光射す部屋

「学校が家なんだと思ってた」
「…そんなはずがないだろう」
 心底呆れたような声を発する相手が、手にしていた書類を机に落として、とん、と端を揃える。
「ここに人が暮らすほどの設備はないよ」
「お前なら別に関係ねぇだろ」
 普通に考えれば、学び舎でもある学校に暮らすなんてことは考えられない。けれど、あいにくと目の前にいる相手は普通じゃない。普通なんてことは手の届かないほど遠くに置いてきてしまったやつだ、その程度のことはするんじゃないだろうかと、転校してきたばかりの時は本気で疑っていたのだが。
「君はどうも、僕を勘違いしているようだけれど。寝て、起きて、食事をする。僕の生活に非人間的な部分は一つもない。そしてこの校舎には、そのどれもを完全にこなせるだけの機能は備わっていない」
 不機嫌な様子で言いきると、束ねた書類を机の端に置いて、立ちあがった。それなりの広さを持つ応接室に備え付けられたソファに横になっているこちらに、悠然と近づいてくる。
「そんな、どうでもいいようなこと、急にどうして言いだしたの?」
「どうでもいい?」
「そうだろう?」
 ソファまで一歩の距離を保ち、立ち止まる。腕を組む姿は、下から見上げればいつもより威圧感が増していた。
「今まで、そんなことは一度も聞かれたことがない」
 初めて顔を合わせてから、すでに年単位で時間が過ぎていた。確認するには、確かに今更すぎる内容ではある。
 けれど、それは。
「…別に、聞かなかっただけだ」
 全く気にならなかったわけじゃない。ただ、毎日どこから来て、どこへ帰っていくのか、なんて当たり前すぎることを聞く機会がなかっただけだ。聞けば、家、と答えるだろう。それで会話が終わってしまう可能性が高すぎる。一定のエリアから内側に踏み込んでこられることを何より嫌う一匹狼気取りの相手に、それ以上何を問えというのか。厭われることが分かっていて、踏み込んでいくようなことはできなかった。
「なら、どうして今になってそんなことを」
「それは…」
 数日前、沢田の家庭教師が取り出した一枚の写真を見てしまったからだ。
 そこに写っているのは、とてもよく見慣れた顔が、全く見慣れない私服を着て、想像もできないような日本家屋の縁側に立つ様子で。
 初めて見る光景に沢田と二人で騒いでいると、山本は噂に聞いたという出生を仄めかし、笹川は訪れたことがあるとまで言いだした。同じように驚いていた沢田は、山本ですら聞いたことがあるという噂を知らなかったらしい。
「ああ、ツナはあんまりその手の話に興味ねぇみたいだし」
「っていうか、日々自分のことに精いっぱいなだけというか… むしろ、山本やお兄さんが知ってることに驚くよ」
「三年の連絡網を見れば住所もわかるぞ! 極限簡単なことだ」
「俺も、部活の先輩から聞いた話だから、部活してない二人が知らなくてもしょーがねぇよ。獄寺は、転校してきてあんまり経ってねぇしな」
 知らなくて当たり前だ、と山本が笑うのを、自分の中で何かが冷めていく音と一緒に聞いていた。
 日本に来て、一年と少し。それは、決して短い期間ではない、と思う。
 慣れるつもりなどなかったし、いつか離れていく土地だという前提でここに来ていたから、深くかかわるつもりなど微塵もなかった。知りたい情報だけを仕入れられればいいと、そう思っていたから、今まで沢田以外の個人情報を積極的に知ろうとしたこともない。
「…つか、別に興味ねぇよ。あいつがどこに帰ろうと。ただ、でかい家だから驚いただけだ」
 だから、これは本当だ。心からの、本音だ。
 どこに帰ろうとどうでもいい。学校に行けば、そこがまるで我が巣だとでも言わんばかりの風紀委員長様が当たり前にいたし、それだけでよかった。
 なにより、雲雀が帰っていく場所を自分は知っている、と思っていたから。
「あのマンションはなんだよ」
 幾度となく立ち入ったはずの、一つの部屋。室内はありきたりな造りで、内装に奇抜なところもなければ、本当に必要なものしかなかった。他の誰が出入りする気配もない、しんとした、まさしく巣のような一室。
 そこが、家なんだと思っていた、から。
 改めてどこかに家があるのかなんてことは聞かなかったし、その一室がどうやって維持されているのかも、家族がいるのかなんてことも、聞いていない。聞かれることをよしとしない雰囲気が、雲雀にはあったから。
