「君の番だ」1
村に来て二度目の冬は、前年と同じく暗冬から始まった。
藍閃の紋章をかたどった灯篭が掲げられ、祭りの準備が進む街は、溢れんばかりの猫の数に反し生気が薄いいつもの姿ではなく、生気に満ちた街並みに変わっていた。立ち並ぶ祭り仕様の市を通り抜け、久方ぶりに訪れた領主の館も、これまた慌ただしく祭りの準備が行われていて、突然訪れてきた二匹に注意を払う暇もないのか、次から次へと猫たちが廊下を駆け抜けていく。
誰に見咎められることもなくたどり着いた城主の部屋では、年若い領主から今回もよろしくお願いしますと激励を受け、更に幼く見える賛牙長からくれぐれも無茶はしてくれるなと釘を打たれた。
帰り際、随分久しぶりに顔を合わせた警備隊副隊長には、仲良くやってるかと子猫のような言葉を掛けられ、否応なく足を止められることになり。
「お前あまのじゃくだからさー、心配してたんだぜ?」
「てめぇに心配されるようなことじゃねぇよ!」
反射的に怒鳴り返せば、そっか、と明るく返される。
「元気そうでよかったけどな。全然姿見せないから、ビアンキも心配してたぜ」
「あ… あ、姉貴、は」
「元気元気。でも、俺のつがいっていうより、賛牙長のつがいって感じだからなぁ。ほとんど一緒にいるじゃん? あの二匹。でも前よりは認めてくれてんのなー、って歌でわかるから、まぁそれなりにやってるさ」
「そ、うか」
特別警備隊へ移動になって以来、姉であるビアンキには会っていない。長く闘牙を得ることができなかった弟と違い、賛牙としての能力が高い彼女は、次期賛牙長としての噂もある。弟が藍閃直属の警備隊から除隊となり、改めてつがいとして出向く先が極秘部隊であることは、立場上知っているだろう。
最後に会った時、あまりいい別れ方をしなかった。芽吹きの遅かった能力を喜んでくれる表情は、今思い出しても嬉しいのなのに、ひねくれた自分では素直に受け止めることもできなくて。天邪鬼という言葉が、妙に重く感じられる。
「今度の暗冬が終わったら、一度遊びにこいよ」
「あー… 暇ができたらな」
「それっていつのこと?」
「さぁな。つか、そんなひょいひょい来れるかよ」
何度も言うが、極秘部隊だ。本当なら、こうして長々と話し込んでいるのも、いいはずがない。
「それならさー、俺たちがいった方が早くね?」
「は!? 馬鹿かてめぇ、無理に決まってんだろ!」
にこにこと笑いながら、とんでもないことを言い出した灰猫が、軽く肩をすくめた。
「なんでだよ、遠くないんだろ?」
「近くもねぇよ! とにかく無理だ、お前じゃ入れないし…」
特別警備隊という特殊な部隊を隠すため、そしてなにより、その村を支配する黒猫の身を隠すため、村には特殊な術が施されている。タケシを連れて入るには、自分がしたようにまず賛牙長から許可を得なければいけない。入るものを制限することが、結果として村の猫たちを守っている。たとえ藍閃を守る任にある闘牙だとしても、軽々しく許可は下りないだろう。
もし仮に許可が下りるとしても、そのためには小難しい書類のやり取りがあると聞いた。所詮は賛牙長とヒバリの間でやり取りされるだけの物だろうに、証拠という形がどうしても必要なのだと言われたらしい。が、それらを用意してもすぐに許可が出るわけではないだろう。そうなれば、あの怪しげな双子の猫に会うまで、誰か村の猫が手を引いてやらなければいけない。そんな役は御免だし、まさかヒバリに手をひいてやってくれと頼むわけにもいかない。
かつて、自分がそうされていたように。
「だ、駄目だ! 今度こっちに顔出すから、それでいいだろっ」
頭の片隅をよぎる想像に、背中の毛が逆立つ。ただの想像なのに、それくらい、嫌だった。
「そっか? ならそうビアンキにも伝えとくな」
「わかった、わかった」
こちらの嫌悪など素知らぬ顔で、絶対だぞと念を押してくる。
