「君の番だ」4

 陽の月が森に沈み、あたりを銀色の陰の月が照らし始める夜半。
 交替で森に踏み出してみれば、相変わらず暗い森の中はしんとしていた。祭りのある時期には、藍閃周辺は異常な盛り上がりをみせる。とはいえ、派手ではなくどちらかというと薄暗い祭りの暗冬では限界があるのか、春の祭りに比べれば猫たちの態度もおとなしい。今年は、特にそのようだった。
 これなら、今年の見回りはここまで厳重に警戒することはなかったか。
 前回の祭りで起こった騒動を危惧した領主により、祭りの始まりを前にして受けた警告は、結局すべてが無駄なものとなってしまった。街の中では何か問題が起きているのかもしれないが、所詮警備外の地域だ。自分たちではどうすることもできないし、する気もない。外部からの手は摘むのだから、内部で発生した問題を解決するのは、内部の猫たちでしかありえない。
 普段よりもほんの少しだけ賑やかな森の中を、草を踏みしめて歩く。さく、という音から僅かに遅れて、さく、という小さな音が続く。
 視線だけで振り返れば、うろうろとあたりに視線を向けながら歩いてくるつがいが、コートの襟首を合わせるようにして握っている。その仕草は、親猫とはぐれてしまった子猫を思わせた。
 テツとの短い会話が終わり、足を住み家に向ければ、やはりそこに銀猫の姿はなかった。一度水浴びに出向いてしまえば、なかなか戻ってこないのが常だ。おまけに、多少なりとも体が汚れていたはずで、それを考えればいつもよりも遅くなるだろうことも予測できた。
 ただ立っているのも馬鹿らしいが、乱されたままの寝台に座るのも躊躇われて、敷いた布をはがして新しいものに変えた。どうしたものかと思ったが、とりあえず纏めておいて後で考えることにする。今は、あまりいろんなことを考えられる余裕がない。さほど間をおかず、銀猫も戻ってくる。その時にどうするかの方が、考えることとしては重要な気がしていた。
 が、何を考えたかハヤトは出発ぎりぎりまで戻ってくることはなく、もうそろそろ出なければという時間になって、ようやく家に戻ってきた。雪は降らずとも、冬になれば多少は肌寒い。ひんやりとした風が吹く森の中は、温かさを持つ陽の月の光も葉に遮られ届かず、寒さが増す。長時間水浴びなどしていれば体が冷えてしまうだろうに、いつもと変わらない枚数の服だけを着こんだハヤトは、コートを羽織っただけで準備は終わったと言い出して。
「寒くないの?」
「歩いてれば暑くなる」
 断言はしていたが、残念ながらいまだ暑くなるほどに体は温まっていない。いつもならば多少の騒動くらい起こるものだが、今日に限っては普段通りの様子で、走るようなこともなかった。
 やはり寒いのか、コートの襟を握る手には力がある。心もとないような仕草に、見ているこちらが寒くなりそうだった。
 暗冬は今日が最終日だ。例年ならば、より終盤の方が騒動も起きやすいが、今年は何もかもが少しだけ狂っているらしい。早めに訪れる発情期と重なるように、序盤が忙しく、終盤が穏やかにすぎていく。
 これならば、多少早めに引き揚げたところで構わないだろう。それでなくても、去年の暗冬よりは見回りの数も増やしている。必要ならば呼びに来る。元来、特別警備隊はそういった仕組みだ。
「ハヤト」
 そう決め込んで、足を止めた。振り返らないままでも、同じように足を止めて背中に視線を向ける様子が見えるようだ。
「…何」
「引き揚げるよ」
「え、早くないか?」
「陰の月が昇ってから今まで、なににも遭遇していない。このまま森を巡っていても時間の無駄だ」
「けど」
「暗冬も終わる。警備隊はまだ数組見回りに出てるから、必要なら呼びにくる」
「そう、だけど」
