、定期的に行われる校門前での風紀チェック。並盛中が誇る風紀委員たちが一様に同じ髪型と同じ服装で並び、一人一人の服装チェックを行うそれに参加している、並盛中トップと言っても差し支えのない一つ年上の先輩が、なにやら変わったものを抱いていたという、その姿を。
「へぇ、雲雀がねぇ」
「うん…」
ふふふふ、と口から細い笑いを漏らす沢田が、力なく自席に着いた。ぐったりとしたその姿をこの世で一番心配するはずの同級生は、未だ教室に現れていない。
「獄寺は?」
「あー… 少し、風紀で引っかかっちゃって。早めに戻してもらえたらいいなってところかな」
「へー。雲雀も獄寺も、懲りないのな」
同級生でありクラスメートでもある獄寺は、歩く校則違反のような生徒だ。ほかの生徒にはないシャツの着方で服装検査で引っかかり、その後で対象者にだけ行われる持ち物検査で引っかかる。おもちゃとはいえ一応は火気に準ずるだろう花火と、未成年者では購入すらできないはずの煙草が駄目らしい。その後は、出席率と授業のサボり回数が指摘されて、最終的には委員長で有る雲雀にどこへともなく連れて行かれるのがオチだ。そして昼頃になって、傷だらけになって戻ってくる。獄寺が転校してきてから、繰り返されている恒例行事のようなものだ。
それだけ痛い目を見ていても持ち物を改めない獄寺も頑固だが、どれだけ指導しても無駄にしかならないとわかっているのに毎回絡む雲雀も頑固に違いない。
意外と似てるのな、と自分の中だけで納得して、すっかり沈んでいる沢田の頭を軽くこづいた。
「ま、雲雀には雲雀の考えがあるさ。あれで結構ちっちいもんとか好きだろ? 案外、迷子を保護してるだけとかかもしれないしな」
なきにしもあらずな可能性を口にすれば、少し黙った後、そうだね、と沢田が笑った。
「…でもあの赤ん坊、獄寺君の知り合いの子のはずなんだよな…」
小さくつぶやく言葉は、すでに席に戻るために離れてしまっていた山本には届かず、沢田の口元だけで消えていった。
朝から疲れることばかりが起きる。
居候と化している雲雀が、朝から赤ん坊を連れて登校したことには気づいていた。というか、互いに早朝とも呼べる時間から泣きだした赤ん坊にたたき起こされ、とりあえず学校では預かると、一通りの世話が終わった後出て行く雲雀と赤ん坊を見送っている。
そのあと、どう計算しても一時間近く余裕で寝ていられる時間を示す時計の針に、少し悩んでから再び布団に戻った。三人分の体温が残る布団は暖かく、携帯のめざましが鳴り響くまで一人ぐっすりと寝れたおかげか、目覚めの良さは格別だった。
起きても、そこには雲雀も子供もいない。手間は自分のことだけで、こんなに楽なのかと心が軽くなったほどだ。
だから、忘れていたわけではないけれど一時的に失念していた。
学校に行けば、当然二人ともいるということを。
何かあれば我先に飛び出していく雲雀が、まさか赤ん坊がいるからという理由だけで、早朝に行われる風紀委員の服装チェックを欠席するはずがない、ということを。
「ほんと、もう、勘弁してくれ…」
表向きは違反者として、実は混乱のままに暴走しそうになるのを止めるため雲雀に連れて来られたのは、よほどのことがないと誰も来ない校舎裏。風紀委員が違反者に対する制裁を行う場所として認知されているために、教師ですら黙認している場所で、きゃっきゃと笑う赤ん坊を腕に深くため息をついた。
「お前は気楽だな」
「君が背負い込みすぎなんだよ」
呆れる、とこちらは違う溜息をつきながら肩をすくめた。
「知らん顔して通り過ぎればいいのに、あんなに叫ぶものだから、他の生徒から見れば不審極まりない」
「けどな」