笑いながら話すくせになかなか話の通じないタケシを相手にするのは、歌う以上に疲れる。じゃあな、と明るく去っていくと同時に、どっと疲れが押し寄せてきた。
「誰、あれ」
「警備隊の副隊長…」
廊下を歩いている途中で捕まった時から話している間中、どれだけタケシに話しかけられても知らぬ存ぜぬを通し、全く違う方向を向いていた黒猫は、ふぅん、と呟きながらその背を見送っている。
「なんだよ」
「いや… 副隊長なら、それなりの実力だろうと思っただけさ」
逸らすことなく背中を見る黒い瞳が細められ、ゆらりと尾が揺れる。珍しく興味深げにしている様子に、むっとした。
「…は?」
すぐに、むっとした事実に首を傾げた。
戦うことが大好きなヒバリが、警備隊副隊長という立場にいるタケシに、実力という意味で興味を持つのは、なにもおかしなことではない。今はもう遠くになってしまった背中が、これだけ遠くにいるにもかかわらず隙がなく見えるのも、ヒバリが興味をひく理由の一つになり得るものだ。
それなのに、理解できるのに、どうして一瞬とはいえ腹が立つのか。
「何?」
「い、いや…」
廊下を曲がったタケシの姿がなくなると同時に、ヒバリの視線が戻ってくる。いつもどおりの顔から、首を振るふりをして顔をそらした。見慣れた自分の尾が、目の端に映る。ふらふらと落ち着きなく揺れる様子が、意識していない気持を分かりやすく表現していて。
おかしい。何かが、落ち着かない。
すっきりしない気持を抱えながら、銀猫は何度も首を傾げた。
隣に立つ黒猫の、己に向けられた視線に気づくことはなく。
祇沙最大の都市と呼ばれる藍閃。冬と春に大きな祭りが行われるこの都市は今、冬の祭り暗冬に向けて忙しい時期を迎えていた。前回の暗冬で、水面下とはいえ大きな騒動が起きたという事実が、領主、賛牙長両名の緊張を呼ぶことになり、一度間に繰春をはさんだとはいえ、いまだ厳重な警戒を解くことはしていない。それに伴い、藍閃周囲の警備を義務付けられた特別警備隊にも、藍閃領主から直々に警戒を強めるようにと言葉が下されている。
広い領主の執務室で、心の底から面倒くさそうな特別警備隊隊長と、心の深くに刻みつけたと言わんばかりに真剣な顔をした賛牙がつがいとなり、一年が過ぎていた。
ふと意識が浮上して、瞼を上げた。
警戒を深める祭りも中日を迎え、大きな騒動はなくとも歌わなければいけない場面に何度も遭遇することとなり、夕べもふらふらになりながら家に戻って、倒れ込むようにして眠りについた。どうにかコートだけは脱いでいたが、ろくに毛繕いもせずに眠ってしまったために、尾の付け根あたりが気持ち悪い気がする。
閉じられた窓の隙間からは、僅かな光が漏れてくる。すでに陽の月が高くなっているらしい。
「ぅ…」
ふる、と軽く身震いをしてから、ぐっと力を入れ体を伸ばす。ほんの少しだけ体が楽になった気もするが、心地よさと呼ぶには程遠い。すっきりしないまま、体にまとわりつく寝具から抜け出し、寝台の上に座り込む。窓際を見れば、寝具の端から黒い耳が覗いていた。
寝汚いところのあるつがいは、別々に寝ていた頃は気配に敏かったというのに、同じ寝台で横になるようになった頃から、何故か隣にいないと眠らなくなってしまった。こうして眠っている時ですら、よほど気を付けなければ不機嫌そうに起きてしまう。今日は成功したようで、起きた気配はない。
しんとした室内で、隣からはすやすやと寝息だけが聞こえてくる。いつもと何も変わらない朝に、けれど気持ち悪さだけが体中を這うようにして纏わりついていた。
背中が気持ち悪い。尾と耳の付け根がむずむずして仕方無い。なにより、体がだるくて、座りこんだ姿勢から動くのすら億劫だ。
