「君の番だ」3

「……ねえ」
 次第に息が整ってくると、先ほどまでの熱が嘘のように体から引いていた。肩に回した腕を解き、腰を支える手も離されたというのに、ぴくりとも動けない。ただ顔を隠して、状況を理解しようとすることで精いっぱいだ。
 発情期が来ることは分かっていたことだし、それはもう、猫として生まれたからには回避しようのないものだ。いつかは、と思ってはいたが、正直、この村に来てからはそんなものを気にしている余裕など爪先ほどもなかった。年に一度しかないということもあり、最初の時期は寝込んで過ごしたし、それ以降はこの冬になる。前回はお互い知り合ってすぐだったからという理由で反応はしなかったのだろうけれど、ならば、今年に限ってこうなってしまったのはなぜだ。
 しかも、相手は想像していた雌猫ではなく、立派に雄の猫で。
「ちょっと」
 つがいで、黒猫で、そりゃあ確かに、胸のうちに理解しがたい想いはあるけれど、でも、それがいきなりこういう形で表れるのはどうなんだろうか。
 もう少し時間をかけて、心のうちがはっきりと自分で見えるようになって、ヒバリがもし同じ気持ちでいたのなら、まぁこういったこともあったのかもしれない。でも。
「…ハヤト」
「ぅぎゃっ! うっ… ご、くな馬鹿!」
「返事をしない方が悪い」
「ぐっ」
 当たり前のことを言われて、反論ができない。
 でも、だからと言って、全く熱の引いてしまった体を揺すられたのでは、こちらもたまったものではない。抱え上げた腰は下ろしても、ヒバリは体を引かずにいるのに。
「わ、わかったから。とにかく、その」
 早く出て行ってほしい。
 ただそれだけなのに、言葉にするのがひどく躊躇われる。朝起きてから一瞬前までの間ないものとなっていた羞恥が、倍になって返ってきたみたいだ。恥ずかしくて仕方ない。
「…さっきまでそうでもなかったみたいだけど」
「う、うるせぇ!! は、はは、発情期の真っ最中のことなんか、自制がきくか…っ」
 尻下がりになってしまう言葉に、余計に羞恥が増す。体中から火が出そうなくらいに恥ずかしい。
 ついさっきまでと、たった今とがどうしてこんなに違うのかなんて、むしろこちらが説明してほしいくらいだ。冷静になって考えてみれば、自分の反応も、ヒバリの反応もおかしかった。絶対に正気じゃなかった。触られるだけで力が抜けて、それとは逆に熱ばかりが上がっていく。異物を受け入れるというのに痛みもなく、ただ体を快感だけが満たしていくなんて、発情期はそういったものだと言われればそうなのだが、それで納得しろというのは無理があった。
 抗いがたい本能、というものを、初めて身を持って体験した気がする。あんなのが毎年くるのかと思うと、今から来年が恐ろしくてたまらない。
「自制、ね」
「あぁ? 何…っ」
 何か含んだような物言いに、腕の影から覗き見た。のに、それを厭うかのように、体が引かれて息が詰まる。
 ぎしりと軋んだ寝台から、黒猫が下りていく。項あたりから破れている上着を脱ぎ捨てて、裸のまま衣類が仕舞われた棚に向かって行く。無数の傷跡がありながらも、白くて細い背中は、闘牙であっても同じ年頃の猫らしい。
「ぅ…」
 このままこうして横になっていても仕方ない。そう判断して、顔を隠した腕を外し、体を起こした。
 改めて見下ろす自分の体は、状態として凄まじい。一糸まとわぬ状態で、みっともなく投げだした足に絡む尾は毛羽立っている。最中は意識が朦朧としていたのに、今では、何をされたのかはっきりと思い出せて、思わず足を引きよせた。
 気まずい。気まずすぎて、どう声を掛ければいいのか、どうやって動き出せばいいのか、全くわからなかった。
「長、ハヤトさん。起きていらっしゃいますか?」
「っ!!」
 呼びかけるテツの声と同時に扉が軽く叩かれて、ぶわっと尾が膨らむ。