 不安に思うだろう要素をすべて潰せば、背後から困惑する気配がした。
「今年の祭りは静かだ。問題がないのなら、警備には意味がない」
 言い置いて、足を村の方角に向けた。リビカには帰巣本能というものが生まれつき備わっていて、あまり迷うということがない。中には方角を認識できない、いわゆる方向音痴な猫もいるのかもしれないが、今のところお目にかかったことはなかった。
 体が覚えている方角に向かい歩きだすと、戸惑いながらも後ろから付いてくる気配がした。ちらりと振り返れば、何かまだ納得できない顔で、それでもきちんとついてきている。
 コートに包まれた、雄にしてはずいぶん細いと思う体からは、今でもあの香りがかすかに漂っている。甘く、熟れ落ちる直前の果実に似た、とろけそうな匂い。今朝よりも随分と薄くなってはいるが、それでも確かにあって、意識を集中していないと簡単に飲まれてしまいそうなほどには、強い。
 以前から鼻を掠めてはいたけれど、ここまで強烈に感じるようになったのは今朝からだ。これが発情に伴う感覚の変化だというのならば、数日もすれば落ち着くだろう。けれど、そうではない予感があった。きっとこの匂いは、ずっとすぐ近くにあるのだと思う。消えることも、薄れることもなく、この賛牙が身近にあり続ける限り。
「おや、お早いお帰りですね」
 黙ったまま進む帰路は早く、村に帰ると決めた時間から、そう間を置かずに戻ってきた。祭りの間中、村で情報のまとめ役として待機しているテツが、予定を繰り上げて帰ってきたことに一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに笑って迎える。
「あまり問題はないようだから、引き上げてきた」
「そうですか、お疲れ様です。確かに、昨日までが騒動のピークのようでしたね」
「今日は?」
「今のところ、大きなものは」
 他の組からも、変化はないという報告なのだろう。ここに居を構えて数年、藍閃の祭りを裏側から警護するようになってから、こんなことは一度もなかったが。
「なら、明日のことは任せたよ」
「へい」
 丁寧に頭を下げるテツが、背後に目を向けて、首をかしげる。
「ハヤトさん、体調が?」
「へ…」
 間の抜けた声が上がり、肩越しに振り返る。相変わらずコートの襟首を掴んでいる指先が、わずかに白い気がした。言われれば、体調が悪そうに見えるが。
「いや、そんなことは」
 否定の言葉を口にはするが、確かに顔色も良くはない。ここまでの道のりを、特に文句を言うでもなく黙々とついてきたし、遅れることもなかったから、気配だけ確認して振り返る事はしなかった。歩調も同じだったはず。
「失礼します… ああ、熱がありますね」
 隣に移動したテツが額に触れる。一瞬だけ、銀猫の肩が強張ったかのように見えたが、触れられてすぐに力を抜くのがわかった。
「熱?」
「そう高くはないと思いますが。長、気づかなかったのですか?」
「…子猫じゃあるまいし」
 発熱しているのを気付かなかっただけで、責められるいわれはない。
 だが、なぜかテツは顔をしかめ、息を吐くだけで。
「恐らく、一晩は続くものと思います。後で熱さましの薬草をお持ちしましょう」
「悪い」
 へた、と銀色の耳がしょげる。力なく下がる尾も、テツの言葉が真実だと告げていた。
 寒そうにはしていたし、だからこそ早めに引き揚げてきた。すでに時遅し、だとしても、悪くなったのならそう言えばいいのに。
「祭りも終わりです、今日明日はゆっくり休んでください」
 そう言って、テツがハヤトのそばから離れる。ふらつくほどに体力を消耗しているわけではないらしい賛牙は、しっかりと立ってはいるものの、足元は危うく見えた。
