「君の番だ」10

「長、ハヤトさん。おはようございます」
 ゆっくりとした朝を迎え、以前どおりに起こされ果実水を飲んでから住み家を出れば、広場ではいつもどおりにテツが出迎えていた。
「今日は少し肌寒いですが、出られますか?」
「あ、ああ」
 どちらかというと背後、数日前に熱を出し寝込んでいた賛牙へ向けられた言葉に、当の銀猫はどこか気まずそうに視線を逸らしたまま頷いた。
 ハヤトが熱を出した理由を、テツは知っている。そのこと自体は、今朝家を出る前にハヤトにも言ってあるし、余計なことを言ったんじゃないかときいきい文句も言われたが、あちらが勝手に気付いたのだから諦めろ、と言えばようやく黙った。まだ正面から顔を見れないほどには、納得できていないみたいだが。
「平気だろう。悪ければ戻る」
「そうですか… 長、今度はちゃんと気を付けてくださいよ」
「覚えておく」
 前回、ハヤトの体調不良に気付かず森を連れまわした、と思っているらしいテツが釘をさしてくる。誤解を解くのも億劫だとそのままにしてあるが、近いうちに一度言っておいた方が、後々面倒くさくないかもしれない。
「ハヤトさんも、あまり無理はされないように」
 同じように忠告を口にした後、ではいってらっしゃい、と送り出された。
「…あいつ絶対何か気づいてるだろ」
「まぁ、そうかもね」
 本来なら一晩で治まってしまう発情期の反動なのに、用心をとった一日を除いても、二日ほど多く寝込んでいる。後半は、似て非なる理由で寝込んでいたが、当然テツは知らない。馬鹿正直に何もかもを話すつもりはないが、勘づいてはいるだろう。昔から勘の鋭い猫で、時々見透かすような物言いをすることもある。テツはそういう猫だからと、さして気にしたことはないが、ハヤトからすればまだ気になるらしい。
「そうかもねって」
「小さな村だ。今日気づかれなくても明日気付かれるかもしれないし、いつまでも騙せておくものじゃないだろう。案外、僕らよりも先に気づいていたかもしれないしね」
 さくさくと村から森へ続く道を歩けば、え、と呟いたハヤトの足が止まる。
「先に、って?」
 同じように足を止めて振り返れば、表情の固まった銀猫が、言われたことを考えるように眉間にしわを寄せている。普段からそんな顔をしていることが多いが、もう元に戻らないんじゃないだろうかと思うくらい、深い。
「一応言っておくけど、あれもさすがに家を見張るようなことはしていないよ。そんなことしてたら、とっくに追い出してる。昔から勘がよくて、何か含んだような言い方をする猫だったんだ。それが、緑廉の連中と顔を合わせるようになってひどくなってきてる。君にも覚えがあるだろう?」
「…ある、と思う」
「ただそれだけだよ、深い意味はない。それに、一応は僕らより年上だ。君は知らないだろうけど、昔の村にいたときは、何度も嫁をとれと言われてるんだよ」
「マジで!?」
「村へ行くたびに、同じ雌が声をかけてきたこともある」
 その時、黒猫が側にいると不幸になるから、と一言多く言ってきたがばかりに、件の雌猫はテツを怒らせてしまったのだが、それは言わなくてもいい話だろう。
「今の村にいる雌猫に対してもまめだし、それなりに場数も踏んでるだろう。聞かなくても、見てれば分かることも多いだけじゃない?」
「意外だ… そんな風には見てなかったぞ、俺」
「考えを改めることだね。それで、そろそろ歩けそう?」
 足を止めたまま、相変わらず難しそうな顔をしているハヤトが、言われて初めて足を止めていたことに気づいたように、ああ、と歩き始めた。眉間の皺は少しだけ溶けているように見えるが、やはりまだ深く刻まれている。
「そういうわけだから、隠しても無駄だと思うよ」
「いや、隠し続けておけるとは思ってなかったけど… まさかこんな速攻でばれるとも思ってなかった」
 二、三歩で隣まで来た銀猫が、ふるりと尾を振る。まだ何か、困惑があるらしい。
「なにも変わらないさ、肩肘張る必要はない」
 村の猫全てが、この銀猫が長である自分のつがいだと知っている。当初から客扱いは不要だと言い置いたし、警備の間にも、村の中で顔を合わせる時も、皆それなりの態度で接しているように見えた。
 テツに限らず、すべての猫が年上であることを考えれば、勘のいい奴らは気づくだろう。だが、それを吹聴して回るような猫はいないと思っているし、もしいたとすればそれは教育不足ということだ。テツがそれなりに処罰を与えるだろうし、足りないようならば自分が直に制裁を加えるだけ。
 結局、何一つ変わらない。変わってしまうのは、自分たちだけだ。
