燕は戻らない

 豪華絢爛という言葉が相応しい夜。老若男女が入り乱れる広大なホールには優美な音楽が流れ、さざめき合うような話声がそれらに混じっていた。
 ボンゴレがトップを務める同盟では、年に何度かこうした親睦会のようなものを開催している。親睦会といえば聞こえはいいが、ただの顔見せ、さらに言えば同盟内で腹の探り合いを行う場だ。多くのマフィアを取りまとめる同盟トップとはいえ、隅から隅までを管理するにはかなりの労力と人材が必要になる。各ファミリー間で不穏な動きがないか、それらを表面に出ないように探り合うのだが、お互い理解しつつ笑っているのがまたマフィアらしい。
 自嘲的な笑いを噛み殺していると、賑やかなホール内でもひときわ大きな声が上がる。目を向ければ、少女といってもいいような年の女性が、照れたように父親らしい恰幅のいい男性の後ろに隠れていた。その前に立つ優男風の青年が、さわやかな笑みを浮かべて少女に花を差し出している。どうやら、場に慣れない少女を気障な小芝居に引き出そうとしているらしい。
 花を受け取りほほ笑む少女はマフィアの懇親会には不似合いだが、こういった場は社交の意味も強く、年若い娘や後継ぎとなる息子を連れていたりと、少女と年の変わらない若年層もちらほらと見かけた。
 そして、そういう場に同席する以上、同盟トップファミリーの年若い幹部たちが話題に挙げられてしまうのも、また必然で。
「今日だけで何度聞かれたか…」
「あー、俺十回は聞かれた」
「沢田はもっと聞かれているのではないか?」
「だろうなぁ。さっきからツナのところに女の子鈴なりだしな」
 いつもなら軽口を叩く同僚たちに喝を入れるところだが、今だけはそんな気にもなれない。山本の言葉に振り返れば、着飾った少女たちが沢田を取り囲んでいて、鈴のような声を響かせていた。困った様子も見せず、にこやかに相手をしている沢田だが、おそらく内心はこちらに助けを求めているだろう。彼は昔から、女性相手が苦手だ。
「凄いな、ここまで声が聞こえる」
「まあこんなものだろう、女というのは良くも悪くも強いものだ」
 笹川が悟ったような物言いで笑い、さて、と気合いを入れる。
「何も沢田だけではあるまい、お前たちも十分気を付けることだ」
 軽く手を挙げると、笹川が愛想笑いをふりまきながら人々の波の中へ消えて行った。すぐ力で訴えるところのあったボクシング部時代からは考えられないほど、笹川も大人しく振る舞えるようになり、いくつかの支部も任されている。おまけに守護者内唯一の彼女持ちで、漂うのは余裕の空気だ。
「先輩にはかなわないなー」
「いやあれはまた違うだろ… 公言はしてないんだから」
 笹川の彼女に関しては、守護者の知るところではあるが他のファミリーには知られていない、はずだ。あくまで一般人であるかつての同級生を、笹川は上手に隠しながら付き合っている。彼女の身を案じてだが、そうなれば当然、周囲の認識は山本や自分に対するそれと何も変わらない。
 独身成年男性が話題に上がり、その場に年頃の女性がいる。わかりやすい縁談だ。
 年若いボンゴレ十代目はいまだ独身で、他に後継者候補が居らず白羽の矢が立ったとあって、当然彼直系の血筋がその跡を継いでいくことなる。同盟トップを務めるボスがいまだ独身で女の影もなく、その子供はやがてその地位を引き継ぐとなれば、目の色を変えるのは女よりもその親だ。親族ともなれば、同盟内で幅を利かせることができる。そういった打算があってこの場に居るものは少なくないし、今現在沢田の周りを取り囲んでいる女性は、自主的か親の意向かはそれぞれで差があるのだろうが、目的は全員一緒のはずだ。
 おまけに、沢田自身のルックスも年を重ねるごとにより精悍さが増し、資料や遠い昔に残像の欠片として見た初代ボンゴレの姿によく似てきた。それでいて母譲りの柔らかな印象は、蝶よ花よと持て囃されつつも躾けられ育った彼女たちにはとても魅力的らしい。
 だが沢田はどれだけ美しい女性にも可憐な少女にも靡かず、相手に非がないよう穏やかに断ってしまう。これは同盟内でも有名な話で、それでもとめげずにアタックしていくのだから女は本当に強い。
 それで話が終われば、沢田を労わって話は終わる。けれど縁談は飛び火し、ボスだけでなくその側近たちにも話が舞い込むから厄介だ。幸いなのは、ボスが未婚の態度を貫く以上自分たちも同じ言い訳ができること。沢田の袖振りは本音だろうけれど、そうしながら部下までまとめて守ってくれているようなものだ。
 ボスを始め、年若く何かと目立つ存在である幹部が、揃いも揃って女気がない。
 だが笹川や山本は、実戦や海外支部を飛び回っていて頻繁に顔を見せているわけではないせいか、近寄りがたいと思われている節もあった。
 そうなると、明確に相手がいるわけでもなく、ボスの居る場所には必ず顔を出す完全な仕事人間である右腕が、その候補として一番目立つ、らしい。
「俺や先輩に比べて断然に多いもんな、獄寺」
「全く嬉しくねぇな」
 周囲にボスの右腕だと認められること自体は光栄だし、誇らしいと思うのだが、そういった方面で認められても嬉しくない。
 年も年で、立場も立場。質が違うとはいえ、問われる内容は沢田のそれと大差ない。女関係をそれとなく探られるわけだが、あいにくとそんな暇は一切なかった。仕事一辺倒と言われればその通りではあるが、今のところやりたいことと仕事が一致しているから、生活も充実している。むしろ、女だ結婚だなんて話題は、邪魔なものだ。
