「君の番だ」5

 暗冬が終了して、三日月。
 前回の祭りに比べ、これといって大きな騒ぎもなく穏やかに進行した祭りは、いつものように不気味なほどの静けさを街に残して終了した。一転して閑散としてしまう市、猫の姿が消えた裏通り、森に出る猫も、街から街へ移動する猫の姿も少なく、藍閃を囲む迷いの森は普段以上に静かだった。
 僅かに行き交う猫たちの話題は、祭りがつつがなく終了したことと、幾分早くに始まった発情期に集中していて。今年は猫が戻ってくるのは早いかもしれない、と笑う商売猫たちが、彼らだけが知っているという安全な道を歩いていく。その道からわずかに外れた森の中、気配を消しつつ行きすぎるのを待っていた二匹の間には、形容しがたい空気が漂っていた。
 冬の森で体調を崩して以来、ヒバリの様子が少しおかしい。
 熱は翌日には収まり始めていて、夜にはすっかり引いていた。テツが持ってくると言っていた熱さましの薬草を口にした覚えはなく、代わりにスープかなにかのようなものを飲んだ気がする。後で聞けば、テツが薬草をスープ状に料理して持ってきていたのだそうだ。味も良く覚えていないし、最後まで飲んだのかもあいまいだが。記憶にあるのは、不意に目を覚ました時に見た、寝台横の台に置かれた水差しと器、そして少しだけ離れた位置に座った姿勢のまま眠る黒猫の姿で。
 その時はまだ、気を遣っているんだろうと思っていた。一応は熱を出しているわけで、体調も良くない。いつも二匹で寝る寝台は、自分だけで横になると広かったけれど、まさか横に来て寝ればいいとも言えなかった。
 体にはまだ感覚が生々しく残っていたし、実際、どう声をかければいいのかもわからなかった。気まずい空気は、黒猫が確かに寝ているのだとわかっていても拭えず、前日までは普通に交わしていたはずの会話も、今ではどうやってしていたのか全然分からなくて。
 お互い様なのか、ヒバリから声をかけてくることも少なくなっていた。
「その熱、発情期のせいらしい」
 完全に熱が引いて、掛けられた言葉はそれだけで。
 改めて聞く発情期という単語と、奇妙に思うほど表情のないヒバリに、そうなのか、と返すだけが精一杯だった。
 それきり、ヒバリはあまり口をきかない。もともと口数は多くない方だと思っていたが、ここ数日は本当に必要最低限しか言葉にしなくなっていた。
 僅かな熱を残していた最初の日、多少の説明をした後、少し出てくるからと言って出たっきり、夜になるまで帰ってくることはなかった。帰ってきても寝台に近づくことはせず、体調の確認を言葉でしただけで、寝るのも椅子に座ったまま寝たらしい。
 翌日になって、ようやく熱の引いた体を起こすと、明日までは休みにしてあるから今日も寝ていればいいと言われた。けれど、すでに二晩、ヒバリは椅子で寝起きしている。それを横目にのんびりと寝て過ごすこともできないからと、半ば無理を言って起き上がった。その様子を黙って見ていたつがいは、しばらく考え込むように黙ると、明日には森にでるということだけを告げて、再び出ていき、また夜まで帰ってこなかった。
 一匹で森に出ているわけではないことだけは、わかっていた。テツにスープの礼を言いに行った時にも、水浴びをしに行った時にも、なぜか空になっていた水甕に入れるために水汲み場に向かった時も、ちらりと視界に入る位置にいた。大抵横になっているか、何かを考え込むようにしているだけで、おそらく向こうも気づいていたのだろうけれど、どうにも声が掛けづらくて、そのままにしてしまった。今にして思えば、手伝えの一言くらいかければよかったのかもしれない。
 そうして、今日になってもまだ、ヒバリの口数は増えない。
 どうすればいいのかわからないのは、お互い様だ。あんな事になって、むしろ恥ずかしいのはこちらの方じゃないのかとか、昼間に外で寝るくらいなら家で寝ればいいのにとか、言いたいことは山のようにあるんだと思う。
 でも、微妙にとられた距離のせいで、声も掛けづらい。
 どうしてこんなことになったのか。一年もかけて少しずつ縮めたはずの距離が、初めて会った時の距離にまで戻された気すらしてしまう。
 今朝、森に出るといった後、ヒバリはさっさと席を立った。
 残された果実水と、数個の木の実、立ち尽くすしかない銀猫の姿を振り返ることは、ないままに。


