七珍万宝

 アンティーク、という言葉がある。
 日本語に直訳すれば骨董品で、つまりは古いものということだ。骨董品と呼ばれるものの多くは、過去に偉業を残した人々が使っていたものだとか、名のある作り手による作品だとか、数百年以上の時を経ても朽ちることなく原形をとどめているだとか、何かしらのいわれがあるものだ。ただ古いだけならばそれは中古品としか呼ばれず、時代遅れだ、デザインが古い、と悪しく言われて終わる。
 しかし世には、懐古趣味、というものもある。
 つまり古くていいものを愛でるという意味なのだと思うが、その良いものという定義に、骨董品のような金銭という意味での価値は含まれない。ただひたすら古めかしいものをいとおしむという、ただそれだけだ。
 残念ながら今まで生きてきた中で、そんな趣味に目覚めたことは一度もない。古いものでも良いものは良いし、新しいものでも使えないものは使えない。要は、自分にとって易であるか否か。良いと思うか思わないかしかない。
 そしてそれは、使えるか使えないか、ということだけで、品の善し悪しに関わってくる価値観ではなかった。
 はずなのだ、が。

「へぇ、珍しいもんおいてるな」
 ボンゴレからの資料を届ける、という名目で風紀財団を訪れた獄寺は、帰るの大変だし一晩泊まっていくから、と当たり前のように言い放ち、身の回りを整えてやる必要もないほどには入り浸っている屋敷の中を自由に闊歩して、さっさと風呂を終わらせて座敷に入ってきた。そのまま、こちらには視線もくれずに、まっすぐ斜め後ろを眺めている。背には床の間と、それらに飾り付けてある多少の物があるだけで、人はいないが。
「おまえの趣味?」
「…その前に、資料とやらをもらえるかな」
 届けに来たはずの資料を出すこともせず、勝手にさっぱりしてきた当人は、ああ、と荷物から一通の封筒を取り出した。
「少し前に、ちょっと面白い匣を手に入れてな。俺しか使えそうにないからお前にやるわけにはいかねぇけど、まぁ参考程度に」
「君にしか?」
 奇妙な言葉に、興味を惹かれた。匣を開口するための炎は数種類有るが、複数の属性を有している人間は少なくない。かくいう自分もそうだが、残念ながら霧の属性は実践で使えない程度だ。獄寺は、そのいくつもの炎を使い分けることができる、とてつもなく希少な人間でもある。数種類ならばともかく、確認しているだけで獄寺が使えない属性は大空と霧だけだ。一番強く発している嵐の波動以下、四種類の属性もほぼ同格に扱うことができる。匣と同じくらいには、興味深い人物でもあった。
 そういった意味で、獄寺にしか使えない匣、というものが存在しているのならば、それはとても面白い出来事だ。
 引き寄せ取り出した資料には、ばらばらと匣がいくつも写真で載せられている。見た目はどこにでもあるような匣だが、みすぼらしく古い。かなり昔に作られたもののようだ。
「ふうん…」
 匣は、古ければ古いほどに価値が上がる。それは金銭という意味でもあり、稀少という意味でもある。古ければ古いほど過去に作られたものであり、それ故に数が多くない。大量生産できるものではないし、当時の開発者たちに十分な研究施設が用意されていたわけでもない。今はもう、初期に作られた匣など出尽くしていると思われているほどだ。
 だが、資料に載せられた写真からは、おそらく開発当初のものであろう特徴がいくつも見られる。おまけに数個の匣が全く同じデザインで並べられているところを見ると、シリーズとして開発されたものなのかもしれない。それでも、獄寺にしか使えない、という言葉の意味はつかめないが。
「これ… なにしてるの?」
 実物は持ってきているのか、と問うためにあげた視線の先に、姿はなく。視界の端にちらりと映る銀髪を追えば、床の間の前に座り込んだ獄寺は、そこに飾っているものを珍しそうに見ていた。