 案の定、住み家に戻ったハヤトは、コートを脱ぎ履物を鬱陶しそうに転がしてしまうと、寝台に横になりすぐに目を閉じてしまった。立っているのもきついのか、横になった瞬間、ふう、と息を吐いたのが聞こえる。
「…そんなに体調が悪いのなら、どうして言わなかったの?」
 寝台から数歩離れた距離で、できるだけ静かに声をかける。閉じた窓の隙間から差し込む月光が、横になる賛牙の髪と耳に反射してまぶしく、なぜか近づきがたく感じた。
「え… あー、出かけは、全然悪くなかったから」
「いつから」
「少し森を回ったあたりから… 熱があるとは思わなかった。冬なのに暑いなとは思ったけど」
 まるで一度も熱を出したことがない子猫のような口ぶりだ。まさかそんなことはないと思うが。
 まだ幼かった頃、移動に移動を重ねる生活が災いして、一度大熱を出したことがある。祇沙に一つしかない移動しながら生活する部族は、数が多くないがばかりに横のつながりが強く、たった一匹の子猫が熱を出したからと、ずいぶん長く移動を中断した。文句を言う猫もおらず、代わる代わる寝床を覗かれて落ち着かなかった覚えがある。思い返せば、数日月の間に熱はすっかり下がったというのに、それ以降、それまで以上にテツがそば近くにいるようになったはずだ。
 だからあんなに気をつけろとうるさかったのだろうか。だが、あの頃は幼い子猫だった。自分の発熱具合など分からなかったし、体調管理ができていた自信もなかったけれど、今のハヤトは子猫とはいえない年のはずだ。一応は発情期が来た以上、身体的には問題なく。
 熱がよほど高いのか、横になったハヤトが小さくうめく。気だるげに投げ出された手足に、赤みがあるようにも見えた。
 こういうとき、どうしていただろうか。最後に熱を出したのは、村がなくなる前の話だ。もうずいぶんと昔で、おそらくは母猫にしてもらっていただろう、看病、というものが全く思い出せない。
 ハヤトは暑いと言うのだから、涼しくしてやるのがいいのだろうか。だが、一応季節は冬だ。いくら温度変化は僅少だとはいえ、寒いものは寒い。冷たい空気に触れれば、余計に体が冷え込んで、熱が高くなるのではないか。それなら、冷たい風などには当てず、暖かくしておいた方がいいのか。
 ぐるぐると、結果の出ない問答が頭を巡る。
 水でも飲ませた方がいいのではないか、という考えに至ったのは、ふ、と苦しげにはき出されたハヤトの息が、わずかに肌寒いだけの夜気に白く色づいたのを見てからだった。見た目に分かるほど、熱が上がっている。汗をかけば、それだけ喉も渇くだろう。忙しなく息が繰り返される唇も、そういえばずっと開いたままだ。
 肩にかけたままのコートを取り、椅子に引っかける。台所へ向かおうとした足を、控えめに扉をたたく音で止めた。
「長、よろしいでしょうか」
 聞き慣れた声に、行き先を変える。いろいろと勝手に考え込むよりは、テツに聞いた方が的確かもしれない。
 扉に手をかけ開けば、片手に小さな器を持ったテツが立っていた。ちらりと横から覗くようにして室内に目をやり、横になったハヤトの姿を認めて、また少し思案するような顔になる。
「テツ」
「あ、へい」
 考え込む部下を見上げる。
「どうしたらいいのか、全然分からないんだけど」
「長?」
「ずいぶん前の事で、どうしていたかなんて覚えてない」
 冷ませばいいのか、暖めればいいのか。それすらも分からず、部下に聞くのは情けない。けれど、このまま放置しておく訳にもいかない。
「…まずはこれを。熱冷ましの薬草をスープにしていますから、ゆっくり飲ませてあげてください」
 なぜか目を見開いていたテツが、ふ、とその視線を和らげる。なんだと問う間もなく、片手の器を渡された。のぞき込めば、中には薄緑色の暖かそうなスープが満ちている。漂う香りは、よくある野菜と肉のスープに似ているが、かすかに違うにおいもした。