 終わりに向かう世界の中でも、新鮮味の欠けた日々を繰り返す猫たちにとって、世界は不変のものだ。明日も明後日も、一年後も十年後も、当たり前に世界が存在すると思っている。この小さな村で何が起こっていても、彼らの生活を脅かさない限り、やはりそれは何もないことと同義だ。
 味気ない色で埋められたヒバリという猫の中に、この銀が唐突に飛び込んで来なければ、稀有な黒猫の生も、この閉じられた村で終わってしまうはずだった。当たり前と思った姿が見えないことや、知らない猫と親しげに話している姿に苛立つ。そんな感情が己の中にあることに、気づくこともなく。
 当たり前の色の中に浮かぶ、淡く輝く銀色。強烈に刺すような煌めく銀ではなく、穏やかな夜の月に似た淡い銀色は、たった一滴で、閉じられた村を変えてしまった。当の銀猫に自覚はなくとも、確実に。
「ハヤト」
「なん…」
 いまだ渋い表情を崩さない銀猫に歩み寄り、ちゅ、と音を立てて唇に触れた。
 一瞬、何が起こったのかと見開かれた緑色の目が、すぐに驚愕のそれに代わる。比較的白いだろう肌が、赤い果実水でもこぼしたみたいに薄い赤で染まった。
「てっめぇ…っ」
「隠しても仕方ないと言っただろう? いつまでも気にしてると、外で怪我をする」
「だからってなぁ!」
「喚かないで、うるさいから。ほら、行くよ」
 真っ赤になったまま、毛を逆立てて喚くのを無視し、手を差し出した。指に通したままの銀色の指輪が、昼に近い陽の月が放つ光をやわらかく反射し、鈍く光る。
 初めて会った時、手を引いて別館まで走ったのを覚えている。
 あの時から、いろんな場面でこうして手を差し出してきた。なんのためらいもなく握ってきたかと思うと、思いっきり弾かれたこともある。耳を撫でれば喉を鳴らし、擦り寄ってくるのに、時にきっぱりと拒絶する。何度も放して、つないで、拒絶され、また受け入れられを繰り返してきた。
 けれど、一度も離していない気もしていた。
 ずっと、初めて会ったあの瞬間から、この手は繋がれたままで、そしてこれから先も離されることはないんじゃないのか、なんて。
「っ、かったよ!」
 うう、と小さく唸るハヤトが、差し出した手を握る。力がないと言われる賛牙の割に、しっかりとした力で握り返され、知らないうちに口元が緩んだ。
 そういえば、あの朝。あたりをうかがうようにして走っていったハヤトを見たテツが、いつものように見透かした口調で言っていたことを不意に思い出す。
「今はもう、つがいとしての闘牙がいる。それが、彼の弱さにならなければいいと思います」
 祇沙において最強と同義語のつがい。剣を携える闘牙と、歌で支える賛牙の二匹は、互いが互いを補い合って戦っている。賛牙がいなければ闘牙の能力は落ち、闘牙がいなければ身を守るすべのない賛牙は命を失う。
 つがいになるということは、強くなるということと同時に、絶対的な弱点を手に入れるということだ。共に闘い、どちらが欠けても力が落ちる。それは、確かに弱さだ。
 つがいとなったその瞬間に、ハヤトは自分の弱さの象徴になった。同時に、ハヤトにとって自分は弱さを象徴するものだろう。だから、あんな風に必死になる。失えないと、体全体で叫んで来る。
 それでいいのだと思う。
 らしくもなく必死になって手に入れた。だからきっと、この手を離すことはない。それは、弱さのためではなく強さのためだ。
 つがいである限り、この賛牙は自分を強くしてくれる。歌で支援し、隣にいることで、何よりも強い存在にしてくれる。その強さで守ることができれば、賛牙が弱さになる日は、きっと来ない。
 手を取り歩くつがいを見る。なんだよ、と無愛想極まりない口調と、癖になっている眉間の皺は健在だが、耳も尾も銀猫の機嫌がいいことを示している。見てただけと返せば、意味わかんねぇ、とそっぽを向くのに、その頬はわずかに上気していて、繋いだ指先に力がこもった。
「初めて外れるな」
「何が」
 隣を歩く銀色に目を向けば、不思議そうに首を傾けていた。跳ねる片方の耳が、次の言葉を待っている。
「テツの予言と、僕の思惑、かな」
「はぁ?」
 わけわかんねぇ、と唇を尖らせる。その仕草が、妙に愛おしくて、そう思う自分がおかしくて、つい笑った。
 祇沙を終わりに導くと言われる黒猫。不幸の象徴とされ、忌み嫌われてきた黒い毛並み。どうしようもないそれらを、単なる特徴だ、と言い切った銀猫が隣を歩く限り、世界が続けばいいと思う。できるならば、生きている限り生きていきたい、この猫とともに。
 祈りのように願うそれを伝える術を、黒猫は知らない。歌もうたえない。
 だからただ、握り返していくだけだ。己の半身、歌うたう賛牙の指を、力の限り。
 命の限り。

お付き合い頂き、ありがとうございました。