「これ、使えんの?」
「一応はそのはずだけど、それより」
「なぁ」
 こちらの話など一切聞かずに伸ばされた指が、装飾品を取り上げる。細く華奢なそれは、白い獄寺の指にはよく映える、ように見えた。
「使ってもいいんだよな」
 細く長い、赤い煙管が、弄ばれてくるりと回り。施された金の装飾が、尾を引くように軌跡を描いた。


 見つけたのは、偶然でしかない。
 目的国までの中継地として立ち寄った日本で、次の便が出るまでに多少時間がかかった。ほぼ半日に近い時間を休暇もかねて、ずいぶん久しぶりに並盛へ向かった。
 時代の移り変わりにそって姿を変える町並みは、それでもどこか懐かしく、知らない間に散歩というには長い距離を歩いていた。端から端まで知っているつもりの町だったが、意外にも知らない場所があり、古びたガラスの向こう側に置かれた棚と煙管に目がいったのは、知らないものを少しでも減らそうと無意識に思っていたからなのかもしれない。
 人の出入りを感じさせる、それでいて古めかしい日本家屋を思わせる門構えは、開発と近代化が進む日本にあっては懐かしく、誘われるように門扉をたたいた。
 店内に並ぶものの多くは古く、新しいものは何一つ置かれていない。骨董屋だったのかと、いまさらに思いながら店内を軽く一回りして、件の出窓に飾られた煙管の前に立った。赤い胴と、金色の両端。おそらくは正式な名称があるのだろうが、知っているはずもない。ただその細く長い胴が、妙に目を引く赤をしていて。
 店を出る時には、なぜか地味な色合いの風呂敷包みを抱えていた。
「別にかまわないけれど、使い方なんて知らないよ」
 それ以来、イタリア本部にある私的な屋敷の床の間に飾ってあるが、今日の今日まで使ったことは一度もない。紙で包まれた一般的な煙草ですら口にしたいとは思わないし、まして使い方の分からない煙管で吸おうなどと、思ったこともなかった。
「俺も絵でしか見たことねぇけど、まぁ煙草でいけんじゃね?」
 いったい何がそんなに気になったのか、浮き足だった様子で、自前の煙草を取り出している。分からないが、昔から奇妙なことに興味を持つところがあったからと、気にしないことにした。
「なんでもいいけど、縁側で吸ってよ」
「縁側?」
「においが籠もる」
 それでなくても、ここは地下だ。万全の換気機能を備えてはいるが、それでも完全ににおいが抜けきるのには数日かかるだろう。そんな面倒はごめんだ。
「めんどくせぇな」
 面白くなさそうな獄寺は、それでも煙管を使うことを諦める気はないらしく、煙草と棚と煙管をつかんで縁側へと向かってしまった。そのまま縁側に座り込むと、嬉々として手持ちの煙草をばらして、煙管に取り付けられた小さな穴に詰め込んでいる。時折舌打ちをするのは、葉をこぼしたためだろう。
「よし」
 数分の格闘を経て、ようやくできあがったらしい。簡易の煙管に、酷くご満悦の様子でにやけている。
「スプリンクラーとかねぇだろうな」
「有るけど、その程度じゃ作動しないよ」
「ならいいや」
 頷き、どこに持っていたのかマッチを取り出した。いつもはライターなのにと聞けば、出先でもらってきたものだという。タイミングのいい話だ。
「飲み屋で、名刺代わりにもらっただけだ。仕組んだみたいに言うなっての」
 多少の嫌みを込めた言葉にとがらせた唇を、葉を詰めた側とは逆にある吸い口に寄せた。リンが擦り合わされて火がおこると、短い棒きれが炭に変わってしまう前に、葉に火が移される。
 こちらに背を向けて座る獄寺の後ろ姿に、一つため息を落としてから、手にした紙の束を脇に置いた。一服する、と言い出したら意外に長い。待っているだけ無駄になるだろうし、こちらも一服しようと、脇に寄せていた急須に湯を注いで茶を淹れた。