「それから、できる限り水を飲ませてあげてください。冷たくなくていいです、瓶の水をそのまま」
「ああ」
「できれば濡らした布で額を冷やすように。顔が熱いので、たまに拭いてあげると気分的に違います。あとは、窓を少し開けて風を通し、肩を出さないように体を覆ってあげてください。それで十分です」
 てきぱきとした指示に、うなずく。そういえば、そんなことをしてもらっていたような気もする。覚えは薄いが。
「長」
 他に何があっただろうかと、かすかに蘇り始めた記憶を引き起こそうとして、止められた。なんだと顔を上げれば、室内と、背後を気にするように視線を巡らせたテツが、声を低くする。
「ハヤトさんの熱は一過性のものです。明日か、明後日には落ち着くでしょう。それまでは、気を配ってあげてください」
「…どうして」
 そんな事が分かるのか。
 病だとすれば、原因が分からない限り、熱がいつまで続くかなんてものは予測できない。今は、ハヤトが熱を出した原因さえ分かっていないのに。
「口を出すのも無粋かと思いましたが… 初めて発情期がくると、熱が出る猫もいるんですよ」
 言い渋るテツが、さらに声を落としてつぶやく。
 遠回しに聞こえる言葉を理解するのには、多少時間がかかった。
「……テツ」
 意味を理解した瞬間、どうして知っているのかという疑問よりも、なぜなんの確証もないのに言い当てたのか、その可能性に行き着いて、知らず知らずに言葉がきつくなる。今朝テツが扉を叩いたのは、熱が引いていった直後だった。まさか監視しているなんてことはないと思っていたが。
「弁解するわけではありませんが、こればかりは私に咎はありませんよ。猫には、特に発情期を周期として受け入れている猫には、発情期に入った猫が分かるんです。でなければ意味がありませんからね。今朝、長にもそれを感じましたし、出かけにお送りしたときハヤトさんにも感じました。それでも一番強い衝動は過ぎているようでしたから、予測はつくものです。ですから、無粋を承知して、と言ったでしょう」
 降参だとばかりに両手を挙げるテツが、困ったように苦笑いをした。
「おふたりとも、年齢的には十分ありえる事です。皆通過してきた儀式のようなものですし、そう怒らないでください」
「別に、怒ってはいないけれど」
 言われれば確かに、発情期に入ったハヤトからはたとえようもない甘いにおいがしていた。目の前に立っているテツからは全く匂わないが、いくらか早めに周期が訪れていると聞いていたし、今年は済んでしまったと言っていたはずだ。それなら、もう分からなくて当然だろう。
 住み家を探っていたのではないのなら、どうでもいいことだ。
「相手があれなことについて何かあるかと」
 ちらりと背後を振り返ると、窓際で横になる銀猫はぴくりとも動かない。耳すらもへたりこんでいるところを見ると、おそらく眠ってしまっているか、そうでなくとも話は聞こえていないだろう。
「どうしてですか?」
「…いや、なんとなく」
 ごく当たり前のように疑問を返されて、逆にこちらが戸惑ってしまう。
 テツは、長になるのだと言い聞かせてきた、一番の猫だ。その気はないといくら言っても、村など出て行くと言っても、それでも長に変わりないと一歩も引かなかった。かつての村は世襲制度をとっておらず、長の子が長になるというわけでもなかったし、おそらく父猫が生きていたとしても、自分を長に指名はしなかったと思う。
 それでもテツが向けてくる一方的な期待を、鬱陶しいと思ったことはあっても、有り難いと思ったことはない。そのうちお節介が過ぎて、いい雌猫がいたからぜひ、くらい言ってくるかもしれないと、思わないでもなかったのだが。