「実際それでハクが付くならいいと思うけどな」
「まあな」
 そういう考え方もあるのだと、納得出来ている。事実、右腕と認められているという証なのだと、そう思えるようになってからは気楽なものだ。ボスの幸せを見るまでは、などという台詞を信じ、女たちは身を引いて行く。沢田を理由に使うのは心苦しいが、双方のプライドが傷つかない、最善の断り方だ。
「あ」
 面白くもない話題に互いの口数が減ったころ、ふと山本が声を漏らした。
 何かと顔を上げれば、そこには派手ではなく上品な、それでいて豪勢な深紅のドレスに身を包む妙齢の女性が一人、立っていた。
「お呼びだろ」
 どこか同情が含まれているような声で山本が耳打ちした。
 分かっている、と声に出さず手をあげて、その傍を離れる。
「お久しぶりです」
 顔の配置が狂ってしまいそうな気分を味わいながら、愛想のいい右腕、の表情を浮かべる。それににこりと笑い挨拶を返す女性が、当たり前のように手を差し出した。赤いドレスに合わせたらしい、白いレースの手袋がはめられた手を取って、ざわつく人々の輪の中にエスコートしていく。
 つまらない縁談交じりの社交界も、繰り返していればそれなりに親しい相手も出来てくる。今手を取る女性も、最初に紹介された時はあるマフィアボスの妻という話で、だが彼女の夫はそれから一年後の抗争で不運にもこの世を去った。残された彼女は、家督は長男が継ぐことを夫は望んでいたと発言し、これにより彼女の息子が新たなボスとなる。そうなった場合の彼女の立場は、弱いものかと思えばそうでもない。イタリア男は女に弱く、母にも弱い。彼女の息子はそれが顕著で、だからこそ継いでからは自分でどうにかしろと突き放してきたらしいが、今でも何かがあると母親のもとに転がり込んでくるのだそうだ。
「マザコンってやつだな」
 頭のどこかで、山本の声が蘇る。その通りだ。
 そして、いわくマザコンのボスは沢田と同じく独身で、定期的に行われる同盟の社交場へ妻となる女性を物色、もといボスの妻にふさわしい女性との出会いを望んで出席している。ただ、先代の逝去という形で席を継いだのであれば、後見である別ファミリーのボスや先代ボスの右腕といった立場の者を連れてくることが多いのだが、同席者が隠居を公表している母親であるところを見るに、彼に伴侶ができる日は遠いかもしれない。
 これらはすべて彼女から聞き、付き合いのある各ファミリーの幹部たちから聞いた話だ。相違は少なく、彼女が息子の親離れを望んでいるのは本音で、けれど突き放しきれないというのも本心らしい。そうでなければ、同行を頼まれても毅然と断るだろう。
 そんな身の上話を、ひとりで飲んでいるところに声をかけたら聞かされ、以来気に入られたらしく、同じ場に居るとよく声をかけてくるようになった。別に不満があるわけではないが、ろくでもない噂を流されかねないと、山本や笹川が警戒している人物でもある。山本が同情まじりの声で見送った理由はそれだ。
 けれど、と白いナプキンを添えてグラスを傾ける彼女を見て、声に出さず思う。
 うっすらと白いものが混じり始めた髪を不自然ではない形でまとめ、白い胸元には大きめの宝石。指輪もピアスもすべて、ドレスを引きたてる色だ。メインだろうドレスの赤も落ち着いた色合いで、ゆったりとしたデザインはスタイルをよくも悪くも見せない。身なりは綺麗で、出で立ちとしては控え目。若くは見えるが、年相応とも言えるだろう。事実、彼女の長男はボスを継いだ時すでに四十を越していて、彼女はさらに上となる。外見はともかく、母親どころか祖母の年代では恋愛対象としてはむずかしい。
 そんなことはお互いに重々承知している。向こうも、何か見返りを要求しているわけでもない。ただ、話しているのが楽しい、というのが彼女の言い分だ。山本や笹川は、それは当人たちだけの意見だ、と渋い顔をするし、ああして同情に満ちた視線を向けてくるが、今のところ彼女の相手が嫌だと思ったことはなかった。
 誰に対しても同じ。結局は、右腕としての仮面をかぶることに変わりない。話題が堅苦しい仕事や興味のない縁談ではないだけ、彼女との世間話は苦痛ではなかった。
 他愛もない話にころころと笑う未亡人が、ふと笑いを止めてどこかに視線を向けた。その先をたどれば、相変わらず娘たちに囲まれている沢田が、笑いながら彼女たちの相手をしている。
「気になりますか?」
 さりげなく聞けば、淡く青い目が見上げてくる。それはあなたでしょう、とルージュの引かれた唇が弧を描く。
「気にならないといえば嘘になります、ボスの動向は常に把握していますから」
 返事に、彼女がつまらないわね、と口元を押さえた。
 どうも、年若い娘に囲まれていることの方は気にならないのか、ということらしい。
「まだまだ若輩者です、仕事に追われる日々ですから、そんな私では女性に申し訳ない」
 つまらないのはそちらの意見だ、と思いつつ適当に流した。
 女性優先の国で、女性を貶めるような口の利き方は、特に年嵩の増した連中は好まない。そういった点は未亡人も同じで、けれど今までは女関係などというものに口出ししてくることはなかったのに、今日に限ってつるつるとよく口が滑るようだった。見れば、手に持たれているグラスが先ほどと違う。随分と酒が進んでいるらしい。
 何かいいことでもあったのかと問えば、ふふ、と少女のように笑う。当たりだったのか、すいと青い目がまたどこかに向けられた。
