沈黙

 大雨というほどの雨量もなく止んだ雨は、それでも頭から足先までを完全に濡らしてしまうくらいには降っていて。山本の試験が終了すると同時に止んだが、陽のない夜に乾くはずもなく、家に帰りついてもびしょぬれのままだった。
「あー、濡れた濡れた」
 玄関からすぐのバスルームに飛び込んで、タオルを一枚取り出す。乱暴に髪を拭って、着ていた上着を脱いだ。
「……つーか、お前本当に付いて回ってるんだな…」
 濡れたシャツを洗濯機に突っ込んで、後ろからの視線に振り返る。
 そこには、小さな、とてつもなく小さな子供が一人、ちょこんと立っていた。
「ええ、それも私の使命なので」
 山本と同じく、守護者としての試練は自分にも課せられている。順番が巡ってきていないだけで、それはいつか必ず来るものなのだが、それまでの間家庭教師として、この小さな子供が片時も離れずにくっついていた。
 七人の守護者に割り振られた、七人の家庭教師。
 それは、アルコバレーノと呼ばれる世界最強の赤ん坊であり、世界の存続に何事かでかかわっている存在たちだ。その、何事か、を知るのはまだ時期尚早なのか、赤ん坊たちは決して教えてくれない。ただ、いつかわかる時が来るだろうと、そう悟ったように語るだけで。
 そのうちの一人であるこの赤ん坊は、とても流暢で丁寧な日本語をしゃべり、子供ながらに柔らかな物腰で、何事に対しても紳士的にふるまう。これがこのまま大人になれば、おもしろいくらいに女が引っ掛かるだろうな、と容易に想像できる、末恐ろしい赤ん坊だ。
「使命かなにかしんねぇけど、家まで上がりこむとはな」
「申し訳ありません。野営の準備は怠っていませんが、われらにも休養は必要です。先日行われたボンゴレ十代目の認定試練は想定内でしたが、今回の家庭教師は急な話だったので、準備が行き亘りませんで…」
 小さく細い肩を竦めた風は、オレンジ色の上着で隠した腕を持ち上げ、口元を隠す。数日間で気づいたが、癖らしい。
 けれど、いくら口元を隠しても、その隠しようのない大きな目はこちらを向いている。どこかで見たことのある、眦の切れた、憎たらしいくらい深い黒い瞳を。
「……なんでもいいけどな、早く試練とやらを始めてほしいもんだぜ」
 家庭教師という触れ込みの割に、こいつは何もしない。ただ毎日、見ているだけだ。この家で生活し、学校で時間をつぶし、そしてこの家に帰ってくるまでの間を、くまなく見ているだけ。
 一時期笹川の家庭教師でもあったコロネロは、元教官というだけあって人を鍛えるだの教育するだのといったことが得意だ。未来でのラル・ミルチもそうだったし、リボーンも沢田の教育係として一年以上の月日を彼のもとで過ごしている。
 だが、この風という名の、イーピンの師匠でもあるという赤ん坊は、おそらくはその立場に立つにふさわしいだけの性格をしているのにも関わらず、本当にただ見ているだけで、助言もしなければ、鍛えるわけでもない。何がしたいのか、全くわからなかった。
 おまけに、この顔だ。余計に分からない。
「私としてはもう始めているのですが」
「どこがだよ」
「…それを教えてしまっては意味がない。それより、早く温まった方がよいですよ。風邪を引きます」
 困ったように笑うと、ふるり、と頭を振って水滴を払い、どこから取り出したのか小さな手拭いで体をふき始めた。足元では、水滴が水たまりを作り始めている。やはり、それなりには濡れたらしい。
「お前は」
「そうですね、後で湯を貸していただけると助かります」
 ぎゅ、と手拭いを絞る。足元には、水たまりが一つ増えていた。元から色白らしい肌もどこか青白いし、これだけ小さければ体温の調節は思うようにならないだろう。括られた長い髪からは、絶えず滴が落ちている。
 これをこのまま放置して、自分だけがゆっくり入浴し体を温めたとしたら、それはもう人として色々と問題だ。さすがにそれはできない。
