目覚まし時計
休日は好きなだけ寝るようにしている。普段夜型の生活をしているだとか、昼間は眠いばかりだとか、そういうことはないのだが、日本に来てからというもの一週間が非常に長く感じられ、そして一日の密度がとても高い気がして、金曜日の夕方から時々ものすごく眠いことがあるからだ。
とはいえ、沢田の家に出向いたり、仕事が入ってきたりと毎週末のんびりしているわけでもない。一か月に一度あるかないか程度の、非常にまれで珍しい、そしてその頻度で溜まっていく己のストレス発散のため、一日家から出ずに気が向いたときだけ出かけるという、怠惰極まりない休日を送るわけだ。
昨日は、ずいぶんと久しぶりにのんびりした。土曜に沢田の家へ行った際、日曜は義姉が一日台所を使うようにしていると沢田の母から聞かされ、その瞬間に日曜日の予定は綺麗に消えたからだ。
土日を通じて騒ぎはなにもなく、仕事も入らず、携帯は一日静か。最近仕事でどうしても導入しなければならなかったパソコンは、経過を知らせるだけのメールが数通。それきり。
誂えたような休日を、これ幸いとばかりに楽しんだ。冷房を効かせた室内で、いつも以上に時間をかけてボムの手入れを行い、新しい攻撃方法も綿密に計算した。買い置きのノートが数冊なくなるくらいに頭を動かしたら、今度は眠気が襲って来て、すべて投げ出して横になる。目が覚めたら、簡単に食事をして、気付けば日が傾く時間になっていた。
こんなにも休日を堪能し、心も体も休ませたのだから、きっと心地よい目覚めだろうと、翌日を期待しながら目を閉じた昨夜。
まさか、翌朝というよりは昼に近い時間に目が覚めるとは、誰より本人が思いもしなかったわけで。
「……まあ、そういうこともあるよな」
携帯電話を目前に漏らした一言は、蒸し暑いほどの室内温度の中で、陽炎のように揺らめいていた。
「それで、遅刻したんだ」
「申し訳ありません…」
昼になって学校に顔を出せば、昼食を取ろうとしていた沢田に苦笑いで迎えられ、一緒に食事をしている山本には大声で笑われることになった。
遅刻に関する説明を二人は黙って聞いていたが、義姉の名前が出てきて、沢田が何か思い当たるように声を上げる。
「ああ、昨日はすごかったよ。俺はリボーンの買い物に連れ出されてたから、帰った後が大変でさ… 所狭しと料理が並べられてるのに食べられるものは一つもないし、母さんは食材が足りないとか言って買い出しに出かけるし、リボーンは帰った瞬間から寝たふりだし、両手に荷物持ってる俺だけが逃げられなくて」
「も、申し訳ありません、あいつが迷惑おかけして…」
途端に暗くなってしまった沢田に、他にどうすることもできず頭を下げる。本来殺し屋であるはずの義姉だが、ベタ惚れしているヒットマンのそばに居たいがために、最近は日本以外の仕事をすべて断っているらしい。その上で沢田家に居候しているのだから、以前ほど簡単に顔を出せなくなってしまった。
「まあそのあと乱入してきたランボが間違って十年後バズーカ撃って、出てきた十年後ランボが全部未来に持って帰っちゃったから、被害は少なかったけどね」
「そうですか」
なら良かった、と思っておこう。義姉に関しては、思考を巡らすだけで気分が悪くなる。
喉元にこみ上げる何かを必死にこらえながら、食事を続ける二人の前に座り込む。場所はお決まりとなった屋上で、昼を過ぎればここに来るのが常だから、教室には寄らずに直行した。給水塔を背にして壁で作った影の中、話の間にも食事を続けていた二人の食事は順当に減っていく。時折吹く生ぬるい風が、それぞれの髪を揺らしていた。
「でもよかったな、半端ない遅刻で」
給水塔の向こうに広がる、真夏と大差ない痛いほどの晴天は、そう言って楽しそうに笑う山本に、いっそ憎らしいほど似合っている。
「あぁ? どういう意味だ馬鹿」
「夏休み明けだったから、午前に抜き打ちでテストがあったんだよな。ほら、休みの課題範囲から出すってやつ」
「そうそう、本当に抜き打ちで、全くできた自信がないんだ…」
「中間テストではなく、ですか?」
「中間テスト前のテストなんだって」
「意味が…」
「ようは、夏休みの宿題をちゃんとやったかどうか、ってこと。それでも、この暑いのに朝から頭なんて回るわけないよ。休みボケもまだ治ってないのに」
「そうですね」
その暑い中、眠りこけていた人間の言葉ではないが、ここは同意しておく。