 警戒するべき祭りの後だというのに、森は静かで、結局時間が来るまでの間に騒動と出くわすことはなかった。会話もなく、ただ黙々と歩き続けて村に戻れば、変わらずに出迎えてくれるテツだけが、にこりと笑っていた。
「お帰りなさい。今日も静かでしたか?」
「ああ」
「そうですか。藍閃の方も、特に問題なく過ごしているようです」
「行ってきたの?」
「へい。お疲れでしたと、伝言です」
 そう、と興味なさそうに呟いたヒバリは、そのまま足を村の奥に向けて歩いて行った。残されたテツと、足を止めたままの自分、二匹だけが残された広場には、さわりと冷たい冬の風が通り過ぎていく。
「長は、何かありましたか?」
「知らねぇ。つか、まともに口も利かねぇから、知りようがねぇ」
 むしろ、何かあったのかと、こちらが聞きたいくらいだ。いや、あったにはあったが。
 どうしたって不機嫌になってしまう口調に、テツが首を傾げる。
「話されないのですか? 何も?」
「多少は話しても、すぐに出て行ってそれっきりだ」
 話す気があったとしても、相手にその気がなければ無視されて終わりだ。どうしようもない。
「はぁ… ここに来られた頃のハヤトさんを思い出しますねぇ」
 いい加減に腹が立ち始めたこちらとは違い、テツがのんびりと呟く。
「そうか?」
「ええ。ああして、いつも水浴び場の方に行かれていました。そういえばここ最近は、あまり行かれませんね」
「行かなくはないぞ」
「回数は減ったでしょう? それにあの頃は、他に居場所がないような風情でしたからね。私たちはあまり水浴びをしませんし、ハヤトさんの気が休まるならと思っていたんですが」
「へぇ…」
 遠くを歩く黒猫の背中が、木々の中に紛れていく。あの先には、他の村猫があまり立ち入らない、黒猫だけの場所がある。少数の群れで暮らす猫のなかにあって、ヒバリはその少数の群れですら厭う。それを知っている村猫たちは、ヒバリだけの場所を作るためか、その周囲に近づくことはない。同じように気遣われ、水浴び場を居場所として明け渡されていたとは知らなかったが。
「居場所、ね…」
 あの木々の中は黒猫以外の猫を受け入れず、彼だけの場所としてそこにあり、変わらず迎えくれるだろう。何度か足を踏み入れたことはあるが、他の猫のにおいが一切しない、本当にただ草木が広がるだけの小さな広場だ。
 自分の居場所が分からなかった一年前。確かに、水浴び場ばかりに足を運んでいた。他に、自分が居ていい場所が見つからなくて、数少ない他猫の出入りが少ない場所がとても気に入っていたから。
 そんな自分に、家に居ればいいと言ったのはヒバリだ。
 なのに、今になって自分から出て行って、あんな風に一匹で引きこもってしまうのは、居場所がない所為だからだとでもいいたいんだろうか。ならば、最初から家に入れなければよかった。予定では、別に家を建ててもらうようにしていたはずだし、それまでの間借りとして片隅を借りていたはずだ。野宿でもしていると言ったのに、家に居ていいと受け入れ、挙句寝台まで共有するようになったのは、すべてヒバリが許可したからなのに。
 今になって、それを厭うのは、筋違いすぎる。
「ハヤトさん?」
 知らず唸っていたらしく、テツに声を掛けられてはっとした。
「あ… いや、悪い」
 低く振動を続ける喉に手を当てて、ため息を吐く。ここで苛立っていても仕方無い。
「いえ。何か問題でも?」
 首を傾げる猫を見上げる。大型種らしい、小さな丸い耳は、そのほとんどが独特の髪型に埋もれて見えていない。そうしていると、まるで猫とは違う生き物のように見えた。
「少しだけ」
「そうですか」
 濁す言葉に、短く返して来たテツは、見上げるこちらを見てちらりと笑った。よほど、納得できないような顔をしていたらしい。
「おふたりの問題です。私が口出しする必要はないでしょう」
「まぁ、そうだけど」
 ヒバリ第一主義のテツだ。もう少し何か、文句なり助言なり言ってくるかと思っていたが。
「長のことはハヤトさんにお任せしましたから。ああ、そういえば」
 笑ったままのテツが、ふと黒猫が消えた方角を見る。
 つられて目をやっても、そこには当然誰の姿もなく、ただ冬の木々が色少なく広がっているだけで。
「数日前に、長にも同じようなことを言われ、同じような話をしました。あなたたちは、似ていないようなのにとてもよく似ている。面白いものですね」