 その先では、彼女の息子が一人の女性相手に随分と盛り上がってるようだった。にこにこと笑って話を聞いている女性には見覚えがあり、別ファミリーの幹部の娘だったと記憶している。どうやら、彼のお気に入りらしい。未亡人もまんざらでもなさそうで、自分の同伴も必要なくなるだろうと実に上機嫌だ。酒が進み、今までになく女関係を詮索してきた理由はそれかと、ため息をつきたくなった。
 こちらとしても、別にしたくて相手をしていたわけじゃない。ゲストが一人でいれば、ホストとしては気を遣う。苦痛ではなかったが、どうでもいいようなことにまで探りを入れられるとなると、やはり鬱陶しかった。
 近く彼女専用のエスコート役もお役御免となるだろう。なによりだ。
 絢爛豪華な社交の場。音楽と笑いとさざめき、そしてアルコールに満ちたフロアは遅くまで賑やかで、そこにある思惑も猜疑も下心も、すべてを飲み込んでいた。


 それから少しして、未亡人の息子、つまり某マフィアのボスである彼が、例の彼女に正式な交際を申し込んだとのうわさがまことしやかに流れてきた。その頃には社交の場に未亡人は姿を見せなくなり、山本たち同僚の懸念もなくなって、場はいつもの空気を取り戻し始めていて。
「良かったな」
「だから別にどうでもいいっつってんだろ」
 余程疑っていたのかといいたくなるような山本に台詞にかみつけば、いやいや、と何故か沢田が声を上げる。
「実際、ちょっとなりかけてたみたいだよ、噂」
「十代目まで何を」
「俺も最近気づいたんだけどさ、女の人の噂ってちょっとえげつないからね」
「えげつないって…」
「よく見てるんだよ。獄寺君のことも、まあ、言ってくる人はいたからね。だけど俺は獄寺君を信用してるし、そんなことはないって分かってるけど、あの場にいた全員が俺と同じとは限らないから」
 少し苦いものを含む笑いに、ようやく察した。意図しない場所で、未亡人とは随分と噂されていたようだ。
「自分より年上の息子がいる未亡人ですよ? 俺にだってもうすこし選ぶ権利というものが」
「まあ… なんていうかな、それが恋愛感情とは限らないじゃない?」
「立場や金目当てということですか? 正直に言いますが、あちらとボンゴレなら格ははるかにこちらが上です。それに俺は十代目のお傍を離れる気は」
「ああ、うん、分かってるよ。だからこそ、君があちらを取り込もうとしているんじゃないのかとか、そういう話もあったってだけだよ」
「必要ないですね。うちはうちで十分です」
 彼女の夫は優秀な人物で、それなりに人望もあった。先々代からの付き合いだと聞いているし、長く親交のあるファミリーだが、先代の人柄までもが息子に引き継がれたかというと、そこまで物事はうまく運ばない。彼が跡を継いで以降、ファミリーとしての業績は徐々に下向いている。これは、女性たちの噂ではなく、幹部たちから聞いた噂だが。
「…あんまり好きじゃなかった?」
 ばっさりと切り離す台詞が意外だったのか、執務机に向かう沢田が見上げてくる。昔の面影を残す大きな目がさらに見開かれていて、そんなに驚くことだろうかと思ってしまう。
「楽しいわけではなかったですよ、女は得意ではありませんし。それでも仕事と思えば相手もできましたが、ここ最近は子息の動向で浮かれていたのでしょうね。口が軽くなっていたので、正直苦痛でした」
 脳裏に赤いドレスが蘇って、喉には苦いものがこみ上げる。
 あの夜、浮かれ気分で酒が進んだらしい未亡人は、本当に口が軽かった。おそらくは奥深くにしまいこんでいたのだろう、本音まで漏らし始めるほどに。
「そ、そう…」
 態度が硬化したことに気づくのか、沢田がそっと目をそらした。隣に立つ山本がなだめるように肩を叩いてきて、ふ、とこちらも肩の力を抜く。
「そういうわけで、まったく周囲の意に従えず申し訳ありませんが、誓って何もありませんでしたよ」
「もちろん俺もそう思うけれど、そうはいってられないのが周囲なんだと思うよ」
「十代目」
「確かに口さがない噂ばかりで、俺もその都度否定してきたけど、ああいうのは噂していること自体が楽しくて、正否なんて求めてないんだよ。俺が否定しても聞かないし、もちろん本人の意思なんてまったく無視して、誰それが見たから間違いないなんて現実味の薄いことを言ってくる。最後に結果を知って、なーんだ、っていうのが楽しいだけなんだよね」
「あんまりいい話じゃないな」
 眉を顰めた山本の言葉に、そうだね、と沢田が同意する。
「本人の意思を無視して回っていくのが噂だって、思い知ったよ。山本も獄寺君も、今回のことは別にしてよく覚えておいて」
「ああ」
「はい」
 様々なことを聞かされてきたのか、そう忠告する沢田の顔は真剣だった。
 噂なんてそんなものだし、所詮は真実に届くことはなく、そのまま立ち消えていくものだと思っていた。だから未亡人にしてもさほど気にしていなかったのだが、そんなにもあからさまな噂がながされていたとなると、今後特定の人物と一緒いるのは避けたほうがいいのかもしれない。
 返事を受けて、話は終わりだと仕事を再開した沢田だが、数枚の書類を処理した手をぴたりと止める。代わりとばかりに執務机の端に置かれている電話に伸ばし、誰かにかけるのかと思いきや、指が受話器に届くと同時に高らかな鈴の音が鳴り響いた。着信だ。
「はい」