「おい」
「はい?」
 はあぁああぁぁ、と深くため息を吐いて、今だ玄関の土間で立ち続ける赤ん坊の首根っこを掴んだ。引き上げてみれば、水の分だけ重くなっているとは思えないほど、赤ん坊は軽い。
「あの」
「うるせぇ、二度も三度も風呂を沸かすのは不経済なんだよ。さっさと準備しろ」
 持ち上げられたまま、困惑したように首を傾げる風をマットの上におろし、扉をしめた。シャツを脱ぎ、上着と同じように洗濯機に放り込んでもまだ呆然と立っている赤ん坊に、早くしろ、ともう一度だけ催促をして、さっさと全てを脱ぎきって先に浴室に足を踏み入れた。なんとなく素っ裸というのも気が引けて、持ち込んだタオルを腰に巻いておく。
 セットしている時間はとっくに過ぎていて、湯船にはたっぷりと湯が沸いている。ほかほかと立ち上る湯気はいかにも温かそうで、小さな椅子に腰をおろして力を抜いた。思った以上に体が冷えていたらしい。
「…まさか、共に入れと言われると思いませんでした」
 ほんの少しの時間をおいて入ってきた風は、苦笑いに似た何かを口元に浮かべて、浴槽の縁に飛び乗った。濡れた場所だというのに滑りもしないのはさすがだが、先ほど体を拭っていた手拭いを同じように腰に巻き、これまたどこから取り出したのかわからない似たような手拭いを、よりにも寄って湯船に浸けようとしている。
「何してんだ」
「いえ、湯をいただこうかと」
「あのなぁ」
 そのまま湯船に落ちそうな小さな体を、今度は掴むところがなく、仕方なく両手で抱きあげた。ひょい、と軽々と持ち上げられる冷えた体をタイルの上に下ろすのも忍びなくて、迷った末に膝におろす。
「日本では、タオルだの体だのをいきなり湯に入るのはマナー違反なんだよ」
「そうなのですか?」
「そうなんです」
 下から見上げてくる大きな目に頷き、桶に湯を汲む。
 リボーンによれば、風は中国の武術大会を総なめにした武術の天才、という話だった。中国の入浴手順は知らないが、少なくともイタリアよりは日本に近いと思うのだが、普段はどうしていたというのか。
「そうですね、あちらはあまり入浴という習慣もないのですが… 簡単な湯あみ程度なので」
「そうなのか?」
「ええ、特に私のようなものは。ですので、こんな風に湯を溜めるのも珍しいです」
「へぇ…」
 意外だ。同じアジア圏内にあって、そんなにも違うのか。温泉ならヨーロッパ圏にも存在するというのに。
「ま、いいや。その髪解けるのか? さすがにそのままじゃ洗えない」
「え? はい、解けますが…」
 膝上から、大きな目が見上げてくる。その黒は深く、それでいて驚きに満ちていた。
「なんだよ」
「…いえ、すみません。いま解きますね」
 笑うように細められた目が、ふいと前を向く。小さくまん丸の指が、濡れて重くなったのだろう髪をほどいた。滴を垂らす長い黒髪は、編まれていた所為で緩く波打っている。
「お前これ面倒じゃねぇの」
 男でも長髪がいないわけじゃない。スクアーロなんて考えるだけで嫌になるくらい手入れが大変そうだし、そういえば未来の骸も一部分だけ伸ばすなんて珍妙な髪形をしていた。手入れの面倒が先に立って、特別長くしよう、なんて考えたこともないが、何か理由でもあるのか。
「理由がないわけではありませんが、些細なことです。慣れれば如何ほどもありませんよ」
「ふぅん」
 どことなくはぐらかすような言い方が気になったが、はぐらかすということは話す気はないということだ。追及したところで時間の無駄でしかない。
 適当な返事をし、ポンプを押し手に取りだした液体を泡だてて、黒髪に指をからめる。わしゃわしゃと指を動かすたびに髪から泡がたち、時折ぽこんと泡が浮いた。毛先に向かうにつれて細くなっていく黒髪は、うねりさえ取れれば地面につきそうな長さを持っていることがわかった。これを小さな手でちまちま洗うと、時間がかかったことだろう。手を出して正解だったかもしれない。
