「君の番だ」6

 テツと別れ住み家に戻れば、しんとした室内にはやはり誰もいなかった。机の上には火の消えた照明があって、そういえば今朝油の買い置きが切れたのだと思いだした。普段は、順番で回るらしい買い物当番が、生活に必要でも自給できない品物を藍閃まて仕入れに行く。それを分けてもらうのだが、熱を出している間にすべて使い切ってしまった挙句、分けてもらうのを忘れたらしい。この村に来て以来、確かに買い出しの猫に声をかけるのは自分だったが、元は一匹でこの家に暮らしていたはずなのに、そんなことすら忘れているのだろうか。
 仕方無く、水甕から水をくんできて、台所の棚に置いていたみちしるべの葉を浮かべた。日中、陽の月が放つ光を十分に吸い込んでいる葉は、水に浮かべると淡い光を放ち始める。時間が経ち吸い込んだ分の光を放い終えてしまうとただの葉に戻ってしまう不思議な葉は、火を怖がる子猫や、寝る前に灯す安全な明かりとして重宝されていた。
 ふわりとした淡い光を放つ器を寝台の脇に置き、肩にかけたままのコートを脱ぐ。椅子の背にかけて、そのまま寝台に戻り腰を下ろした。
 どうせ今日も、陰の月が昇りきるまで帰ってこないつもりなのだろう。つがいとなり、この村に迎えられて一年。今になって、立場が逆転するとは思いもしなかった。
 声を掛けづらいのは、お互い様だ。どんな話をすればいいのかわからないし、どう声をかければいいのか、どんな顔をすればいいのかも、正直よく分からない。いつも通りでいいと思っても、暗冬前までどんな顔をしていたのか、話をしていたのかさえ、全く思い出せないくらいに、衝撃が大きかったから。
 けれど、離れたいと、思ったわけではない。
 どれだけ気まずくても、話しかけられなくても、つがいを解消したいと思ったわけではないし、村から出たいと思ったわけでもない。
 あの時、この村に留まると決めた夜に、何があっても近くにいると決めた。賛牙として、ただ一匹の猫としてヒバリの隣に居続けるのだと。
 だから、今のこの状態は、気に食わない。
 このまま何もかもが有耶無耶になって、口も利かないまますれ違っていくのだけは、絶対に嫌だ。
 ぐるる、と唸る音が自分の喉から聞こえる。布を叩く乾いた音が、尾の先から鈍く伝わる。押し殺すことのできない感情が、体中から不満を告げていた。
 鬱々として過ごす時間は長く、窓も扉も開けない室内は、ただ一つの明かりが照らすだけで。
 ゆらりと、器の中で葉が揺れる。その微かなゆらめきに合わせるかのように、家に一つだけの扉が静かに開いた。
「遅ぇよ」
 苛立ちを含む声に、黒い影が足を止める。起きていることが予想外だったらしい、小さな光に照らされる黒瞳は、真ん円に見開かれていた。
「…明かり、なかったっけ」
「買い置きが切れた。水も空だったし、俺がたった二日寝込んだだけで、なんでこんなことになるんだよ」
「水は、君に用意した分で切れただけだ」
「それじゃ、丸一日水なしだったってことか」
「そうなのかな」
 言われて初めて気づいた、とでもいうように、不思議そうな顔で首をかしげたヒバリが、止めていた足を動かし始めた。ぱたん、という小さな音をたてて扉が閉められれば、室内はまた小さな明かりが照らすだけになる。
 リビカは、そう多くの食事も水も必要としない。ほんのわずかな食事で長く活動できるし、肉に至っては食べなくとも構わない体のつくりをしている。二日三日水を飲まなかったからといって、体に変調が起こるようなことはないが、それでも全く飲まずにいられるかというと難しい。まして、忘れるような類のことではない。
 常々おかしなやつだとは思っていたが、おかしいにもほどがある。
 そんなに、嫌なのか。
 一年もの間をかけて少しずつ縮めてきた距離を無にし、許した全てを覆すほど。住み家にも帰らず、口もきかず、食べ物も飲み物も口にすることすら忘れるほど。たった一度本能に負けたことが、負けて雄なんかが相手になってしまったことが、そんなに。
「ハヤト?」
 不快を訴える喉のうなりに、コートを外す手が止まる。なにも変わりがないように見える黒猫は、けれど確かな位置を保って立っている。手を伸ばしたって、絶対に届かない距離に。
