「ぴったりだ」

 ある日の街角でそれを手に取ったのは、偶然でしかない。
 特に珍しいものではなかったし、それまでもたびたび見かけていた。見慣れた形の道具と、見慣れた色合い。その日目にしたものも、それらと大差はなく。
 ただあるとすれば、その中心に、鮮やかな緑が差されていたことだった。


 軽く体が揺すられる。どこか遠くから名を呼ぶ声が聞こえた気がして、重たい瞼をこじ開けた。
 眼前に広がるのは、一面の白。波打つように皺を寄せたそれらが、ばさりと音を立てて捲られる。起きろ、と声を掛けられたが、それでも体を起こす気にはならなかった。
「お前なー… なんで、起こすまで起きないんだよ」
 呆れた声が耳に入り、ぴくり、と片耳だけを動かす。
「…朝?」
「そうだよ。いぎたないのは知ってたけど、春からマジでひどいぞ」
 床の軋む音がして、側にいた気配が離れていくのを察し、のっそりと寝台の上に体を起こした。中途半端にはがされた寝具が、肩にまとまっている。どうやら、体の上にかけていたものを頭ら被って寝ていたらしい。道理で、目の前が真っ白だったはずだ。
 寝台のすぐ横にある窓からは、眩しいほど朝の光が差している。季節はあれど、気温の変化に乏しい祇沙では、夏とはいえこの程度しか他の季節と変わりない。この光を、寝ぼけながらも厭うていたのかと、なんとなく思った。
 かん、という音が響く。窓の外では、すでに部下たちの稽古が始まっているようだった。
「…今日は、どうだっけ」
「昼からだ」
 そっけない言葉が返ってきて、窓に向けていた視線を室内に戻す。
 明るい場所から暗い場所へ急に移した所為で、一瞬視界がぼやける。目を閉じ、軽く瞼を擦ってから開ければ、多少薄暗くはあるものの、どこに何があるのか分かる程度に回復していた。
 頼りない視界の中で、ひときわきらきらと光を放つ尾が、ふらりと振られる。何気なくその動きを追っていると、尾の持ち主が、怪訝な声を発した。
「なにしてんだよ。昼まで、そう間はねぇんだぞ。さっさと朝飯済ませちまえ」
「…うん」
 部屋の中には、甘酸っぱいにおいが立ち込めている。机のそばで仁王立ちしている猫が、かつて母猫に教わったという飲み物を作る時には、いつもこんな匂いが部屋に充満していた。果実水をわずかに暖め、蜜を落としただけの簡素な飲み物ではあるが、一度気に入ってしまえば、それは酒などよりもよほどうまいもののように思う。
 寝台から足をおろして机に向かうと、そこには既に深い器に入れられた果実水と、平たい器に盛られた木の実や果実が用意されている。さほど食事を必要としないリビカが摂るだろう、最低限にして十分な食事だ。
「日に日にひどくなっていくな。春先までは、てめぇで起きてたってのに」
 ぶつくさと何かを漏らしている猫を横目に、椅子に腰を下ろす。器を手に取り舌を落とせば、ぬるい果実水が喉を潤していった。


 半年ほど前、一匹の猫が閉鎖された村に加わった。
 賛牙という、歌の力をもつ希少なその猫を、村の猫たちは歓迎していた。彼の立場が、村長のつがい、という賛牙以上に類まれな存在だったからだ。
 賛牙と闘牙の組み合わせを、つがい、と呼ぶ。歌をうたい闘牙に力を授ける賛牙は、うたう間はひどく無防備になる。その間、闘牙に全てを託していると言ってもいい。闘牙と賛牙の力は結びつきは、信頼や絆といったもので出来ているというのは、だからなのだろう。両者の間柄を、つがい、と呼ぶのも頷けると、最近になってようやく思い始めた。
 様々な出来事があった。けれど、どれもこれもが、過ぎてしまえば昔のことだ。