夏休みが終わり、ほぼ一週間。部活でもしていない限り、夏休みは学校に用事もない。何度か補修があるという沢田につきあったが、それ以外では足を踏み入れることもなかった。それが、一か月と少しの休みを経て、今度は毎日こうして出向いてこなくてはいけなくなる。
それ自体はどの国でも変わらないのだろうが、とにかく日本という国は変わっていた。
朝起きて、定時に学校なり会社なりに着き、昼の休憩を決まった時間とり、かっちりと取り決められた時間の授業を行い、毎日決まった時間に帰る。
こんなにきっちりかっちり時間に縛られて動いているのなんて日本人だけだ、と常から思っている。
「…それが、昼になって登校してきたことの理由?」
昼食休憩も終わり、すっかり人の捌けた屋上は、すこしばかりでてきた雲のおかげで時折影ができるようになっていた。
今更授業に出るのも面倒だし、いちいち教師に話を通すのも億劫だという理由で、教室にはいかなかった。今日は遅刻ではなく、欠席という扱いになるだろう。
授業に出るという二人を見送り、今度は逆になっていく影を追って移動しながらのんびりと本を開いていると、不意に白のページに黒い影が射す。授業も開始され久しい時間に出歩くのは、サボりか、教師か、並盛独自の支配機関かだ。
振り返り見た影は案の定風紀委員長様で、白と黒で構成されたような雲雀は、逆光の中ではその線が余計にはっきりしていた。
一通り武器を交えた後で、ようやく気が済んだらしい暴君が武器を仕舞い、尻餅をつかされた横に座り込んできた。そこで初めて、遅刻をした理由を聞かれた。前触れもなく殴りかかるあたりは雲雀らしいが、もし不慮の事故や、免れようのない災難に巻き込まれた末に学校に出てきた生徒だったらどうするつもりなのか。
「遅刻に違いはないから変わらない」
「ああそうかよ…」
打ち身と打撲と裂傷まみれの体は、軽く動かすだけでも痛みを訴える。どうにか耐えて壁に背を着くと、押されるように息が出た。思ったよりも痛々しげに聞こえたそれに、どことなく居心地の悪い思いがして、ごそりと体を揺らした。
「遅刻が多いと思っていたら、そんな理由だったの?」
「ああ? なんだ、その話か… 別に、そればっかりってわけでもねぇけど」
どうやら、話が続いていたらしい。間に盛大な乱闘を挟んでいたし、武器が出された時点で終わった話だと思っていたのに、当たり前のように続けられて、少し理解が遅れてしまった。
「一応携帯の目ざましは付けてるし、それなりに起きてる。けど、たまの寝坊くらい誰だってあるだろ」
「たま、というほど稀ではないけど。煩い目覚まし時計でも買ったら?」
「っせぇな。だいたい、日本が堅苦しいんだよ。何で時間通りに動いて当然なんだか、意味がわかんねぇ」
「……当然でない意味が分からない」
顔をしかめる雲雀が、おもしろくなさそうにぼやく。
実際、日本のように時間通りに物事が進む国は少ない。列車や飛行機など遅れて当たり前だし、バスが時間通りに来ることなどまずなかった。それが、日本ではたった数分遅れただけで会社総出で平謝りし、一時間に及べば記者会見までしてしまう。頭髪の寂しくなった親父たちが一斉に頭を下げる姿は、なんとも言えない悲壮さがあった。
「学校も時間通りじゃないの」
「さぁ、学校なんか行ってねぇし。聞いた話じゃ大体時間通りらしいが、それでも日本ほどうるさくはねぇよ。多少の遅刻で風紀委員に殴られるなんて話は聞いたこともねぇしな」
軽い嫌味には、ねめつける視線だけが返ってきた。
「のんびりしすぎてリズムが戻らなかっただけだ。休みボケの一種だろ、明日には戻る」
「そう願いたいね」
ふい、とそっぽを向く雲雀が、フェンスの向こうに視線を飛ばした。
白と黒と、僅かな肌色でできている雲雀の横顔は、影の中に居るせいか、先ほどまでのコントラストが嘘のように線が淡く、その向こうに広がる白い雲に溶けていきそうに見えた。
明日には戻る、と言っていた獄寺のリズムは、今日に至るまで戻っていない。
妙なところは堅苦しいくせに、変なところだけ考えのゆるい獄寺の基準はあいまいで、それ以降も遅刻は当たり前のようにしていたし、授業に出ても居眠りばかりだと担任に嫌味を言う教科担当と、それに同意する担任とで愚痴を言い合う場面を、数度だけ見たことがある。こちらの姿を認めた教師たちがそそくさと立ち去ってしまう所為で、全容を聞けたことはなかったが。
それでもテストをさせれば満点以外を取ることのない獄寺を、ほとんどの教師たちは疎んでいた。自分たちの授業など聞かなくてもこれだけできるのだという証拠を、自分たちが採点して獄寺に返している。屈辱が逆恨みになったのだろう。