 そうだ。今は昼間で、当然壁を一枚隔てた向こうにはたくさんの猫がいたはずだ。この住家だけは多少離れた場所にあるとはいえ、記憶にある限り、声を我慢した覚えが一切ない。耳のいいリビカなら、聞こえていたかもしれない。まさかテツは、それが聞こえていたのじゃないだろうか。
「…少し待って」
 狼狽するこちらをよそに、同じように扉へ視線を向けていたヒバリは冷静に対応をする。では、と特別な反応を見せないテツの声が返り、それきり部屋の中はまた静まり返ってしまった。
 新しい上着を取り出した黒猫は、寝台から数歩離れた位置で足を止めてしゃがんだかと思うと、くるりと振り返って何かを投げてよこした。
「ぅわ… な、何」
「服」
「へ? あ、ああ…」
 ばさばさと顔にかかった布を広げれば、適当に脱がされ投げ出された、自分の服だった。
 一瞬、己の現状を思い出して袖を通すことにはためらったが、裸のままでいるよりはいいだろうと、慌てて着こんだ。その間に、上着に袖を通して簡単に身なりを整えたらしいヒバリが、さっさと扉に近づいていた。
「しばらく出る」
「え、おい…」
 完全に着こんでしまうより前に、黒い尾が扉から出て行く。最後にふらりと揺れた毛並みが、擦り抜けるように消えてしまった。
「……なんだよ、あいつ」
 ひとり残されてしまった室内に、虚しく独り言が響く。
 どうにかして全ての服を着こんで、寝台から脚を下ろした。あれほどに力の入らなかったことが嘘のように、しっかりと床を踏めている。体にこれといった痛みも異変も違和感もない。いつもどおり、なにも変わらないものだった。
 けれど、と乱れた寝台を振り返って思う。
 あれは、夢でも何でもなかった。体にはいまだ生々しく痕が残されていて、耳には荒い呼吸が反響している。触れてくる指の力も、震えそうな快感も、すべて体が覚えていた。
「っ… 水浴び、水浴びをしよう。うん」
 全てを思い出しそうになる頭を振って、わざとらしく声を上げて歩きだした。
 開いた扉の先には誰の姿もなく、何一つ変わらない村の風景が広がっている。長身の影も、つがいの姿も見えないことに安堵しながら、行き慣れた水浴び場へと急いだ。


「今回の暗冬も今日が最終日です。大きな問題は街の中にもないそうですが、しばらくは油断できません」
 淡々と説明を始める部下に、そう、と返す。
 暗冬が終われば、祇沙には本格的な冬が来る。コートを一枚羽織りたくなる程度に寒さが増し、日によれば雪もちらつく。それなりに寒い日々が訪れようとしていた。
「予定通り、明日の昼までは警戒を続けます。今回は、幸い私は明日に回れそうなので、もし長に不都合がなければ、領主殿への報告は私がしますが」
「願ったりだけど… 今回はやけに早いね」
 大がかりな警備が必要だと領主直々に命があった場合、その結果を報告するようにと言われていて、毎回テツが直接領主に報告している。が、こと暗冬終了の報告に限っては、発情期と重なることが多いために、テツではどうしても別館まで行くことができなかった。そのために、仕方なく藍閃まで出向いていたのだが。
「ええ、何かあるのか、今年は皆早めのようですよ。村の中も、大半が済んでしまったようです。今年の祭りが静かなのは、だからかもしれませかんね」
「ふぅん…」
 発情期は冬に来るというだけで、明確な時期ははっきりしていない。個体差があるものだし、早ければ寒くなってすぐ、遅くても暗冬が終わって七日月もすればやってくるもの、だと聞いている。テツも、毎年時期はバラバラとはいえ、たいてい祭りの後だったのに。
 そんなものか、と思う頭をよそに、心は揺らいでいた。