 既に村の一員として立場を確かなものにした賛牙は、立派にこの名もない村の猫になっている。村長のつがいなどという立場からではなく、確かに村の猫だと、そう認められて。いつでも毛が逆立つような緊張感を孕んでいたというのに、今ではもう、村猫たちに混じって剣の稽古や、時には雑談を繰り広げていることもある。その程度には、馴染んでいるように見えた。
 そうして、徐々に馴染んでいく様子に引きずられるように、眠っても眠っても足りなくなっていった。
 以前から睡眠は浅かったし、わずかな物音でも目が覚めるようなことが多々あった。リビカは気配に敏感だというが、さすがに寝ている間のことまでは関知できない。だからなのか、深く眠ることができず、いつでも意識だけが周囲に向いていた。それは、つがいがこの村に来て以降も変わらなかったのに。
「私は、よい傾向だと思っていますが」
 そう言って笑う部下を思い出す。
「長はこれまで、気を張っていらしたのでしょう。私たちでは力になれませんでしたし… ああ、決して自虐しているわけではないんです。仕方のないことだと思っていますから。それに今は、あの方がいてゆっくり眠れるのでしょう?」
「まあ、それなりに」
 今までが、ゆっくり寝ていなかったわけではないと思っていた分、そう言われても実感はない。だが、少なくとも同じ部屋の中で誰かが動いているのに目を覚まさないということは、これまでに一度もなかったことだ。
「ならば、よいことではないですか。ぐっすり休まれた方がいい。起きないということは、体がまだ眠りたがっているいうことですよ」
「…僕はそれで構わないけれど」
「私からも伝えておきましょう。長から言われても、納得されませんよ、あの方は」
 確かに、どう説明したところで、言い訳だとしか捉えないだろう。妙なところで頑固で、意固地だ。
「良く似ていらっしゃいますが」
「あまり嬉しくない」
 子供のころから共にいる部下にぼやくと、軽く笑われてしまった。
 体が眠りたがっている。確かにそうなんだろう。以前ならば、数時間眠れば体の疲れはそれなりに取れた。ただ長く眠気が続くだけで、部屋に入るなりコートを脱ぐこともせずに眠り込むようなことは滅多になかったのに、最近ではそれが当たり前になっている。そして、朝が来ても目が覚めず、毎朝起こされているわけだ。
「そりゃあな、俺だって眠れるだけ眠ればいいと思うけど、そういうわけにもいかねぇだろ」
 器に満たされていた果実水が半分ほど減って、まだ欠伸を漏らしていると、つがいが不満そうな声を上げた。妥協しているのを見る限り、テツからなにかしらの話が伝わったのだろう。以前なら、言葉通り叩き起こされていたというのに、今朝の起こし方はあれでも穏やかな方だった。
「俺だけで行ってどうにもなるもんでもねぇし」
「僕らは最低限でいいんだ、そんなに詰めなくても構わない」
「けど」
 口籠るつがいが、肩を落とした。
「言いたいことはわかるけれどね」
 この村は閉鎖されている。それは森に囲まれているだとか、誰も訪れない場所にあるだとか、そう言ったことではなく、もっと現実的な意味でだ。
 村の周りを、ぐるりと呪術師の結界が巡っている。それがある限り、よほどの力を持つものでなければ結界は壊せないし、侵せない。許可されたものでなければ出入りすることも、見ることすら叶わない村だ。その中に暮らす村猫たちは、当然、理由があってそんな生活をしている。
 追われているのだ。それも、意味の分からない勝手な理由で。
 だからこそ、こうして隠れながら暮らしているわけだが、隠れていることに安堵して暮らしているわけでもない。どうせいつか追いつかれる相手ならばこちらから追いかけようと、藍閃周辺の森を警備しながら、追跡者の捜索もしている。祭りの時期に情報収集の手を増やすのは、警備上の面もあるが、この探索に余剰を割く名目が立つという方が大きい。
 つい最近その事実を知ったつがいは、こんな風に時々、そのことを口にする。