産んだ覚えも産ませた覚えもないが、一応は己の子供だ。確証はないが、覚えのある顔立ちをもっている以上、説得力だけは十二分にある。
その子供が、多少離れている場所だというのにこちらを認め、笑顔で腕を伸ばした。それだけで、知らん顔できなくなってしまったのだから、仕方ない。
「全く、これじゃあ僕が預かる意味がない」
「お前本当に学校に居る間面倒みるつもりだったのか」
まさか本気だとは思わなかった。気が向いた時にだけ授業に出ると公言し、なぜだかそれが認められている風紀委員長だが、その分雲雀には学校内の取り締まりもある。思うがままに力を振るうのに、子供は足手まといにしかならない。
「君が授業中抱えているよりはいいだろうと思ったんだけどね… 仕方無い」
ぼやく雲雀が、携帯電話を取り出す。何度見ても、雲雀と携帯電話という姿が面白くて仕方ない。縛られることが大嫌いなやつが、どこにいても連絡をとれるというある種の束縛を許しているという姿が、矛盾していて面白くなってしまう。
少しの間、誰かと話をしていた雲雀が、じゃあ、と一言を残して通話を切る。
手にした携帯電話をしまいながらこちらを振り返る雲雀が、ついと手をのばして赤ん坊の頭を撫でた。
「話は通したから、見れる間は君が見るといい」
「話?」
「ああ、校長に。君が知り合いの子を預かることになったから、一度は拒否の上風紀で預かるようにしたけれど、赤ん坊の強い希望で本人に任せることにしたから少しの間同席を許せ、と」
何もおかしなことではないように、とんでもないことを口にする。呆れて、即座に返す言葉が見つからない。
「か、簡単にお前の言うことを聞くとかどうなってんだこの学校…」
一応は公立の中学だから、支配しているといっても限度があるだろうに、校長に直接そんな話を通せるほど、いったい何の弱みを握っているというのか。
目眩すら起こしそうな暴君ぶりに、けれど当人は平然としている。
「君にも心当たりはあるだろう。ろくでもない海外からのチンピラをあっさり転入させるくらいだ、痛い腹は探ればいくらでもゴミが出てくる」
「チンピラっていうな」
たいして変わらないくせに。
「お膳立てはした、他への言い訳は自分で考えなよ」
皮肉には反応せず、涼しい顔で言いきると、雲雀がすいと体を屈める。なんだと思う間もなく、ちゅ、と軽い音がした。屈んだ雲雀の唇と、胸に抱いた子供の頬から。
「…お前でもそんなことすんのか」
「暫定とはいえ親だからね」
「へぇ」
それに対してさほどの反応もない子供は、近づいた雲雀の顔を触るだけだ。
不思議なことに、最初にしたあの意味不明な説明で、雲雀はこの子どもが自分たちの間にできたというか作ったというか、とにかくお互いの遺伝子を引き継いでいる子供だと、あっさり信じた。これだけ顔が似ていれば、とその理由も口にはしていたが、ただそれだけで全て納得できたらしい。
証拠に、夜中にたたき起こされても不機嫌な様子はない。あの、睡眠を邪魔されるとこの世を終わらせるかの如く怒る雲雀が、だ。
こうして多少の迷惑がかかることも容認しているようだし、それどころか、親のような振る舞いすらするようになってしまった。最初は、我がままで自分勝手で誰よりも一番子供っぽい雲雀と本物の赤ん坊では相性が悪いのではないかと心配したが、案外、子煩悩な父親になるのかもしれない。
ぼんやりとそんな事を考えていると、上げられた黒い瞳と目が合う。
ばちり、と音がしそうなくらいタイミングよくあった視線は逸らしにくく、どうしたものかと思っている間に、同じように視線をそらすことのなかった雲雀が屈んだ体を起こした。
「っ、おい!」