「うわっ… なんだこれ、すげぇ濃い」
「濃い?」
 一分もしない間に飛び出してきた言葉に顔を上げれば、吸い口を吐き出すようにして放しているところだった。初めて煙草を吸ったみたいに、けほけほ言いながら煙を吐き出している様は、なんとなく不思議に見える。初めて会ったときからすでに煙草を愛用していたから、煙を厭う姿を見たことがなかった。
「あー、フィルターがねぇからだな。直接全部が入ってくるんだ」
「ふうん」
「こりゃ駄目だ。こんなの吸ってたら本気で中毒になる」
「今だって大して変わらないでしょう」
「昔に比べたら本数は減ったっての」
 いろいろと突っ込みどころのある台詞だが、軽く肩を竦めて流すにとどめた。
「煙管だのパイプだの、見かけはいいが実際は使えたモンじゃねぇな」
「なら、戻しておいてよ」
「コレ一回だけ大目に見ろ」
 文句を言いながらも、獄寺は再度煙管を口にする。後ろ姿からはどこに目を向けているのかも何を考えているのかも伺うことはできなかったが、行儀悪く片膝をたてている後ろ姿と、左手に持たれた細長い煙管、立ち上る煙が、その向こうに見える映像の夜空に妙に映えていた。
 室内からの明かりがあるせいで、顔に影が差し、表情は読めない。時折、ほんのわずかに吸い込んで離し、ゆっくりと長く煙を吐き出す。空調の風に乗り、においが鼻先をかすめた。確かに獄寺が愛用している煙草と同じにおいだが、いつもよりもきつく感じる。こんなものを毎日吸っていたのなら、フィルター越しで吸う煙草の、何倍もの速度で中毒が進むだろう。本人にも自覚があるようだし、煙管で吸いたいなどというわがままを聞くのは今回限りだ。
 いっそ鉛でも詰めて塞いでしまおうかと考えながら、未だ縁側に座り庭を眺めている背中から視線を外し、手元の資料に意識を戻した。つらつらと書き連ねられた文字は全てパソコンからのプリントアウトだったが、所々に手書きの文字が追記されている。見覚えのある文字は、獄寺のものだったり、沢田のものだったり、ボンゴレお抱え技師のものだったりで、全く落ち着かない。紙の向こうに、賑やかでうるさいボンゴレ本部の研究所が見えるようだった。
 数枚の紙が束ねられた資料は、一枚一枚に全く違う特徴を示している。動物モデルの匣も含まれるようだが、中にはどう見ても戦闘に使える兵器に見えないものまであった。これが、どうして獄寺にしか使えないのか。もしかして、これだけゴテゴテした装飾品を好むのは獄寺しかいない、という理由なのだろうか。それは、全く笑えない冗談なのだが。
 ヒントが見られない資料を睨んでいると、唐突に、こん、という高い音が響いた。庭先に用意している鹿威しがたてる竹の音とは違う、もっと硬質で高い音に、視線をあげて縁側を見る。
 長い煙管が、棚の中に備え付けられていた筒にたたきつけられ、灰が落ちる。その瞬間が見えて、吸い終えたのだと察した。
「壊さないでよ」
「こうして落とすんだから、簡単に壊れるわけねぇだろ… あー、のどが気持ちわりぃ」
 数度、今度は静かに煙管をたたき、完全に灰を落としてしまってから、獄寺が腰を上げる。乱れた裾を適当にさばいて、くるりと踵を返して畳を踏んだ。
「慣れそうにない?」
「無理だろうな、強すぎる」
「それは良かった」
「おまえはそうだろうよ」
 け、とわざとらしく悪態をつく獄寺が、机においたままの湯飲みを持ち上げて一気に呷る。すでに温くなっているだろう茶だが、あいにくそれは獄寺の為に入れられたものではなく、資料を読みながら飲もうと思っていた、こちらのものだったのだが。
「ま、観賞も悪くねぇけどな。日本製の骨董品が床の間にあるのは、絵になっていい」
「そういえば、パイプの観賞はあまり聞かないな」