きっと、昨日歌い過ぎたのだろう。水浴びも毛繕いもしないまま寝てしまったから、体中が違和感を訴えているだけだ。部屋の空気を入れ替えて、黒猫が起き上がってくるまでに朝食の用意をして、いつもと同じように一日を始めれば消えるものでしかない。
そう考えて、軽く耳元を掻いてから、窓に手を伸ばした。
「あ…」
窓を開こうと、指先に力を入れたと同時に、寝台がぎしりと動く。どうしてだか窓際に眠りたがる黒猫を被う形で腕を伸ばしたために、足に力が入り過ぎたようだった。響く音に視線を下に向けば、案の定、黒い塊がごそごそと動きはじめていた。
失敗した。まだ起こす時間じゃなかったのに。
祭りの間は、歌った次の日は休む、という言葉は守られない。そう、暗冬に入る前に改めて宣言されていた。今村の中には、戦える猫が多くない。いくつか季節を巡ることで、ここに来た当初はまだ訓練段階だった猫たちも、数匹は実戦に参加している。その程度には数が増えているが、逆に言えば数が少ないことに変わりはないのだ。だからこそ、警戒を強めなければいけない祭りの間は、特別に休みを組むことはできない。そう聞いていたし、構わないと返事をしていた。
今日も、夜には出かける予定になっている。陽の月が高い間は起こさなくていいし、無理して起きておく必要もない。だからこそ、できればゆっくり眠っていてほしかったのに。
「な、に…」
案の定、不機嫌そうな声が真下から響く。
「悪ぃ、まだ寝てていいぞ」
出来るだけ抑えた、小さな声で促せば、寝具から覗いた黒い耳がぴくりと跳ねる。場所を探るようにあちこちを向く耳が、やがて収まってしまうと、寝具からのっそりとヒバリが出てきた。
「寝てていいって」
「起きたからもういい。それより、何してるの」
丸めた体を伸ばしたヒバリが、真っ黒な目で見上げてくる。そういえば、まだ不自然な体勢のままだった。
「あ… いや、窓開けようと思ったんだけど」
「窓? 開けてないの?」
「へ?」
おかしなことを言う。寝る前に窓を閉めたのは、窓際に眠るヒバリの方だ。なのに、そんな言い方はおかしい。
「お前自分で閉めただろ。開けようとしたらお前が起きたんだって」
「……なら、この匂いは何?」
「匂い?」
目を細めた黒猫は、横になったまま辺りを見る。頭を跨ぐ形になっているために、こちらの腹を避けるようにして、視線を机に向けていた。だが当然、そこには何もない。今起きたのは、こちらも同じだ。まだ食事の用意はしていないし、何より、特別妙な匂いなんてしていないのに。
「いや、確かにする。何か、甘いにおいが」
くん、と鼻を鳴らす。リビカは、決して目がいい種族ではないために、匂いに頼る傾向がある。年齢によって利きには差があるが、これだけ近くにいるのに、ヒバリに分かって自分に分からない匂いがあるとは、なかなか思えなかった。
「ん?」
一通り辺りを観察したらしい黒猫が、今度はじっとこちらを見上げてきている。
「何… あ、悪い」
思わず顔をしかめてしまったが、こんな風に頭を跨がれているのは気分が悪いかもしれない。ただでさえ機嫌が下向きなのに、これ以上降下されてはたまらない。目的の窓は閉まったままだが、不機嫌が悪化する前に退いてしまおう。そう思い、体を引いた。
のに。
「……ヒバリ?」
改めて寝台に座り込んだのを追いかけてくるように、ヒバリが体を起こす。何を考えているのか窺いにくい目が、じっと向けられていて。居心地の悪さと、表現しにくい奇妙な感覚が首筋を走った。
そわそわする。耳と尾が、落ち着かない。
「なぁ、おい。なんだよ」
また鼻を鳴らす。不思議に思うほど表情のない顔が近付き、くん、と首筋に近い場所を嗅がれた。昨日は、水浴びも毛繕いもしていない。普段なら何も気にならないことが、今日ばかりは気がかりだった
「ああ、やっぱり」
「え?」
「この匂い、君だ」
「は… ぅひゃ!」
首筋を、ざらりとした舌で舐められた。