そのまま近づいてこようとする顔を、寸でのところで避けた。とはいえ、赤ん坊を抱いたままで大げさに動くこともできないから、ほんの少し顎を引いただけだが、雲雀の顔色が一気に不機嫌になる。
「何」
「何じゃねぇよ、学校だっての。まして、子供の目の前で」
「分かりはしない」
「そういう問題じゃ」
ない、と喚くはずの口が、軽く塞がれる。軽い接触だけで離れて行くと、代わりに延びてきた指先で頬を撫でられた。するりと滑る指先が明るく声を上げるこどもの頭を撫でると、心残りはないとばかりに踵を返し、その背が遠ざかる。
「雲雀っ」
「早く戻りなよ、いつまでも抱いていると夜が大変だから」
振り返りもしないでそれだけを言うと、黒い背が校舎の中に入っていく。
呆然と立ち尽くす中、それでも子供だけは機嫌よく笑い、触れられたばかりの唇を小さな指先で摘まんでくるのだった。
「へぇ、知り合いの子供を預かることになったけど世話の仕方がわかんなくてツナの家に行って、それでもわかんないし家に置いておく事もできないから雲雀に相談したら学校に居る間は風紀に預けることになったのに、正門前に連れて来てて驚いたのか」
「おお…」
見事、創りものの言い訳を要約してみせた山本が、そうかそうかと頷き、少し遠くにいる子供に視線を向けた。赤ん坊は今、笹川の腕の中ですやすやと寝ている。
連れ帰ってきた子どもが、朝方風紀委員長が抱いていた子供と同一人物だというのは、大半のクラスメイトが気付いたようだが、触らぬ神になんとやらの精神らしく、ほとんどの生徒が遠巻きに見てくる。そんな中、細かいことを気にしないところだけ兄貴と似てしまった笹川から抱いていいかと聞かれ、赤ん坊はそれきり戻ってきてはいない。笹川が抱いていることで警戒心が薄れるのか、その周囲には女子の壁ができている。ただ一人、黒川だけは嫌そうな顔で遠巻きにしているが。
「そういえば、雲雀さんに相談してるっていってたね」
子供を抱く笹川を、どこか惚けたような目で見ていた沢田が、ふと思い出したように視線をこちらへ戻した。
「はい。その時に、一応学校に連れて行くという話はしていたんですが、授業に支障が出るから一時的に風紀が預かると。まさか服装チェックにまで連れてきているとは思わなくて… お恥ずかしい姿をお見せして申し訳ありません」
「いやいや、そんなの気にしてないよ。雲雀さんが赤ん坊抱いてるのは、ちょっとというか物凄く珍しかったけどね…」
「風紀すごいな、ベビーシッターまでするのな」
「ほんとだよねー… あの人たち何者なんだろう」
はー、と深く息を吐いた沢田には、苦笑いを返すしかない。
実際は、雲雀一人で面倒をみる気だっただろうし、特に必要もない授業を延々と受ける気もなかったから、適度にサボって顔を出すつもりだった。朝から騒ぎを起こすはずではなかったから、こうしてここに子どもがいるのは予定外なのだが。
「じゃあ、今週いっぱいはあの子もいるんだね」
「未定ではありますが」
「そっか」
頷く沢田が、再び女子たちの方へ視線を向けた。その先では、笹川がにこにことして赤ん坊を揺らしている。その仕草は穏やかで、一定のリズムで揺れる腕の中、すっかり寝入ったらしい赤ん坊の力は抜けているように見えた。
「京子ちゃん、手慣れてるなぁ」
「あ、なんかさっき言ってたぞ。親せきの赤ん坊あやしたことあるんだってさ」
「そうなんだ… なんだか、拳銃取り出したりバズーカ取り出したり拳法使ったり元軍人だったりスタントマンだったり超能力者だったり、そんな赤ん坊しか知らないからあの子は新鮮だよね」
「はははっ、確かにな!」
深刻そうな沢田を軽く笑い飛ばす山本の声に、ガラリと扉の開く音が重なった。