 森に出ている間に周囲を気にする様子が強くなり、結界に囲まれた村に入ると深く息を吐く。緊張していることが多くなった、とでもいうのか。
「そう焦ることはないよ。僕らが焦る理由はどこにもない、あちらにはあってもね」
 追われているのはこちらだ。それは、すでにもう何年も前の話になるというのに、一向に収まる気配がない。ここ数年は、あちら側も多少の対策を立てているらしく、かなり慎重に動いているようだが、全く姿を見せなくなったわけではなかった。ただ、このつがいが村に来てからは、まだ姿を見せていないが。
 冬の大祭前から、春の大祭が終わって少し。夏の始めとなると、もうすぐ半年だ。これほど長く姿を見せないのは珍しい。恐らく、そう遠くないうちにまた出てくるだろう。
 そう漏らしてしまったのは、つい先日のことだ。だから余計に、力が入るのだろうと思う。
 だが、警戒していれば出てくる、と言った類のことでもない。こちらとてただ待っているだけではないのだし、始終ピリピリしていたのでは、神経の方が先にまいってしまう。
「…そうだな」
 納得したのか、無理やり飲み込んだのか。そう呟くつがいの背には、力がない。
 随分大柄な性格をしているとばかり思っていたが、意外に繊細なところもある。傅く部下たちの中で育ち、外との交流がなかった所為で、つがいのこういった反応は物珍しかった。
「…ん?」
 すっかり丸められてしまった背の上。いつもは銀の耳と同じ色をした髪がふわふわと漂っているのに、今日は藁を纏めたようにぴんぴんと跳ねて括られていた。
「なに、それ」
「は?」
 空になってしまった器を机に戻し、眉をよせて振り返った銀猫に、自分の頭をさしてみせる。それでも首を傾げるつがいに、髪、と返した。
「髪?」
「あついの?」
「あぁ? ああ、これか」
 単語の掛け合いに、ようやく分かった、と眉間に寄せた皺を解いた。解いた、というより、薄くなった、程度だが。
「暑いのもあるけど、鬱陶しい。最近伸びてきてたから」
 指先で髪を弾く。ぴょん、とはねる様子が少しだけ面白かった。
 夏でも冬でも、祇沙には大幅な気温変化はない。それでも、冬に雪が降るように、夏は熱気が籠る。体には目に見えないほど細かい体毛があるせいで、服の下は意外と暑かった。警備隊がそろって着ているコートも、夏の間はできるだけ着たくないというのが本音だ。それでも朝方は涼しいし、陽の月が沈んでしまえば過ごしやすい。こうして、温かい果実水を飲んでも、全く不快ではなかった。
「切らなくていいの?」
「この時期に切ると逆に暑い、まとめて括ってる方が涼しいんだよ」
「へえ」
 括られた髪は、解いたってせいぜい肩に届くか届かないかくらいだ。それでも、首筋にまとわりつけば暑いだろう。伸ばしてみたことがないから分からないが。
「ずいぶんと不格好だ」
 ぴんぴんと、銀の髪が自由に跳ねまわっている。括り紐など常備していないから、自分で適当に用意したのだろうけれど、それにしたってもう少しまともにくくれないものだろうか。
「うるせーな、いいんだよ」
「不器用だよね」
 共に暮らすようになって半年。朝食代わりの果実水は用意するが、そもそも食事など必要がないことも手伝い、料理などというものは互いに縁遠かった。食べるものは木の実でもかまわないし、時々気が向いたら小動物を捕らえてくる。藍閃まで出向けば、いつでも食べ物が露天に並んでいるし、つまりはそういった機会もないまま今日まで過ごしてきた。
 果実水は、ただ温めるだけだ。彼の手先が器用かどうかは分からなかったが、この髪を見る限り、どうも不器用そうだ。
「ほっとけ」
「出来ればそうしたいところだけれど、これから出かけるならそれはあんまりだ」
 憮然と言い放つつがいが、返した言葉に不愉快そうに鼻を鳴らす。