同時に、全く意図しない声が口から飛び出てくる。自分のことだというのに、驚いて口を押さえてしまった。
たかが首筋を舐められただけだ。それだけのこと、親に毛繕いをしてもらうときは気にしたこともない。それどころか、ざらざらしたリビカの舌は毛繕いに最適で、気持ちよくて喉が鳴るくらいなのに。
なんだ、何が起きたんだ。
「まずいな」
「へ… は、へ?」
思わず体を引いて、ヒバリとの間に距離を取る。当の黒猫は、自分がしたことだというのに、何故か顔が曇っていて。
以前から、ちょっとした気まぐれでヒバリが触れてくることはあった。首筋を舐められたのも初めてではないし、遠い昔のように感じられるが、唇が触れたこともある。けれど、一度だってそんな顔をしたことはなかった。
舐められた首筋に触れると、そこだけが熱い。おまけに、体のだるさが増している。足に力が入らず、さらに距離を取りたいのに、寝台から降りることすらかなわない。以前は、たとえ舐められても、飛びあがるくらいのことはできていたのに。
絶対におかしい。これは、歌い過ぎが原因なんかじゃない。
「ハヤト」
「な、なんだよ」
暫く考え込むように黙り、視線をそらしていたヒバリが、意を決したように顔をあげる。
そこには、曇った表情は捨てて、けれど今まで一度も見たことのない顔をした、つがいがいた。
「どうやら、発情期みたいだ」
それは文字通り、猫が子供をなすことができる期間だ。
ある程度成長すればどの猫にも訪れ、七日月を二回ほど繰り返す間を時期とし、自然と収束を迎える。ただしその期間には個体差があると言われ、大まかな時期として暗冬前後に訪れる猫が多いらしい。事実、暗冬終了後の藍閃は、祭りの期間中と同じ町なのかと疑いくなるくらい閑散としていて、それは発情期に入った猫に見つからないように隠れている猫が多いためだ。発情期に入ると、猫は理性をなくす。体が勝手に反応することで、頭ではどうしようもない。たとえ相手が誰であっても、触れてしまえば箍が外れる。そういうものだからだ。
だから、祭りの後は家でおとなしくしていなさいと、子猫のころはよく言われていた。
成長して、自分に発情期が訪れるまでは、と。
「……え、え?」
一瞬で頭の中を廻った発情期の知識が、泡のように消えていく。
知識としては、確かに頭にあった。別館にいたころは、よくそういった話題も耳にしていたし、何より猫として生まれついたからには、本能が知っている生殖の周期だ。
「いや、それは、あり得るだろうけど」
期間は定まっていない。暗冬も、今日が最終日だ。明日からは本格的に周期が来る。
ただ、問題は。
「俺… まだ、きたことないんだけど」
これが発情期だ、と明確に理解できない。
年齢的には十分訪れていてもおかしくない年で、同じ年頃の猫の多くは、すでに発情期を迎えていた。でも、これまで生きてきた中で、一度としてそんな感触を抱いたことがない。いろいろと、そんなものより大事なことがあったからだと思っていたし、だから成長の訪れが遅いこともさほど気にはしていなかったけれど、それがどうして、今年に限って。それも、暗冬の終わりを見ずに。
混乱する頭で、目の前の黒猫を見る。普段から黒ばかりの猫なのに、唯一違う色といっていい肌が、ほんのりと赤いような気がした。
「僕もだ」
「なんで、そんな、急に」
「さぁね」
ふ、と息を吐く。その僅かな吐息が鼻先に触れて、とたん、めまいがした。
「ただ、わかるのは二つだ。僕に発情期がきた。そして」
くらくらとする頭に、ヒバリの声がこだまする。首筋に触れたままの指から力が抜けて、寝台に落ちた。
「君にもきてる」
言葉と同時に、唇が触れる。
瞬間、体が崩れ落ちたような気がした。
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