「煙管と違って、パイプは使う度に色がついて行くのが受けるんだよ。観賞用のパイプってのは、あったとしても実用には向かねぇんじゃねぇの?」
「穴が開いてないとか?」
「かもな、俺も詳しくないから知らん」
 どさりと隣に腰を下ろして、ポットの湯を急須に注いでいる。どうやら、よほど喉が気持ち悪いらしい。
 やがて湯飲みに満ちた茶を、息を吹きかけて冷まし、口を付ける。まだ熱いだろう茶を、ほんの少しだけ眉間のしわを深くしただけで飲み干してしまった。
「あー、ちょっとはましだな」
「いい教訓だ。それで、気が済んだのならこれの説明をしてほしいんだけれど」
 ばさりと資料が音を立てる。十枚近くに亘る資料は、読んでいるだけでは要領を得ないものだ。だからこそ、説明役として獄寺自身が持ってきたのだろうに、玩具に心奪われているのだから、未だにそれらしい説明も聞いていない。
「説明なぁ… たぶん見た方が早いだろ」
「持ってきたの」
「一応は。おまえの事だから、実物見た方が早かったとか文句言うと思って」
「…否定はしないよ」
 事実、実物を見た方が言葉の説明を受けるよりも早く理解できることもある。
「なら」
「明日でいいよな?」
 浮かせかけた腰を、一気に折られる。思わずしかめっ面で獄寺を見れば、当然のように、もう風呂入ったし、と肩をすくめた。
「汗かきたくねぇし」
「匣を開くだけだろう?」
「いろいろ面倒な手順がある匣なんだよ。まだほとんど分かってない状態なんだ。開け始めたら明日になる」
「逆に興味を惹かれるな」
 今までにない匣の特性だ。とてつもなく、興味深い。
 けれど、当人は全く動く気がないらしく、畳にごろりと横になってしまった。
「冗談じゃねぇよ、もう夜中だろ」
「君が来る時間が遅いのが悪い」
 夜の十時を回ってやってきて、風呂だのなんだのと一通りのことをこなせば、当然十一時を過ぎる。それから一服しているから、もう日付が変わりそうな時間だ。そもそも、もっと早い時間に来ていれば、十分にその時間はあったはず。
「こっちだって毎日暇してるわけじゃねぇんだよ。匣が手に入ってから、今日やっと時間が取れたんだ。文句があるなら今すぐ帰るぞ」
 横になったまま見上げてくる緑色が、険を含む。どう言っても、動く気はないようだ。
「明日は何時まで?」
 仕方なく、上げかけた腰を下ろす。脇に用意したひじ掛けに腕を預ければ、本当に動くことはないと察したのだろう、不貞寝していた獄寺が体を起こしてきた。
「昼には出る」
「なら、朝は早く起きてもらうよ」
「いいけど… お前、朝機嫌悪ぃだろ。さっくり起きるのかよ」
「分からない。嫌なら、夜更かしを選べばいい」
 今からにするか、明日の朝早くにするか。どちらしても、この二つしか選択肢はない。こちらとしては今からでも明日からでも大差はないが、匣のためにわざわざここまで来たという当人がどちらも嫌だというのは、あまりに意味不明だ。どちらかしかないのだから、選ぶしかない。
「……さっさと起きろよ」
「君の起こし方次第だね」
 渋々ながら後者を選んだ獄寺が、返した言葉に眉間のしわを深くする。朝に弱いというより寝ているところを起こされるのが大嫌いだから、多少機嫌が悪いこともあるだろうけれど、選んだ以上は諦めてもらうよりほかない。
 子供のころは、起こしていたのはこちらだった。何かのきっかけで、朝に弱い獄寺を起こすために毎朝電話をするようになって、それは少なくとも数か月の間続いたが、ほどなくして様々な問題や騒動が起きたためにうやむやになり、それきり朝の電話は途切れたままだ。気づけば学校などとうの昔に卒業してしまっているし、今やボンゴレファミリーボスの右腕として名を馳せるようになった獄寺と、日付変更線を跨ぐ生活が当たり前になっているこちらとでは、朝の電話が夜中の電話になりかねない。再開することはなく、おそらくは将来的にも、モーニングコールという意味では電話が鳴ることはないだろう。