「流すぞー」
「はい」
 一通り洗い泡を流して、再びシャンプーを取り出した。先ほどよりも泡立ちがよく、さくさくと髪がきれいになっていく。
 洗髪が終わってしまうと、適当にまとめ上げた長髪をピンで止める。浴室内には、風ほどではないにしろ肩につきそうな髪が湯船に浸からないようにと、数本のピンが置いてあるが、まさか他人に使う日が来るとは思わなかった。
「体はてめぇで洗えよ」
「ありがとうございました」
 膝から下ろした風は、丁寧に小さな頭を下げて、また上げる。
「っ…」
 その顔は、長かった髪をまとめ上げた所為で、余計に誰かを彷彿とさせた。
「? 何か」
「な、なんでもねぇ。さっさと洗って、体あっためて出てろ」
 つい言葉が詰まる。訝しげにしている風を横目に、その視線に気づかないふりをして、今度は自分の髪を洗うために湯をくみ上げた。

 二人して体から湯気が立ちそうなほどに体を温めて、湯あがりに一杯冷たい水を飲みほしてから、濡れた髪を乾かすことにした。
 ソファに座る膝に上げてドライヤーをかけている間、風は気持ちよさそうに目を閉じていた。幼さしかないその横顔は、やっぱり誰かさんを思い出させていけない。
 他人のはずだ。全くの他人で、血の繋がりなんてないはずなのに、どうしてこうも似ているんだろうか。
 そういえば以前、弟子であるイーピンが師匠と似ていると言っていると、リボーンが言っていた。確かによく似ている、というよりはまったく同じだ。たぶん、子供のころはこんな顔だったんだろうな、と思わせるほどに。今や姉弟子となった彼女は、さぞかし驚いたことだろうと思う。すでに庇護下から巣立ったはずなのに、同じ顔がこれだけ身近にあるのだから。
 短い部分を乾かしてしまい、今度は長い部分に指をからめる。ここ数日一緒にいることが多いとはいえ、この赤ん坊は本当に正体不明で、まったくつかめない。けれど、こんな風にしている様子を見ると、本当にただの子供だ。熱風になびく髪から自分と同じシャンプーのにおいが漂うのが、不思議で仕方無い。
「慣れていらっしゃるのですね」
「え、あ?」
 ぼんやりと考え事をしながら手だけを動かしていたため、風が目を開けていることに気付かなかった。こぼれおちそうなくらいに大きな黒い瞳が、横目でこちらを見ている。持参したという、これまたどこからともなく取り出したジャストサイズのシャツを着こんだ子供は、ひどく楽しげだ。
「何がだ?」
「先ほども思ったのですが、こうしてお世話をしていただく様子がとても手慣れていらっしゃるようでしたので」
「そうか?」
 髪を洗ったり乾かしたりは、自分にもすることだ。他人にするからといって、手慣れているも何もない。
「ええ。ここ数日、あなたの側にいましたが、こんな面があることには正直驚きました」
「どんな面だよ」
 熱風を吐き出し続けるドライヤーを止める。体に比例してか、風の髪は量が多くない。タオルで水気を切った後だと簡単に乾いてしまった。さらさらと、指を滑る髪が気持ちいい。
「とても世界が狭い方だと認識していました」
「世界が狭い?」
「例えです。ですが、そうではないのですね… きっと、私にしてくださったようにどなたかの髪を洗ったり、乾かしたりなさるのではないですか? それが少し意外でした」
 ふふ、と小さな唇が笑いを洩らす。
「髪に触れられると眠くなるのですね。初めて知りました」
 言葉通り、欠伸を漏らす。
 その仕草も、その言葉も、なんとなくだけれど声も、似ていて。

「君に髪を触られてると、眠くなってしまう」

 お前四六時中眠いじゃねぇか、と毒づいたのは、たぶんずいぶん前のことだ。いつだって眠りたがっていて、目を離した隙に船をこぎ出す。その度にたたき起こして、殴られて、を繰り返してきた。もう、一年以上も。初めてそう言った日のことなんて覚えていない。