 体が成熟した猫ならば、誰にでも発情期は訪れる。厄介なのは、それが雄雌関係なく対象とされる本能の性であることと、体の成熟のみで発情するために、心の成熟を待たないということだ。なんの覚悟も、なんの準備をする暇もなく唐突に訪れて、発散させれば消えていく。逆にいえば、発散させない限り身の内にあり続けるものだそうだ。燃え盛る火を身の内に抱いたまま、時間をかけて静まっていくのを待つしかない。
 分かってはいたか、それが自分に訪れるとなると、さすがに狼狽してしまう。
 漂う甘い香り。木の実や花のにおいではない、表し難いあの甘い匂いは、確かに銀猫のにおいだった。側にいた一年間、時折鼻を掠めてはいた。銀猫自身は気づいていないようだったが、今朝はその匂いが格別に強かったのだ。甘く、最適に熟れた果実にも似た豊潤な香りが。
 だから、体が動くままに従った。肌に舌を這わせればむしゃぶりつきたくなる衝動があったし、牙が触れあう感触は頭の後ろまで心地よく痺れさせた。手順なんて何一つ知らなかったのに、どうすればいいのか、どうするべきなのかも、知識ではなく本能が教えてくれる。そうして押し入った体の熱や、ふらふらと落ち着きのない尾、白い布に絡む手足、絶えずあげられる甘い嬌声も。何もかもが、理性を狂わせてしまった。
 あれが発情期だというのなら、猫の自制心など木の実よりも脆い。噛み砕かずとも、機が熟せば自然と落ち、やがて腐るように溶けていく。その瞬間に立てる香りの甘さは、きっとあんな匂いのはずだ。
「…長?」
 伺うように掛けられた声に、はっとする。まだ完全に周期から抜け切れていないのか、思考が正常な形に戻っていない気がした。
「なんでもない。なら、今日の夜には出る。明日、領主のところに行くのは任せるよ」
「へい」
「特に問題はなかったと、それだけで構わない」
「承知しました。では、私は…」
 頭を下げたテツが、視線を上げたままで停止する。
 辿るようにして振り返った先で、あたりをうかがうように扉から出てきた銀猫が、足早にどこかへ行くところだった。こちらからはかろうじて見えるが、広場との間にある家の影になって、あちらからは見えなかったらしい。いつもよりも軽装で走り去っていく先は、すでに専用の場所になりつつある水浴び場だろう。
「…ハヤトさんは、何かありましたか」
 その様子に首を傾げるテツが、体を起こしてこちらを見る。姿勢を戻して、さぁ、と首を竦めれば、そうですかと簡単な返答だけがあった。
「ここにこられて一年です。早いものですね」
「そうかな」
「すっかり村に溶け込んでいる。ですが…」
 含む物言いに、顔をあげた。長い付き合いだが、仰がなくてもテツの顔を見れたのは、彼自身が膝をついている時だけだった。
「何か、危ういときがあるなと思うだけです。賛牙というものは、そういったものなのでしょうか」
「賛牙だから?」
 広くない村に、現在賛牙はハヤト一匹だ。中には賛牙の能力を持つものがいるのかもしれないが、鍛えればそれで育つ闘牙と違い、賛牙には能力が芽吹くきっかけが必要になる。それが訪れない限り、賛牙にはなれない。それなりに長い村の歴史だが、賛牙は結局一匹も輩出していない。闘牙のことはある程度分かるが、賛牙のこととなるとさっぱり分からなかった。
 村でただ一匹の賛牙。いまや村で生まれた猫しかいない閉じた村で、ただ一匹だけの外猫。ハヤトという存在は、世界以上にこの村では稀だ。
「賛牙というのは総じて弱いものです、力も、心も」
「そうかな」
 今のところ、あの銀猫をそういった風にとらえたことは一度もないのだが。
「うたうことに専念する賛牙は、ですね。ハヤトさんは、心も体も十分に鍛えていらっしゃいます。ですがそれは、闘牙がいないという前提であったはずです」
 再び、遠く水浴び場の方へ消えていく影に視線を向けたテツが、ゆっくりとその目を戻した。まっすぐに向けられる視線は、何かを訴えているように強い光を湛えていて。
「今はもう、つがいとしての闘牙がいる。それが、彼の弱さにならなければいいと思います」