 あれから十年近い時間を経て、今は起こされる側だ。不規則とはいえ組織型に染まっている獄寺は、朝起きて夜寝る生活が当たり前だ。イレギュラーで起こされるや時間が下がることはあるだろうが、基本が崩れることはない。しかし、組織など関係なく自分の都合で寝起きを決める生活に慣れると、朝起きて夜寝る場合もあれば、夜に起きることも多々ある。生活サイクルが変わってくるのは当然だろう。今日のように夜の間に寝れる時には良いが、時には寝入りを叩き起こされることもある。なにがあるかわからない以上、寝れる時に可能な限り寝ていたいのに、叩き起こしておいて機嫌よくいろ、というのは無茶な話だ。
「ほんっと面倒くせぇなお前は」
「いまさら言ってもどうしようもないことだ」
「それもそうだけどな」
 失礼なことを言って盛大なため息を吐いた獄寺が、よし、と意を決したように立ちあがる。そのついでとばかりに、人の肩を掴んで立たせようと促してきた。
「早起きに備えてさっさと寝るぞ。たらたら起きてて、挙句機嫌が悪いお前の相手を朝からする気にはならないからな」
 あけすけに言い放ち、早く立てとせかしてくる。遠慮など、そもそも最初からなかったが、よくもここまで包み隠さず文句を言えるものだなと、呆れるよりも感心してしまう。昔から、どちらかといえば遠慮ばかりされていたから、こういう態度をとる唯一と言っていい相手の言動は、十年たっても面白い。
「なんだよ」
「いや… 寝室に誘うにしては、相変わらず色気がないなと思って」
「あってたまるか、そんなもん」
 その気がないのに、と呆れた口調すら、少し面白い。
 少しだけ上昇した機嫌のままに腰を上げて、裾を捌いた。確かに、早起きをするのならば色気のあることをしている暇はない。既に日付は変更しているし、開け放たれた障子から見える縁側の向こうには、暗い闇夜だけが広がっている。
「…ねぇ」
 人工的に作り出された闇夜の手前。室内から洩れる明りに照らされた縁側に、ぽつりと残される影があった。
「なんだよ」
「使ったのなら、元あった場所に戻すくらいしてくれない?」
 顎で示せば、初めて気づいたとばかりに、ああ、とつぶやく。
「そういやそうだったな」
 ひょいひょいと、裾が乱れるのもかまわずに雑に歩く獄寺は、残されたままの棚と煙管を取り上げて、また同じ足取りで元あった床の間に戻しに行った。どうみても、和服を着ている人間がする足取りではない。
「あれ、フィルターか何か付けたらまた違うと思うんだけど」
「どうしても欲しいのなら、自分で探してきなよ」
「持ってきたら、借りてもいいよな?」
 尋ねる、というよりは、もう決定しているような口ぶりに、思わず顔をしかめた。あの匂いがまた充満するのだろうかと思うと、げんなりしてしまう。獄寺の喫煙癖は十年以上のものだから、今更どうしたものでもないと放置しているが、あの濃厚なにおいはたまらない。
「空気清浄機持参ならどうぞ」
「ケチくせぇ」
「匂いがすごいんだよ。だいたい、吸ってる君自身が濃いだのなんだのと文句を…」
 小走りで隣に戻ってきた獄寺が、わずかな距離からこちらを見る。あまり差のない身長のおかげで、目線もなにもかも位置があまり変わらない。
「なんだよ」
 訝る緑色の目を真正面に見ながら、わずかの距離を埋める。触れた目的地は、言葉を発するためにほんの少し開かれていて、侵入することも容易かった。
 不意打ちに及び腰になるのを、ひかれた腰に腕をまわして留める。僅かに濡れた音が口元で漏れれば、緑色が薄く細められ、舌先にはぴりりとした辛みのような苦さが広がった。慣れた苦みではあるが、これもいつもよりかなり濃い。あまり長く味わいたくない味だ。