入ってきた担任は、慌てて赤ん坊を戻しにきた笹川のことも、腕に戻ってきた赤ん坊のことにも触れず、ただ少し視線を向けただけで教壇に立つ。どうやら、すでに校長経由で担任にも連絡がいっているらしい。どこまで徹底した統制なのかと思うが、今回ばかりは雲雀の恐怖政治に助けられた。
出席確認の終わった教室内は、僅かな連絡事項だけを伝えた担任教師が出て行くと騒がしくなり、入れ替わりで教科担当が入ってくることで、再び静かになった。始業を知らせる錆びついたチャイムが響き、教科書の内容が朗読され始めても、深く眠った子供が起きる気配はない。
朝が早かったことを考えれば、このまま一時間ほど寝てくれるだろう。そう検討をつけ、ブレザーを机に敷いてからその上に下ろした。垂れ流される講釈を子守唄にして心地よさそうに眠る様子や、閉じられた瞼と時折動く指先が面白くて、授業などそっちのけでつい見入ってしまう。
が、寝がえりを打つたびに狭い机の上で転がり、そのまま落ちるんじゃないかと焦ってしまい、途中からは抱えている羽目になった。あまり抱き過ぎると癖がついて寝なくなってしまうと、風紀委員の一人が自宅から持ってきたという古い育児書には書いてあったが、比較的新しい別の本には、たとえ癖がついても抱き続けていると愛情が伝わる、とか正反対のことを書いていたりして。とにかく時代によって育て方が違いすぎて、雲雀と二人随分首をひねった。
ただ、あまり長く抱き続けていると、下ろしたとたんに泣きだすのは事実だ。これはもう、嫌というほどに味わったから御免被りたい。
じりじりと進む長針がお決まりの時間を指すと、ようやく終業のチャイムが鳴る。教師が出て行くのも待たず席を立ち、沢田の席に向かった。
「すみません十代目、やはり預けてきます」
「そ、そうだね。なんか大変そうだったし、そうした方がいいよ」
授業中、悪戦苦闘しているのを見ていたらしい。何度も頷く様子に、余計な心配をかけてしまったのだと恐縮してしまう。
そんな親の苦労も知らず、赤ん坊は深く眠りこんでいるが、次の時間には起きだしてしまうかもしれない。やはり当初の予定通り、風紀委員室で雲雀に任せる方が無難だろう。
気を付けてねと手を振られ、頭を下げ教室を出る。まだ授業が終わったばかりで生徒もまばらな廊下を、起こさないよう、かつ急いで、風紀委員室へと急いだ。
「一時間で根を上げたの?」
「ちげぇよ」
扉を開けた途端、ほら見たことかとばかりにあざ笑う雲雀に、舌打ち一つで話を切った。
ここに来るまでの間も寝たままだった赤ん坊をソファに下ろして、ようやく息がつけた。幸いにもまだ癖がつくほどではなかったらしく、黒い革張りのソファでのびのびと寝息を立てている。その隣に座り込めば当然のようにスプリングが軋むのに、健やかな寝顔は反応すらしない。
「こっちで面倒見てた方が安全だ」
「分かり切ってたよ」
「しょーがねーだろ、流れだ。とにかく、この一時間は俺もいるけど、次はお前が見てろ」
「居るの? 授業は」
「次から出る。つか、今更俺に授業が必要だとか言うなよ」
いわく、ろくでもない海外からのチンピラ、だ。生真面目に授業を受けるとは端から思っていないだろうに。
「そういう生徒を矯正するのも風紀委員の仕事。今回は見逃すけど」
溜息交じりの言葉を、何故か雲雀は途中で切った。訝しく思い視線を向けるが、指先から髪の一本まで凍ったように固まるだけで、目は自分でも驚いているように軽く見開かれている。
「なんだよ」
「…いや、なんでもない。僕も夕べあまり寝てないから」
「そういやそうだったな。俺が見てるから、一時間くらい寝れば」