 けれど、まさかこんなにあっさりと、全く別の角度から知らされるなんてことは、想像もしていなかった。
「あれは… まぁ、いいや」
 ふん、と鼻で息を吐いた雲雀が、くるりと踵を返す。今しがた立ち上がったばかりの椅子に近づき、その背に掛けたままの制服を取り上げて、袖を通しはじめた。
「雲雀?」
「起きて。帰るよ」
「は? 帰る?」
 急に、何を言い出すのか。
「そう、帰るんだよ」
 おそらくは目を見開いた、間抜けな顔で見上げているだろうこちらをちらりと振り返った雲雀が、またふいと顔を背ける。
「君が見たという、その屋敷にね」

 屋敷、というからには、かなり広い建物なのだろう、と予測はできていた。こちらとて、育ったのは城とも呼べるような場所だったし、本国に帰れば、ファミリーの本拠地はまさしく城だ。それなりの大きさの建物には慣れていた。
 のに、だ。
「ひ、ろー…」
 案内された家は、とにかくその一言に尽きるだけの大きさをもつ、まさしく、屋敷、としか言いようのない建物で。
 写真やテレビでしか見たことのない、典型的な日本家屋。それも、沢田家のような現代式のものではなく、寿司屋の店舗としても使われる山本家に似た年代の感じられる造りで、多少天井が低めではあるが、山本家のそれよりもはるかに風格を備えた立派なものだった。
 きゅ、きゅ、と可愛らしく思える小さな音を響かせた廊下には、同じようなデザインの紙が張りこまれた壁が右手に続く。その時々に取っ手のようなものがあるから、壁ではなくて扉なのかもしれない。
 どれほど廊下を歩いたか、雲雀は唐突に足を止め、取っ手に手をかける。しゅ、という擦れる音で開かれた引戸の先には、なんとも言えない草のような青々しい匂いと、これまた巨大な空間が広がっていた。
「なんだこれ…」
 広さで言えば、たぶん本拠地の方が広い。だがそれは、時には巨大なパーティ会場になることを考慮して作られているのだから当たり前のことだ。いわばコンサートホールのようなもので、城は家と同類項ではない。
 けれど今目の前に広がる空間は、とにかく広い。畳敷きの広間が延々と続き、間にいくつもの同じような引戸をはさみながら、向こうまで続いている。一般の家庭でこれだけの広さを保とうと思ったら、かなりの建設費と維持費がかかるはずだ。
「そちらは広間だから当たり前だよ、こっち」
 ぽかん、と広間を眺めていた視界の端で、黒い学生服がはためく。あわてて視線を向ければ、今入ってきた引戸とは直角に当たる、やはり同じデザインの紙が貼られた引戸を雲雀が引いていた。
 その先には、広間の引戸の向こうにある板張りの廊下ではなく、同じような畳敷きの部屋があって。
「え、廊下は?」
「続き部屋だからそんなものはない」
 す、と音もなく雲雀が部屋に入ってく。急いで後を追えば、そこはそれなりの広さを保ちつつも、決して今通ってきた広間のようながらんとした様子も、異様なまでに広い空間もない、生活感のある部屋だった。
 これが。
「…お前の、部屋?」
「そう」
 肩から下ろされた学生服を、部屋の端にある背の高い衝立に掛けられたハンガーにかける。その仕草はとても慣れていて、本当にただそれだけなのに、ここが間違いなく雲雀が寝起きしている部屋なのだということがわかった。
「そこの襖、閉めてくれる?」
「ふすま?」
「…今入ってきた引戸」
「あ、ああ」
 襖という名前なのか。黒枠がされた扉というのも不思議なものだが、とりあえず言われたとおりに手をかけて引き、広間との間に壁を作った。意外にも軽い。
「戸ってもっと重いかと」
「襖なんてそんなものだよ」
「つか、なんでこんな続いてんだよ。一つにすりゃいいじゃん」
「そちら側は、時々しか使わないんだ。だから、間に置いてクッションにしてるだけ」
「クッション? なんの?」
 雲雀の言うことは分からない。何がどうして、あの大きな空間がクッションになるのか。
「それは…」
 疎ましそうな表情をしながらも、問われたことに答えようとした雲雀が、ふと顔を背けた。その視線は、今入ってきた襖とは隣り合わせの、紙が貼られた木枠の向こうに向けられている。
「悪いけど、少しの間こっちにいてくれる?」
 急に声をひそめて、先ほど制服をかけた衝立の蔭を示させる。