 迷わず取った沢田は、緊張した顔立ちをすぐに緩める。最初こそイタリア語だったが、繋ぐようにという指示の後は日本語に切り替わっていた。
「はい、わかりました」
 少しの間やり取りをして受話器を置いた沢田が、ペンも置いて顔を上げる。
「来客だよ」
「誰だ?」
 山本の質問に、考えるように一瞬止まると、なぜかちらりとこちらを見た。その窺うような色に、誰なのか瞬時に悟る。知られたとわかったのだろう、当人も明らかに目が泳いでいた。
「跳ね馬ですね」
「当たり。さすが獄寺君」
「十代目がそういう目をなさるときは大体跳ね馬です。またサボリに来たんですね」
「そう言わないでよ、俺の息抜きを考えてくれてるんだから。それに、仕事が先だよ」
 毎度の言い訳を口にしながらも、明らかに浮足立った様子で沢田が机の上を片付け始める。こうなってしまっては、もう何があっても仕事はしないだろう。ディーノは確かに弟分のことをよく考えてくれているし、同じボスという立ち位置にいる彼らにしかわからないタイミングで声をかけてくれるから、こちらとしても文句をつけつつも助かっている。
「仕方ありませんね、では今日はここまでにしましょう」
「やった」
 あからさまに喜ぶボスが、書類をまとめて机の端に置く。
「明日に繰り下げますから、明日は頑張ってください。終わるまで寝れないと思ってくださって結構ですから」
 続けた言葉に、書類の上に文鎮を置く手が止まった。豪奢な彫が入ったガラス製の文鎮が、重たそうな音を立てて書類の上に落ちる。
「ご、獄寺くん…」
「かなり容赦なくなってきたな、お前」
「容赦してばかりだと先に進まねぇだろうが。それともお前が代わりにやるか?」
「いやぁ、ここはボスとしてツナに頑張ってもらわねぇと」
 あっさりと手のひらをかえした山本が、ディーノを迎えに行ってくると言い残してさっさと部屋を出て行ってしまった。残された沢田は青くなったまま、文鎮を改めて置きなおしている。
「それで、跳ね馬は何を?」
「あ、ああ。今度キャバッローネが新しい傘下を増やすらしいんだ。それで、今度の会合で話題に上がるだろうから事前に話しておきたいって」
「なるほど」
「俺の許可はいらないんだよね」
「そうですね。あくまでキャバッローネの問題ですから」
 日本の一般家庭で育ち、長くマフィアという世界に馴染みのなかった沢田には、いまだにマフィア間での決まりのようなものが理解しづらいらしい。幼いころからこの世界しかなかった自分やディーノと違って、確認しなければならないことが多く、不安なことはよく聞いてきた。
 一つ一つと確認を終わらせ、文鎮が載せられていた書類を一時的に預かり、封筒にいれたところで扉が叩かれた。
「入れ」
 沢田が椅子に座ったのを確認して、扉の向こうに声をかける。すぐに扉が開いて、ノブに手をかけている山本の向こう側からディーノがひょっこりと顔を出した。
「よお、ツナ。元気にしてるか?」
「ええ、もちろん」
 お決まりのあいさつを交わす二人が、すぐに笑い合う。付き合いが十年にも及ぶと、こういったことすら遊びの一つになるらしい。
 すぐに愛想を崩したディーノは、それでも優雅な足取りのまま歩き、机に近づいてきた。控えていた机の脇から一歩引き、道をあける。どういっても相手は同盟第二位のボス、人目はなくても最低限の敬意は払うべき相手だ。
「ああ、獄寺。悪いけど、これ出してくれるか」
 そのまま下がろうとしたが、ディーノに止められ手にしていた紙箱を渡された。白い箱にはリボンが掛けられ、隙間からはふんわりと甘いにおいが漂っている。土産らしい。
「分かった」
「頼んだぜ、ブラックのコーヒーと一緒にな」
 さらなる注文を聞いて頷き、部屋の片隅に用意してある給湯室に足を向けた。箱の中には質素な白いクリームの乗ったケーキが五つ、きれいに収まっている。なぜか扉の前から動かない山本を入れても、室内には四人しかいない。数日前から海外支部へ出かけている笹川がいると思っていたのか。
 沢田とディーノ、二人分の飲み物と菓子をトレイに乗せ、執務机から応接テーブルに移っている二人の前に出した。
「そういえば獄寺、お前… あ、あれ? 日本語でなんて言うんだっけ」
「何の話だ」
 首を傾げるディーノの前にカップを置くと、顔を見て思い出したとばかりに手をたたく。
「思い出した、ツバメだ」
「はあ?」
 妙なことを言い出した年上の男は、意味がわからないこちらを置き去りにして、一人悦にいった様子で納得している。その前では、沢田が口にしたコーヒーを盛大に噴き出していた。
「ツバメがなんだって?」
「いや、そういう噂を」
「ディーノさん! お話というのは何でしょうか!?」
 ガタガタと間に挟んだテーブルを揺らす勢いで、なぜか沢田が割り込んでくる。その勢いに押され思わず首を引けば、同じように押された様子のディーノに向き合いながらも、沢田が手を振って退出を促してきた。
 どうしてこの場面で退出を言い渡されるのか理解できないが、すでに仕事の話をし始めた両者の間に割り込むことはできず、頭に疑問符ばかりを浮かべたまま部屋から出ざるを得なかった。
 書類の入った封筒だけを手に扉に向かうと、なぜかずっとそこにいた山本が、奇妙な顔をして扉の前に立っている。観音開きの扉は、爪先が入りそうな隙間が開いていた。
「…てめぇまで何してんだ」
「あ、いや。その、なんつーか、あれだな。いやってほど思い知ったな」
「あぁ? 意味わかんねぇ」