提案に、うん、と頷く顔はいつもの通りで、混乱は一瞬だったようだ。手にしていたボールペンをあっさりと投げだし、革張りの椅子から立ち上がる。背後の窓に引かれたカーテンの端が、歩く仕草にふわりと揺れた。
出入口の鍵を閉めた部屋の主は、向い合せに二つのソファが設置されているというのに、なぜか隣に座り込み、当たり前のように頭を肩に乗せてきた。重い、上に、狭い。
「おい」
「一時間寝ろと言った」
「枕も提供するとは言ってねぇ」
「敷き布団でもいいけど」
「吹っ飛ばすぞ馬鹿。つかな、マジでやめろよ、ちびの前であんなことすんの」
「あんな…? ああ」
何を言いたいのか察したらしい雲雀が、寄りかかったまま欠伸をする。寝る気満々だ。
「別にいいじゃない、君が過剰に気にしているだけだ」
「子供だからって馬鹿にしてると痛い目見るぞ、この年でも分かることは分かってるらしいからな」
「馬鹿にしているわけじゃないし、分かっているならいいじゃない」
「何が」
「親が不仲にしているわけじゃない」
すう、と黒い瞳が閉じられる。
年代によってばらつきのある育児書だが、どの年代でも共通して書かれている内容もあった。そのうちの一つに、親の機嫌を子どもはどれだけ幼くても敏感に察する、という一項がある。子供は感情を受けとめやすく、機嫌や不仲をすぐに感じ取り、赤ん坊なりに精神が不安定になる、と。
父親は家を出るまでは溺愛に近かったし、年に数度会うだけの母親も優しかった。だが、二人が近くにいなかったせいか、本来はあったのだろう二人の不仲やいがみ合いを見ることなく育った。それを幸いと思うかどうかは人それぞれだろうが、母が父を悪く言うことはなく、父も帰れば必ず楽しかったかと聞き、二人ともが笑っていたことだけは事実で。
決して幸せな家庭環境だとか、恵まれた出自だとは思っていないが、それなりに愛情をかけてもらったこと、二人がお互いを悪しく言わなかったことだけは確かだ。少なくとも、家を出るきっかけとなったあの瞬間まで、親を恨んだことはなかった。
「…まあ、確かに。不仲よりゃいいかもな」
なんだか、一人できりきりとしているのが馬鹿らしくなってしまう。
慣れない子守りは神経を使う。寝不足に緊張、立て続けに起こる予測不可能な出来事。いつも以上に気が張っているのに、唯一同じ立場にいるはずの雲雀はこんな調子で、毒気を抜かれてしまう。
首筋に触れる黒髪と、膝の近くに散らばる短く柔らかい黒髪。質も色もとてもよく似たそれは、やはり同じ血を感じさせる。ダークグリーンの瞳を閉じてしまえば、顔立ちも鼻の形も雲雀に似ていて、瓜二つといってもいい。耳に届く寝息は、それもまたよく似たリズムで、知らず笑いが口をついた。
「似たもの親子だな」
「それにしてもすげぇよな」
獄寺の去った教室では、数人の女子が奇妙な目で獄寺の行方を捜していた。短い休憩時間をフルに使って探しているらしいが、さすがの彼女たちでも風紀委員室は選択肢にすら登らないらしい。簡単には見つけられない所為かそわそわと落ち付きのない様子を、嫌なものでも見るように顔をしかめた黒川が、母性アピールするんだってさ、と吐き捨てていた。意味はいま一つ理解できないが、あまり女性の目から見ても気持ちのいいものではないことだけは、黒川の背負う空気だけで嫌というほど察せられ、軽く笑って流すことにする。
「ああ… 獄寺君、モテるよね…」
「うん? ああ、そうだな」
うろうろと、まるで食料を求める猛獣のように獄寺を探し回っている女子たちを見てもなお羨ましいと思う沢田もすごいと思うが、今言いたいのはそれではなくて。
「そうじゃなくてさ、雲雀だよ」
「雲雀さん?」
思いがけないことを聞かされたように、沢田が大きな目を更に見開く。