「ならどーしろってんだよ」
「括り直してあげる」
 座ったままの椅子から立ち上がり、隣で立ち尽くしていたつがいの肩に手をかける。戦うことを主にした闘牙ではなく、歌をうたい後方に控えることが多い賛牙の薄い肩は、あっけにとられていたか、少し力を込めるだけであっさりと椅子に落ちた。
「は? おい」
 戸惑うような声には何も返さず、適当に括られた括り紐を解いた。軽い音を立てて落ちる髪は、やはり毛先が肩に触れるほど伸びている。
 この村の猫たちは、たいてい黒かそれに近い髪をしていた。耳や尾の毛で、毛並み、と区別をつけるから、黒猫でなくとも黒髪はどの街にもごろごろといる。耳や尾と髪が同じ色という猫も少なくないが、目の前に流れる銀糸のような色は、滅多にない。
 不格好な痕がついてしまった髪を軽く撫でる。髪など皆同じだと思っていたが、この銀糸は不思議だ。頻繁な水浴びのおかげかくすんでいないし、陽の月を受ければ眩しいほどに、陰の月を受ければ怪しく光った。きらきらと、まるで何かのかけらが落ちてきたような光を初めて見た時は、少し驚いた。
 つるりと指先を髪が滑って、ふと思いだした。
 そうだ、あれがある。
「ヒバリ?」
 急に手を止め、コートのそばに放り投げていた小さな袋をいじりだすと、それを横目に見た銀猫が首をかしげる。
 普段から持ち歩いている、最低限の治療道具や薬草が入った腰袋には、あの日、それとなく目にとまったものがそのまま入っていた。指先に硬い感触が触れ、拾い上げて掌に収める。
「なんだよ」
「いいから」
 それを手の中に隠したまま、体勢を戻した。訝るように向けられる緑色の視線を無視し、改めて髪に触れた。
 さすがに櫛なんてものはない。村に雌がいないわけではないが、極端に数が少なく戦闘に向かないこともあり、警備隊の仕事にかかわるようなことは何一つしていない連中だ。外に出ていった者たちのために、木の実の世話や洗濯など、そう言った雑務を受け持っている。警備に出ていく猫たちとは、顔を合わせることは少ない。中には、テツのように抜け目のない奴もいて、それなりに土産だなんだと渡しているようだが。
 仕方なく、伸びた髪に手櫛を通した。引っ掛かることもなく、するするとほどけていく髪をひとまとめにし、首筋や、耳の付近からも髪を集めた。
「器用だな」
 見てもいないはずの手元から声がする。
「君が雑なだけだよ」
 笑って返して、掌を開いた。
 そこには、丸い筒のようなものが転がっている。白というより乳白色の筒で、一部分が外れるようになっている。小さな蝶番がかけられ、外れた部分が落ちてしまわないようになっている。
 かちん、と小さな音を立てて、輪を崩す。括り紐を三週させた程度の厚みしかない筒で銀の髪をつつみ、同じ音を立てて外した輪を元に戻した。
「ああ、ぴったりだ」
 深く考えてした買い物ではなかった。
 森の中を警備すると言っても、全く街まで出向かないわけでもない。気配を極力抑えれば、たとえ黒猫であっても振り返られることはないし、声をかけられることもない。すれ違う猫たちは一様に無関心で、だから藍閃の街は嫌いではなかった。頻繁とは言わないが、出向くことはある。
 似たような店が立ち並ぶ大通り。食べ物や飲み物、裏通りに近い店では怪しげな商品も取り扱う中、目に止まったのは小さな髪止めだった。
 白に似た乳白色は、祇沙の中でも海岸沿いにある村でよくみられる珊瑚細工だ。いくつもの村で採取、加工をしているが、その中でも一級品として扱われるのは、元領主が幼い時間を過ごした菫青という村から出るものだといわれている。それは、領主ゆかりの地だからという理由ではなく、純粋に細工が丁寧で、その緻密さが好まれているからだ。細工が見事であれば、その分値段が上がる。おまけに、金銭という感覚は藍閃を中心とした周囲の村でしか通じず、都市部から離れれば離れるだけ金は価値を無くす。菫青も、その細工ものの収入だけで十分にやっていけているという話で、さほど数も出回らない。よほどの収入がないと手に入れられない、贅沢品だ。