 先ほどの発言を言っているのだろうが、まったく意味がわからない。日本独特の言い回しなのだろうと、その程度の予想はできるが、沢田の態度と山本の言動から、どうせいい意味ではないのだろう。
「お察しの通りで。まあ、意味は聞いてくれ」
「聞く? 誰に…」
 抑えていた扉を、わざとらしく恭しげに開いた。背中を押され廊下に出されると、すぐに扉が閉められそうになる。
「あっ、てめ」
「じゃあな獄寺。あとはお願いしますよ、先輩」
 止める暇もなく、さらに理解しがたい言葉を残して、山本が扉を閉めた。無情にもぴったりと合わさった観音開きの扉は、内部の声を少しもこぼさない。
「一体なんだってんだ全員し」
 て、を口に出す前に、背後に人の気配を感じて振り返る。
 観音開きの扉は重厚で、人の声も足音も通さず、銃弾でも爆弾でも通しはしない特別製だ。当然、人の気配も分かりにくく、そんなものが分かるのは超直感が備わる歴代当主だけで。
 閉められた両開きの扉、開かれなかった方の扉を背にして立っているのは、山本の言葉通り、かつての先輩だった。
「雲雀」
 見慣れた黒づくめの姿は、けれどどことなく不機嫌だ。もともと、何がスイッチで機嫌が悪くなるか分かりづらいし、いまだ間違えて踏み抜いてしまうことがある。
 が、今ばかりは何も心当たりがないのに。
「…お前、いつのまに」
「跳ね馬に連れてこられた」
「ああ? 何だ、一緒に来てたのか」
「連れてこられた、んだよ。偶然道端で」
「とんでもねぇ偶然だな」
 天文学的な数字になりそうな偶然だ。
「用事があって、出かけている途中だったんだ。似たような場所に用事があったんだろう」
「へぇ。それで誘拐されたのか」
「ボンゴレに行くから乗れと言われただけだ。用事もあったから」
「用事?」
「新しい匣が手に入ったから、近いうちに実験がしたい」
 まっすぐに向けられる視線には、不機嫌な色は見られない。仕事のことになると、とたんに眼の色が変わる。
 雲雀の有する風紀財団は匣の研究が主で、けれどその性質から、誰でもその研究に参加できるわけではない。多種多様な匣が財団には流れ着くが、そのすべてを開口できる人間は財団内にはおらず、こうして出張依頼が来ていた。
「次の休み… あ、いや、今からでいいなら」
 都合良く、いましがた暇を出されたところだ。ディーノが来て、仕事の書類を受け取った以上、おそらく沢田はこの後仕事をしない。ディーノの相手も仕事の一環ではあるから、しない、と断言するのもおかしいのだが、半分は遊びのようなものだ。多少本部から席を外しても、沢田に山本、ディーノまでいれば問題はないだろう。
「構わないよ」
「なら報告してくるから、待っててくれ」
 頷く雲雀を廊下に残して、今出てきたばかりの扉をたたく。視界の端で、雲雀が携帯電話を取り出しているのが見えて、あの腹心に連絡するのだろう検討をつけながら、すでに何かで盛り上がっている室内に足を踏み入れた。


 案の定、電話の相手は草壁だったらしく、財団の本部に顔を出せば何もかもが準備されている状態だった。
「ご協力ありがとうございました」
 大量の炎に耐えられるよう設計された、広いホールのような実験室から出れば、一番に件の腹心が迎えてくれた。
 こうして財団に協力を乞われるのは初めてではないし、協力することがめぐりめぐってボンゴレのためになる。実際、そういった依頼があるからといえば、沢田は外出の許可を容易に出してくれた。雲雀さんにはお世話になってるから、と二つ返事だ。
 今日も事前にディーノから話が出ていたらしく、雲雀さんが来てるんでしょう、から始まり怒涛のように言葉を続けて、明日には戻るようにという言葉と共に送り出された。が、明らかにほっとした顔をしていたから、今日はもう本当に仕事をしないだろう。明日は倍ほどの仕事をしてもらうしかない。
「いいデータがとれるといいな」
「そう願いたいです」
 預かっていた匣を返せば、受け取りながらも草壁の表情は硬い。匣の研究は一進一退だ、何で進むか、戻るかはやってみなければわからない。
「それにしても、雨とは意外でした」
「ああ、匣か?」
 表情を変えた草壁が、手にした匣を丁寧に胸元にしまいながら苦笑いを漏らす。
 いくつか差し出された匣は、数個は偽物で、数個は本物だった。最後に開口した匣から転がり出てきた兎のような動物は、小さな声をあげると同時にわずかな雨をもたらした。大した量の炎ではなかったせいか、水溜りを作ることもなく力をなくしたそれは、どこかの猫のように次の炎をねだるでもなく、静かに匣へと戻って行った。
 面白いことに匣兵器にはそれぞれ性格があって、戦いの場に向かない匣も多数ある。どうやらその部類だろうことは察しがついていたが、研究という点ではあまり関係ないらしい。
「恭さんで開きませんでしたから、雲でも霧でもないことは分かっていたのですが」
「なんだ、賭けでもしてたのか?」
 意地悪く聞けば、ぴくりと口元の草が跳ねる。図星らしい。
「お前でもそんなことするんだな」
「賭けていたわけではありませんよ、ただ予想していただけです」
「なるほどな」
 どことなく必死になっているのが面白くて、笑ってしまった。
「なら今度からは、どの属性かお前に聞くか。それで試して開かなきゃ外れだ」
「そんな」
「その程度の遊びはあってもいいだろ」
「あまりいじめないでください」
 ますます場がないような顔をする草壁が、ふと表情を改める。上司のお出ましだ。