「獄寺が知り合いから子供を預けられたのは分かったけど、あいつそんなに子供好きじゃないのに、一週間も面倒を引きうけるっていうのは、よほどだと思うのな」
「う、うん」
「けど、それに雲雀は関係ないだろ? それなのに、一週間も子供連れで登校してくるのを許して、手が回らないときは風紀で面倒見るなんてよく言いだしたなーって。面倒事になると嫌だからその間は学校休めとか、そっちに許可出す方が楽じゃないか?」
自分が面白いと思ったことには寛容だが、学校や自分に害が及ぶとなると態度は一変する。それが、並盛中風紀委員長だ。歩けもしない赤ん坊を連れて授業を受ける生徒がいる、それも風紀委員の手をこれでもかと思うほどに惑わせる校内一の問題児が、となると、当然拒否するだろうと、多少なり雲雀を知ってる人間ならそう思うだろう。
けれど、雲雀は容認した。それどころか、必要な時は風紀が面倒を見る、という。
まるで、あの赤ん坊が雲雀自身にも関係があるように。
「そ、そう言われれば、確かに」
困惑した様子で頷く同級生が、急にそわそわとし始めた。もしかしたら、思いもしなかったことを聞かされた所為で、混乱しているのかもしれない。
雲雀は、この学校を取り締まっている大本だ。良くも悪くも、全ての許可は彼を通さなければ降りないほどに支配されている。だから雲雀に許可をもらうというのは、実は校長以上の許可ということだ。
獄寺の判断は正しいが、それを己が手伝うという条件のもとで許可したという雲雀が、どうしても気になったのだが。
「ま、あの獄寺があの雲雀に頼むんだから、よほど親しい人なんだろうな、あの子の親って」
黒い髪が印象的な、きれいな顔立ちをした子供だった。すぐに女子たちの輪に連れていかれた所為で、あまり近くでは見れなかったが、獄寺を見る真っ黒ではない瞳には不安がちらついて、それもまた印象が強い。
獄寺の知り合いだから当然イタリア人だろうと疑いもしなかったが、これまでにイタリアから来たというボンゴレ関係の人たちは、やはりどこか外国然とした雰囲気で、ディーノの金髪やビアンキの赤毛に代表されるように、あまり日本では見ない髪色と眼の色であることが多かった。シャマルのように黒髪のイタリア人もいることだし、なにもおかしくはないのだろうが、あの子はどこか、日本人らしいところがちらほらと見受けられる。多少低めの鼻なんか、特に。
「ん?」
「何?」
ちらりと頭をよぎった何かを掘り下げるよりも早く、沢田が顔を上げた。次に何を言うのかと、探るような視線が見上げてくるが、思い浮かんだはずの事柄は、何故か頭から抜け落ちてしまっている。
「いや、なんか今引っ掛かった気がしたんだけど、忘れた」
「なにそれ」
「んー、なんだったんだろうな」
一度抜け落ちてしまった思考を掘り起こすのは難しい。まだ何かを期待する鳶色の瞳がこちらを見ているが、あいにくと思い出せそうにはなかった。
「それにしても、獄寺は本当に面白いな。いろんなことが次々に起こる」
「俺はもう少し静かな中学生生活が送りたいけどね」
そういって溜息をつく沢田が、ふと視線を窓の外に向けた。その先に広がる空は青く晴れているが、遠くの方には薄暗い黒い雲が出ている。まだ嵐が残っているか、それとも違う雨が訪れるのか。
台風明けの月曜日。
その数時間後、他校に在籍しているはずのクロームが突然沢田をおとなうことも、翌日には獄寺が体調不良を起こして休んでしまうことも全く知らないまま、今週もまた賑やかで面白い一週間になるんだろうと、勝手な期待に胸膨らませながら、落ち込む同級生の肩を叩いた。
ちょっと時間軸が戻って学校編。タイトル強引。 ▲