 握りしめる手が痛い。掌を痛めつける爪の感触に、爪を引こうと思うのに、全く引っ込んでくれなかった。
 そんなに嫌なら、はじめに言ってくれればよかったのに。たまたま時期が悪くてそうなっただけだ、と。今回だけだから忘れろと、そう言ってくれた方が、よほどましだった。
 なかったことにして、それで以前通りの二匹でいられるのなら。
「っ、何…」
 座り込んだ寝台に、りいん、と音が唐突に響く。体の奥深くから伝わる音が、体を通し、体に触れている寝台に響くようにして、やがて部屋全体に広がる。みちしるべの葉が照らすだけの室内には、気づけば己の体から発せられる音の光が強く広がり、机や椅子、立ち尽くす黒猫の影を濃くしていた。
「歌? どうして」
「しらねぇよ、そんなの…」
 困惑した声が、お互いの口から洩れる。
 緩やかな光の渦は、いつもならば闘牙に向かうはずなのに、なぜかいつまでたっても体から離れて行かない。ふわふわと身を包み、まるで自分自身に対して歌ったかのように、漂い続けている。
 賛牙が体から発する歌は、その力の全てが理解されているわけではない。まだまだ知られていないことが多く、思念や思い、声や楽器を使う猫に至っても、これといって明確な力の範囲は分かっていないものだ。優秀な賛牙であれば、歌で草木を育てて、雨を降らせ、記憶すら左右するというが、その真偽も定かじゃない。以前、花を咲かせる歌というのはうたったことがあるが、天候を左右したり記憶を変えたりなんて歌は、歌う必要もないせいか、ちっとも思い浮かばなかった。そのくらい、曖昧なものでしかない。闘牙以外に対してもうたえることは知っていたが、まさか自分自身にうたうなんてことは考えてもみなかった。
 体から発した歌が、再び体に戻ってくるのは奇妙な感覚だ。ただ発するだけだったのに、改めて自分で聞く歌は、延々と自分の声が響くようで、どことなく落ち着かない。
 それでも流れることをやめない歌が、するりと指先から体に染み込んでくる。首筋、足先、髪の一本からと、さまざまな場所から染み込むようにして響く歌は、忘れるといい、と繰り返していた。
 何もかも忘れて、最初の一に戻って、なくしてしまえばいい、と。
 そうすれば、きっとお互いに出会うことすらなかった。なりそこないの賛牙は一生をなりそこないのまま終えて、祇沙を滅ぼすと言い伝えられる黒猫は、己の未来を歪めた仇を追い続けただろう。もしかしたら、自分ではない賛牙を見つけて、つがいになっていたかもしれない。同じように手を引き歩いて、歌を受け、唇に触れる猫と。
「っ、違う!」
 息が止まりそうなほど胸を苛む痛みと、背中を這う恐怖に、思わず声を上げた。途端、止め処なく流れていた歌がぴたりと止まる。室内のあちこちに光の余韻を残しながらも、弾けるようにして消えて行った。
 忘れてしまいたいのは、全部じゃない。あの日、あの出来事だけで、この村にいることも、ヒバリの賛牙でいることも忘れてしまうつもりはない。
 静かに、歌うように唆すあの声は、確かに自分の声だった。
 全てを忘れたいなんて、願っていない。なのに、あんな歌が自らの奥深くから発せられたということは、もしかして願っていたのだろうか。何もかもを忘れ、最初に戻してしまうことを。
 出会ったことすら無かったことにして。反発し合い、それでも許したり、触れたりしてきたことの全てを、無かったことにしてしまいたいと。
「ハヤト? 今のは」
 呆然とした頭に届く、いっそ間の抜けたとも言える声に、かっとなって立ち上がった。ほんの数歩の距離を早足で詰め、まだ事態が飲み込めていないのだろう黒猫の胸倉を掴む。
「てめぇの所為だからな!」
「……は?」
 とっさの行動に対する反応は鈍い。けれど、気にすることなく怒鳴り続けた。
 こうなればもう自棄だ。全部ぶちまけて、全部はっきりさせてやる。
「何が気に入らねぇのかしらねぇけど、毎日毎日夜中まで帰ってこないくせに、だんまり決めやがって。いいたいことがあるなら言えばいいだろ! そんなに同じ家に居たくねぇんなら、わざとらしく椅子で寝たりする前に、さっさと追い出せばいいじゃねぇか!」
「え? ちょっと」