 頑丈な作りの扉が、自動で閉まる。ホール内に姿を現した雲雀は、けれどこちらに近寄ってくることはなく、少し遠い場所で足を止めた。
「よう」
「楽しそうなところ悪いけれど、そろそろ引き揚げるよ」
 距離を置いた場所から、軽い嫌味を交えた台詞が投げらる。どうにも、ボンゴレを出るころから雲雀の機嫌が悪い。普段なら嫌味を言うなと返すところだが、竹藪をつついて痛い目を見たくはなかった。
「はいはい。それで、協力しただけのもんはくれるんだろうな」
「食事と一晩の宿くらいなら」
「そりゃ豪勢だな」
 最終的にデータは必ずくれるのだから食事は手間賃感覚だが、ここまで出向き匣をいくつか開けただけなら、その程度で十分だ。
「では、用意してまいります」
 頭を下げ、草壁が踵を返す。その背が扉近くに立つ雲雀の前で止まり、匣を渡している。説明でも受けているのか、一分も話さないうちに匣は再び草壁の胸元に戻っていった。
 スーツの内ポケットに消える匣を視線で追いながら、ふと思い出した。匣の属性は雨、ボンゴレ十代目守護者の中で雨の属性をもつのは山本で、愛用の匣には犬と一羽の鳥が潜んでいる。
「なあ、ツバメってなんだ?」
「はい?」
 黒とも濃紺ともとれるしなやかな体の曲線、顔に走る鮮やかな色。それらを思い出しながら近づけば、草壁だけが振り返った。その向こうで、雲雀が心底嫌そうな顔をしている。
「ツバメって、日本では別の意味があるのか?」
「鳥以外、という意味ですか? 商売繁盛や縁起物、雨を呼ぶとも言われていますが、後は…」
 律義で真面目な草壁が、少し考え込む。次に顔をあげた時には、どこか困った表情を浮かべていた。
「あまりいい意味ではありませんが、壮年の女性が若い男性を囲うことを言いますね。若いツバメを連れて歩く、なんて」
「は?」
「こちらでパトロンというと経済的な支援者という意味ですが、日本では生活全般を世話し親密な関係であることを言います。まあ、そういった意味ですね」
 遠回しに、分かりづらい説明をした草壁が、頭を下げてホールを出ていく。
 つまり、経済的に余裕のあるそれなりの年齢の女性が、金を出し生活の面倒をみる年若い恋人、ということか。
「……それって、いわゆるヒモってやつじゃ…」
「俗な言葉だ」
 ふん、と不服そうな鼻息が聞こえた。相変わらず不機嫌そうな雲雀は、けれど否定をしない。本当に日本ではそういう意味があるのか。
 心当たりがないわけじゃない。どう考えてもあの未亡人のことで、沢田に注意され山本に同情された、あの忌々しい噂。
「冗談じゃねぇ」
 そもそも、生活の面倒などみてもらわなくても十分自活できているし、同盟の運営上あちらの収益も大まかには掌握しているが、ボンゴレの総資産には遠く及ばない。その中のどれだけを彼女が自由にできていたのかまでは知らないが、たとえば半分だとしても魅力的な額ではなかったし、そこまで金に執着していない。人に養ってもらおうなんて考えは持っていないし、そんな生活まっぴらごめんだ。
 何より、あの未亡人はすでに許せない人物の一人になっている。
「あのババアは十代目を見下してた。そんな奴に囲われるなんて、考えただけで寒気がする」
 知らぬ間にかみしめていた奥歯が、ぎり、と嫌な音を立てた。
「沢田を?」
 僅かに首をかしげる雲雀が、先を促す。思い出すのも腹立たしいが、忘れようにも忘れられない言葉が頭に残っていた。
 あの夜、ずいぶんと気分が盛り上がっていたのだろう。未亡人はいつもより口が軽く、普段なら思ってはいても口に出すことのなかっただろう心情を簡単に漏らしていた。亡くした夫のこと、後継ぎとなった息子のこと、そのさらに後を継ぐだろうまだ見ぬ孫のことまで、ずいぶんと長い人生計画を語った後には、こちらの人生にまで口出ししてきた。耳にたこが出来るほど聞いてきたつまらない質問には、決まりきった言葉を返すだけだったが、そのあとで彼女の口に上った言葉は今思い出してもはらわたが煮えるようだ。
「私は彼女たちと違ってあなたの方がいいわ。権力や富に申し分はないし、性格もルックスも魅力的。けれど男には物理的な包容力も必要なの、女は包まれている安心と優しさで初めて幸せを感じるのだから。たくましさのない男は駄目、彼では役不足ね」
 着飾った年若い娘たちを見ながら壮年の女が漏らした一言一句を忘れるには、気が遠くなるような時間が必要に思えた。それほどまでに腹が立っている。
 沢田が比較的小柄であることは事実だが、それとボスを皮肉られるのは話が別だ。
 巨大なファミリーを指揮し、数多くの同盟を束ねる、そのトップに立つ沢田にとって、体つきが小柄であることなんて些細なことだ。本人は、門外顧問でもある父になぜ体型だけが似なかったのかと不満を漏らすが、現在、こうして大小問題を抱えつつも物事が順調に進んでいるのは、何より沢田がボスとして采配を振るっているからに違いない。
 己もその傘下で恩恵を受ける身でありながら、トップと仰ぐはずのボスを見下すような口をきく。そんな戯言を気持ちよく話を聞ける部下など居はしない。多少の冗談なら聞き流すこともできるし、付き合うこともできるが、尊敬する人物を役不足といわれて笑うような人間ではありたくなかった。
 その後、態度が硬化したことを感じたのか、それとも口を滑らせたと自覚したのか。未亡人はその日を限りに近づいてこなくなり、息子でもある新米ボスの噂が流れるころには公式の場に姿を見せなくなっていた。だからこそ、いまだにそんな噂が継続されていることは不快だったし、揶揄されるようなことになるとは思いもしていなかったのに。