 ただ、そう言った瞳が妙に柔らかい色をしていたことと、そのあとすっかり眠ってしまったことだけは、とてもよく覚えていて。
 性質が悪い。
 本気でそう思った。
「…寝るなら、ベッドで寝ろよ。せっかく温めたのに、冷やしたら意味ねぇだろ」
 指に絡む髪をほどいて、三度小さな体を抱き上げた。ここ数日、家にまでついてきていたのは事実だが、さすがに寝食の面倒までは見ていない。時間になれば風は姿を消したし、そのうち気づいたら戻ってきていた。たぶん、どこかで適当に食べていたのだろうし、寝る時もさほど気にしていなかったから、適当にソファでも使ったはずだ。
「よろしいのですか?」
「ああ」
 だからだろう。窺うような言葉には簡単に返して、抱き上げた体を床に下ろす。それと同時に、ドライヤー片手にソファから立ち上がった。
「寝室はあっち。俺は自分の髪乾かしてから寝るから」
「…はい、ではお先に失礼します」
 きょと、と大きな瞳で見上げた後、丁寧に頭を下げた赤ん坊がちまちまとした足取りで寝室に消えていく。白いシャツに包まれた小さな体と、括られずふわふわと漂っていた黒い髪が扉の向こうに消えたのを確認して、深く息を吐き出した。
「反則だろ、あれ…」
 絶対に違う人間だ。同じ人間などではないし、おそらくは親族でもないはずなのに。
「なんであんなそっくりなんだよ、くそ…っ」
 錯覚などしない。全く違う人間だと理解できている。数日前までいた未来の世界でならばいざ知らず、ここは現代だ。それに、いくら似ているとはいえ、あれだけ明確にサイズが違えば、錯覚などできない。子供のころはこうだっただろうかと、想像することはできても、イコールにするのは難しい。
 十年後の世界、あの殺伐とした絶望しかない世界にいた、あの男にすら、錯覚は覚えなかった。同じ名前、そしておそらくは、あの男の過去には自分と過ごした時間が存在していただろうけれど、それでも、自分にとっては同一人物などではなかったから。
「…畜生」
 たった数週間だ。たった数週間離れていただけで、それは出会うまでの期間を考えたら一瞬のような時間だったはずなのに、長くて仕方なかった。ようやく顔を合わせたと思ったら、もともと集団の中にいることが嫌な性格が存分に発揮されて、ろくに顔も見ないま行方を晦ましてしまって。一時的にこの時代に戻ってきた後も、顔も見ていないし声も聞いていない。
 平気だと思っていた。そんな馴れ合いの関係じゃないつもりだったし、女子供じゃあるまいし、毎日顔を見なきゃ呼吸もできないなんてことだって、当然なかった。
 だから気にしていなかったのに。
 こんなにもすぐそばに、触れる位置に同じ顔があるのに、それは絶対にあいつじゃないなんて。
 手にしたままのドライヤーを、テーブルに置く。そのすぐ横には、充電が完了した携帯電話がぽつんと置かれていた。未来に居る間全く役に立たなかった携帯電話は、こちらに戻ってきた瞬間から大量の迷惑メールを受信したために、一気に電池がなくなってしまっていたのだ。二度目の仮帰還である今回ではなく、前回、この時代に一度帰ってきた時には、それ以上のメールが一度に入ってきて、エラーすら起こしたものだが、今回はそこまでではなかったらしい。すっかり元に戻った機械を手に取り開いてみても、新たなメールや着信はない。
 馴れ合いの関係などごめんだと、そう胸を張って言うだろう相手だ。この時代に帰ってきて、一度だって向こうからのアクションはない。分かっていたことだ。なのに。
「……雲雀」
 それが、こんなに虚しい思いを呼ぶなんて。

 額に押し当てた小さな機械が震えることは決してない。
 その事実と、寝室で眠っているだろう顔を思い出して、獄寺は壊れそうなほどに携帯を握りしめた。

意外に仲良しだといいです。