「外に出ることが少ない我々には、あまり当てはまりませんが、なにも最初の相手にだけ反応するわけではありませんよ。それぞれの気持ち次第で、その時に一番強く反応する相手が変わることもあります」
「反応?」
「ええ。発情期にも相性があります。一番強い衝動は、より相性のいい相手にだけ反応するものなんです。だから、毎年同じ猫に対して強い反応が出る場合もありますし、逆に毎年違う場合もある。そういった相手のいない場合は、だいたい誰を相手にしても変わらない、というのが通説ですね」
 聞いたことのない説明をつらつらと上げていく。そういえば、今日の今日まで発情期が来なかったこともあって、テツにこういった類の話を聞くことはなかった。村のことや藍閃のこと、様々なことはテツから聞いたものだが、こと発情期に関してだけは、時期が来たらでよいのでは、と一言で終わっていた。興味もないからと、聞かないままで過ごしてきたが。
「それは相手が雄でも雌でも同じようですよ」
「…来年は別のが現れるかもしれないから、今年はいいって?」
「まさか」
 自分でも意地の悪い言い方だったと思う問いに、テツが目を見張る。
「長の子が生まれれば将来が楽しみだと思ってはいましたが、それは私の勝手な想像でしたから。村は世襲制ではありませんでしたし、長に子ができなくとも誰も何も言わないでしょう。妙な猫にかっさらわれるかと思ったら腹も立ちますが、ハヤトさんでしたら長を守れる方ですし、なによりつがいの力が強くなる。願ったり叶ったりですな」
 けろりと言いきったテツは、口元にくわえたままの草を軽く揺らして、笑っている。
「それは長の決めることで、私たちの干渉できることではありません。長がハヤトさんだと決めたのなら、我らにできることは受け止めることだけです。どうぞ、早く飲ませて上げてください。明日には引きますが、熱さましを飲めば意識くらいは戻ってくるはずですよ」
 言われて、手にスープの入った器を持っていることを思い出した。温かいはずのスープは、話し込んでいる間に冷め始めている。熱で体温が上がっているとはいえ、これ以上冷めては味が落ちるかもしれない。
「では、私はこれで」
 頭を下げたテツが、踵を返して村に戻っていく。その姿は夜の闇に溶けて、すぐに見えなくなってしまった。
 確かに村は世襲ではないから、この先子猫が生まれようと生まれまいと、村の機能としては問題ない。そもそも、この村はすでに移動民族としての習性を失っている。今更、村が存続していくか否かなどは、考える必要もないことだ。黒猫である自分がいなくなってしまえば、ここに留まっている意味も失う。
 世界は、滅びに向っている。呪われた黒猫の存在など、あってもなくても、確実に祇沙は死に絶える。
 雌雄関係のない発情期に、子猫を産める雌に発症率の高い病気。時折森に現れては果物や小動物を危険な存在に変えてしまう虚という異変。これらを乗り越えてまで存続していこうという力が、今の祇沙には感じられない。
 藍閃の領主が変わって、三年。その間に、多少は気力が回復しているように見えるが、根付くまでにはまだ長い時間が必要だろう。その間に、雌が滅亡してしまう可能性も、全くないとは言い切れない。
 だから、村を存続させていく、という事には意味がないと思っていた。村の存続以前に、祇沙自体から猫が失われる可能性がある。正体の知れない女神リビカが、長い時間をかけて仕掛けていた罠は、そう遠くない未来に完遂されるだろうと、なんの疑いもなく受け入れていた。そういう考えが、発情期の訪れすらも遠ざけているんじゃないのかと、ここ数年は思うくらいに。
 既に何者の影もない、広場へと続く薄暗い道なき道は、まさしく猫の行く末のように思えていたのに。