「それでツバメ、ね」
「お前も聞いたのか、噂」
「さっき、山本武が扉を開けたまま聞かせたから」
「ああ…」
 そういえばあの時、山本はかたくなに扉の前から動かなかった。普段ならどんな話だと我先に顔を出してくるのに、今日に限ってずいぶんおとなしいとは思っていたが。
「どうしてかは知らないけれど」
「てめぇの口で説明するのが嫌だったんだろ、そういう馬鹿だ」
 少人数とはいえ、人が集まっているところに顔を出したがらない雲雀が、あの状況で部屋に入るとは思えない。閉めるかどうするか迷っているうちにディーノが話題を出し、どうしようもなくて開けたままで直接聞かせた。そんなところだろう。後になって説明を求められても面倒だと、つまり何もかもこちらに押しつけたわけだ。
「根も葉もない噂だ、それに尾ひれがついただけで」
「噂なんてそんなものだ。もう行くよ、ここに居ても仕方ない」
 呆れた様子の雲雀が、踵を返してホールを出ていく。そのまま歩き始める背中を追えば、無機質でコンクリートによく似た素材の研究棟から、主に雲雀が過ごすためのプライベートエリアへと場所が変わり、次に雲雀が足を止めたのは更衣室代わりの一室だった。二十畳ほどの畳部屋には立派な桐の箪笥が二棹と、背の高い衝立とハンガー、そして畳まれたままの着物が置かれた小振りのちゃぶ台がある。
「いい教訓になったんじゃない?」
「何がだよ」
 ここまでの間、一言もしゃべらなかった雲雀が、スーツに手をかけながら肩越しに振り返る。
「君が思うほどに周囲は君を見ていないわけじゃないって」
「は? ああ、噂のことか… そりゃあ、そうなんだろうけどな。まさか一挙手一投足チェックされて、そのうえで事実と違う噂が広がるとか思わねぇだろ」
 彼女のことにしても、社交場以外であったことなど一度もない。その場であって、話して、別れる。ごく当たり前の、仕事としての付き合いしかしていないと思っていたし、事実そうだった。
 それが、ここまで話が広がるだなんて、想像もしていなかった。
「それだけ注目されているということだろう。実際、ボンゴレとその幹部の話はどこに行っても聞く」
「そうなのか?」
「ヨーロッパなら確実に。海外になると、流石にゴシップは聞かなくなるけれど」
 黒いスーツのジャケットが肩から滑り、腕が抜かれる。小豆色のシャツから黒いネクタイが引き抜かれて、ジャケットとともにハンガーへと掛けられた。
 ゴシップと言えば、ゴシップだ。どれだけ悪事を働かないマフィアだとしても、同盟の関係もあって名は広く知られている。社交場の暇を持て余した金持ちには格好の餌だ。
「気分悪ぃ」
「しばらくは破局を噂されるだろうけれど、関わらなければそのうち消える。放っておけば」
「ったりまえだ。つか、破局っていうな。最初からなんにもねぇ」
「知ってるよ」
 僅かに笑っているような声が、向けられたままの背中から聞こえた。
 鈍い赤色をしたシャツの背は、子どもの時分から見れば随分広くなったが、やはりどこか華奢な印象を残す。体格としては、沢田ほどではないが雲雀も細身に分類されるだろう。頼りなくはないが、たくましいともいえない。
 同じようにジャケットとネクタイを外し、こちらは適当に投げ出してから、そろりとその背に近づく。気が付いているだろうに、雲雀は動きもせずに立ったままだ。
「なぁ」
「何」
「こっち来い」
 腕を掴んで、引く。振り返った雲雀は何か言いたそうにしていたが、無視して腕を引いてちゃぶ台へ近づいた。
「ちょっと、行儀悪い」
 そのまま台に登れば、途端に説教が飛んでくる。が、これも無視して腕を放して向き直った。高さにして約三十センチ。いつもよりもかなり高い位置にある視界は珍しく、斜め下に見える黒髪のつむじが新鮮だ。
 もとからあまり身長差はなく、年を経た今もあまり大きな差はない。成人男性としては華奢かもしれないが、鍛えている分、弱い印象もなかった。それは少しだけ高い位置から見ても同じで、細いけれどしっかりとしている肩幅は確かに男のものだ。
「…何してるの」
 見上げてくる目が、行動の意味を掴みかねてか、不審そうに細められる。
「いや、どう思うかなって」
「行儀が悪いとしか思わないけど」
「お前自分がする分には行儀もなにもねぇくせに、俺がするとうるせぇよな」
「僕はいい」
 お決まりの台詞で切り捨ててきた雲雀の目は、不審から不機嫌に変わっている。何も聞かされていなかったらそう思うかもしれないが、事前に説明していては意味がない。
「ちょっと試したくてな」
「だから、何を」
 むっとしたように顔をしかめる様子を見ながら、細い肩に手を回す。頭一つ分の差がある今では、そうすると頭を抱えるような体勢になった。胸元にある黒髪は、ぴくりとも動かずにじっとしている。
「こっちならどうだ?」
「…どう、と言われても。何がしたいの」
 胸元から、ぼそりと声が聞こえる。困惑したような様子が伝わってきて、それでもなぜか不機嫌さは減っているように感じた。
「いや、その例のばあさんが。女ってのは体格差のある男にこうされると安心するって言ってたから、そういうものかと」
 体格を指摘されるのは、男として面白くない。触れられたくない部分の一つだ。沢田がしきりに体格を気にしている理由は、そこにもあるだろう。
