「君の番だ」9

 目が覚めた時、最初に思ったのは、見えない、ということだった。
 どうにも視界に霞がかっている。うすぼんやりとした白っぽい視界で、夕べは森で野宿でもしたのだったかと、寝ぼけた頭で真面目に考え込んだ。朝霧のかかった森の中はこんな風景だし、においもそれとなく似ている。藍閃の周りは迷いの森と言われるほどに木々が生い茂っていて、子猫のころから遊びに出ていた記憶は少ない。それでも、時折森の中に出かけた時は、見たことのない不思議さに心ときめいていた。仕事をするようになり、賛牙の教育係として出かけていく森に、楽しい思い出はなかったが。
 目が覚めているのになにも見えないという奇妙な感覚に、腕を持ち上げて目を擦った。
「眩しい?」
 二度、三度と目をこすると、ふと声が聞こえてきた。聞き慣れた声ではあるが、どことなく柔らかい気がする。
「よく、見えない…」
 正直に言えば、ああ、と納得したような返事がある。
 目を擦っていた腕を退けられ、代わりに指先が目元を撫でる。はっきりしない視界の中で、誰かの手が目じりを撫で、灰色の塊が近づいてくるのが見えた。ざらりと頬を舐められ、あの塊は顔だったのか、と思うと同時に目が覚めた。
「おはよう」
 ばっちりと目を開ければ、視界いっぱいにヒバリの顔がある。近すぎて何が何やらよく分からないが、覗きこんでくる黒瞳には、嫌というほど見覚えがあって。
「お、はよう…?」
 間の抜けた挨拶に、けれどヒバリは、うん、と答えて体を引いた。とたんに視界には光があふれて、今まで自分がヒバリの影にいたのだと気づく。もしかして、眩しいと思って影を作っていたのか。それにしてももう少し作りようがあるだろうに。
 なにか釈然としない気持ちを抱えたまま、ぐっと体を伸ばす。
「っ、い…!」
 途端に、体中に痛みが走った。痛み、というよりは、びりびりとしたしびれと、腕すら十分に伸ばせないほどの、力の入らなさ。
「なんだ、これ」
 おまけに、声もかすれていて聞き取りにくい。自分の言葉なのに、全く違う誰かの声に聞こえて、思わず喉を押さえた。妙に喉が渇いている気もする。
「だから体に無理が出るって言ったでしょう」
「無理? な、にが… あぁ!?」
 呆れたようなヒバリの言葉に、そろりと体に掛けられた毛布をめくってみる。そこには、何一つ身に付けていない自分の体があって。
 一気に記憶が、すべて戻ってくる。
 淡い光の中に浮かび上がる黒髪と、同じ色をした耳。何かを宿して揺らめく瞳や、縋りついた肩が汗をかく、その光景ですら、はっきりと。
「ぇ、えー…」
 捲った毛布を頭まで引き上げて、とりあえず隠れた。それが何の解決にもならないとわかっていたし、隠れていたからと言って何も変わらないが、とにかく一度隠れた。僅かに暗くなった毛布の中でみる己の体は、夕べの名残をあちこちに残している。着ていたはずの服は全て脱がされ、あちこちに咬み痕のような赤い痕が散らばり、身に付けているのは指輪一つという、恥ずかしい姿を。
 目の前の光景に耐えきれず、ごそりと体を動かす。じんわりとした疼きが尾の先まで震わせるが、体中のどこからも、不快な感じがしない。覚えている限りでは、随分と体は汚れていたはずだ。毛繕いも水浴びもしないまま、あんなことになってしまった。それを考えれば、どこかに違和感があっていいはずなのに。
「……なぁ」
 何度か深呼吸をして、顔の熱が下がったことを確認してから、そろりと毛布から抜け出した。こちらとは対照的にきちんと服を着こみ、そばに立ったまま微動だにしていない黒猫をちらりと見上げてから、すぐに視線をそらす。やはり、真正面から向き合うのはまだ無理だった。
「何?」
「もしかして、寝てる間に毛繕いしたか?」