 ふ、と息を吐いて、扉を閉め室内に戻った。もう長く頭の中にある思いは、諦めたというよりは、どうでもいいと結論付けたものだ。雌が滅び猫が滅び祇沙が滅んでも、あまり自分には関係がない。雌猫を娶る気もなかったし、猫がどれだけ滅んだとして、祇沙にその影すらなくなったとして、それは猫の歴史が始まった瞬間に決まっていたことだ。ただ、自分がその瞬間に立ち会うかもしれない、というだけのこと。立ち会わないまま命が尽きることだってある。つまり、憂いても仕方がない、考えるだけ無駄なことだ。
 陽の月が東から昇り、沈んで、陰の月が後を追うように昇る。それが気に食わないから逆にしたいと努力したところで、逆には決してならない。そういうことだ。
 明かりを点けないままの室内は、外同様に薄暗い。暗闇に強いリビカの瞳をもってしても、物にぶつからないで歩くのがせいぜいだ。
 僅かな隙間からこぼれる光を受けた銀色が、導のようにきらめいている。きし、と床が音を立てれば、耳が震えて光が乱反射した。眩しくて仕方ない。
 寝台の横に足を止めれば、ぼんやりとした緑色の瞳が見上げてくる。よく分かっていないのか、子猫が縋りつくような視線に、手を伸ばして額を撫でた。うっすらと熱を持つ白い額に指先だけで触れれば、くる、と小さく音が響く。
「…つらい?」
 自然と小さくなってしまう声には、いや、と返ってくる。
「つらくは、ないけど。だるい」
「熱さましがあるから、飲んだ方がいい。多少は楽になるだろう」
「ねつさまし?」
「そう、ぬるいけどね。起きれる?」
 枕もとに腰をおろせば、緩慢な動きでハヤトが体を起こす。体を動かすのがつらいというよりは、ハヤト自身が言っていたように、とてもだるそうな動き方だ。寝台に座り込む姿も、ふらついていて今にも倒れてしまいそうに見える。
「持てる?」
「んー…」
 緑がかったスープの入っている器を差し出せば、どうにか受け取ろうと手を伸ばしてきた。が、こちらが指を離してしまえば、即座に取り落としてしまいそうなほどに、力が入っていない。結局、器を持ったまま、ハヤトがスープを掬い飲むのを待つことにした。ぴちゃ、という舌の音すら、どことなく元気がない。
 テツは、初めて発情期が訪れると反動で熱が出る、と言っていた。が、同じように初めの発情期が訪れたというのに、こちらには何の影響もない。ただ、こうして近くにいると甘い匂いが鼻先を絶えず擽るくらいで、熱っぽくもなく、体もいつもと何ら変わりがない。
 ハヤトだけに変化が現れたのは、受け入れる側だったせいなのだろうか。あの時、ハヤトには全く苦痛の色がなかった。冷静に思い返せば、手段も方法も知らないまま本能に従った手段は、決して優しいものではなかったはずなのに、痛がるどころか、どこに触れても必ず反応した。
 あれが発情期特有の反応なら、熱はその反動だと考えれば、説明がつく。同性同士でも関係のない発情期ではあるが、本来は繁殖のために必要な行為、周期であって、相手は子猫を産める雌猫であるのが正しい。それを、繁殖行動としてではなく、ただ体の熱が上がったという理由で、雄に対して求めているのだから、いくら痛みがなくても後で無理が来るということだ。
 俯き、器に舌を落とすハヤトの頭が、軽く揺れる。首筋にかかる銀色の髪がふるえて、さらりと流れた。現れる肌は熱を灯してほのかに赤く、やはりあの甘い匂いが漂ってきている。
 知らず力のこもる指先が、器を軋ませた。
 見る限り、ハヤトには発情期の影響はあっても名残はない。テツは、見て分かるくらいには残っていると言っていたが、今こうして近くにいる分には、全くいつも通りだ。匂いと熱があるくらいで、それ以外に特別なところは何もない。
