pavone
「ぁ」
つい口から出てしまった、という感じの呟きに、雑誌に向けていた顔をあげた。
放課後の並盛中応接室には、遠くで行われている運動部の掛け声と、それよりも少し近い位置で行われている吹奏楽部の音、そして時々羽ばたく鳥の羽音だけが響く、どこまでも静かな空間だった。たった二人しか居ない室内で会話が途切れれば、それら以外は聞こえなくなる。雑誌をめくる軽い音と、紙にボールペンが走る音、ただその二つだけが、気が向いた時に混じるだけだった。
そんな中で呟きを発した張本人は、どうしたことか非常に渋い顔をしていて。
「なんだよ」
顔を上げた以上、なんの反応もしないわけにはいかなくて、一応声をかけた。開けられたままの窓から飛び込んでくる一羽の鳥が頭に止まるのも気にせずに、ただ下だけを見る風紀委員長は、これ以上ないほど面白くなさそうな顔をしている。
「…少し、お願いがあるんだけど」
「はぁ?」
珍しく殊勝なことを口にする。
「急に何言い出すんだ」
「大したことじゃない」
ぶす、とした顔を隠すこともせず、ようやく上げられたその目は、何故か明後日の方向を向いていた。
「暫くの間、出て行ってくれない?」
放課後に風紀委員室を訪れるのは、いつものことと言えばいつものことだが、毎日というわけでもない。こちらにだって用事があるし、部屋の主も机に張り付いているばかりではなかったからだ。用事がない日に訪れ、扉を開けて誰の姿もなかったら、鍵を閉めて時間潰しにかかるか、そのまま回れ右をして家に帰っていた。委員長以外の姿があれば同じように帰ったし、基本一人でいることが大好きな委員長だけがいれば、やっぱり鍵を閉めて時間を潰していた。黙って雑誌を読んだり、機嫌が悪い家主に追い出されたり、応戦したり、人に言えないようなことになることもあった。
だが、受け入れられつつ、特に何かあったわけでもないのに途中で追い出されるという経験は、今まで一度もなかったことだ。
なんでだよ、何ででもいいだろう、理由ぐらい言え、なんでもいいから、というやり取りの末。
「邪魔なら邪魔でそう言えばいいだろ! 二度と来るか!!」
果てろ、という捨て台詞と雑誌を叩きつけ、出てきてしまった。言葉はともかく、雑誌はひょいと避けられてしまい、余計に腹が立つ。
「ガキか…」
自分の言葉が、どこまでも情けないのは理解している。そんなの、今どき小学生でも口にするかしないか、だ。
しかし、こちらにも引けないものがある。理由もなく追い出されるということに頷きたくはなかったし、ましてそれを大したことじゃないと言われてしまえば、本来尽くすべき主を自宅まで送り届けた後にここまで引き返してきている自分が、とてつもない馬鹿みたいに思えて、情けないと同時に、頭が沸騰しそうなくらい恥ずかしかった。
ああして適当に時間を潰すことには、ちょっとした優越感みたいなものがある。一人が大好きで、他人が側に寄ることを嫌い、動物大好き人間大嫌いの男が、それなりに人間として扱う自分が側にいることに厭わない。ただそれだけなのに、それだけのことが嬉しかった。頻繁に顔を出す理由も、わざわざひき返してまで顔を出すのも、二人だけしかいない空気を味わいたいという思いがあるからだ。
それを、本人も気づいていると思っていた。同じように、そこそこ大切なものだと思っていると、思っていた。
「あーもー馬っ鹿みてぇ…」
そしてそれは、きっと事実だ。
「本当に馬鹿だ」
「うっせぇな、何の用だよ」
真後ろからかけられる声に、わざと不貞腐れ声で返した。
「少しの間だけ出てって言わなかった?」
「さぁな」
「戻ってくるなとは言ってない」
「戻ってこいとも言われてない」
はぁ、とわざとらしいため息が聞こえた。
「全く、どうして君なんだろうと思うよ」
「同感だな」
どうしてこいつなのか、さっぱり分からない。