「ああ」
 当然のように肯定が返ってくる。
「嫌だった?」
「や… そうじゃねぇけど」
 リビカの中では、毛繕いはかなり重要な位置にある。自分でも毎日するものだし、子猫にとっては親からの愛情を確かに感じることができる、大切な習慣だ。気持ちも落ち着き、体の感覚と清潔を保つ。
 子猫の間はうまくできなくて、やってもらっているうちに覚える。そうして育ってきたし、ずっと幼いころには姉の手伝いもしていた。やってもらうことが心地いいものだということは、頭よりも体が覚えている。だから、毛繕いをされたこと自体はなんでもない、はずなのだけれど。
 相手がこの黒猫だと思うと、どうしても恥ずかしい。
 どんな猫に対しても、触れるな寄るな構うなと全身で訴えているくせに、一体どんな顔で寝ている体を繕ったのかと、そう考えたら好奇心よりも羞恥心の方が強くて。
「ぅ、ぐあーっ」
「ちょっと、ハヤト?」
 ばりばりと頭を掻き乱す手を、ヒバリの手が止める。ぼさぼさになった髪の間から見上げれば、何があるのかと不思議そうに顔をした黒猫が、静かに見下ろしていた。その顔に、夕べの熱は見られない。
 触れた指が、当たり前のように腕をつかんでいる。昨日まで、側に近づくこともしなかった理由を考えれば、自然と出てしまうくらいには静まったのだろうか。
「…ちったぁ落ち着いたのかよ、お前」
「え? ああ、発情期のこと?」
 乱すだけ乱した銀の髪を、手から離れたヒバリの指が撫でる。
「おかげさまで、ほとんど衝動はないよ」
「そうかよ」
 なら、よかった。まだ落ち着いていないと言われては、夕べの繰り返しになってしまう。さすがに、毎日は勘弁してほしい。
「でも、匂い自体は消えてないんだ」
「はぁ? っ、おい」
 すっかり髪を整えてしまったヒバリの指が、今度は耳を摘まむ。途端、ぴりっとした感覚が走る。熱とはまた違うが、長く触れられていたくない箇所だ。
「たぶん、匂いはずっとなくならないんじゃないかな」
「適当なことを…」
「まあ、すぐにどうこうなるほど強いわけではないし、今までよりすこし分かりやすくなった程度には治まってるから」
 苦笑いを浮かべたヒバリが、軽く耳の縁を撫でて手を離した。
 うつ伏せのまま、顔だけ上げて見る黒猫の姿は遠い。それでも、一年前よりもずっと近い場所にいて、昨日よりもずっと穏やかな顔をしている。初めて顔を合わせて以来縮めたはずの距離が離され、再び、今度は以前よりももっと近い場所まで縮められたのだと、なんとなく思った。
 そのために変わってしまったものは、たくさんある。
 まず間違いなく、一年前までのヒバリなら、こんな風に笑ったりはしなかっただろう。近づく事は許しても、踏み込んでくることは絶対に許さなかった。同じ家に居ても一定の距離を保ったまま、近づこうとすれば同じだけ遠ざかっていたから。
 年上の猫ばかりに囲まれ、常に先頭であり続けることで、ヒバリは子猫としての期間がひどく短かった。本当なら、ひとりで狩りができるようになるまでは、母猫とともに暮らす。移動部族であったことを考えれば、狩りの方法は都会の子猫よりも早く教わるはずだ。そうなれば当然、親離れも早い。それに加えて、本当ならばまだ親猫に守られていて当然の年に、ヒバリは村を率いていくことを余儀なくされた。いくらテツたち村猫たちが、そのことを悔いていても、時間が戻るはずもない。
 多数の村猫に囲まれていたはずなのに、たった一匹で生きてきたように見える黒猫。
 それが、今は踏み込むことを許し、こんなに穏やかでいるのだから、戻らない時間を悔いる必要もないだろう。
「何?」
「いや、なんでもねぇ」
 つい口元が緩むのを隠すように、腕を突いて体を起こした。