 けれど、こちらは違う。なぜかまだ、腹の底の方に渦巻く熱が燻っているを感じていた。
 一度発散してしまえば、多少の残りはあっても収束してしまう。それが発情期の特徴なのに、多少の残りがいつまでたってもなくならない。むしろ、時間を追うごとに再び強くなっているような気すらする。
 理由は分かっている。この、甘い匂いの所為だ。
 ふわりと銀猫の首筋から漂う香りは、あえて例えるなら、熟れて一番おいしい時期の果実が発する匂いに似ている。それが鼻先をかすめる度に、腹の中で違う感情に変わってしまう。
 齧り付いて、牙をたて、傷をつけるぎりぎりの力で肌を咬み、上がる声が聞きたい。肌に残る歯列の痕を舐め、吸いつき、震える体を組み敷きたい。へたり込む耳を食み、落ち着きなく振られる尾に尾を絡め、牙が触れ合うあの音が聞きたい。
 醜いばかりの劣情が体を占拠して、頭がどうにかなりそうだ。
 昨日までは、こんなことはなかった。いつもどおりの日々があって、多少の変化を伴いながらも、決して大きな変動はなかったのに。
 今はもう、こうして横に座っているのも苦しい。
「ん…」
 微かに上げられる声に、はっとして手元を見る。いつの間にか器の中は空になっていて、座っているのが精一杯のハヤトは、やっぱり頭をふらふらと泳がせていた。
「…飲んだなら、また寝てなよ。起きたら、水をあげるから」
「うん」
 いつになく素直に頷くと、限界とばかりにころりと横になった。こちらに向けられる丸くなった背中に、足元で固まっていた寝具を引っ張り上げて掛けてやる。あとは、窓を少し開け、水に浸した布を額にかけてやれば、一通り言われた処置は済んだことになる。が、横を向かれたのでは布は無理だろう。
 仕方なく、寝台から降りて台所に向かう。スープの入っていた器を洗い場に置き、脇に置いている甕を覗きこんだ。中には水が半分ほど残っていて、近くの棚に置いてある水差しに移してしまうと、空に近い状態になる。とりあえず今必要な分はあるのだからと、後のことは考えずに、洗い晒しの器を一つ手にもって、寝台のそばに戻った。
 寝台の脇に置いてある台に水差しと器を置き、ついでに少しだけ窓を開けて、横になったままの顔を窺う。先ほどよりは呼吸も落ち着いたようだし、頬の赤みも、心なしか薄れてきたように見えた。
 発情期とは、こんなものなのか。
 互いの体と心に、苦痛にも似た変化をもたらす。昨日まで出来ていたことが、なにも出来なくなってしまう。
 そんな急激な変化は望んでいなかった。何か変化があったとしても、もっと穏やかで、緩やかに訪れるのだと思っていた。たぶん、お互いに。
 なのに、体ばかりが先行していく。心の中では、休ませないといけないとわかっているのに、叩き起こしてでも組み敷きたいという欲望が、確かにある。
 これは、よくない。非常に良くない。
 強く手を握り込むと同時に、わずかに出した爪が掌を傷つける。その痛みで、ぎりぎりの理性を保ちながら、寝台から離れ机まで後退した。椅子に腰をおろせば、高さが低くなり銀猫の姿も頭しか見えなくなる。向けられた背と、小さな後頭部だけならば、どうにか耐えられそうだった。
 ふう、と深く息を吐いて、足を組む。ついでに腕を組んで、肩の力を抜いた。
 とにかく、距離を保つことだ。匂いについても、姿についても、距離さえ保てば耐えられる。耐えなければ、今度は何をしてしまうか全く分からない。発情期とはいえ、一番強い衝動はとうに過ぎている。真っ最中ではないのだから、自制がきくはずだ。
 そう強く言い聞かせて、ゆっくりと瞼を下ろした。
 夜明けまでの時間、椅子に座ったままでは満足に寝ることもできず、さりとて席を外すこともできず。黒猫は、ただ悶々とした時間を過ごすことになる。