世には人が何億といて、まだ出会っていない人の数は、出会ってきた人の数よりも多い。とてつもないくらいに、たくさんいる。並盛という町ですら、顔も名前も知らない誰かが数百人といわず暮らしているはずだ。
なのに、よりにもよってどうしてこの男なのか。同性だし、年上だし、偉そうだしわがままだし、いつだって言葉が足りないと思うし、性格だって正反対だ。価値観も違えば、生まれた国すら違う。
違う所だらけで、なのに、こいつでなければ駄目だと、何かが訴えている。
体の深い場所、頭の奥、心の一番強い部分から、他では駄目だと、うるさいくらいに訴える声がする。
「それで、どうするの?」
後ろ髪を引かれる。釣られて顔を上げれば、逆さまに映った表情は穏やかで、黒い瞳が静かにこちらを見据えていた。重力にしたがって落ちてくる黒髪の向こうで、青い空が広がっている。そういえばここは屋上だったと、不意に思い出した。
「そうだな…」
髪を引いた指が、額を撫でる。追うように唇が落ちてきて、耐えきれずに笑ってしまった。
「寒ぃし、戻ってやるよ」
たった数十分前に飛び出した応接室は、当然何の変わりもなく、バラバラに出て行った二人を同時に迎え入れてくれる。投げつけた雑誌は机に戻され、開け放たれた窓の桟には黄色い鳥が止まっていた。うつらうつらと揺れているところを見ると、眠っているらしい。
「あ?」
改めて雑誌を取ろうと机に近づくと、見慣れたものと見慣れないものが置かれているのが目に入った。
「…なんだ、これ」
片方は、風紀委員に配られる腕章だ。臙脂に、風紀、と金の刺繍が施されたそれは、本来つけられているだろう腕ではなく、机の上にぽんと置かれている。その横には、どう見ても糸と針の姿もあって。
思わず振り返れば、どことなくばつが悪そうな顔をして、少しね、と呟いた。
「破れていたものだから、縫おうと思って」
「え、お前が? 縫製とかできんの?」
それは、少し意外だ。てっきり、破れたら取り換えるか、副委員長あたりがでかい体を縮めてちまちまと縫っているのだと思っていたのに。
「修復が難しければ捨てるけど、この程度なら自分で縫ってしまうよ」
「へー、大切にしてんだな」
器用なことだ。こちらときたら、破れたら捨てる、取れたら捨てる、しかできないというのに。
「それを縫う程度の時間だから、僕としては五分十分でよかったんだけれどね。誰かさんが早とちりして出ていくものだから、結局終わってない」
「人のせいにすんなよ」
溜息と、扉のしまる音が同時に室内に響く。音に反応してか、目を覚ましたらしい鳥がばさばさと音を立てて飛び立って行ってしまった。
「…ん?」
改めて椅子に座る委員長は、腕章を横目に、針ではなくペンを取る。
「縫わねぇの?」
「帰ってからにする」
「今しちまえばいいじゃねぇか」
どうせ雑誌を読むつもりでいたのだし、人を追い出してまで縫おうと思っていたくらいに急いでいるのなら、さっさとやってしまえばいいのに。
本心でそう思い、ついマジマジと顔を見れば、やはりどこか居心地悪そうだ。
「…あのね」
「ああ?」
「君を追い出してまで縫おうと思った理由くらい、察してくれてもいいと思うんだけれど」
「はぁ?」
意味が分からず、つい語尾の上がる声を出してしまった。なのに、相手は呆れたとばかりに頬杖をついて、ため息まで吐いている。なんなんだ、いったい。
「……君って、本当に鈍感だよね」
「失礼なこと言うな!!」
翌日、破れ目など分からないくらい綺麗に縫われた腕章を前に、結局縫うならやればよかったのに、どこまでも鈍感だよね、なんだと、本当のことだ、という言い争いが勃発し。
縫う姿を見られるのが嫌だという委員長の主張は、人が大切にしてるもんまで馬鹿にしねぇよという全うな意見の元却下され、以来、応接室改め風紀委員室では、ちまちまと縫物をする委員長姿が見られたとか見られないとか。
腕章争奪戦について。タイトルは見栄っ張り。 ▲