「別に追い出されたからって恨むつもりもねぇし、村から出ていく気もねぇよ! 俺にはそんな気全然ねぇのに、てめぇがいつまでたってもそんな態度でいるから、あんな歌になるんだ! くそ、何もかもてめぇのせいじゃねぇか…っ」
「待って、何の話を」
 胸倉をつかむ手に触れようとするのを、思い切り弾くことで拒否する。ぱん、という乾いた音に、目の前の黒瞳が丸くなった。
「そんなに嫌だったんなら、叩き出せばよかったんだ。なのに… 中途半端に手ぇ出したまま放置するくらいなら、最初から放っとけよ!」
 喉の唸りが止まらない。ぐちゃぐちゃになる思考のままに口から出てくる言葉は、支離滅裂だ。もはや、訴えたかったことがそれであるかもわからないくらい、とにかく全部を吐き出した。
 つがいでいたいと、側にいたいと思う気持ちに変わりはない。けれど、その形はきっと、変わっていくのだと思っていた。あの日の夜、何気なく触れてきた唇の感触は、一年たった今も鮮明に思い出せるから。
 変える気がないのなら、ただの賛牙と闘牙でいたかったのなら、あんな触れ方は卑怯だ。どれだけ世界に変動が起きて、さまざまな常識が変えられても、唇が触れ合うことの意味は変わらない。それを知らないほど、子猫でもなかった。
 なのに、最初に触れてきたのはヒバリなのに、こんな卑怯なことはない。
「今日は俺が出て行ってやる。だから、一晩でてめぇにカタつけろよ!」
 解消するにしても、続けるにしても。どちらにしても、ヒバリの考えがまとまらないことには回答は出ない。賛牙と闘牙の関係は、別段片方だけの思いが強くても構わないのだろうけれど、そんな関係が正しくつがいだとは思えない。どれほど近くにいたいと思っても、願い祈っても、相手が許さないのでは、この村にいる意味も資格もなくなってしまう。
 自分の気持ちは何も変わらない。後は、ヒバリの思い一つだ。
 低いうなりを続ける喉を押さえて、た、と足を踏み出した。立ちつくしたままの黒猫の横を通り過ぎ、椅子にかけたコートを手にして、扉へと向かう。
「ちょっと」
「ぎゃあぁぁあ!」
 まっすぐに扉を向いたつま先が、つん、と何かに引っ掛かる。歩く勢いが急に殺され、おまけに受け身を取ることもできず、おもいっきり床に額から落ちた。がん、という派手な音が前頭部から響いて、遅れて痛みが来る。
「いってぇ!」
「いい薬だよ、馬鹿にはね」
「はぁ!? つか、お前なんで足引っかけんだよ! 前にもやられたぞこれ!」
「口で止めるより足で止める方が早いんだから仕方無い」
「仕方なくねぇよ!」
 床に手をつき、頭を振って体を起こした。床に座り込んで見上げると、そこにはみちしるべの葉が放つ光を背後に受けて、どう見ても不機嫌な雰囲気を醸し出す黒猫が立っていた。
「騒がしいしうるさいし馬鹿だし、どうしようもないよね、君」
「て、てめぇ…っ」
「おまけに考えは突飛だし、どうでもいいことにばかり力を使うし… もう少し素直に物事を考えられないのかと、あきれて声も出なかった」
 はあ、とわざとらしく大きなため息を吐く。
 何故か急に饒舌となったヒバリが、一歩を踏み出す。座り込んだ足を割るようにして腰を落としたヒバリが、真正面で膝をつく。伸ばされた手で、殴られるかと身構えてしまうのを無視して、ぶつけたばかりの額を指先が撫でた。
「まったく子猫みたいだね」
「うるせぇっ」
「噛みつかないでよ、話もできない」
 諭す口調に、口を噤む。話もなにも、つい今しがたまでほとんど口もきかなかったくせに、こちらから話しかけた途端に口が開いて、挙句黙れだなんて、都合がいいにもほどがある。
「かたをつけろ、と言ったね」
 同じ視線の高さまで下りてきたヒバリが、まっすぐにこちらを見る。その黒い色に、思わず息をのんだ。こんなにもまっすぐに見られるのは、ほんの数日前まで当たり前だったのに、なぜか息苦しいくらいに感じる。
「い、言った、けど」
 怯んだのか、無意識に体を引いてしまう。ずり、と下がった体を、膝をずらすようにして追いかけて詰めた黒猫が、ほんのわずかに、笑った。
「やっとついたよ。だから、今度は君の番だ」
「俺?」
「そう。君が、気付く番だ」