 だが、手にしたものは菫青産らしいのに、その細工はさほど丁寧ではない。金額もそう高くなく、店主が言うにはまだ修行中の細工師によるもので、他の物に混ぜて展示しているに過ぎないのだそうだ。誰かの目にとまり、手に取られれば展示の数を増やしていく。そういう仕組みをこの店ではとっていると。
 稚拙な細工は、恐らくは小動物と思われる何かを象ったものらしい。その中央に、ぽつん、と緑色が配置されている。色をつけたのではなく、小さな石をはめ込んでいた。さほど価値があるというわけでもない、色のついた石だ。髪留めの値段を上げるものではない。
 試作品だし安くするよ、と笑う老猫に、言われるがままの金額を払った。同じ店先にある、どの珊瑚細工より安い、掌に収まる程度の髪留め。
 似合うだろう、と思った。
 乳白色の控え目な色合いは、陽の月と陰の月で表情を変える銀を引きたて、決して邪魔をしない。小さな緑も、目の色と合っている。
 きっと、とてもよく映えるだろうと。
「…俺に?」
 指先で髪留めに触れる。その仕草は、まるで壊れものに触れるかのようだった。
「僕は括れるほど長くない」
「けどこれ、珊瑚じゃないのか?」
「よくわかるね、触っただけで」
「馬鹿にすんな、そのくれぇわかる。いや、そうじゃなくて、高いだろう?」
「そうでもないよ。聞けば驚くくらいに安いから、言わないけど」
 本当に、珊瑚細工としては破格に安かった。ただ、細工の具合で売れ残っていただけで。
「…いいのか? もらって」
「どうぞ」
 あふ、と欠伸がこみ上げてくる。どうも、まだ眠いらしい。
 目の前にある淡い乳白色と小さな緑色が、室内の薄暗い中でも銀色を引きたてている。自分の見立てが間違っていなかっただけで、なんだか満足してしまった。
「ハヤト?」
 その銀色が、軽く揺れている。見れば、肩がかすかに震えていた。細く長い銀色の尾は落ち着きなく左右に振られていて、声をかければ体も尾も硬直してしまった。
「っ、あ、いや… あ…」
 慌てたように顔をあげるが、後ろを振り返ることはなく、言いかけた言葉さえ呑みこんで俯いてしまう。
「あ?」
「あ、や、も、もらっとく」
 促しても、顔が上がることはなく。
 ただ、髪を括ることで晒された首筋が、なぜか赤かった。
「…うん」
 銀猫が村に加わって半年。既に何年もの間変化のなかった村が、少しづつ変わり始めている。
 そして、その最たるは自分なのだろうと思う。
 テツに言われるまでもなく、分かっている。同じ部屋の中に居ても構わないと思う相手がいて、同じ寝台に眠ることができて、店先で似合いそうなものを見繕ったり、戦いの場では背を預ける。そんなことを誰かに許すなど、許すことができる相手ができるなど、誰よりも一番自分が思っていなかったことだ。
 既にない親にも、幼いころから共にいた誰にも感じなかったその感情がどういった名前なのか、それは知らない。ただ、心地いいものだとは思う。うるさいとも、面倒だとも思うのに、手放す気など起きないほどに、心地よく、気持ちいい。

 黙り込んで俯いてしまったつがいの項に、引き寄せられるように舌を落とす。ざり、という僅かな音が、昼に近い部屋ではとても小さく聞こえた。
 飛び上がるようにして椅子から転げ落ち、倍以上に膨らませた尾で床を叩きながら何をすると喚くつがいの顔は、見たこともないくらい真っ赤で。
 ああ、ますます手放しがたくなってしまうと、ひとり笑った。

猫でおめでとう。初めて明るい気がする…