「なんで?」
「すぐにわかる」
 早く、と急かされ、仕方なくその影に身を滑らせた。掌を下に向けるしぐさに従い、完全に身をひそめるように腰を下ろす。
 何なんだ、いったい。
 頭の上にクエスチョンマークを飛ばすことしかできないこちらとは違い、生家に戻ってきた雲雀は堂々としていて木枠に手をかけて引く。
「何?」
「失礼します、委員長」
 襖と同じく、音を立てずに開いた木枠の向こうから、聞いたことのある声がした。風紀副委員長だ。彼が来たから隠れろという意味だったのだとようやく分かり、体をずらすようにして衝立に身を寄せた。
 相手の姿を確認したらしい雲雀は、ちらりともこちらを見ることもなく、木枠の向こうに足を滑らす。
「何か用?」
「先日から新しく委員会に入りました生徒に、ここまでの道案内をしております。面通しをお願いします」
「ああ、そう」
 会話だけが、少し遠くから聞こえてくる。
 風紀委員会は、その名の通り並盛中の風紀を守ることを使命とした委員会だが、その実態は単なる委員長の独断と偏見を守ることに終始した、雲雀のための委員会だ。雲雀が卒業したらどうするのだろうと思えるほどに忠誠を尽くしきっている彼らは、どうやら自宅にも出入りするらしい。
 木枠の外からは、紹介をする委員の声とともに、かすかな風の音、そして時折鳥のさえずりが聞こえてくる。室内ではなく、室外なのだろう。そういえば、見せられた一枚の写真では、こんな木枠の手前に雲雀が立っていたような気がする。ならばこの外には、見事しか言いようのない日本庭園が広がっているはずだ。
「それでは、失礼いたします」
 話が終わったのか、そう言った草壁の声と、数人が立ち上がる気配がする。ざざ、と草や、砂利のようなものを踏みしめる音がして、やがてあたりはしんと静まり返った。
「いいよ、もう」
 ふ、と一度息をついて、雲雀が室内に戻ってきた。改めて戸が閉められると、白い紙を通した柔らかい日差しだけが、室内にそそいでいる。
「委員会の連中が来るのか」
「基本は電話だけど、何か用事があればくるよ。不在の時に電話をしてくることもあるし」
「ふぅん…」
 あの、小さな紙の中におさめられた光景を思い出す。
 見覚えのない屋敷。心当たりのない私服。それなのに、違和感なくそこに立つ姿。
 あれを見せられれば、背後に写る建物が家と思うだろう。雲雀の言う、寝て、起きて、食事をする、生活という括りの中でも必要かつ最低限なことを行うに、ふさわしいものだ。
 くるりと室内を見渡せば、畳が敷き詰められている部屋の一辺だけが板間になり、柱で二つに区切られていた。片側には段違いに棚のようなものがあり、もう一方の壁には掛け軸が掛かけられていて、書かれた並盛の文字が、なんとも雲雀らしい。
 板間がある壁と隣り合わせた壁には、箪笥と、腰ほどの高さもない衝立がL字型に置かれている。襖と呼んでいた引戸四枚分のうち一枚を埋める、その低い衝立は、今しがた身を隠した高い衝立とは向い合せになっていて、黒地に綺麗な桜が描き込まれていた。一周し、再び目を向けた外に通じる引戸の端では、座卓が紙越しの柔らかな日を受けている。そこで本を読んでいる部屋の主が、幻のように浮かんでいる気がした。
 生活感に溢れた、人の気配がする部屋。
 その中に立つ姿に違和感がないことに、頭が痛くなりそうだった。
「なんて顔してるの」
 箪笥の引出しを開け、中から見覚えの薄い黒いシャツを引っ張り出した雲雀が、首をかしげる。何かおかしな顔をしていたのか。
「…なんでもねぇよ。この、妙なにおいに頭が痛いだけだ」
 雲雀の部屋にも、隣にある広間のようなにおいがかすかにしている。どことなく原っぱのにおいに似ていた。
「ああ、藺草のね。畳のにおいだから仕方無い」
 くん、と鼻を鳴らした部屋の主は、そう言って背を向けた。その背に、舌を打ちそうになる。
 あの小さなマンションの一室は、こことは全くの正反対だった。家具も満足になく、台所には部屋の広さに似合わない小さな冷蔵庫があるだけ。中身も少なく、キッチンなど最低限の調理用具があるだけで、到底料理に向いた品揃えじゃなかった。バスタオルも二枚しかないし、食器の類もせいぜい二人分程度。部屋の中に、それ以上のものは一切なかった。