教師との折り合いも悪く、またそれを全く気にとめない獄寺の生活態度は、立場を生徒からマフィアに変えても、基本は同じだ。ただ、いくらか大人しくなったし、うわべだけの態度を取ることもできるようになった。そのおかげもあって、今ではマフィアトップの右腕などと囃したてられ、それなりの地位に居る。
けれど、残念ながら本当に、彼のリズムは昔のままだ。
「おい」
こん、と短いノックに、後ろを振り返る。
だらしなく首にかけたネクタイに、仕立てのいい黒いスーツ。シャツはグレーで、糊の効いた襟が綺麗な形を保っていた。
「何してんだ、そろそろ…」
ネクタイを襟の内側に通し、結びながら近づいてくる獄寺が、ふと足を止めた。いつも深く皺が寄せられている眉間に、より深い谷が出来る。
マフィアの本拠地、イタリア。
ボスの後継という役目を負った沢田に添い、かつて並盛中に在籍した生徒たちが、今はこぞってこの城の中にいる。中でも心酔に近い獄寺は、自他共に認める右腕という立場まで獲得してしまった。
「何してるもなにも、そもそも君が遅れたんだけれど」
「だから謝っただろ、つか」
不機嫌そうな顔で大股に近づいてくる獄寺が、手にしていたものをひったくる。大きくないそれはあっさりと取り上げられ、獄寺の手で元あった場所に戻された。
「勝手に取るな」
「元は僕のものだ」
「お前がよこした時点で俺のもんだろ」
かん、と僅かばかりの音を立ててサイドボードに戻された、時計。
それは、あの夏の終わり、屋上で会った次の日に何気なく獄寺に渡したものだ。
「朝起きることから始めたら」
そう言って、持ってはいたもののほとんど使ったことのない、朝の六時にタイマー予約された目覚まし時計を渡した。渡された方は、馬鹿にしてんのか、と盛大に怒っていたが、妙なところで生真面目な新しい時計の持ち主は、いまだにこの時計を持っている。
もう、十年近く前の話だというのに。
「よく動いてるよね」
「こんなアナログ時計、電池さえ替えてれば滅多に壊れるもんじゃねぇからな」
「ふうん」
かちかちと、分かりやすい時間の経過を知らせる時計が、正確に秒針を進める。塗装や文字盤に僅かな汚れが見える以外は、目立つ大きな傷はない。随分と大切に扱っているようだった。
けれど、一つだけ気になることがあった。
「これ、時間がおかしくない?」
窓の外は薄暗い。夏も終盤だが、この時期のイタリアは夜の八時を回らないと暗くならないのが常だ。時計を持ち歩く癖がないから体感時間でしかないが、もうすぐその八時がやってくるはず。だというのに、時計の短針は天辺付近を指している。夜中でも、昼間でもありえないのに。
約八時間のズレ。それは、時差だ。
「日本時間になってる」
「…別に、おかしくはねぇだろ。あっちの支部は十代目の管轄だ、俺が出向くこともある」
どことなく気まずそうに、言い訳のような言葉を口にする。
「なるほどね」
狂うことなく合わされた時間。変えられていない午前六時のタイマー。
何もかもが今の生活には不適合だろうに。
「……なんだよ」
「別に」
知らず緩んでしまう口元に、獄寺が不機嫌そうに顔を歪ませる。女好きのする顔立ちに浮かぶ子供じみた表情は、どれだけ立場が立派になろうと、取り繕うのがうまくなろうと、獄寺の中身が変わっていないことを見せつけてくる。
「それより、早く行こうぜ。本当に遅れる」
「だからそれは」
「分かった分かった、俺が悪かったから、早くしろよ。お前の奢りなんだろ、キャンセル扱いになったら勿体ねぇ」
ふい、と体を翻した獄寺が、出入り口に向かって歩いて行く。一瞬だけ見えた、赤い宝石の飾られた耳が宝石と同じくらい赤かったが、ここは見ないふりをしているのが得策だろう。
今日は、沢田が予約をしていたというホテルレストランで食事をするのが目的だ。予約者本人は急用で行けず、その護衛として他の面子が駆り出された所為で、浮いた予約と、空いた獄寺の予定を埋めるために呼ばれた、らしい。獄寺の誕生日を祝うのが目的の予約だったらしく、なら支払いはこちらでいいとは言ったが、時間を指定した獄寺が盛大な寝坊をした所為で、城を出る予定の時間がずれ込んでしまっていたのだ。予約時間までにはまだ間はあるが、その寝坊の理由が、十年前と全く同じだというのだから呆れる。
「おい、雲雀」
「はいはい」
急かす声に、一度小さくため息をついてから、後を追う。
扉が閉められ無人となった部屋で、アナログ時計の短針がかちりと動いた。
ちゃんと祝った! 獄寺君おめでとう!! ▲