 あの未亡人は、女にとって体格差は重要だ、と言っていた。体格差があることで包まれていると安心し、幸せを感じると。
「僕を女だと思っていたのならずいぶんと長い誤解だったね」
「いやさすがに女だとは思ってねぇよ」
 かなり無理のある説だ。おそらく、親の次くらいには雲雀が男だと知っている。
「そうか、やっぱりお前じゃわかんねぇか」
 こればかりは仕方ない。疑問として残ることになるが、そのうち顔見知りの女性にでも聞いてみるしかないだろう。
 回していた腕を解いて、台から飛び降りる。たかだか三十センチの高さは、飛び降りるというほどの高さでもないのに、胸元にあった雲雀の黒髪が目線の高さに戻っていて、なんだか不思議な感じがする。
「…女にしてみれば答えてくれるんじゃない?」
「冗談。したくねぇからお前で試したんだろ」
「だからって男で試すのも違うと思うけど」
「一応のモニタリングだろ、気にするな」
 真後ろから飛んでくる文句にひらりと手を振って、シャツに手をかける。もう慣れたが、首元までボタンを止めるのは窮屈で好きじゃない。一つボタンをはずすだけで、解放されたような気になった。
 留めるもののなくなったシャツを腕から引き抜き、ぽいと投げだす。後で草壁に頼んでクリーニングしてもらおう、などと考えながらベルトのバックルに指をかけた。
「あ? なんだ?」
 ベルトを引き抜くと同時に、後ろから肩に何かが掛けられる。見れば、用意されていた着物の片方だ。黒地に透かしのはいった丁寧な織物だが、軽くて肌触りがいい。
「珍しいな、お前が着替えに手を出すの」
 黒い布地の向こうに立つ雲雀は、そうかな、と惚けながら腕を通すように促してくる。
「いつも自分だけ着替えてさっさと行っちまうだろ」
 広げられた袖に腕を通す。心地いい肌触りを確かめながら胸元を合わせて、裾を調整していると、脇から腕がはえてきた。小豆色のシャツに包まれた腕はそのまま体をとらえ、きゅうっと締め付けてくる。
「…なんなんだお前」
 後ろから抱き締められるになんて、そう珍しいことでもない。けれど、着替えもそこそこにそんなことをされるのは珍しい。色気のある雰囲気でもないというのに、何が言いたいのか。
「一応のモニタリング」
「あ?」
「君ならどう思うの、これ」
 そう言われてようやく、自分が持ち出した話題だと気付いた。
 けれど、雲雀は何かの台に乗っているわけではないから、身長差がある、という点をクリアしていない。中学時代には多少雲雀のほうが高かったが、それも数センチの差で、今でもそれはあまり変わっていないのだから、まったくモニタリングにはならない。
 意味がない、と言いかけたが、やめた。つついても仕方のない部分で、それよりも考えた方が有意義だろう。
 改めて見てみれば、後ろから回る腕がくるりと抱き込んできていて、腕は上げられない。きつく拘束するのではなく、腹のあたりで指が組まれていて、振りほどくのも簡単にできるだろう。
 体が密着して、背中がほのかに温かい。あの未亡人が言うような、安心感、というのはよくわからないが、温くて眠くはなってくる。
「…まあ、悪くはないか」
 曖昧な返事を、そう、と笑う。
「解決したようでよかった」
「解決とはいわねぇだろ」
「そう? 君が思ったのなら、それが答えだと思うけれどね」
 体をゆるく拘束していた腕が離れる。肩越しに振り返れば、中途半端に着替えをしていた雲雀が、こちらに背を向けて着替えを再開させていた。
 あっさりと投げ出されて、それはそれでどことなく心もとない。常に快適であるよう調整された気温は快適で、心もとなく思う理由は何もないにも拘わらず思ってしまうのは、思いのほか心地よかったからだ。それが、安心しているといわれれば、幸せだというのなら、そうなのかもしれない。
 だが、それを口に出して言うことはない。妄執を振り切るように視線を戻して、いい加減に着ていた着物の襟を合わせた。置かれていた帯を締め、着ていた洋服を投げ出す。
「それに、これ以上考え込んでも仕方ないんじゃない? 君が、その未亡人の巣に戻る気があるのなら別だけど」
「…本当に嫌な言い方するなお前は…」
 そう言われてしまえば、もう返す言葉がない。戻るも何も、ここ数カ月の間気を配っていた事実さえ消し去りたいし、いまだにうるさく飛び回っているのだろう噂を一つ一つ否定して回りたいくらい不愉快なのに、気にかけているなんて思われるのも嫌だ。
「なら解決でいい、覚えているだけ損だよ。それより、食事に行こう。哲が呼びに来てしまう」
 お互いに背中合わせのまま着替えていて表情は見えないが、声からは不機嫌さが消えていた。
 こんなことは、これからいくらでもある。彼女は特別ではなかった、それに代わりはないが、これから先同じような立場の人間を相手にしなければいけないこともあるだろう。
 今回のような失敗はしない。絶対に。
 そして今を限りに、彼女のことは思い出さない。何もかも、終わった話だ。
「行こうか」
 きゅ、と切れのいい音を立てて帯を締めた雲雀が、入ってきた襖と対極の位置にある障子を引く。その向こうには作り物とは思えないほど立派な空があり、縁側と、丁寧に手入れされた日本庭園が広がっている。
 雨の気配などなく、燕も飛ばない。どこか遠くで、黄色い鳥が懐かしい歌を囀るだけ。
 見慣れた景色に、ようやく安堵の息が吐ける、そんな気がした。

雲雀さん誕生日のつもりでしたが全く祝っていない。