「あ、のなぁ。時間ないって言ってんだろ」
 軽く触れ合う程度で離れれば、たいして濡れてもいない唇を手の甲で拭う。腰にまわした腕を解いて開放すれば、逃げるように一歩下がった。
「この程度の時間もないほどじゃないだろう。あと、やっぱりあの煙管は今後使用禁止」
「へ? なんでだよ」
「残りがひどい」
 べ、と軽く舌を出せば、一瞬考えるように首をかしげて、次いで気づいたように眉をひそめた。
「…お前の都合じゃねぇか…」
「他の都合なんて知らないよ。とにかく、そういうことだから」
「勿体ねぇ」
「もともと飾りで買ったものだ」
 獄寺が使わなければ、この先も誰が使うこともない。ただの飾りだ。
「そういや、聞きそびれた。めずらしいよな、お前がこんなのに興味示すとか。てっきり、ここ数年は匣と指輪にしか興味ないんだと思ってた」
「…馬鹿にしてる?」
「少しな。だって、お前俺がどれだけいいもんに触れって言ったって、興味ない、で一刀両断だったろ? なんで今更って思う」
「それは…」
 言われればその通りだ。今まで、特に骨董趣味などなかったし、懐古趣味もない。どんなものでも、使えるか使いないかが判断基準であり、それ以外はどうでもいいもので一括されていた。まして、吸いもしない煙管と、専用の台。ただの飾りとしての価値はあるが、それ以外は無用の長物でしかないのに、あの時、どうして目にとまったのか。
 朱塗りの胴に、金色の両端。豪華な目を引く装飾はないのに、その控え目で、なのに濃い赤に、妙に魅せられて仕方なかった。
 これまでの間に、何度か獄寺をはじめとした顔見知りに、アンティークらしい食器や家具などを見せられたし、時には絵画だの音楽だのと薦められてきた。それに振り返りもしなかったは、高いだけで実用性がないものには興味がわかなかったことが一つと、一応は社交の場に出る以上最低限見る目は養った方がいいという、どうでもいい理由が気に入らなかったのが一つだ。
 知っているからこそ、獄寺は訝るのだろう。理解はできるが、こればかりは言葉で説明するのは難しい。
「気に入ったからかな」
 それ以外、どんな理由も当てはまらないからだ。
「気に入ればこんなもんでも買ってくるのか? つか、あれ幾らすんだよ」
「気に入るものに値段も理由もないよ」
「お前の好みもよくわかんねぇなぁ」
 呆れたようなため息に、そうかな、と笑う。
 好みなんてものは千差万別だ。今も骨董品の良し悪しなど理解できないし、する気もない。気に入らないもの、使えないものは範疇外だ。それは、昔から何一つ変わらないし、おそらく未来永劫変わることはない。
「そうだ… なんだよ」
 一歩引いた距離はそのまま、手をのばして頬に触れる。爪先でかすめるようにして通り過ぎて、耳に飾られた小さな石を撫でて、首筋にかかる銀髪に触れた。なじみのある手触りが心地よくて、短めの髪をくるりと指に巻く。一周する間もなく解けてしまう髪が、襟にあたって僅かな音を立てる。
 朱塗りの煙管も、同じ色の台も、確かに気に入っている。鮮やかな朱と、金色の兼ね合いも好みだった。
 実用性のない物には執着もしないと自覚しているから、買ったこと自体が今でも少し不思議で、だから他から見れば余計に物珍しいだろう。
 仕方無い。気に入るものが極端に少ないだけで、全く何にも興味を持たないわけではないのだから。
「……だから」
 言葉なく首筋の髪を引けば、一歩分の距離を持ったままの獄寺が、渋い顔をする。
 時間がないと言ったのに、とぼやくくせに、渋いままの顔がわずかに紅潮していて、煙管よりもずっと薄いその赤は、けれどそれ以上に目を引いて仕方無い色だった。

財団長のお気に入り、という仮題がありました。