 ぎし、と体が軋む。あの朝とは全く違う体の反応が、発情期がどれだけ特殊な期間なのかを知らしめる。あの時だけかと思っていた体への影響が、翌日になっても消えていなかった。
「っ、てー…」
「辛い?」
「そりゃ少しはつらいに決まってんだろ」
 体に毛布を巻き付け、座り込むようにして起こすと、ふう、と自然に溜息が口をついた。違和感はなくても、痛みはある。痛みというよりは、だるさという方が正しいかもしれないが。
「だから言ったのに」
「うっせぇな、終わったこと愚図愚図言うな。大体、今回無視して乗り切ったって、どうせ来年同じことになるんだろうが。それなら、今年だけ避けたって仕方ねぇだろ」
 発情期は毎年来る。一度迎えてしまえば、避けて通ることのできない本能だ。今回だけ回避したところで、来年も同じことになれば意味がない。毎回毎回、発情期の間だけ離れておくなんて事ができるはずもないのだから。
「…ふぅん」
「なんだよ」
 含みのあるような呟きに、顔をしかめる。それをどう受け止めたのか、口元に指をあてたヒバリが、にやりと笑った。
「いや、頼もしいつがいでよかったと思っただけだよ」
「はあ?」
 意味が分からない。
「多少は、来年からもこうだと厄介だな、と思っていたんだけれどね。君が構わないなら、抑えることもないか」
「…気遣うくらいしろよ…」
「努力はする」
 平然と言い放つヒバリが、隣に腰を下ろす。
 なんとも来年が思いやられる話だ。少しばかり早まった気がしないでもないが、大丈夫だろうか。
 今更考えても仕方のないことをつらつらと考えていると、こつ、と毛布越しの肩に何か当たる。なんだと視線を向ければ、寝台に座るヒバリが、肩に頭を落としているところだった。斜め後ろから見る後頭部は丸く、ぴょんと出た二つの耳が身じろぎもせずに前を向いている。
 こちとら体が万全ではないのになぜ寄りかかるのか、理不尽極まりない。おまけに裸のままだし、全身くまなく毛繕いされているのだとしても顔くらい洗いたいし、体のあちこちには噛み痕ともとれる赤い跡が残っている。せめて、その辺りに散らばっているだろう服を着たいのに、寄りかかられては動くこともできない。
 どう言ってやろうかと思案している間に、くるる、と僅かな音が聞こえてきて、体が止まった。
 部屋には自分たちしか居らず、周囲の住み家は離れている。音の主は、自分ではありえない。
 そろりと隣を窺うと同時に、まるで見ていたかのように尾が尾に触れた。思わず持ち上げるのにも構わず、するりと根元に近い場所から絡む尾が、なだめるように優しく撫でていく。
 ヒバリが喉を鳴らすことは、多くない。感情を隠せないリビカなのに、唸ることは多少あっても、くるると音を出すのは数度しか聞いたことがない。珍しい音に聞き入っている間にも、それは止まることなく繰り返され、やがて尾が重なるように絡んでしまうと、一段高い音になっていた。
 それはなにより雄弁に、ヒバリの心情を語るもので。
 穏やかでいて、心を落ち着かせている。何も憂えるものはなく、寄りかかり尾を絡めるだけのこの時間を楽しんでいる。
 本当に、一年前とはずいぶん変わった。もちろん自分も変わったのだろうと思うが、なにより一番変わったのは、この黒猫だ。
 けれどそれが、なにより嬉しい。
 抑えられない音が、己の喉から小さく響く。目の前の耳に舌で触れれば、ざり、という音がするだけで、跳ねることもない。ただそこにあって、触れることを許してくれる。
 くるる、くるると、もうどちらの喉の音なのかわからないほどに、室内はそれだけに満たされて。
 ようやく止んだのは、裸でいることに限界が来たハヤトの大きなくしゃみが響き渡ると同時だった。