 いくら雲雀が異様で特別でも、人として生まれている以上、その身を育てた親がいる。あの部屋を中学生一人で維持出来るはずがないし、そもそも簡単に借りられない。自分が借りているマンションだって、本部が保証人になってくれているからこそ借りれている。成人した人間の許可が、必ず必要だ。ならばそれは常識で考える限り親であり、親であるならば一緒に住んでいないのはどこか不自然。室内のすべてが、最大で二人分の容量しかないのも、おかしい。
 気付くべきだった。あれが、あくまでかりそめの部屋であり、雲雀が雲雀として生まれ、育った場所は別にあるのだ、と。
 そんなことにも気付かなかった、それほどに浮かれていた自分が愚かなのだ。
「隼人」
「な… ぶはっ」
 呼ばれて上げた視線が、投げつけられた何かで真っ白にふさがれる。あわててはぎ取れば、白いシャツだった。
「てめ、何を」
「よほどにおいが嫌なのかと思って。それでも被ってなよ」
「いや、つかこれお前のシャツだろ!?」
 見上げた雲雀は、すでに背ではなく腹をこちらに向けていたが、上着は白いシャツから黒いシャツに変わっていた。ぼんやりとしている間に着替えていたらしい。下は変わらず制服だったが、おかげで上から下まで真っ黒になっている。
「とりあえずマスク代わりにはなる」
「そりゃ、そうだけど」
 適当に言った言い訳を信じているらしい。別にこの程度の匂い、大したことはなかったのだが。
「君みたいな板間で育った人間には辛いだろう?」
「う…」
 そう言われてしまうと、ただのウソでした、とは言いづらい。仕方無く、投げつけられたシャツを頭からかぶった。藺草のにおいが薄れ、覚えのある雲雀のにおいだけが漂う。
「まあ、それもあって、今まで連れてこなかったんだけれど」
「…は?」
 続く、ため息交じりの言葉に、シャツの間から雲雀を見上げた。ちらりとこちらを見下ろした相手は、肩を落とし、ついでにと腰を下ろす。
「うちは板間の方が少なくて、どこに行ってもこの匂いがある。僕は昔からだからもう慣れているけれど、慣れない間はつらいものだと聞いた。特に、君みたいな外国で育ったものには苦しいだろうからと思って」
「え、あ、まぁ…」
 確かに、多少鼻につくにおいではあるが、そこまで苦痛じゃない。いくら室内は板が主流とはいえ、草むらだけで言えばあちらの方がずっと多かった。育った城の周りなど森だらけだったし、ボンゴレ本拠地でもそれは変わらない。
 じゃあ、まさか。
「今まで、だから連れてこなかった、のか」
「…正直に言えば、連れてくる気はなかったよ」
 どこか気まずそうに、黒い瞳がそらされる。
「なんで」
 それが、なぜか気に食わなかった。返す声が、自然と強くなる。
「さっきみたいに、ここは風紀の人間も来る。見てのとおり、外との遮蔽物は障子一つだ。雨戸はあるけれど、昼間から出しておくものじゃない」
 障子、とは紙の貼られた引戸のことだろうか。確かに、遮蔽物としては頼りないが、それがなんだというのか。
「それに、日本家屋というものはプライベートが無視されがちなんだ」
「……へ?」
 プライベート。
 唐突に出てきた単語に、間の抜けた声が出た。何の話だ。
「障子一つ、襖一つがどれだけ音を防げないか、大体想像できるでしょう。こうして普通の声で話しても、うっすらとなら外にも隣にも聞こえている。そういうものなんだ」
「あ、ああ」
 言われればその通りだと、頷く。外の、小さな鳥のさえずりすら聞こえたことを考えれば、逆もまた聞こえやすいのだと思う。それは、そうだが。今そんな話をしていただろうか。
「だから僕の部屋は大部屋を挟んだ場所にあるし、外には通じているけれど庭しかない。少しいけば勝手口があるだけで、昼間の僕がいないときにだけ庭師が入る。それ以外は、誰も来ない。そういう場所に部屋を取っていても、それでも、不十分なんだよ」
「…お前、本当にうるさいの駄目なんだな…」
 葉の落ちる音ですら目を覚ます、という男だ。あれだけの庭があれば、そりゃあ適度に手を入れなければ夜も眠れないだろう。秋など騒音に近い。まして、さほどの遮音性もない扉に挟まれたこの部屋では、毎夜毎夜寝れるはずがない。
「あれ、だからあっちがあるのか?」
「そう」
 小さく、顎を引くようにして頷く。
 あちらのマンションは、こことは違い完全な洋間だ。遮音性も高いし、何より他の誰もが簡単に出入りできない。あれならば、静かによく眠れることだろう。
「へぇ…」
 そう聞けば、なんとなく納得ができた。単に寝るために使うにしては間取りが広すぎる気もするが、あれくらい広くないと逆に隣からの音が響きそうだ。質素な冷蔵庫の中身も、最低限の数しかない食器にもタオルにも、頷ける。
「けどお前しょっちゅう寝不足だろ。あっちの意味なくねぇ?」
「一人のときは滅多に行かないからね」
「…うん?」
 訳が分からない。
 この部屋が、庭先とはいえ風紀の人間も出入りし、外部からの音もそれなりに入ってきて、プライベートが保てないからあの部屋を借りたのなら、むしろこの部屋に戻ってくることの方がおかしい。生家であり、見てはいないがここに両親なり兄弟なりが暮らしているのだと仮定すれば、家族のいるここは帰ってこなければいけない場所ではあるのだろう。だが、その家族のために熟睡できていないというのなら、夜だけでもあちらの部屋に行けばいいのだし、その必要がないなら引き払えばいい。
 雲雀の言うことは意味が分からない。
「あの部屋を借りたのは、最近の話だ。正確にいえば、君が僕のものになった後」
「は?」
 シャツの間から見た雲雀は、逸らしていた黒い瞳を、まっすぐにこちらに向けている。何を不思議なことがあるとでも言いたげな目を。
「言っただろう? この家にはプライベートがない。あれだけの広間を間に挟んでも、外に声は漏れる。ましてこの障子の向こうには風紀の人間も来る。僕は、そんな所に君を置くつもりはない」
「え、あの… 雲雀さん?」
「なに?」
 なぜか敬称をつけて呼んでしまったのに、雲雀はそれに対して突っ込むことも笑うこともなく、相変わらず真面目な顔でこちらを見ていた。
 いったい何をつらつらと話しているんだ、この男は。
 それじゃあまるで。
「…お、れがいるから、あっちを用意した… って聞こえるんスけど…」
 遮音性に劣る日本家屋。プライベートがなく、部屋と外を遮るものが紙の扉だけ。
 確かにそれは、遮音性という意味でも、安全性という意味でも、ひどく心もとないものだ。街を一括して仕切っているやつが暮らす場所としては、手を出す勇気があるかどうかは別にしても、あまりにも開放的すぎる。
 そういう意味でなら、理解できなくもないと、そう思いかけていたのに。
「まさにそう言っているけど」
 どうしてそんな、百八十度も違う理由を、首をかしげながら口にするのか。腹が立つくらい可愛く思えて、本当にむかつく。
「一人でいる分には、この部屋に不自由はないよ。どれだけ言っても自分の部屋だからね。けれど、君のその無自覚な部分を、僕は僕以外に見せる気も聞かせる気も、全くないんだ。そのためなら、部屋の一つや二つ安いものだよ」
 シャツの向こうで、雲雀が笑う。薄らと、口元だけに浮かべられた笑みは、紙で遮られた日光の下で、普段よりも優しく思えて。
「ばっ… か、じゃねぇの」
 一人で過ごすには無駄に思えるスペース。寝室には広すぎるベッドが一つと、制服をかけるためのハンガー、数着の私服。リビングには横になれるくらいのソファが一つと、ガラスのテーブル。台所には簡素な冷蔵庫に、せいぜい二人分の食器と、二枚しかないバスタオル。
 あの部屋の中にあるものたちは、どれもこれもがすべて、二人分しかなかった。
 家主が一人で過ごすのではなく、最初から誰かと過ごす事が決まっていたかのように、きっちり二人分しか。
「う、ぐあぁあぁぁーっ!!」
 耐えられず、頭から被ったままのシャツをさらに深くかぶった。影から見えていた雲雀の口元も、何もかもが白いシャツに隠れてしまう。
「隼人?」
「っ、せぇ! ちょっと、深呼吸させろ深呼吸!!」
 外から手を出してくる気配を感じて、膝を立てて顔を埋め、さらに縮こまった。まるで亀のようだ。
 何を言うんだ。何を言い出すんだ、こいつは。本当にもう、意味も分からないし、全く理解できない。
 なのに、ああなのに。
 嬉しすぎて窒息しそうだ、なんて、自分も相当理解できない。

 やっぱり匂いがするのか、なんて見当違いなことを呟く苦い声を聞きながら。
 手にしたシャツをさらにきつく握り締め、獄寺は蒸れそうなほどに熱い顔をただひたすらに隠し続けた。

以上、言い訳でした。